http://www.asyura2.com/18/hasan130/msg/848.html
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学歴に日本分断のリスク
非大卒に意識を
上級論説委員 大林 尚
核心
2019/2/4 2:00日本経済新聞 電子版
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BSテレ東の「ハイスクールQ」は高校生を対象にした日曜朝のクイズ番組だ。時折見るともなしに見る。
毎週テーマを決め、時々のニュースを素材にした問題にスタジオの高校生が答える。地味なつくりだが、問いが洗練されていてスマホのニュースサイトを見ているだけでは正答が難しいのもある。それにしても、なぜ高校生? ふと浮かんだ疑問を長坂章生プロデューサーにぶつけた。
「大学へ進まない人を含めて、高校生には大人…
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東京大学安田講堂
学歴と人生の格差(4) 大卒と非大卒層に分断[有料会員限定]
2018/12/24 2:00
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学歴と人生の格差(5) 大卒学歴、分断の境界にも[有料会員限定]
2018/12/25 2:00
東京大学安田講堂
学歴と人生の格差(1) 現役世代の過半数は非大卒[有料会員限定]
2018/12/19 2:00
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40788860R00C19A2TCR000/
学歴と人生の格差(1) 現役世代の過半数は非大卒
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/19 2:00日本経済新聞 電子版
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通勤電車の中で、ショッピングモールで、都会の交差点で……。日ごろ見かける人々を思い浮かべてみて下さい。その中に大学を出ている人がどの程度いるかご存じでしょうか。ここではひとまず成人式から還暦まで、生年でいえば1950年代後半から90年代後半に生まれた人を考えることにしましょう。今後の日本社会を実質的に支えていく現役世代の人たちです。
答えは、四大卒以上に限れば約34%、短大・高専卒を含めた高等教…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39071200Y8A211C1SHE000/
学歴と人生の格差(2) 「人口スカイツリー」時代へ
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/20 2:00日本経済新聞 電子版
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筆者の専門である計量社会学は、行動経済学や人口学などとともに、現代社会の仕組みを数量的に把握します。とりわけ、産業経済活動の背景にある現代日本社会という「舞台装置」に関心を持っています。そのエビデンス(証拠)は全国規模の社会調査データによって測り出しています。
この視点で日本社会をみるとき、男女・年齢別人口構成、いわゆる人口ピラミッドの形を考えることが重要になります。日本の現状はピラミッドとは名…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39124460Z11C18A2SHE000/
学歴と人生の格差(3) 大学進学は不確実な投資
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/21 2:00日本経済新聞 電子版
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リカレント教育(社会人の学び直し)について米国では、高卒社会人や学校を中途退学した人たちが20歳代後半から40歳代になって学び直して大卒学歴を得ることがイメージされます。
これに対して日本では、大卒社会人のスキルアップのための大学院進学、退職大卒層の教養としての学び、専門学校での個別スキルの取得など多様な例がある中で、高卒社会人が地位向上を目指して大学で学び直すという例はそれほど多くはありません…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39172100Q8A221C1SHE000/
学歴と人生の格差(4) 大卒と非大卒層に分断
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/24 2:00日本経済新聞 電子版
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私たちが日ごろ「学歴」と呼んでいるものには公的制度と私的ルールがあります。公的制度は6・3・3・4制の学校段階のことです。戦後日本はこの単線型の制度を大きく変えることなく維持してきました。その結果到達したのが、同年齢人口のほぼ全員が義務教育終了後に高校に進学し、さらにその半数が大学に進学するという状況です。そこでは高卒後に大学などに進学するかどうかが非常に大きな意味を持っていて、筆者はこれを「学…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39232280R21C18A2SHE000/
学歴と人生の格差(5) 大卒学歴、分断の境界にも
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/25 2:00日本経済新聞 電子版
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近年、社会の分断ということが世界各国で盛んにいわれています。分断とは、(1)社会の目立つところに人々が認識している境界線があり(境界の顕在性)、(2)境界を越えたメンバーの入れ替わりが少なく(成員の固定性)、(3)隔てられた人々がお互いをよく知らず(集団間関係の隔絶)、(4)チャンス、リスク、メリットの振り分け方に上下関係(分配の不平等)がある状態を意味します。ときにそれは集団間の対立や衝突を生…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39232700R21C18A2SHE000/
学歴と人生の格差(6) 学校は「格差生成装置」
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/26 2:00日本経済新聞 電子版
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学校は、同年に生まれた人を多様な労働力に振り分け、公的なラベルを貼って社会に送り出す働きをしています。その際、育った家庭ごとの不平等があるのは問題ですが、学校教育には公的に認められた「格差生成装置」としての役割があり、学歴による格差がなくなることはないといってよいでしょう。
格差を是正するために、みんなが大学に行けるようにすればいいという平等主義の主張は、一見すると聞こえはよくても、差異化と人材…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39332770V21C18A2SHE000/?n_cid=SPTMG002
学歴と人生の格差(7) 若い非大卒層に不利な状況
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/27 2:00日本経済新聞 電子版
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新成人から還暦までの現役世代は立ち位置の異なる人々で構成されています。その特性を知るため、現役世代を男女と若年・壮年の生年世代で分け、さらに大卒と非大卒の学歴分断線で分けてみます。すると今、日本社会を支えている6200万人の人々を8つのセグメントに分けることができます。
全国調査によってそれぞれの生活実態を見たとき、気になるのは若年層の内部に生じている分断です。特に若年非大卒層、とりわけ男性が不…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39383070W8A221C1SHE000/?
学歴と人生の格差(8) 非大卒層、外国人労働者と競合
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/28 2:00日本経済新聞 電子版
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外国人労働者の受け入れ基準を緩和する出入国管理法の改正が先の臨時国会の大きな争点でした。受け入れを拡大するのは介護、外食、建設、ビルクリーニング、飲食料品製造、宿泊、農業、素形材産業などの14業種で、いずれもマニュアル労働の現場人材が不足しているといわれます。
そもそも、こうした労働力を国内の現役世代で賄えないのは、なぜなのでしょうか。もちろん少子化の影響はありますが、それに加えて、日本の労働力…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39427090X21C18A2SHE000/
学歴と人生の格差(9) 都市と地方の分断に重なる
吉川徹 大阪大学教授
やさしい経済学 コラム(経済・政治)
2018/12/31 2:00日本経済新聞 電子版
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地方消滅がいわれ始めて数年になります。消滅の根拠として挙げられたのは、出産適齢期の若年女性が少なくなり、人口が東京に一極集中するという推計でした。現役世代の学歴構成を考えることは、この問題を理解する手掛かりにもなります。例えば、島根県と東京都の現役世代の学歴構成を比較すると、東京都では大卒層が64.8%を占めるのに対し、島根県では37.6%にとどまります(2010年の国勢調査)。
ここには大学進…
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39489680Y8A221C1SHE000/
2018.10.23 Tue
子どもの家庭背景による学力格差は根深い――学力の追跡的調査の結果から考える
中西啓喜 / 教育社会学
1.はじめに
2018年8月2日、大阪市の吉村洋文市長が、文部科学省が実施する全国学力・学習状況調査(以下、「全国学テ」と表記)の数値目標を市として設定し、達成状況に応じて教員の手当を増減させる人事評価の導入を検討すると発表したことが話題になっている。
そこで本稿では、改めて、学力の獲得がいかに子どもの家庭背景によって「根深く」左右されているのかについてデータを示していく。そして読者には、データを見たうえで、こうした教育への介入が適切な方向であるかどうかについて考えるきっかけにしていただければ幸いである。
2.全国学テによる学力格差の実態
文部科学省が全国学テを本格的に毎年実施するようになったのは平成19年度からである。この調査の主たる目的は、「義務教育の目標の実現状況の評価と検証」としているため、児童生徒の家庭環境についての情報収集は、基本的にはほとんど行われていない。しかし、平成25年度には保護者調査も実施され、保護者の収入や学歴水準等と子どもの学力の関係が分析されることになった(なお、平成29年度にも同様の保護者調査が実施されている)。
このデータの分析はお茶の水女子大学の研究チームに委託され、報告書もウェブサイト上で公開されている(お茶の水女子大学 2014)。
お茶の水女子大学の研究グループは、まず保護者に対する調査結果をもとに、家庭所得、父親学歴、母親学歴の3つの情報から子どもの家庭背景を測定した。このように測定される子どもの家庭背景は、社会学では「社会経済的地位(Socio-Economic Status:SES)」と呼ばれる。こうして測定されたSESを「上位」、「中上位」、「中下位」、「下位」に四等分し、それぞれのグループごとに学力の平均正答率を比較したものが図1である(注1)。
結果を簡単にいえば、「家庭が裕福な児童生徒の方が各教科の平均正答率が高い傾向が見られる」というものであった。この知見そのものはもちろん重要なのだが、より重要なことは、(1)日本の学力格差の様相が国家的規模で明らかにされ、(2)(委託研究ではあるものの)文部科学省の名において公表された、という2つの事実である。
図1.家庭の社会経済的背景と学力の関係
出典 「平成25年度全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)保護者に対する調査結果概要」に掲載された表を加工した。
http://www.nier.go.jp/13chousakekkahoukoku/kannren_chousa/pdf/hogosha_summary.pdf
3.格差は「連鎖・蓄積」するものだと考えてみる
図1のような結果が国家的規模のデータによって広く発信されたにも関わらず、学校や教師の努力によって学力格差が克服されるのではないか、という意見は根強い。こうした見方が蔓延する理由のひとつには、学力を一時点で観測しているため、家庭背景に根差した学力格差の深刻さが今一つ認識されていないことに起因していることが考えられる。
周知の通りだが、文部科学省の全国学テは、毎年小学6年生と中学3年生を対象として実施され、その前にもその後にも同一児童生徒への学力調査は実施していない。換言すれば、全国学テの結果は、子どもの学力格差はいつから始まり、その後どのような推移をたどるのかを把握しておらず、すでに出来上がっている学力格差を一時点で切り取っているに過ぎない可能性がある。結論を先取りすれば、学力格差は小学6年生よりももっと早い段階に発生しているのである。
石田浩氏(2017)は、格差の「連鎖・蓄積」(cumulative advantage and disadvantage)という考え方を用いて、人々の人生を通じた不平等の形成プロセスを説明しようとしている。通常、個人の不平等は、ある時点での有利さ・不利さが時間とともに積み重なっていく(「富める者はますます富む!」)。その時にスタート地点となる不平等は、家庭環境や性別のような当人の意思や努力によって獲得できない〈生まれながらの差異〉である。このような〈生まれながらの差異〉が、その後の人生における学歴や職の獲得に対して影響し続けるという考え方を格差の「連鎖・蓄積」と呼んでいる。
4.日本の学力格差の「連鎖・蓄積」の様相を把握する
それでは、格差の「連鎖・蓄積」という枠組みから日本の学力格差の様相について把握してみたい。これには同一の対象を追跡的に繰り返して調査して得られたデータが必要となる。同一の対象を追跡的に繰り返して調査して得られたデータを「パネルデータ」と呼ぶ。日本では学力情報を含んだ小中学生を対象としたパネルデータの蓄積はそれほど多くないが、ここではその一例を紹介したい。
「青少年期から成人期への移行についての追跡的研究(Japan Education Longitudinal Study: JELS)」(代表:お茶の水女子大学・耳塚寛明)は、2003年から2010年まで関東地方と東北地方において、小学3年生―6年生―中学3年生を対象に、3年ごとに同一の児童生徒を追跡した学力のパネル調査である。最終的な分析ケース数は1,085人、学力調査は算数・数学のみ、児童生徒の家庭背景を親の学歴で定義している、などのいくつかの限界はある。しかし、こうした類のデータは他に例が少ないため貴重なデータである(注2)。
(1)学力格差はどのように推移するのか?
パネルデータの特徴を活かした分析によって、学力格差の推移をビジュアル化したのが図2である。結果は、(1)小学3年次において、すでに親学歴による学力格差が観測され、(2)学年(年齢)の上昇とともに学力格差が拡大していくこと、の2点が示された(注3)。
改めて確認しておくと、文部科学省の全国学テは小学6年生と中学3年生に対し、一時点で実施されている。図2の結果を勘案すれば、私たちが新聞等で把握する図1で見られた学力格差の様相は、「すでに出来上がっている学力を一時点で切り取ったもの」に過ぎないことがわかる。【次ページにつづく】
図2.算数・数学通過率の推定結果(成長曲線モデル)
出典 中西啓喜(2017)『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの―』東信堂、p.61より。
(2)児童生徒の努力は学力格差を克服するのか?
パネルデータを用いた分析のもうひとつの長所として、偏りの小さい推定値を得やすいという点がある。この特徴を活かして、児童生徒の努力の指標として学習時間を設定し、親学歴別に学力と学習時間の関連を分析したのが図3である。
まず青色の棒の両親非大卒の結果を見ると、「ほとんどしない」と「1時間まで」の正答率はそれぞれ47.3点と48.3点となっている。この1ポイント差には統計的に意味はないが、学習時間が「2時間まで」と「2時間半以上」となると、学習時間が正答率を向上させる統計的な関連が見られるようになる。
一方で、オレンジ色の棒の両親大卒の結果では、「1時間まで」の学習時間で学力スコアが向上する。つまり、両親大卒の児童生徒は短時間の学習でも学力に効果があるが、両親非大卒の児童生徒は比較的長い時間の学習をしないと努力が学力に変換されないことが示唆される。
さらに、両親大卒と両親非大卒の児童生徒別に学習時間の推定値を比較すると、同じ学習時間にも関わらず、親学歴によって学力スコアが異なる。両親大卒の児童生徒は、1時間までの学習時間でも52.9点だが、両親非大卒の児童生徒は48.3点しか獲得していない。さらに見ると、両親大卒の児童生徒は、2時間半以上の学習時間で55.7点だが、両親非大卒の児童生徒は51.3点に留まる。
この結果は、学力の獲得をとりまく種々の学習行動(例えば、努力)は形式的に平等であるに過ぎないことを示唆している(ブルデュー&パスロン 1964=1997など)。具体的にいえば、両親が非大卒の児童生徒に比べて、両親大卒の児童生徒は「効果的な学習」がより身体化されており、学習時間の効果が親学歴別に異なり、その結果として、個々人の努力では学力格差が克服することができないことになる。
図3.親学歴別、学習時間の効果の推定結果(固定効果モデル)
出典 中西啓喜(2017)『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの―』東信堂、p.85の表5-3を図化した。
5.学力格差は根深い
ここまでの図2と図3の分析結果を合わせて考えると、学力格差の発生には二段階のメカニズムがあることがわかる。すなわち、(1)家庭背景による初期的な学力格差に加え、(2)家庭背景によって学習時間の効果が異なる、という2段階である。第一の段階は家庭環境そのものが生み出す学力格差であり、第二の段階は児童生徒の家庭背景によって「努力の質格差」とも呼べる現象が生じており、それが学力格差を生み出しているのである。
こうしたデータを改めて眺めてみると、学力格差がいかに子どもの家庭環境によって早期から大きな影響を受けているのかが理解してもらえるだろうか。むろん文部科学省の全国学テの実施には、その役割と意義はある。しかし、全国学テによって把握できる学力格差(図1)は、すでに出来上がっている格差を一時点で切り取っているに過ぎないという限界は理解すべきである。
このようなデータを提示すると指摘されるのは、「分析結果は傾向に過ぎず、例外もあるはずだ」という意見である。例えば、「私は親が非大卒だけど学力が高かった」や「友人は、貧困家庭だったが有名大学に進学できた」などの経験則を踏まえて「納得できない!」という主張がある。
しかし、過去の『シノドス』(https://synodos.jp/education/16239)において中澤渉氏が指摘している通り、統計的な分析結果が示すのは、あくまで全体の傾向でしかない。それゆえに、「不利な家庭環境を乗り越えた人物」のようなレアケースは存在する。だが、全体の傾向にマッチしない自分や身の回りの人間のケースを「納得できない!」と紹介するだけでは反証したことにはならない。統計的な分析によって導かれた知見は、統計的な分析で反証しなければならないのである。
例えば、JELSデータの分析によれば、学力スコアを上位・中位・低位に3等分し、小3の時に学力低位だった児童生徒が、中学3年生で学力高位になったのは全体の4.42%に過ぎなかった。具体的な人数を記述すれば、1,085人中の48人である。両親非大卒の児童生徒に限れば13人(1.2%)しかいない。このような極めて少数のケースを元に、「学力格差は挽回できる!」と反証の根拠にするのは無理がないだろうか(注4)。
賛否は別として、冒頭で紹介した大阪市のように、学校に成果の説明責任を求めようとする政策的動向は、歴史的には新しいことでも特別なことでもない。教育に市場原理を導入して、高い成果を目指すということは海外でも見られる。有名な例としては、アメリカではブッシュ政権下における「おちこぼれゼロ法」(No Child Left Behind Act=NCLB)である。
歴史的に、人々は社会問題の解決を過剰に学校教育へ期待し、「小手先の学校いじり」に熱中し、学校教育は社会問題の解決の「カギ」としての役割を押し付けられてきたのである(ラバリー 2010=2018)。
むろん、筆者は学校教育が無力だと主張したいのではない。学校教育に期待するからこそ、学校に出来ることと出来ないことを見極め、どのような条件がそろえば学校教育の効果が発揮されうるのかを考えたいのである。そのための真っ先に取るべき「最善策」が現場教師への査定を導入することなのかということを、本稿の図1〜図3を見たうえで読者にも考えてみてほしい(注5)。
〈注〉
(1)文部科学省の全国学テはA問題とB問題に分かれている。A問題は、主として身につけた「知識」に関わる出題、B問題は、主として知識の「活用」に関わる出題である。
(2)JELSの詳細については、以下のウェブサイトを参照されたい。
http://www.li.ocha.ac.jp/ug/hss/edusci/mimizuka/JELS_HP/Welcome.html、2018年8月29日取得。
(3)最近では、日本財団によって「貧困状態の子どもの学力は10歳を境に急激に低下する」という知見が発表されている。
https://www.nippon-foundation.or.jp/news/articles/2017/img/92/1.pdf、2018年8月29日取得。
(4)データの詳細は、拙著(中西 2017)の50-63を参照されたい。
(5)例えば、教育と福祉に連携が必要なことは、過去の『シノドス』(https://synodos.jp/education/17471)において仁平典宏氏も論じているところである。
〈文献〉
ブルデュー・ピエール&ジャン・クロード・パスロン、1964=1997、『遺産相続者たち―学生と文化』藤原書店。
石田浩、2017、「格差の連鎖・蓄積と若者」石田浩編『格差の連鎖と若者1 教育とキャリア』勁草書房、pp.35-62。
ラバリー・デイヴィッド、2010=2018、『教育依存社会アメリカ―学校改革の大儀と現実』岩波書店。
中西啓喜、2017、『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの』東信堂。
お茶の水女子大学、2014、『平成25年度 全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)の結果を活用した学力に影響を与える要因分析に関する調査研究』。
知のネットワーク – S Y N O D O S –
学力格差拡大の社会学的研究―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの書籍
作者中西 啓喜
発行東信堂
発売日2017年12月11日
カテゴリー単行本
ページ数176
ISBN479891438X
Supported by amazon Product Advertising API
中西啓喜(なかにし・ひろき)
教育学
1983年、三重県伊勢市生まれ。青山学院大学大学院教育人間科学研究科博士後期課程修了(博士・教育学)。専門は教育社会学。お茶の水女子大学・研究員を経て、現在、早稲田大学人間科学学術院・講師。主著は『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの』(2017年・東信堂)、『半径5メートルからの教育社会学』(2017年・大月書店・第1章を担当)、主要論文は「少子化と90年代高校教育改革が高校に与えた影響─「自ら学び自ら考える力」に着目して」、『教育社会学研究』88:89-116、「パネルデータを用いた学力格差の変化についての研究」『教育学研究』82(4):65-75、「トラッキングが高校生の教育期待に及ぼす影響―パネルデータを用いた傾向スコア・マッチングによる検証」『ソシオロジ』191:41-59など。
シノドスのコンテンツ
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「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由180425
知られざる「文化と教育の地域格差」
阿部 幸大文学研究者
プロフィール
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名門校出身者たちを目の当たりにして
教育と格差の問題といえば、しばしば話題にのぼるのが東大生の親の年収である。2014年の調査によれば、東大生の育った家庭の半数強が、年収950万円以上の比較的裕福な家庭だという。
ここで問題視されているのは、階級の固定化である。つまり、裕福な家庭は多額の教育費を支払うことができるので、子供は高学歴化する傾向にある。学歴と収入は比例することが多い。結果的に、金持ちの家系はいつまでも金持ちだし、逆に貧乏人はいつまでも貧乏から抜け出せない――という問題だ。
だが、こうした問題提起に出くわすたび、いつも「ある視点」が欠けていると私は感じる。それは都市と地方の格差、地域格差である。
田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。
あらかじめ、どんな地域で育ったどんな人物がこの記事を書いているのか、簡単に紹介しておこう。
私は高校時代までを、北海道の釧路市で過ごした。初代の「ゆとり世代」であるらしい1987年生まれの男性で、これは2000年に中学に入学し、2006年に高校を卒業する学年である。
中卒の母親と小学校中退の父親という両親のもとに生まれ、一人息子を東京の大学に通わせるだけの経済的な余裕はある家庭に育った。
高校卒業後は浪人して東京大学の文科三類に進み、3年次で文学部へ進学、その後5年間の大学院生活を経て、現在はニューヨーク州立大学の博士課程に籍をおいている。
釧路市は、見渡す限り畑が広がり家屋が点々と建っている、というほどの「ド田舎」ではないものの、若者が集まる場所といえば「ジャスコ」しか選択肢がなく、もっともメジャーな路線のバスは30分に1本しか来ず、ユニクロやスタバがオープンすると大行列ができるような、ある種の典型的な田舎町だ。
私が住んでいた当時は、ちょうど人口が20万人を割ったころであり、現在も小中高のクラス数とともに、人口は減りつづけている。
そのような田舎町で育った私は、東大に入学して、都内の名門校出身者をはじめとする「サラブレッド」たちに出会い、いたく驚かされることになった。
文化と教育の地域格差が、想像以上に大きかったからである。
問題は「貧富の差」ではない
私が主張したいのは、「貧富の差よりも地域格差のほうが深刻だ」ということではない。そうではなく、地方には、都市生活者には想像できないであろう、別の大きな障害があるということである。
田舎では貧富にかかわらず、人びとは教育や文化に触れることはできない。
たとえば、書店には本も揃っていないし、大学や美術館も近くにない。田舎者は「金がないから諦める」のではなく、教育や文化に金を使うという発想そのものが不在なのだ。見たことがないから知らないのである。
もちろん、文化と教育に無縁の田舎で幸福に暮らすのはいい。問題なのは、大学レベルの教育を受け、文化的にも豊かな人生を送れたかもしれない田舎の子供たちの多くが、その選択肢さえ与えられないまま生涯を過ごすことを強いられている、ということだ。
「文化的」とは、おそらく、いまあなたが思い浮かべている次元の話ではない。たとえば私が想定しているのは、わからないことがあればひとまず「ググる」という知恵があり、余暇の過ごし方として読書や映画鑑賞などの選択肢を持ち、中卒や高卒よりも大卒という学歴を普通だと感じる、そういったレベルの話である。
この記事は、以下のツイートの拡散をきっかけに執筆依頼を受けて執筆している。
阿部幸大
@korpendine
家庭が貧しいと教育が受けられず貧しさが再生産されるという話、もちろん大問題だけど、同時に知ってもらいたいのは、教養のない田舎の家庭に生まれると、たとえ裕福でも教育には到達できないってこと。教育の重要性じたいが不可視だから。文化資本の格差は「気付くことさえできない」という点で深刻。
10,012
15:56 - 2018年3月15日
Twitter広告の情報とプライバシー
6,835人がこの話題について話しています
私は社会学者ではない。田舎から運良く東京の国立大学に進学できたので、上記のような格差と落差を、身をもって体感した一個人にすぎない。
だがこのような格差の紹介は、日本ではまだまだ驚きをもって受けとめられている――つまり十分に認識されていないようなので、私のような経験者がひとつの実例を提出してもよいだろうと考えた次第である。
そしてこの「十分に認識されていない」という事実が、逆説的にこの格差の大きさを物語っているように思われる。
大学って、どこにあるんですか?
大学生を見たことがなかった
私の育った釧路市のような田舎に住む子供の多くは、おかしな話に聞こえるかもしれないが、まず「大学」というものを教育機関として認識することからして難しい。
言い換えれば、大学を「高校の次に進む学校」として捉える機会がないのだ。
高校生の頃の私が「大学」と聞いたとき思い浮かべることができたのは、「白衣を着たハカセが実験室で顕微鏡をのぞいたり、謎の液体が入ったフラスコを振ったりしている場所」という貧しいイメージのみであった。仮に当時の私が「大学には18歳の若者が通ってるんだよ」と教わっても、驚くどころか、意味がよくわからなかっただろう。
たとえば釧路市民にとっての「都会」といえば札幌だが、釧路と札幌は300km、つまり東京―名古屋間と同じくらい離れている。市内には2つの大学があるが、いずれも単科大学である(当時は知らなかったが)。
日本の各都道府県にはそれぞれ総合大学(ユニバーシティ)が設置されているので、最寄りの総合大学からこれほど地理的に離れている地区というのは、全国を見渡しても、離島と北海道の端っこくらいのものであろう。
都市部にも「大学と無縁の環境で育った」という人はいる。だが、この点において田舎と都会で根本的に異なると思われるのは、「文化」や「大学」といった存在が視界に入るかどうか、という差である。
釧路にも大学は存在すると書いたが、しかし子供たちにとってそこは病院などと区別されない「建物」にすぎず、「大学生」という存在にじかに出会ったことは、すくなくとも私は一度もなかったし、また私の場合は親族にも大学卒業者が皆無だったため、高校卒業後の選択肢として「大学進学」をイメージすることは、きわめて困難であった。
それに対して都市部では、たとえば電車に乗れば「?大学前」といった駅名を耳にすることになるし、そこで乗ってくる大量の若者が「大学生」であることも、なんとなく理解するチャンスはかなり大きくなるだろう。上京して、じっさい私は「世の中にはこんなに大学があったのか」と驚いた。
さらに言えば、私が東大に入学し、なかば憤慨したのは、東大と同じ駒場東大前駅を最寄り駅とする中高一貫校が存在し、その東大進学率が抜群に高いということだった。なんという特権階級だろう! しかも彼らには、自らがその地理的アドバンテージを享受しているという自覚はない。まさに文化的な貴族である。
遠すぎて想像がつかない
地域格差の大きさを考えるために、以下のような比較をしてみたい。
たとえば東京に隣接したある県の家庭で、ひとりも大学卒の親族がおらず、しかし、抜群に成績が優秀な子供がいたとする。この子と、たとえば釧路市に住む、やはりひとりも大学卒の親族を持たない、同程度に優秀な子供とを比べてみよう。
それぞれの家庭の親が、「この子を大学に入れようかしら」という発想に至る可能性を想像してみてもらいたい。
前者の場合、仮に経済的な問題があっても、すくなくとも「将来、うちの子はもしかしたら東京の学校に通うことになるのかもしれない」という想像までは働くだろう。なにしろ東京まで電車で1時間程度なのだし、それに都内でなくとも、関東には大学がいくつもある。
だが、後者の場合、親はせいぜい子供の優秀さをなんとなく喜ぶ程度で、大学進学などという発想はいちども脳裏をよぎることがなく、高校の終盤に先生から打診されてはじめてその可能性を知り、やっとのことで「『大学』って……どこにあるんですか?」と反応するといったありさまだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、これは私の実例である。
釧路のように地理的条件が過酷な田舎では「街まで買い物に行く」ことも容易ではないので、たとえば「本やCDを買う」という日常的な行為ひとつとっても、地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がない。つまり、まともなウィンドウ・ショッピングさえできないのだ。
したがって、私が関東に引越して自宅浪人しはじめたとき、まっさきに行ったのは、大きな書店の参考書売り場に通いつめることであった。見たこともない量の参考書が並んでいる東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがったものである。
田舎者(私)の無知と貧弱な想像力の例をいくつか挙げたが、まさに問題は、この「想像力が奪われている」ということにある。こうした田舎では、とにかく文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されているのだ。
あまりに遠すぎて想像すらできないこと、これが田舎者の本質的な困難なのである。
努力ではなく、偶然にすぎない
サバイバーズ・ギルト
田舎の小中高生にとっては、「将来のために勉強する」という発想もまた、かぎりなく不可能に近い。これは「何のために役に立たない勉強なんてするの?」といった不満とは異なる話である。
たとえば当時の釧路市では、高校入試の倍率はどの学校でもほぼ1.0倍であり、進学先は中学校の成績で自動的に割り振られた。いわば、いつのまにか「生涯の偏差値」が――その意味さえわからぬまま――決定されていたわけだ。
田舎から抜け出すには大学入試がおそらく最大のチャンスだが、しかし、その可否は中学時代にすでに決まっている。
なぜなら、「都会には『大学』なる組織が存在し、自分も努力次第でそこへ入学するチャンスがある」という事実を教わることができるのは、中学で教師の言われるままに学区トップの高校に進学した者だけだからだ。
高校で初めて「大学進学」という選択肢の存在を知った私の場合は、この事実を驚愕と、いくぶんかの後ろめたさをもって受け止めた。なぜなら自分の学力が高くて大学に行けるのだとしても、それは「努力の成果ではなく、偶然の結果にすぎない」としか感じられなかったからである。
田舎から都市圏の大学に進学するということは、たまたま容姿に恵まれて街角でスカウトされるのにも似た、きわめて確率的な事象である。
それをプライドに転化することもできるだろうが、いわゆる「底辺」と形容される中学に通っていた私には、高い学力を持ちながらも、その価値を知らず道を誤ってしまった親しい友人を多く持っていたため、むしろ自らが手にした幸運の偶然性に寒気がしたものであった。
この「後ろめたさ」は、一種の「サバイバーズ・ギルト」のような感覚だと言える。じっさい、そうした友人たちは中学のある時点で未成年による犯罪のニュース報道とともに学校から姿を消し、のちに鑑別所か少年院で撮影されたらしい変色した写真が卒業アルバムに載っているのを目にするまで、生死さえわからない状態であった。
その中には私よりも成績が良い者もいたのだが、彼らは大学どころか中学校にも通えなかったわけだ。私が同様の運命を辿らずに済んだのは、たんに運が良かったから――たとえば犯罪行為が露見した日に一緒に遊んでいなかったから――にすぎない。私は、彼らが学力の価値を少しでも知っていたらどうだったろう、と考えないわけにはゆかない。
かように田舎において、学力というポテンシャルの価値は脆弱なのである。
東京との根本的な違い
仮にめでたく大学進学という選択肢が与えられ、十分に学力があり、経済的にも恵まれ、いざ大学進学を志したとしても、田舎の子供にはさらなる障壁がいくつも立ちはだかっている。思いつくままに羅列してみよう。
○「せめて県内の大学に行ってほしい」と希望する親(北海道はとくにこの傾向が強かった)
○「女性は大学・都会になど行くべきでない」という根強い価値観
○都会に出ようとする若者への激しい嫉妬と物理的・精神的妨害
○受験に対する精神的な負担(多くの人は飛行機に乗ったことも大都市に行ったこともない)
○単身で「都会へ引越す」ことへの精神的負担
○都会での大学生活について相談できる大人の不在
○塾や予備校の不在(都会にどんな機関があるのか知る機会もない)
○近所の本屋に受験参考書が揃っていない(取り寄せるべき参考書を知る機会もない)
○過去問を閲覧することができない
○各種模擬試験の案内がない
田舎者は、こうした数多の困難によって、教育から隔絶されている。
こういう話をすると、かならず「いまはインターネットで教育が受けられる」という反応がある。だがこれは、くりかえすが、機会の問題ではなく想像力の問題なのだ。田舎ではそのような発想じたいが不可能なのである。
田舎者は、教育の重要性はもちろん、インターネットの使い方もろくに知らない人がほとんどである。そのような情報弱者に、みずからの社会的地位の向上のためにインターネット教育を利用することを期待するという発想は、都会人の想像力の貧困を示していると言わざるをえないだろう。
「幸せならいい」のか?
「幸せかどうか」とは別問題
「田舎だけの問題じゃない」「うちの田舎のほうがキツかった」「都会の貧困層には都会特有の問題がある」といった数々の異論があると思う。それはもっともだ。しょせん私はひとつの経験しか持たない。とくに都会特有の問題については無知である。
だが、別の事例と問題点を挙げるとき、念頭においてほしいのは、弱者同士でケンカすることなどまったく不毛だということである。
たんに私は、「教育の格差といえば貧富の差」という一般論において消去されがちな地域格差という側面にスポットを当てたにすぎない。別の問題を知るひとは、また別の問題として提起すればよい。
また、「田舎は田舎で楽しくやってる」というのはまったくそのとおりだが、その事実と、都会と田舎のあいだには「格差」が存在するという問題は位相が異なる。田舎の幸福は格差を容認する理由にはならないのだ。
ましてや、「知らないほうが幸せ」という意見は、「家事こそ女の幸福」と主張して女性差別を温存するのにも似た、差別と搾取と格差を是認するロジックと同じである。
偶然に翻弄される地方の子供たち
地域格差が存在することは理解してもらえたとしよう。ではどうすればいいのか?
教育における地域格差の帰結をあらためて言い換えれば、それは「同じ学力の子供が、田舎に住んでいるという理由だけで、都市に住んでいれば受けられたはずの教育の機会を奪われている」ということである。そして、「知っていたら大学に行っていた」人口は、間違いなく、かなりの数にのぼる。
先にも述べたように、私自身が偶然によって東京の大学に進んだ。ということはつまり、別の偶然によって田舎に留まることも大いにありえたのである。
そして私は、もし過去に戻ってみずからの意思によって進路を選択できるのなら、迷うことなく前者を選ぶ。なぜなら、大学進学は選択肢を可視化するためである。「知らなくて損をする」という可能性を小さくするためである。
私が必要だと思うのは、こうした偶然性に翻弄される田舎の子供たちに、彼らが潜在的に持っている選択肢と権利とを想像させてやることであり、ひいては、東京をはじめとする都市部に住む人びとに、もうすこし田舎の実態を想像してもらうことである。
本稿がその実現にむけた小さな一歩となることを願っている。
続編はこちら:「大反響『底辺校出身の東大生』は、なぜ語られざる格差を告発したのか」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55353?page=4
大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか180501
本人が批判と疑問に応える
阿部 幸大文学研究者
プロフィール
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衝撃をもって受け止められた、阿部幸大氏による「教育と文化の地域格差」に関する論考「『底辺校』出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」。「地方には、高等教育を受ける選択肢や機会そのものが不可視になっている層が少なからず存在する」という問題提起は、多くの読者の共感を得ると同時に批判をも呼び、議論はなお収まらない。
膨大な数にのぼる反響をふまえて、続編をお届けする。
ぜひ最後まで読んでほしい
前回の記事が想像以上に大きな反響と議論を呼んだため、本稿は連載形式をとることになった。さしあたり今回は、前回の記事に対していただいた反論や疑問に応答する。
反応はあらゆる媒体にわたって膨大な数にのぼっており、とてもすべてに目を通せたわけではないが、以下では、とくに重要だと思われるいくつかの指摘をピックアップして、できる範囲でお応えしたい。リアクションの総括には「現代ビジネス」編集部の担当者も協力してくれた。ありがとうございました。
最初に内容を概観しておこう。
まずは、謝罪しなくてはならない点がいくつかある。具体的には、釧路を含めた田舎にある店舗や施設、あるいは個人などを、あたかも存在しないかのごとく記述したことについてである。田舎を攻撃することなど、当然ながら、私の目的ではない。なぜそう聞こえる書き方を選択したのかも説明する。
つぎに、いくつかの批判・反論に対してコメントする。もっとも激しい批判は、都会からではなく、田舎(を知る人)から提出されており、とくにその意味について考えることにしたい。これは私には、田舎の内部の格差に起因するように思われた。
さらにインターネットの話にふたたび触れ、総括に入る。最後のページは重要なので、ぜひ読んでもらいたい。
本論に入るまえに、大前提として述べておきたいが、前記事に対してツイッターや記事へのコメントで寄せられた反応の大部分は「私が長年思っていたことを言語化し周知してくれた」という賛同であり、さらに注意してほしいのは、これらはおもに「田舎と都会の両方を知る人」から発せられている、ということである。
つまり、もっとも大きな格差を味わっている人々、田舎しか知らず、その格差の存在にさえ気付きにくい人々の声は、まだまだ上がっていないのだ。
以下の議論は、そのことを念頭に置きつつ読んでもらえればと思う。
「否定された」と感じた方へ
前回、私は「田舎と都会」という大きな二分法で議論を立てた。私が意図したのは、なによりもまず、地域格差という問題の提起と可視化そのものであったためである。
この「都会と田舎の格差を訴える」という最優先の目的を達成するにあたり、私は田舎と都会を、いわばイチゼロで語る方針を採った。そのようなわけで、いきおい、田舎には大学も書店も美術館も学習塾も「ない」のだ、それをまずは知ってほしい、という断定的な表現を多用することになったのだ。
ただし、私は本文で「田舎」と「釧路」と「私」という主語を使い分け、一般論、釧路の例、個人的体験などを慎重に腑分けした書き方をしているつもりである(前回の記事が「虚偽だ」という意見に賛成の人は、本稿を読んでから、もういちど読み返してほしい。まったく違って見えるはずだ)。しかし、それがうまく読み取ってもらえなかったということは、私の書き方が悪かったということだ。
まずはこの点について、特定の団体や個人にかぎらず、田舎で一生懸命に暮らしている人々、あるいは田舎だからこそできることを模索し挑戦している人々が、その存在や試みを無視され否定されたと感じたとすれば、それは心から謝罪するしかない。まことに申し訳ない。
私とて、むろん、釧路市をふくむ田舎を敵視・蔑視していると誤解されるのは本意ではない。たしかに十代の私にとって、釧路はなんとしてでも「脱出」すべき場所だった。私は情報と文化に飢えていた。しかし、田舎に生まれなければ現在の自分はありえないのだし、中高ではいまだに私淑している恩師にも恵まれた。
私にとって地元は、愛憎の相半ばする親のような存在である。田舎から都会への移動を経験した人の多くがそう感じていることだろう。私は帰省のたびに母校やお世話になった人々を訪問し、授業や講演のようなことをしていることも付記しておく。
だがこうした補足が、前記事の根幹にある主張を覆すわけではない。強調したように、地域格差ゆえに機会を与えられずにいる人々は、まぎれもなく、大量に存在しているのだから。
この謝罪によって、「ほら、やっぱり田舎にだって大学も美術館もあるじゃん」ということにされてしまう事態を私は懸念している。「田舎にも?がある」という事実は、それが都会に「ある」という事実とは、まったく比べ物にならない、ということを強調しておきたいと思う。この点についてはもう少し詳しく述べたいのだが、稿を改めよう。
ほんらい、こうした議論は社会学者の仕事であるはずなので、「門外漢がいいかげんなことを言うな」という専門家からの叱責には甘んじるしかないが――ただし地域格差を研究する社会学者からはむしろ賛同を得ている――しかし、私のような門外漢が個人的な経験を語るだけでこれほどの反応が噴出したという事実によって、やはり「田舎と都会」の二分法で語りうる巨大な問題が厳然として存在すること、そしてそれが不当に放置されていることは、じゅうぶんに示されたはずである。
田舎の中にも格差がある
つづいて私が取り上げたいのは、「私も田舎の出身だが、こんなことはありえない」という反対意見である。釧路を直接に知る人々、あるいは釧路と同程度か、釧路よりも規模の小さい市区町村で育った読者からの反応も含まれているようだ。
これは田舎を知らない人々からの反動的な否認とは性質が異なるので、応えておくべきだろう。
まず感想を述べておきたいが、私は彼らからの批判にもっとも心を痛めた。都会人に無視されるのはまだいい。そして田舎しか知らない人々は格差に無自覚であることがおおい。したがって、この批判を寄せた人々こそは、おそらく田舎と都会の両方を知る、もっとも私の意見に賛同してもらいたい層だったのだ。
では、田舎も都会も知っている人々から厳しい反論が寄せられたのはなぜなのか。
これは田舎の内部に存在する、また別の格差に起因しているように思われる。
前記事では田舎と都会という二分法を強調したので、この問題には補足的に言及するにとどめざるをえなかったが、もちろん、田舎の問題とて複合的である。都会から同様に地理的に隔てられた田舎であっても、経済的な格差、親や親戚の学歴、学校や先生の教育方針、などなどが絡み合って各人の大学進学可能性は決定される。
したがって、田舎者のあいだにも認識の差があるのは当たり前である。つまり上述の意見が示しているのは、田舎の情報強者にも田舎の情報弱者は見えていない、という事実だ。
このことは私にとって盲点だった。私は北海道全体で見ても上位とされる高校に進学したので、田舎者としては情報強者の上澄みに属していたと信じていた。だが、私のような「高校生活の後半まで大学受験が視界に入らない人」の存在は、「大学進学は当たり前と思っていた」高校生の眼中には、入っていなかったのだ。
これはイジメを知らない人間による「うちの学校にはイジメなどなかった」という意見に似ている。あるいは、高校に進路指導が存在することが私の意見と矛盾するように感じられるとすれば、それは「カウンセリング室があるのにイジメられていたのはおかしい」と主張することに近い。
それは高校のせいではない、お前のせいだ、と思われるかもしれない。それはたしかに高校の責任ではない。だが、私は高校を責めているのではない。私の趣旨は、そのような無知な若者を生み出している構造こそが地域格差なのだ、ということである。自己責任にすべてを還元しようとする議論もまた、「イジメられる奴が悪い」という論法と大きく違わないだろう。
では私のような無知な若者は、統計的には無視してもいいような、ごく特殊な情報弱者だったのだろうか?
そうではないだろう。田舎の内部にこのような格差が存在し、かつ、私がけっして特殊な少数派ではないことは、繰り返すが、私の記事が自分たちの鬱憤を言語化し代弁してくれたというリアクションが大多数だったことから、明らかであるように思われる。
もしかすると私は、母校の高校においては大学進学の知識に関して最下層に属したのかもしれない。だが、そもそも私は自分の通っていたような成績上位の高校だけを問題にしているわけではないのだ。
こうした反論の多くは「田舎を馬鹿にするな」という憤りから発せられたようだ。自分が「田舎者」に属すると考える人がそのように感じる気持ちは、よくわかる。
だが実際には、田舎を馬鹿にされたと感じた人々、感じることが「できた」人々は、田舎の情報強者、さらにそのなかでも最上位の上澄みに属していた可能性が高いように思われる。
どのような種類の格差でも、恵まれている側はそのことになかなか気が付かないものだ。ましてそれが目に見えない意識の差なら、なおさらである。
私の家族と環境について
私の家族と環境のこと
田舎の内部に存在する格差をもう少し具体的に見てもらうために、補足もかねて、いくつかの私個人にかかわる極端な例を紹介してみたい。
第一に、私の父親が小学校中退であるという記述を奇妙に思った読者もいると思う。誤解を解く必要もあるので書いておくが、私の亡父は1925年に国後島で生まれており、学校に通っていない。ただし、数年間は出生届も提出されていなかったらしく、正確な年齢、誕生日、そして出身地も不明だった。
これは「田舎では普通」といった類の事例では、さすがにない。しかし、世の中にはいろいろな人、いろいろな家庭が存在するのだ。
第二に、私の周囲には平仮名を正確に書けない大人が複数存在した。彼らは1960年代のうまれである。日本には、そうした人がまだ歴然と暮らしている。その子供たちは私と世代が変わらない。
もう一つだけ挙げよう。前記事でも触れたが、私の通った中学は私が入学した頃からかなり治安が改善していたものの、それでも複数名は犯罪によって消息を絶ち、10人弱は高校を1年以内に退学になり、私は仲間と頻繁に他校との乱闘事件を起こしては交番で説教を受け、教師は毎日のように個室で生徒を殴りしばしば大怪我を負わせる、といった状況だった。他にも、前回「サバイバーズ・ギルト」と書かざるを得なかったような、ここにはとうてい書けないことが多々ある。
こうした「極端な」事例をあえて紹介するのは、田舎の下位層、「底辺」をまったく知らない人々の考える「普通」が排除し不可視化している人々の存在を、すこしでも認識してもらいたいためだ。
これらは田舎に住んでいた経験があるからといって、必ずしも全員が知ることのできる現実ではない。じっさい、私と中学の同級で、私と同じ高校に進学した者は、上述のような事実の全てを知っていたわけではないだろう。ことによると、彼らは私と違って中学時代から大学進学を意識していたのかもしれない。
もちろん、平仮名が書けない人などは、それこそ統計的にはごく少数である。だが問題はそこではない。そんな人など「いくらなんでも今の日本に存在するわけがない」と本気で信じてしまう「常識的」な判断は、私の書いた記事を――つまり私の人生を――単なる虚偽としか思わないような態度へとまっすぐに繋がっているということ、これが問題なのである。
前記事に対する批判的反応には、「話を盛ってるだけ」という雑感による攻撃が、おそらく数としてはもっとも多かった。それゆえ、さらなる具体性をもった私の(恥ずべき)個人情報を、数値を含めてこうして公開することにした次第である。
「常識」を当たり前に生きることができる幸運に恵まれた人々にとって「底辺」が想像しにくいのは致し方ないが、誇張したところで何になるだろう。私が実名も顔も出身地も立場も明かしてこの記事を書いていることの意味を考えてみてほしい。そして社会学者でもない私には、自分の生きた過去しか武器がない。
私たちの想像力には限界がある。たとえ同じ空間で何年も一緒に過ごしたとしても、他人が何を考えているのか、家庭でどんな暮らしをしているのか、教室の外で何をしているのか、私たちは知りえない。そのことを忘れてはいけないだろう。
「インターネットが解決する」か
インターネットは有効なのか
前回の記事で強調したにもかかわらず、「いまはインターネットがあるから事情は違う」という意見も多数見られた。
たしかにインターネットは田舎を救いうるかもしれない。だがインターネットがすでに田舎の問題を解決したかといえば、それは間違いなく否であり、近い将来に解決するかというと、それも否であると思われる。
この項目は「田舎者」というより「情報弱者」の問題になるが、再三述べているとおり問題は重層的であり、また田舎者は基本的には情報弱者であることを強いられているので(それが前回の趣旨だった)、共通の問題として話を進める。
前回の繰り返しになってしまうが、インターネットで自分に必要な情報を収集するというリテラシーは、かなり高度なものである。
私は前回の冒頭で、「ググる」習慣があること、余暇を文化活動に費やすこと、大卒という学歴を普通と感じること、この3つを文化と教育の指標として並列した。日本の全人口における大学進学者の割合は半数ほどだが――記憶してほしいが、大学に「進学」するだけで半分より上なのである――その大学進学者内の最上位層においてさえ、たとえググったところでウィキペディア以上の情報に辿り着く人は、そう多くないのである。
そして私は、必要な情報からさらに遠く隔てられた田舎の話をしている。田舎では地域格差を自覚すること自体が困難であるのに、その格差を自力で解消するためにインターネットを活用することができる人など、まれであるというか、ほとんど矛盾している。格差に気づくこと自体に高度なリテラシーが必要なのだから。
この比較も役立つかもしれない。たとえば、この記事をスマホやPCで読んでいるあなたは、日本からアメリカに留学するために、インターネットを使って必要かつ十分でしかも確実な情報を集めることができるだろうか? やってみるとわかるが、これはかなり困難である。だが田舎者が都会のことを調べるほうが、もっと難しい。
しかし、ほんとうに、たとえばPCを使ってメールで必要書類を添付して送るくらいのリテラシーは今や常識だと信じている人々が存在することには驚く。じっさいに教えるとわかるが、こんなことは東京の大学でさえ新入生の多くは慣れていない、かなり高度な作業である。
大学1年生に初等文法や四則演算を教えなおす行為を揶揄する投稿をしばしば見かけるが、私には大学生の学力低下よりも、それを笑える人々の認識の甘さが問題に思える。こうした認識を改める必要がない環境にしか身を置いたことがない人というのは、ふたたび前回のフレーズを用いれば、いやはや、なんという特権階級なのだろう。
私は格差に怒っている
「ルサンチマン」?
私は前回、すでに「弱者同士で対立しても意味がない」と強調した。しかし、反対意見は「こんな田舎なんてないでしょ」という消極的な否認と、「田舎はそんなんじゃない」という積極的な怒りとに分かれ、重要なので繰り返すが、もっとも私が賛同を得たかったはずの存在である後者の一部が、もっとも苛烈な反論を展開する皮肉な事態になってしまった。
これは、文化・教育の地域格差に対する社会の認識があまりにも不足しているため、現段階では仕方のないことであるだろう。だが、もう一度言っておきたい。田舎者どうしでいがみ合っていたのでは、まったくもって本末転倒である。われわれは田舎の状況の改善のために、団結し連帯しなくてはならないはずなのだ。
勝手な推測だが、「田舎を馬鹿にするな」と主張した人々の多くはインテリであり、彼らこそ地域格差の改善のカギを握る、もっとも重要な層なのではないだろうか。
田舎者の「鬱憤」を代弁、とさきに書いたが、私の田舎に対する態度はルサンチマンにすぎない、という意見も多数見られた。文章のトーンが呪詛に接近していたとすれば反省したい。
だがしかし、私が恥をしのんで個人情報まで晒しながらこうして「プロパガンダ」している理由は、格差を告発するためなのであって、格差とは、とりもなおさず、不満以外の何物でもないではないか。私は格差に怒っているのである。
そして、十代の頃は田舎に向けるしかなかった私の不満と怒りは、いま、田舎に対してではなく、地域格差という現実、そして田舎の実情を無視しようとする態度、それらへと向けられている。
種は蒔かれた
最後になったが、ところで、なぜこのような個人的な体験を紹介し雑感を述べているにすぎない私などの記事が、数日で200万PVなどという反響を呼んだのか。
それは、前回も書いたが、日本では地域格差という問題が、とにもかくにも圧倒的に放置されてきたからなのだろう。それがなぜなのか私にはわからないが、この問題を指摘することは、ほとんどタブー視されているようにさえ見える。大きな声で主張する人が誰も居なかったのだ。
地域格差の問題の指摘は、まだまだ抵抗に遭うだろう。問題の告発はかならず反動をうむ、ということは、本稿の読者なら知っていると思う。現在、世間はそのようなニュースで溢れている。
だが問題の種は蒔かれた。これからは私のような「極端な例」のみならず、別の経験者が、あるいは専門家が、そして都会しか知らない賛同者たちが、根気よくその芽を育ててゆくだろう。
私はあなたにもその一人になってほしい。そのためにこの原稿を書いている。
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
知られざる「文化と教育の地域格差」
阿部 幸大
世界の音楽市場の足を引っ張っているのは、日本の音楽業界だった
どうしてこうなったのか
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日本人が「移動」しなくなっているのはナゼ? 地方で不気味な「格差」が拡大中
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702業種を徹底調査してわかった
週刊現代
38歳専業主婦が不倫夫から「1億5000万円」をゲットした凄テク(露木 幸彦)
泣き寝入りしてたまるもんか
露木 幸彦
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505
2018.10.23 Tue
子どもの家庭背景による学力格差は根深い――学力の追跡的調査の結果から考える
中西啓喜 / 教育社会学
1.はじめに
2018年8月2日、大阪市の吉村洋文市長が、文部科学省が実施する全国学力・学習状況調査(以下、「全国学テ」と表記)の数値目標を市として設定し、達成状況に応じて教員の手当を増減させる人事評価の導入を検討すると発表したことが話題になっている。
そこで本稿では、改めて、学力の獲得がいかに子どもの家庭背景によって「根深く」左右されているのかについてデータを示していく。そして読者には、データを見たうえで、こうした教育への介入が適切な方向であるかどうかについて考えるきっかけにしていただければ幸いである。
2.全国学テによる学力格差の実態
文部科学省が全国学テを本格的に毎年実施するようになったのは平成19年度からである。この調査の主たる目的は、「義務教育の目標の実現状況の評価と検証」としているため、児童生徒の家庭環境についての情報収集は、基本的にはほとんど行われていない。しかし、平成25年度には保護者調査も実施され、保護者の収入や学歴水準等と子どもの学力の関係が分析されることになった(なお、平成29年度にも同様の保護者調査が実施されている)。
このデータの分析はお茶の水女子大学の研究チームに委託され、報告書もウェブサイト上で公開されている(お茶の水女子大学 2014)。
お茶の水女子大学の研究グループは、まず保護者に対する調査結果をもとに、家庭所得、父親学歴、母親学歴の3つの情報から子どもの家庭背景を測定した。このように測定される子どもの家庭背景は、社会学では「社会経済的地位(Socio-Economic Status:SES)」と呼ばれる。こうして測定されたSESを「上位」、「中上位」、「中下位」、「下位」に四等分し、それぞれのグループごとに学力の平均正答率を比較したものが図1である(注1)。
結果を簡単にいえば、「家庭が裕福な児童生徒の方が各教科の平均正答率が高い傾向が見られる」というものであった。この知見そのものはもちろん重要なのだが、より重要なことは、(1)日本の学力格差の様相が国家的規模で明らかにされ、(2)(委託研究ではあるものの)文部科学省の名において公表された、という2つの事実である。
図1.家庭の社会経済的背景と学力の関係
出典 「平成25年度全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)保護者に対する調査結果概要」に掲載された表を加工した。
http://www.nier.go.jp/13chousakekkahoukoku/kannren_chousa/pdf/hogosha_summary.pdf
3.格差は「連鎖・蓄積」するものだと考えてみる
図1のような結果が国家的規模のデータによって広く発信されたにも関わらず、学校や教師の努力によって学力格差が克服されるのではないか、という意見は根強い。こうした見方が蔓延する理由のひとつには、学力を一時点で観測しているため、家庭背景に根差した学力格差の深刻さが今一つ認識されていないことに起因していることが考えられる。
周知の通りだが、文部科学省の全国学テは、毎年小学6年生と中学3年生を対象として実施され、その前にもその後にも同一児童生徒への学力調査は実施していない。換言すれば、全国学テの結果は、子どもの学力格差はいつから始まり、その後どのような推移をたどるのかを把握しておらず、すでに出来上がっている学力格差を一時点で切り取っているに過ぎない可能性がある。結論を先取りすれば、学力格差は小学6年生よりももっと早い段階に発生しているのである。
石田浩氏(2017)は、格差の「連鎖・蓄積」(cumulative advantage and disadvantage)という考え方を用いて、人々の人生を通じた不平等の形成プロセスを説明しようとしている。通常、個人の不平等は、ある時点での有利さ・不利さが時間とともに積み重なっていく(「富める者はますます富む!」)。その時にスタート地点となる不平等は、家庭環境や性別のような当人の意思や努力によって獲得できない〈生まれながらの差異〉である。このような〈生まれながらの差異〉が、その後の人生における学歴や職の獲得に対して影響し続けるという考え方を格差の「連鎖・蓄積」と呼んでいる。
4.日本の学力格差の「連鎖・蓄積」の様相を把握する
それでは、格差の「連鎖・蓄積」という枠組みから日本の学力格差の様相について把握してみたい。これには同一の対象を追跡的に繰り返して調査して得られたデータが必要となる。同一の対象を追跡的に繰り返して調査して得られたデータを「パネルデータ」と呼ぶ。日本では学力情報を含んだ小中学生を対象としたパネルデータの蓄積はそれほど多くないが、ここではその一例を紹介したい。
「青少年期から成人期への移行についての追跡的研究(Japan Education Longitudinal Study: JELS)」(代表:お茶の水女子大学・耳塚寛明)は、2003年から2010年まで関東地方と東北地方において、小学3年生―6年生―中学3年生を対象に、3年ごとに同一の児童生徒を追跡した学力のパネル調査である。最終的な分析ケース数は1,085人、学力調査は算数・数学のみ、児童生徒の家庭背景を親の学歴で定義している、などのいくつかの限界はある。しかし、こうした類のデータは他に例が少ないため貴重なデータである(注2)。
(1)学力格差はどのように推移するのか?
パネルデータの特徴を活かした分析によって、学力格差の推移をビジュアル化したのが図2である。結果は、(1)小学3年次において、すでに親学歴による学力格差が観測され、(2)学年(年齢)の上昇とともに学力格差が拡大していくこと、の2点が示された(注3)。
改めて確認しておくと、文部科学省の全国学テは小学6年生と中学3年生に対し、一時点で実施されている。図2の結果を勘案すれば、私たちが新聞等で把握する図1で見られた学力格差の様相は、「すでに出来上がっている学力を一時点で切り取ったもの」に過ぎないことがわかる。【次ページにつづく】
図2.算数・数学通過率の推定結果(成長曲線モデル)
出典 中西啓喜(2017)『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの―』東信堂、p.61より。
(2)児童生徒の努力は学力格差を克服するのか?
パネルデータを用いた分析のもうひとつの長所として、偏りの小さい推定値を得やすいという点がある。この特徴を活かして、児童生徒の努力の指標として学習時間を設定し、親学歴別に学力と学習時間の関連を分析したのが図3である。
まず青色の棒の両親非大卒の結果を見ると、「ほとんどしない」と「1時間まで」の正答率はそれぞれ47.3点と48.3点となっている。この1ポイント差には統計的に意味はないが、学習時間が「2時間まで」と「2時間半以上」となると、学習時間が正答率を向上させる統計的な関連が見られるようになる。
一方で、オレンジ色の棒の両親大卒の結果では、「1時間まで」の学習時間で学力スコアが向上する。つまり、両親大卒の児童生徒は短時間の学習でも学力に効果があるが、両親非大卒の児童生徒は比較的長い時間の学習をしないと努力が学力に変換されないことが示唆される。
さらに、両親大卒と両親非大卒の児童生徒別に学習時間の推定値を比較すると、同じ学習時間にも関わらず、親学歴によって学力スコアが異なる。両親大卒の児童生徒は、1時間までの学習時間でも52.9点だが、両親非大卒の児童生徒は48.3点しか獲得していない。さらに見ると、両親大卒の児童生徒は、2時間半以上の学習時間で55.7点だが、両親非大卒の児童生徒は51.3点に留まる。
この結果は、学力の獲得をとりまく種々の学習行動(例えば、努力)は形式的に平等であるに過ぎないことを示唆している(ブルデュー&パスロン 1964=1997など)。具体的にいえば、両親が非大卒の児童生徒に比べて、両親大卒の児童生徒は「効果的な学習」がより身体化されており、学習時間の効果が親学歴別に異なり、その結果として、個々人の努力では学力格差が克服することができないことになる。
図3.親学歴別、学習時間の効果の推定結果(固定効果モデル)
出典 中西啓喜(2017)『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの―』東信堂、p.85の表5-3を図化した。
5.学力格差は根深い
ここまでの図2と図3の分析結果を合わせて考えると、学力格差の発生には二段階のメカニズムがあることがわかる。すなわち、(1)家庭背景による初期的な学力格差に加え、(2)家庭背景によって学習時間の効果が異なる、という2段階である。第一の段階は家庭環境そのものが生み出す学力格差であり、第二の段階は児童生徒の家庭背景によって「努力の質格差」とも呼べる現象が生じており、それが学力格差を生み出しているのである。
こうしたデータを改めて眺めてみると、学力格差がいかに子どもの家庭環境によって早期から大きな影響を受けているのかが理解してもらえるだろうか。むろん文部科学省の全国学テの実施には、その役割と意義はある。しかし、全国学テによって把握できる学力格差(図1)は、すでに出来上がっている格差を一時点で切り取っているに過ぎないという限界は理解すべきである。
このようなデータを提示すると指摘されるのは、「分析結果は傾向に過ぎず、例外もあるはずだ」という意見である。例えば、「私は親が非大卒だけど学力が高かった」や「友人は、貧困家庭だったが有名大学に進学できた」などの経験則を踏まえて「納得できない!」という主張がある。
しかし、過去の『シノドス』(https://synodos.jp/education/16239)において中澤渉氏が指摘している通り、統計的な分析結果が示すのは、あくまで全体の傾向でしかない。それゆえに、「不利な家庭環境を乗り越えた人物」のようなレアケースは存在する。だが、全体の傾向にマッチしない自分や身の回りの人間のケースを「納得できない!」と紹介するだけでは反証したことにはならない。統計的な分析によって導かれた知見は、統計的な分析で反証しなければならないのである。
例えば、JELSデータの分析によれば、学力スコアを上位・中位・低位に3等分し、小3の時に学力低位だった児童生徒が、中学3年生で学力高位になったのは全体の4.42%に過ぎなかった。具体的な人数を記述すれば、1,085人中の48人である。両親非大卒の児童生徒に限れば13人(1.2%)しかいない。このような極めて少数のケースを元に、「学力格差は挽回できる!」と反証の根拠にするのは無理がないだろうか(注4)。
賛否は別として、冒頭で紹介した大阪市のように、学校に成果の説明責任を求めようとする政策的動向は、歴史的には新しいことでも特別なことでもない。教育に市場原理を導入して、高い成果を目指すということは海外でも見られる。有名な例としては、アメリカではブッシュ政権下における「おちこぼれゼロ法」(No Child Left Behind Act=NCLB)である。
歴史的に、人々は社会問題の解決を過剰に学校教育へ期待し、「小手先の学校いじり」に熱中し、学校教育は社会問題の解決の「カギ」としての役割を押し付けられてきたのである(ラバリー 2010=2018)。
むろん、筆者は学校教育が無力だと主張したいのではない。学校教育に期待するからこそ、学校に出来ることと出来ないことを見極め、どのような条件がそろえば学校教育の効果が発揮されうるのかを考えたいのである。そのための真っ先に取るべき「最善策」が現場教師への査定を導入することなのかということを、本稿の図1〜図3を見たうえで読者にも考えてみてほしい(注5)。
〈注〉
(1)文部科学省の全国学テはA問題とB問題に分かれている。A問題は、主として身につけた「知識」に関わる出題、B問題は、主として知識の「活用」に関わる出題である。
(2)JELSの詳細については、以下のウェブサイトを参照されたい。
http://www.li.ocha.ac.jp/ug/hss/edusci/mimizuka/JELS_HP/Welcome.html、2018年8月29日取得。
(3)最近では、日本財団によって「貧困状態の子どもの学力は10歳を境に急激に低下する」という知見が発表されている。
https://www.nippon-foundation.or.jp/news/articles/2017/img/92/1.pdf、2018年8月29日取得。
(4)データの詳細は、拙著(中西 2017)の50-63を参照されたい。
(5)例えば、教育と福祉に連携が必要なことは、過去の『シノドス』(https://synodos.jp/education/17471)において仁平典宏氏も論じているところである。
〈文献〉
ブルデュー・ピエール&ジャン・クロード・パスロン、1964=1997、『遺産相続者たち―学生と文化』藤原書店。
石田浩、2017、「格差の連鎖・蓄積と若者」石田浩編『格差の連鎖と若者1 教育とキャリア』勁草書房、pp.35-62。
ラバリー・デイヴィッド、2010=2018、『教育依存社会アメリカ―学校改革の大儀と現実』岩波書店。
中西啓喜、2017、『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの』東信堂。
お茶の水女子大学、2014、『平成25年度 全国学力・学習状況調査(きめ細かい調査)の結果を活用した学力に影響を与える要因分析に関する調査研究』。
知のネットワーク – S Y N O D O S –
学力格差拡大の社会学的研究―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの書籍
作者中西 啓喜
発行東信堂
発売日2017年12月11日
カテゴリー単行本
ページ数176
ISBN479891438X
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中西啓喜(なかにし・ひろき)
教育学
1983年、三重県伊勢市生まれ。青山学院大学大学院教育人間科学研究科博士後期課程修了(博士・教育学)。専門は教育社会学。お茶の水女子大学・研究員を経て、現在、早稲田大学人間科学学術院・講師。主著は『学力格差拡大の社会学―小中学生への追跡的学力調査結果が示すもの』(2017年・東信堂)、『半径5メートルからの教育社会学』(2017年・大月書店・第1章を担当)、主要論文は「少子化と90年代高校教育改革が高校に与えた影響─「自ら学び自ら考える力」に着目して」、『教育社会学研究』88:89-116、「パネルデータを用いた学力格差の変化についての研究」『教育学研究』82(4):65-75、「トラッキングが高校生の教育期待に及ぼす影響―パネルデータを用いた傾向スコア・マッチングによる検証」『ソシオロジ』191:41-59など。
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2018.07.04 Wed
日本は学歴分断社会である―真の共生社会に向けて『日本の分断』著者、吉川徹氏インタビュー
若年/壮年、男/女、大卒/非大卒の組み合わせからなる「8人」のプレイヤーが支える日本社会。だが、この「8人」のプレイヤーが歩む人生の岐路は、格差に満ちたきわめて不平等なものである。その元凶にあるのが「学歴」だ。容易に是正することのできない「学歴分断社会」を前に、われわれは今どう考えるべきなのか? 『日本の分断』の著者、吉川徹氏に話を伺った。(聞き手・構成/芹沢一也)
――本日は光文社新書から『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』を出版された吉川徹先生にお話を伺います。最初に本書のコンセプトを教えていただけますか。
まず、日本が学歴分断社会への歩みを進めているということを、多くの人に伝えたいという思いが強くありました。
そのためには、今の日本では、大学に進学するかしないかということで、人生・生活に大きな格差が生じているという現実にきちんと向き合わなければなりません。これは、だれもが本当は気づいている公然の事実なのではないかと思います。しかしわたしたちは、学歴による格差をとかくタブー視しがちです。
――たしかにさまざまな格差が問題になっているのに、学歴による格差が議論されるのは耳にしません。なぜでしょうか?
その理由を突き詰めると、根源にあるのは、学校教育が成績によって同年生まれの人たちに上下の序列を付け、「中卒」「高卒」「大卒」…という公的なラベルを貼って、社会に送り出すはたらきをする「正規の格差生成装置」となっているということです。
学歴が「元凶」だとわかっていても「格差を是正するために、学歴差をなくしてしまおう!」とまで叫ぶわけにはいきません。
それでも本書では、社会調査に基づく否応のないエビデンスとして、学歴分断の諸局面が描き出されていきます。解決の困難なこの現実から目をそむけることなく、また安易に倫理観を振りかざすことなく、しっかり向き合うことが、深刻な分断を回避するための大前提だと思います。
――本書では「8人」のプレイヤーが社会を支えているとされていますね。
本書では20歳以上60歳未満の男女を現役世代としています。これは、経済成長、少子化対策、男女共同参画、働き方改革、税と社会保障の問題など、現代日本の諸課題の担い手となっている世代です。これを若年/壮年、男/女、大卒/非大卒で切り分けると、次のようなプロフィールがみえてきます。
まず、最上位にいるのは壮年大卒男性(構成比率約10.8%)です。彼らは多くの面で少し取り過ぎかと思われるほど有利な状態にあります。それは、社会の骨組みがまだ安定していた20世紀の「人生の勝ちパターン」にギリギリ乗ることができた人たちだからです。
結果として、多くが転職や離職の経験をもたず、安定した家庭を築き、ポジティブな気持ちで社会を牽引しています。世帯年収は約890万円、9人に1人が管理職で、子ども数は1.63人です。
――40歳以上の大卒男性が、いわゆる「勝ち組」になるわけですね。同じ世代の大卒女性もそうですか?
壮年大卒女性(構成比率約9.7%)は、既婚率が高く、世帯の暮らしには比較的ゆとりがあり、独身キャリア女性から既婚の専業主婦まで、多様な人生を歩んでいます。こうした生活の余裕と柔軟性を背景に、彼女たちは高級消費や文化的活動に積極性を発揮しています。現代日本の生活・文化局面を支えるのに欠かせない人たちだということです。世帯年収は約850万円、子ども数は1.72人です。
――ブランドやグルメ、アートや習い事などにお金をかけられる層ですね。大卒の若い女性にも同じようなイメージがあります。
若年大卒女性(構成比率約11.3%)は、職業キャリア、結婚、出産育児などについてライフコース進行の序盤にあるため、壮年大卒女性以上に多様な生活パターンの人たちの集まりになっています。
それでも満足度や幸福感が「8人」の中で最も高く、文化的活動や国際的な活動にも広く目を向ける傾向がみられます。世帯年収は約680万円と比較的豊かですが、子ども数は少なく0.91人にとどまっています。
――大卒の若い男性はいかがでしょうか?
若年大卒男性(構成比率約11.8%)は、上の世代の大卒男性ほどは社会と積極的にかかわっているわけではありませんが、それでも若年層の「4人」のなかでは、政治や仕事にもっともしっかり向き合っています。
ただし、結婚して子どもを育てるという家族形成に遅れが目立ち、現代若者に特有の将来不安も抱いています。世帯年収は同世代の大卒女性よりやや少ない約650万円、子ども数はわずか0.84人です。
――将来不安があっても、経済的にはやはり恵まれていますね。他方で、大学を卒業していない人たちにはどのような特徴がありますか?
まず40歳以上の人びとから考えましょう。壮年非大卒男性(構成比率約16.8%)と壮年非大卒女性(構成比率約17.6%)は、やはり20世紀からの時代の流れのなかで、産業経済セクターの中間あたりに手堅く居場所を確保している人たちが多いようです。世帯年収はほぼ600万円台前半で、職業的地位も高いわけではありませんが、既婚率と子ども数では他の人びとを上回っています。現役世代の3割を占めるこの層の堅実さは、日本社会の安定に寄与しているとみることができるでしょう。
――バブル崩壊前にポジションを確保していたわけですね。「失われた20年」といわれる時期に社会に出た非大卒層は厳しそうな気がします。
そのとおりです。20〜30代の若年非大卒男性(構成比率11.2%)、若年非大卒女性(構成比率10.8%)に目を転じると、かれらは経済力、職業、家族関係などで、他の「6人」に数歩の後れをとっています。政治や社会参加、文化的活動などについてもきわめて消極的です。世帯年数は男女とも約500万円程度と、他よりも低い水準にあります。
このように、現役世代の「8人」には学歴による分断傾向があり、しかもその度合いは、世代と性別によって異なっていて、とくに若年非大卒男性の凹みが際立つ結果になっています。
――冒頭で指摘された学歴による分断が、この「8人」のあいだには走っているわけですね。
はい。互いに競合する同性の同世代を見比べると、大卒層と非大卒層には、就いている職種や産業、管理職への昇進のチャンス、仕事を失うリスクの大きさ、求職時の有利・不利、そして賃金などにおいて明らかな格差があります。壮年層の世帯年収でみると、その差は約250万円です。さらに、大卒層と非大卒層では、ものの考え方や生活様式も異なっています。
加えて、若年大卒層の父母の約5割が同じ大卒層であるのに対し、若年非大卒層の父母は約8割が同じ非大卒層です。つまり学歴の世代間再生産傾向が明瞭にみられるのです。さらに大卒同士、非大卒同士が結婚する学歴同類婚の夫婦は、現役世代の夫婦のほぼ7割を占めます。
そして大卒学歴をもつ父母の8割以上は、子どもの大学進学を望んでいますが、非大卒の父母では6割以下にとどまっており、大学進学志向の温度差もはっきりしています。
――大卒同士が結婚して、その子どもが大学に進学することによって、学歴による格差が再生産されている。
そうです。これらを総合すると、現代日本では、大学・短大に進学するかしないかの選択が、その後の人生を分断しており、しかもこの構造が世代を超えて繰り返されはじめているということがいえます。
結果として現在、友人関係や恋愛や結婚においても、同じ学歴同士の結びつきが強くなり、日常生活において異なる学歴の人と接する機会が少ないという、人間関係の断絶がはっきりしはじめています。これは、現代日本社会では、他社会における階級やエスニシティのように、学歴が社会の分断を生じさせる主たる要因になっているということです。
――学歴がものをいう社会であるにもかかわらず、日本は再チャレンジの機会が乏しい社会だといわれます。
まず、日本では大学の学費の私的負担が大きい割に、大卒学歴の収益率が高くありません。ですから、人生の途上で大卒学歴を得たとしても、他社会のようにすぐに元がとれるわけではありませんし、象徴的な価値(社会的に高い評価)がついてくるわけでもありません。
実際、人生の途上で学歴に関する再チャレンジができるとみなしている人は多くはなく、結局、人生・生活を決定的に左右するのは、高校卒業後にどのような進路をとったかということになります。この実態を社会全体が了解しているから、日本人にとって、高卒時に選び取る最終学歴は、変更しえないアイデンティティの源泉となるのです。【次ページにつづく】
――再チャレンジの機会がない社会で、高卒段階での選択がその後の人生の岐路を決めてしまうわけですね。先ほど、「8人」のなかでも若年非大卒男性の凹みが際立っているとおっしゃっていましたが。
大卒学歴を得るためにお金をかけた大卒層が、社会に出てから、雇用や賃金にかんして非大卒層よりも有利な立場にたって、若年期にかけたお金を「回収」していくのは致し方ないことです。しかし、非大卒層が人生のあらゆる面で大卒層に著しく水をあけられるのはおかしなことです。
しかし現状では、若年非大卒男性は、他の男性たちと同じだけ働いているのに、年収が壮年大卒男性の半分以下にとどまっています。しかも彼らの多くが若いうちに転職を余儀なくされており、非正規で働く人の比率も多くなっています。
このように生活の基盤が安定していないために、彼らの中には、結婚して子どもをもつというステージに到達することができない人たちが多数います。
――若年非大卒男性の多くが、経済的事情によって、望んでも結婚できないようになっている。同じ非大卒の若い女性の経済的な苦境についてもしばしば耳にします。
若年非大卒女性はどうかというと、経済的な状態でいえば、彼女たちは男性たちよりさらに悪く、雇用も不安定です。彼女たちの5人に1人は、橋本健二さんのいう「アンダークラス」という最下層階級に分類されます。
しかし彼女たちはこのような苦しい状況にありながら、少子化が危惧される日本社会に重要な貢献をしています。それは、既婚者(離死別を含む)が多く、子ども数が同じ若年層の大卒女性の約1.5倍であるということです。
つまりわたしたちは、現役世代の「8人」のなかで、もっとも生活基盤の脆弱な彼女たちに、次世代を産み育てるという日本の将来にとって重要な、しかし他の人たちには担うことのできない役割を担ってもらっているのです。豊かな先進工業国であるはずの日本で、子どもの貧困が叫ばれるのは、このような偏りがあるがゆえなのです。
出産、育児というライフ局面のタスクに追われ、彼女たちのワーク局面への参画がなおざりになっているのは、致し方ないことといえるでしょう。彼女たちには、すでに行政からの支援の手が差し伸べられていますが、他の「7人」は、おおいに感謝すべきだと思います。
――「18歳まで学校で教育を受けた人材を、このように低く見る社会は、歴史上も、世界的にも、現代日本社会以外にはあまり例がない」という文章を読んで、はっとしました。
「幸せに暮らすためには、大学に進学するのが唯一の方法だ」と多くの日本人が思い込んでいて、大学に行かないことに積極的な意味などないという考えも、かなり根強いようです。
しかし、近未来の日本の大学進学率が100%近くに至るというシナリオは、いくつかの点で現実的ではありません。ですから若年で大学に行かない人材は、労働市場に供給され続けるわけで、かれらを尊重しながら育成して、社会のために役立つ位置についてもらうことは不可欠です。
けれども、かれらは大卒学歴至上主義の考えのもとでは視野に入ってきませんので、名前をもっていません。「いずれはいなくなる労働力」という程度に扱われて、政策の対象となっていないのです。しかし戦後から現代までいつの時代を見ても、非大卒層の総数は大卒層の総数より多く、彼らこそが今の日本を形づくってきたマジョリティに他ならないのです。
――だから、「レッグス」という命名による可視化が必要だったんですね。
レッグスというのは、LEGs: Lightly Educated Guysの略で、「軽学歴の男たち」という意味合いの言葉です。こうした呼び名を与えることで、彼らのプレゼンスをはっきりさせて、政策的な議論の俎上に載せることが可能になります。
もっとも、このレッグスという言葉はとても強いインパクトをもっているようで、「大卒エリートが、上から目線で非大卒層を貶める俗名を付けたとしか思えない」と、私の見識を疑うコメントをもらうこともあります。
詳しくは本書の本文に譲りますが、私はそういう次元の低い議論を展開してはいません。しかし、これまで「大卒じゃない人びと=非大卒」というように、消極的に言い表していた社会の一角にレッグスという言葉を与えたことは、人びとの心に、ときに不協和を生じさせ、様々な議論を喚起するようです。
――先生はレッグスをサポートする政策立案が必要だと主張されています。
現在の20歳前後の同一生年の総数はだいたい126万人前後で、そのうちわけは、大学進学者が約68万人、非進学者が58万人ほどです。この先の日本を支えていく若い職業人を、本腰を入れて育成しようとするならば、20歳前後の時点では、大学進学者とレッグスの双方に偏りなく財政出動をすべきだと思います。
たしかに、経済的な事情で大学進学をためらう若者の背中を押すために、学費を支援する政策を拡充することはとても大切です。しかし、それだけをやったのでは、いずれ社会の上位に至るはずの人びとにだけ、メリットを付与するということになります。
――いわゆる大学無償化は、大学進学者にのみメリットがある。
そうです。大学に進学しないで働く若者には、政策の恩恵はまったく及ばず、進学者との間の格差を助長することになりかねません。ですから大学の学費無償化を進めるなら、一方で大学へ行かなかったレッグスたちの職業生活の安定も、公的に保障すべきだと考えます。
具体的には、20歳前後の非大卒の若者を正規雇用した企業に、大学の学費補助と同程度の金額の雇用助成をすることで、若者たちの給与水準や雇用の安定性を上げるような政策が考えられると思います。
――レッグスは「現代の金の卵」だとされています。
本文中で詳しく論じていますが、非大卒の若者は地方に多く、大卒層は大都市圏に集中しています。地方消滅が危惧されている現状において、もっとも必要とされているのは、地方に住み、コミュニティを支えている若い人材や、伝承技能が途絶えかけている中小企業の熟練工の後継者などです。
そしてレッグスは、これらの場所をカバーすることのできる「現代の金の卵」なのです。彼らが充足した人生を歩むことができるように、その若年期を支援するのは、疲弊する地域社会を支えることにもつながり、ひいてはこの国全体の雇用と社会の安定ももたらすと考えることができます。
――現在、さまざまな格差が問題になっています。若年ワーキングプア、正規・非正規格差、勝ち組/負け組、上流/下流、子どもの貧困、結婚できない若者、マイルドヤンキー、地方にこもる若者、地方消滅などです。
先生は、こうした現象の正体は、すべて「大卒学歴の所有/非所有」だと指摘しながら、それを逃れられない現実として直視するべきだとされています。最後に、このご主張の意味するところを、先生の考える「共生社会」と絡めてご説明いただけますか。
ここのところについて、誤解している人が多いようなので、これは有り難い質問です。
私が伝えたかったのは、学歴が日本の格差現象の起点となっているという構造と、学歴による結果の不平等は、たやすく均してしまえるものではないということです。しかしこれは、格差容認論ではありません。
私が理想の状態だと考えるのは、たとえばレッグスの所得は低いが、失業のリスクは大卒層より小さく、転勤や異動もなく、生活の安定を得やすい。あるいは、20歳前後の暮らしのゆとりでは、レッグスの方が大学生よりも上だ。ワークライフバランスをとりやすいのも、子ども数が多く、イクメンとして配偶者を支える自由度があるのも、地域社会に根差した暮らしをしているのも、大卒層よりむしろレッグスだ、というように、大卒と非大卒の所得以外のメリットが、トータルでみた場合に五分五分に近くなるということです。
まずは、大切な役割を非大卒層に任せて、自分たちだけがメリットを独占しているという現状を、大卒層の側が理解することが共生社会への第一歩です。そして双方が、日本を支えるために欠かせない別のポジションを守っている、自分とは異なる「レギュラーメンバー」への思いやりをもたなければなりません。
ただし残念なことながら、新書を手に取るのは圧倒的に大卒層が多く、現時点では非大卒層に現状を伝えることは十分にできていません。その先ではこのことも考えなければなりませんね。
日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち (光文社新書)書籍
作者吉川徹
発行光文社
発売日2018年4月17日
カテゴリー新書
ページ数264
ISBN4334043518
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吉川徹(きっかわ・とおる)
計量社会学
1966年島根県生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科教授。
専門は計量社会学、特に社会意識論、学歴社会論。
著書に『現代日本の「社会の心」』(有斐閣)、『学歴分断社会』(ちくま新書)、『学歴と格差・不平等』(東京大学出版会)、『日本の分断』(光文社新書)などがある。
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