★阿修羅♪ > 経世済民129 > 772.html
 ★阿修羅♪
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
熱海がV字回復できた「本当の理由」なぜ日本の組織は息苦しいのか?今も昔も日本人を支配する妖怪の正体 人文科学は必要ないが
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/772.html
投稿者 うまき 日時 2018 年 12 月 06 日 19:51:54: ufjzQf6660gRM gqSC3IKr
 

(回答先: 幹部逮捕のファーウェイ「中国封じ込め」の矢面に 米中対立、貿易以外でも幅広く悪化 中国で跋扈する「赤ちゃんのような大人」 投稿者 うまき 日時 2018 年 12 月 06 日 19:48:17)

熱海がV字回復できた「本当の理由」
齊藤栄熱海市長インタビュー
2018/12/06
WEDGE Infinity 編集部
 「熱海がV字回復している」――。数年前からメディアなどでそう言われることが増えている。昔ながらの温泉街、かつての新婚旅行や社員旅行での定番の行き先、でもその後は廃れていった……。多くの人はそんなイメージを抱いているのではないだろうか。しかし、平日の日中に降り立った熱海駅は、たくさんの人で賑わっていた。高齢者だけでなく、若者のカップルやグループ、家族連れも目立ち、まさに老若男女が集まる観光地。なぜ熱海に再び人が集まるようになったのか。2006年に市長に就任し、現在4期目に突入した齊藤栄氏に話を聞いた。

熱海市の中心市街地の全景
熱海の『宝』の良さに改めて気づき、その価値を高めた
 「熱海の宿泊客のピークは昭和44年、532万人でした。そこからはほぼ一貫して減少の一途をたどります」(齊藤市長)。
 バブル景気で一時持ち直したものの、東日本大震災のあった2011年には247万人まで落ち込んだ。しかしそこからは4年連続で増加し、2015年には307万人と13年ぶりに300万人を突破、以降もその数値をキープしている。一体どんな施策を打ったのだろうか。
 「一番大きかったのは、熱海梅園とあたみ桜という、熱海の『宝』の良さに改めて気づき、その価値を高めたことです」(齊藤市長)。
 熱海の梅はなんと11月には咲き始める。桜も河津桜よりも早くクリスマスの頃には咲くそうだ。ただ、他にはない貴重な観光資源だったにもかかわらず、梅園は明治19年の開設から大規模な改修もされず、老木化が進んでいた。あたみ桜も、駅から徒歩圏内の糸川遊歩道沿いに色々な種類の花木が脈絡なく植わっており、印象に欠けるものだった。それらを熱海に縁のある大塚商会の名誉会長である大塚実氏の支援によって大規模改修が実現した。齊藤市長は、これが最初のきっかけだと考えている。

梅まつり期間中の熱海梅園。園内には59種472本の梅が植えられている。
 「2011年から『シティプロモーション』施策を開始しました。2012年からは『ADさんいらっしゃい!』といって、AD(アシスタント・ディレクター)や制作部を全面的に支援し、ロケ誘致を推進。ドラマ・映画のロケ地となることで、観光客も徐々に増えていきました。また、ソムリエの田崎真也氏が特別招聘審査員として名産品を認定する事業も開始しました。認定率約50%と、行政主導らしからぬ「厳しさ」で、熱海のブランドイメージアップを図ってきました。
 これらの施策によって「熱海ブランド」が高められ、プロモーションがうまくいったことで観光客が戻ってきたのでは、という指摘をされることが多いのですが、その前提として、熱海にある良いものに改めて気づき、その価値を高めていったことが大きかったのではと考えます。それなしには人は戻ってこなかったのではと思うのです」(齊藤市長)。

齊藤栄熱海市長
 磨きをかけたことで、それが売り物となり、初めてプロモーションの意味をもつ。実は齊藤氏が市長に就任した当初、市は約41億円もの不良債務を抱えていた。夕張市の破たんは多くの国民の知るところだと思うが、熱海市も同様の危機下にあったと言っても過言ではない。危機感を強くもった齊藤市長は、まずは財政の立て直しを最優先に取り組む。歳出カットのために、市庁舎の建て直し、駅前広場の建設、再開発事業など公共事業はいったん取り止め、約4半世紀ぶりとなる水道料金の値上げ(2007年に6%、2年後には9%) 、さらにゴミ袋の有料化など、市民にもすべからく負担をお願いした。そのような状況で観光事業の立て直しにまだ手がつけられない中、取り組めた梅と桜というコンテンツの強化が後々生きてきたのだという。

あたみ桜は熱海市の木にも指定されている早咲きの桜。糸川遊歩道をはじめ、市内各所に植えられている。例年1月から3月にかけて見頃を迎える。
観光産業は「オンリーワン」か「ナンバーワン」を目指す
 こう聞くと、「うちにも梅や桜はある。売りになるかも」と飛びつきたくなる自治体もいるだろう。だが事はそんなに単純ではない。
 「観光産業に関しては、『オンリーワン』か『ナンバーワン』にならないと生き残れないと思います。熱海の梅・桜は日本でこれ以上早く咲くものがないから価値があるのです。他にも、ポルトガルなどで有名なジャカランダという紫色のきれいな花があるのですが、海外旅行好きの女性の間で大変人気が高く、これも市街地に100本近く植わっているのは熱海だけだと思います。この花は毎年どんどん伸びていくので、後から植えたとしても熱海が先行優位性を保てます」
 「競争相手に必ず勝てる状況を作って、舞台を回していかなければいけません。すぐにまねされて追いつかれるものはやってはいけないのです。常に熱海が優位に立てるものを中心に取り組んでいます」(齊藤市長)。

ジャカランダは例年6月頃に咲く、世界三大花木の一つ。国際姉妹都市であるポルトガルのカスカイス市から贈られた2本の木がはじまりで、現在は遊歩道も整備されている。
 確かに、ゆるキャラ、B級グルメ、ふるさと納税、一事が万事その調子だ。自治体の特色はそれぞれ違うはずなのに、「すべての自治体がお手本探しをしているよう」だと齊藤市長は言う。
 「自治体が100あれば、生き残り方は100通りあるはずです。立地、歴史、産業構造、人口構成などの要素によってそれぞれ異なってきます。たとえば、熱海の隣接自治体である伊東市と湯河原町も、同じ観光地で近接しているにもかかわらず、雰囲気も強みもまったく違います。そこを冷静に考え、アクションを起こしていく必要があるでしょう」(齊藤市長)。
 また、行政と民間の協働も欠かせない。それぞれの役割を全うするとともに、それらがつながってうまく循環していけば、まちは活性化していく。熱海でも様々な取り組みがなされているが、官民の連携という点では「A-biz」が注目だ。ブランディングやマーケティング、ITの専門家チームが主に売上アップに特化した無料の経営支援を行なった富士市産業支援センターの「f-Biz」をモデルにした取り組みを行っている。まさに頑張る民間を応援する行政の仕事と言えるだろう。「頑張れば売り上げが上がりますよ、と具体策なしに口で言っても意味がないですし、事業者もやる気が出ません。先ほどお話した熱海の名産品の認定制度もそうですが、もっと味をこうしたら、パッケージをこう工夫したら…と具体的なアドバイスがあり、それが結果を生み出すことで『それならもっと頑張ってみようかな』という気持ちになれるのです」(齊藤市長)。
まちづくりは時間がかかる
 「V字回復した」と言われる熱海。齊藤市長も4期目を迎え、今後どのようなビジョンを描いているのだろうか。
 「4期目の公約に『回復から躍進へ』と掲げていますが、これから熱海がもっと発展していくためには、観光事業の枠組み自体を変えないといけないと考えています。その一つとして『DMO*』を作ることは必要だと思います。これが世界の潮流であり、行政も民間も専門家も一緒にまち全体を経営していく……。ハワイ然り、ヨーロッパ然りですよね」

*Destination Management Organization(デスティネーション・マネージメント・オーガニゼーション)の頭文字の略。『地域の「稼ぐ力」を引き出すとともに地域への誇りと愛着を醸成する「観光地経営」の視点に立った観光地域づくりの舵取り役として、多様な関係者と協同しながら、明確なコンセプトに基づいた観光地域づくりを実現するための戦略を策定するとともに、戦略を着実に実施するための調整機能を備えた法人』(観光庁HPより)
 「重要なのは専門性と機動力です。そのためには例えばマーケティングのプロを正当な対価を支払って雇い、その人を核に関係者10人くらいの組織体にするイメージです。大きな方向性とビジョンを策定し、具体的な施策に落とし込んでいきます。基本的に行政は年度単位の予算設定で動くので、刻々と変わっていく状況に対応するのが難しい場面が多々あります。ですので、民に近い形でのDMOで、専門性と機動力をもって運営していければと思います」
 「その運営のために、私が4期目の立候補の際に掲げた『宿泊税』を当てることも考えています。宿泊税に限らず、たとえば入湯税を上げる、という選択肢もあるかもしれません。いずれにしても、観光事業は常に新しい投資をし続けないと飽きられてしまいます。そのための財源確保は考えていかないといけません」(齊藤市長)。
 まちづくりは時間がかかる。2016年には約10年かかってやっと不良債務を解消した熱海市。これまでの取り組みも「まずは3年は続けてみよう」というのが齊藤市長の信念だ。大切なのは自分たちの頭で考えること。観光事業であれば、他のまちが追いつけないコンテンツを作り出すこと。それぞれの自治体がいかに自立していくか、もっと真剣に考えていかなければならないだろう。
●熱海市基本情報
伊豆半島の東側に位置し、相模湾に面する。人口37,284人(平成30年2月末時点の住民基本台帳人口)、21,458世帯(一世帯あたり約1.7人)。産業構造は、宿泊業が大きな割合を占める。江戸時代から湯治場として栄え、昭和9年の丹那トンネルの開通によって観光地化・大衆化が進み、その後新婚旅行や社員旅行のメッカに。その後の衰退、回復は記事の通り。
●イベント情報
<忘年熱海海上花火大会>
2018年12月9日(日)・16日(日)時間 20:20〜20:45
場所 熱海湾(熱海サンビーチ〜熱海港)
https://www.ataminews.gr.jp/event/8/

<第75回熱海梅園 梅まつり>
2019年1月5日(土)〜3月3日(日)
時間 8:30〜16:00
場所 熱海梅園
https://www.ataminews.gr.jp/ume/

<第9回あたみ桜 糸川桜まつり>
2019年1月12日(土)〜2月11日(月)
時間 見学自由(ライトアップ 16:30〜23:00)
場所 糸川遊歩道
https://www.ataminews.gr.jp/event/208/
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/14659


 


【第1回】 2018年12月6日 鈴木博毅 :ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表
なぜ日本の組織は息苦しいのか?今も昔も日本人を支配する妖怪の正体
忖度、パワハラ、同調圧力、いじめ、ネット炎上、無責任主義……。なぜ、日本の組織は息苦しいのか? 会社から学校、家族、地域コミュニティ、ネットまで、日本社会が抱える問題の根源には「空気」という妖怪が存在する。それは明治維新、太平洋戦争、戦後の経済成長にも大きく作用し、今日もまったく変わらず日本人を支配する「見えない圧力」である。15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。佐藤優氏推薦!「日本型組織の病理がわかる。組織で巧みに生き残るための必読書」

旧日本軍からネット炎上まで
今も昔も変らず日本人を支配するもの
 1977年(文庫版は1983年)に出版された山本七平・著『「空気」の研究』という書籍があります。この書は、日本人の特殊な精神性や日本的な組織の問題点を指摘する存在として、世に出て以降ずっと読み継がれてきました。
 同書を一読されたほとんどの方は、この書が今の日本の何か重要な問題を描き出していると感じるのではないでしょうか。
 神経をすり減らす人間関係、個性より周囲との協調性を優先する教育、繰り返される組織内での圧力などが今、問題となっています。
 息を潜めて、目立つことを避けながらも、周囲を常に意識しなければ不安にさせられる「相互監視的」な日本社会のリアル。誰もが「空気」に怯えながら、「空気」を必死で読む日々に疲れ切っているように見えます。
 山本氏は、世界の歴史や宗教への深い造詣、戦地での極限の体験などから、日本人を支配する「空気」という存在を、多角的に描写してその力学を解き明かしています。『「空気」の研究』で鋭く描写された多くの理不尽な構造は、残念なことに現代日本でもまったく変わらないままです。
エスカレートする日本社会の生きづらさ
「空気」という言葉から、日本社会の息苦しさを連想する人は多いのではないでしょうか。自由に意見が言えず、人と違えば叩かれ、同調圧力を常に感じる。
 山本氏は『「空気」の研究』で、日本の組織・共同体は「個人と自由」という概念を排除する、と指摘しました。
 最近ではネットやSNSでの誹謗中傷、匿名の集団による個人攻撃もエスカレートしています。学校ではいじめや自殺がなくならず、会社ではブラック企業や過労死が問題になっています。
 1977年に同書が世に出て以降、日本社会の生きづらさは改善されるどころか、益々ひどくなっているように思えます。では、なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのでしょうか?
 それは、私たちの社会に浸透する「空気」と大いに関係しているのです。
「空気」が日本を再び破滅させる
 東日本大震災後の国の対応、東京都の築地市場の移転問題、相次ぐ巨大企業の不祥事と隠蔽、次々と明らかになる組織内でのパワハラやセクハラ……。その都度指摘されるのが「同調圧力」「忖度」「ムラ社会」「責任の曖昧さ」などです。
 問題への対処にさえ「なかったフリをする」「起きた事故の惨禍に目をつぶる」など、日本社会の悪しき慣習が、この国の問題を拡大して日本人を苦しめているかのようです。
『「空気」の研究』で、山本氏は衝撃的な予言を残しています。
 もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように「あのときは、ああせざるを得なかった」と答えるであろう(*1)
 山本氏は砲兵士官として1944年にフィリピンのルソン島に出撃し、その地で敗戦を迎えています。そのため『一下級将校の見た帝国陸軍』などの軍体験を活かした著作も多いです。その山本氏が「日本が再び破滅するなら、空気のためだ」と予言しているのです。
 敗戦後の日本は、1980年代まで経済成長が続き、一億総中流時代と呼ばれた豊かな時期を経験していました。その頃すでに、日本の未来に「空気による破滅」を山本氏は予感していたのです。
旧日本軍の失敗と今の社会問題に共通すること
 終戦直前、護衛戦闘機もなく沖縄へ出撃した戦艦大和は、アメリカの戦闘機の波状攻撃を受けて戦果なく撃沈されました。無謀な作戦の理由を聞かれて、軍令部次長だった小沢 治三郎中将はこう答えたと言います。
「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う(*2)」
 山本氏はこの発言に「空気」の存在を見ていました。
 当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる(*3)。
 さらに、山本氏は大胆に、空気を「妖怪」のようなものだと指摘します。
 統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる(*4)。
「空気」で合理性が消し飛ばされ、非合理極まりない決定に突き進むかもしれない。日本が破滅の道を避けるには、「空気という妖怪」の正体を見極めるべきなのです。
なぜ穏和な日本人は集団になると攻撃的になるのか
 日本社会でたびたび問題となる「いじめ」。集団の中で誰かを多数で攻撃したり、陰湿な差別をすることに、学校現場で歯止めがかかりません。いじめの対象にされた子どもが自殺する痛ましい犯罪がいまだに続いています。
 最近では、ネットや不特定多数が参加するSNSでも、特定の人物を袋叩きにするような現象が頻繁に起こっています。
 空気を乱す者を敵視して、集団になると個人の倫理を捨てて一斉に攻撃する陰湿さ。日本人は性格的に穏和な人が多いと言われながら、特定の状況には極めて非情、不寛容で仲間外れにすることに容赦がありません。まるで古い時代の村八分のようです。
 一体、なぜこのようなことが起きるのでしょうか。そしてなぜ、日本社会はそれを克服できないのでしょうか。
 日本的なムラの仕組みにも、「空気」が大きく関係しているのです。
(注)
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)P.20
*2 『「空気」の研究』 P.15
*3 『「空気」の研究』 P.16
*4 『「空気」の研究』 P.19
一瞬で頭が切り替わり矛盾も気にしない
 日本人は海外に行くと、その国に溶け込んでしまうと言われます。「郷に入れば郷に従う」で、その国の文化や信条にできる限り従おうとするからでしょう。日本人の民族性の一つは、「状況に即応する」ことなのかもしれません。
 何かに染まりやすい、自らを進んで塗り替える性質を持っているのです。裏を返せば、状況に即応する意味での一貫性が日本人には常に存在しています。
 山本氏は「明治維新」「文明開化」「敗戦後」には、がらりと変わったという意味での共通点があると指摘します。みんなが一緒に新しい方向を向く。文明開化の時代と言われたら、国を挙げてそれに取り組み、みんなが乗っかってしまう。
 敗戦で戦争が終わり、平和な時代になると、鬼畜米英がアメリカの自由主義万歳になる。一瞬でほとんどの人の頭が切り替わり、なぜそうなったかは気にしない。こうした日本人の瞬時の対応力を、山本氏は「見事なものだ」と何度も褒めています。
 時代の転換点で、状況にすぐ頭が追いついてしまう。だから時に、他国を驚かすような急激な変化を実現し、ちょっと前までの自分たちと矛盾することなど、日本人は苦にもしない。そのプラス面が出たのが明治維新であり、その後の文明開化や敗戦後の経済成長だったのです。
仮装の西洋化では変わらなかった日本人の根源的ルーツ
 変わってしまった状況に「即応する」のが日本人の行動原理だとするなら、江戸時代から明治維新、戦前から戦後という大激変期にも、日本人の根本は変わっていないのではないでしょうか。
「仮装の西洋化」で日本人は自分が変身したように感じて、過去を捨ててしまう。しかしその実体は、「変化に即応する」「先に進む度に過去の歴史を捨てる」など、変わらない日本人の根源的な行動様式、一貫した思想の結果ではないか。
 平成になり、21世紀に生きているように振る舞いながらも、その規範や意識、抱えている問題は、まさに「昭和の行動原理」から生み出されているのかもしれません。いや、日本人の根源的な思想は、大昔から変化していない可能性さえあるのです。
日本人を知るための、もう一つの「失敗の本質」
 過去30年以上読まれ続けた『失敗の本質』という名著があります。野中郁次郎氏ら6名の共著者によるこの書籍は、旧日本軍の戦略・組織上の失敗を明らかにした書として累計70万部以上のロングセラーとなっています。
 山本氏の『「空気」の研究』は、日本人の思考様式や文化的精神性の「失敗の本質」を解明した名著と言えるかもしれません。日本人が集団として組織化したときの“規範”も分析しているため、日本人が陥りやすい「失敗の本質」を探り当てているのです。
 明治維新や近代化、敗戦後の復興と経済成長では、日本人は世界でも稀な偉業を成し遂げています。誇るべき日本人の文化的・思想的ルーツの力なのは間違いありません。
 一方で、日本は悲惨な第2次世界大戦で数百万人の命を失いました。敗戦後の経済至上主義的な社会でも多くの問題を生み出し、放置したまま拡大して惨劇にまで発展させたことがたびたびありました。この傾向は現在も続いています。
 山本氏が描いた「空気」を本当の意味で知ることは、私たち日本人を知ることです。日本人の思考や精神のメカニズムを知ることです。日本人を縛り続け、歴史上の幾多の成功と失敗へと導いてきた恐るべき「何かの力」を把握して、その正体を見極めることなのです。
空気という妖怪の正体をつかむ「7つの視点」
 新刊『「超」入門 空気の研究』は、『「空気」の研究』を構造から把握するために、次の7つの視点で紐解きます。
●第1章「空気という妖怪の正体」
 なぜ空気が合理性を破壊するのか。不可能とわかり切っている作戦をなぜ決行するのか。この章では、日本人が合理性と空気の狭間で引き裂かれている理由を解説します。
●第2章「集団を狂わせる情況倫理」
 日本人は共同体、集団になると、なぜか愚かな決断をしてしまう。ムラ社会と言われる日本で、空気が共同体にどんな影響を与えているかを解説します。
●第3章「思考停止する3つの要因」
 日本社会の中に、空気の拘束をより強力にしてしまう要素が存在します。何が空気を狂暴化させているのか、日本人の思考法とともに空気の構造を読み解きます。
●第4章「空気の支配構造」
 空気が日本社会を支配するときの、3つの代表的パターンを紹介して、精神的な拘束が、物理的な影響力に転換される構造を明らかにしていきます。
●第5章「拘束力となる水の思考法」
 加熱した空気を冷やす「水」という存在。山本氏の記述から、水の機能とその正体を解説し、その限界を明示することで、空気を打破する新しい入り口を考えます。
●第6章「虚構を生み出す劇場化」
 空気は虚構を生み出すが、人間社会では虚構こそが人を動かす。日本人が、虚構の劇場化で社会を動かし、時に狂う理由を、歴史を踏まえながら解説していきます。
●第7章「空気を打破する方法」
 山本氏の解説した「根本主義(ファンダメンタリズム)」などから、本書第6章までの分析を踏まえて、空気打破の方法を発展的に論じます。
 山本氏は空気の拘束から脱出するためには、その正体をまず正確に把握すべきだと何度も強調しています。
 日本社会に息苦しさを生み出す空気と、個人に自由を許さない共同体原理。日本の組織を支配して、時に合理性を完全に放棄させるその恐ろしさ。太平洋戦争の惨禍と社会統制の異常な時代を体験した多くの日本人は、空気の異常性を訴え、空気打破への願いを込めて、さまざまな形で空気の正体を描写しようとしてきました。
 山本氏の『「空気」の研究』は、空気打破への英知の集大成と考えることもできます。
 私たち日本人は、明治維新から150年を経て、空気を打ち破る入り口に立っています。今こそ、悲惨な歴史を繰り返さないため、健全な未来を創造するために、『「空気」の研究』からその打破の方法を学びとるべきなのです。
(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)
https://diamond.jp/articles/-/186200


 

ビジネスに人文科学は必要ないが、人間には必要だ
ジャンピエロ・ペトリグリエリ:INSEADの組織行動学准教授。
2018年12月6日
ビジネスやテクノロジーには、もっと人間的な要素が必要だという主張は、何十年も前から言われ続けている。だが筆者は、そうした主張に正面から反論する。人文科学を何らかの利益を生み出すための道具として用いる行為、それ自体が弊害である。逆説的だが、人文科学に利便性を求めないことで、いっそう有意義な存在になると筆者は言う。

 複雑な問題を、単純な物語だけで説明できそうに思えることがある。
 例を挙げよう。数年前にフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグは、スクラブルという言葉遊びのボードゲームで、友人の10代の娘さんに負けた。「2戦目を始める前にザッカーバーグは、手持ちの文字を辞書で調べる簡単なプログラムを書いた。当てはまるすべての言葉を選べるようにするためだ」と、『ザ・ニューヨーカー』誌の記者エバン・オスノスは述べている。
 女の子はオスノスにこう語ったという。「私がプログラムと対戦している間、周りの人たちはどちらか一方を応援したの。“人間チーム”と“機械チーム”に分かれたのよ」
 この逸話は、あまりに面白すぎて無視できないものだった。ザッカーバーグについて我々が知っている(と思い込んでいる)すべてを表しているように見えたからだ。地頭のよさ、強烈な競争心、極端な論理性をもってテクノロジーを信じる姿勢、そして、賛否両論を呼ぶ彼の強力なソフトウエアである。このエピソードは一気に拡散した。
 この話がウケた理由は、寓話として読めるからだ。どんな問題にも技術的な解決策を見出そうと決意している、コンピュータを知り尽くした達人の物語である。そこにはスクラブルよりはるかに複雑な問題――フェイクニュースや二極化、疎外感など――も含まれる。
 世界中で公の議論に影響を及ぼせるザッカーバーグの役割について、彼と縦横に話し合ったオスノスは、こう結論づけている。「ザッカーバーグは懸命に――常に首尾一貫していたわけではないが――まったく準備のできていなかった問題を理解しようと努めていた。それは真夜中に解決できるような技術的な問題ではなく、人間の最もデリケートな側面にまつわる問題だ。たとえば、真実の意味、言論の自由の限界、暴力の源泉などである」
 このようなストーリーを、あるリーダーの性格と、それが大衆文化に与える影響を表す話として読むのは簡単だ。しかし、結局のところ、どのリーダーも、その時代の文化を反映しているのだ。テクノロジーやその他の業界にいる「準備不足のまま、頑張りすぎる人」を称える文化において、ザッカーバーグは一人の代表的な存在にすぎない。
 企業が好む不安に駆られた頑張り屋とは違い、準備不足の頑張り屋には、自分の仕事が与える影響について熟考する辛抱強さがない。前者は承認を求めて完璧であろうとするが、後者はデータを好み、さまざまなことを躊躇せずに試してみる。素早く行動して物事を打ち壊し(フェイスブックの社是)、破壊したものが実は価値あるものだったという事態になれば、謝罪して次はもっとうまくやると誓うのだ。結局、失敗とは見方を変えれば学習である、というわけだ。
 それは必ずしも正しくない。失敗が単なる怠慢や完全なる無知にすぎない場合もある。
 批評家筋が主張するように、テクノロジー業界の大物の中には、人文科学や社会科学のコースをもっと受講していたらよかったのに、と思われる人がたくさんいる。こうした一般教養の主要科目は、未来のリーダーが人間の生活と社会におけるジレンマや複雑さに取り組む準備をするためにあるのだ。
 昨今、経営やハイテク関連のカンファレンスで、「テクノロジー業界にはもっと人間主義が必要だ」という話を耳にしないことはない。我々は皆が、「人間チーム」と「機械チーム」に二分されているようだ。
 経営書の著者チャールズ・ハンディは、2017年のグローバル・ピーター・ドラッカー・フォーラムでの感動的な演説の冒頭で、こう述べた。「我々は、テクノロジーがどれほど進歩しても、それを人間性に代替することはできない。感受性、愛や美や自然への理解と感謝、愛情や同情や意義を求める心、希望や恐怖、直感、想像、論理を超えた信念などには、替えられない」
 経済学者、石油企業の経営者、経営学教授としてビジネスに関わってきた人生経験をもとに語る80代のハンディは、ひときわ印象的だった。ビジネスに人間性を求める声は目新しいものではなく、その課題がまったく解決されていないということを、彼は思い出させてくれる存在だ。
人文科学の活用
 エルトン・メイヨーは1930年代、組み立てラインの労働者に敬意と配慮をもって接すれば生産性が高まることを立証し、人間関係論の潮流を引き起こした。この潮流は、フレデリック・テイラーの科学的管理法――労働者を効率重視の産業機械に組み込まれた扱いにくい歯車へとおとしめた――に異議を唱えるものとなった。
 人間関係論の提唱者たちは、生産性の向上を目指しながら、疎外感――メイヨーが言う「自分の社会的役割および集団との一体感に、自信が持てなくなる」ことを抑制しようとした。ほどなくして、ピーター・ドラッカーが「経済人の終わり」を予言した。しかし、経済至上主義者が死ぬというその知らせは、いまだ実現していない。それから半世紀後、グローバル化時代の前夜になってもドラッカーは、経営とは科学よりも一般教養に近いと主張し続けていた。
 テクノロジーや経済の動向に不安が生じるたびに、ビジネスに人間性を求める声が表出するようだ。2008年の金融危機の後、ビジネス・スクールは倫理のコースを急いで追加した。それ以来、人間的成長と社会貢献に関するクラスは増加の一途をたどっている。人々は再び人文科学を必要としており、さもなければデジタル変革はテイラー主義と化してしまうだろう。
 文学や哲学、社会科学は、ビジネスリーダーの不備を補い、我々を救済してくれるのだろうか。私はそうは思わない。
 たしかに、意欲に満ちた大物リーダーが、ジェーン・オースティンやジョージ・オーウェル、マヤ・アンジェロウ、ミシェル・フーコーなどを読む時間を増やせば、ためになるだろう。しかし、人文科学の味を知ったところで、準備不足の頑張り屋は、人間をめぐる問題をうまく管理できるようにはならない。なぜなら、頑張り屋が準備不足に陥るのは、彼らが知らないフィクションのせいではなく、彼らが信じている物語のせいだからだ。
 それは、テクノロジーと経済の力が、進歩を否応なく牽引するという物語だ。その物語の中でも人文科学の役割はあるが、権利を伴わない。テクノロジーは仕事熱心な大黒柱で、人文科学は慎ましい家庭の主婦なのだ。
 彼女たちは「美しく」「便利」でなければならない。その責務は、ビジネスリーダーが共感力や思いやりや魅力を備え、人々に力を与え鼓舞し、影響力を持てるようにサポートすることだ。けっして疑問を抱いたり、葛藤したり、助力を惜しんだりすることはない。この都合がよい結婚は、古びたスウェットパーカーのように、サイズは合っていてもお似合いではないのだ。
機械チームは存在しない
 スクラブルで優位に立つためにテクノロジーを使ったマーク・ザッカーバーグの場合であれ、蒸気ドリルにハンマーで対抗して勝ったが息絶えたジョン・ヘンリー(米国の民話)の場合であれ、「機械チーム」は存在しない――これが真実である。競争は常に、人間同士の間で起きているのだ。
 一部の人間は機械を持っているが、トロイア戦争でギリシャを勝利に導いた伝説の木馬のように、機械は必ずしも贈り物というわけではない。そう考えると、「テクノロジーが人間性にどう影響するか」という危惧は、「力を持った人間が他者に何をするか」という、昔からある問題を覆い隠してしまう。
 もし「機械チーム」があるとしても、彼らは機械の味方をしているのではない。機械を自分の味方につけているだけなのだ。したがって「人間チーム」が侵入、剥奪、偏った競争条件と恐れるものを、「機械チーム」は解放、効率、楽しみ、進歩と見なすのも不思議ではない。
 問題は、機械は(人間性にどう影響を及ぼすのか、ではなく)リーダーにとってどのように役立ち、リーダーに何をもたらすかである。なぜなら、まもなく同じことが他の人々にも起こるからだ。
 昔から、人間がテクノロジーをつくるのと同じく、テクノロジーもまた人間をつくってきた。農業技術が定住に、産業革命が都市化につながり、インターネットが民族主義の世界的広がりを招いた。新しい経営モデルも、大きな技術変化への適応であることが多い。人間は使用するものに合わせて変化するのだ。
 テクノロジーと経済の進化は止められない、という言説が、リーダーの意思をいかに曇らせているか考えてみよう(愚かな話だ、ただの機械なのに)。あるいは、その進化に対する信念が、視野を狭め二極化をあおるイデオロギーをどれほど助長するか考えてみよう(ただの愚かな機械なのに)。
 このイデオロギーは、一見するとイデオロギーのように見えない。なぜなら、そこでは道具主義が実用主義を装っているからだ。問題を解決して利益を生み出すもの、生活を便利にして人々の能力を高めるものであれば、何であれ優れているとされる。人々に求められるのは、効率性と一貫性だ。疑念やジレンマは解決されなければならない。迷ったり、考えを変えたりすることは許されない。どちらか一方を選ばなければならないのだ。
 かつて、フランシス・スコット・フィッツジェラルドは次のように綴った。「一流の知性とは、2つの相反する概念を同時に持ちながらも、それらを機能させ続ける能力である。たとえば、絶望的であることを理解し、なおかつそれをやり抜く決意を持てるということだ」
 この人間的な基準に照らし合わせると、機械的な、あるいは機械でつくられた知性は、それほど知的ではない。ビッグデータは狭量な思考を生じさせる。人は道具主義を受け入れた途端、機械を使うのではなく、自分が機械と化してしまうのだ。
 昨今では、ハイテク業界のリーダーの多くは、自分の魔法でつくり出したものを制御できない、見習い魔法使いのように見える。プライドと不安が入り交じっている。その好例が、新しい言葉を編み出して会話を交わすようになったチャットボットを停止したフェイスブックのAI(人工知能)研究者たちだ。彼らは、何も非道なことはなかったと説明した。機械が有益なことを何もしなかっただけだ、と。
 私は機械に同情した。この話を聞いて、自分の好きな場所の運命を心配するようになった。イタリアの広場、フランスのレストラン、学会、小説、食卓――。人々がこうした場所で交わす会話は、はたから見ればたいして有益とは見えないこともある。
人間主義は、捕らわれの身となれば死ぬ
 機械をつくりながら自分が機械と化してしまう、道具主義に従って生きているのは、テクノロジー業界の魔法使いや企業経営者だけではない。「人間チーム」のジャージを着ている知識人の多くも、よく見ると「機械チーム」の一員となっている。
 広く読まれている経営学の文献をめくれば、ほとんどの論文は、問題を指摘して現実的な解決方法を提示する、という月並みの形式に従っていることがわかる。我々はうまく機能するものや自分の能力を高めてくれるものを称賛し、より効率的になるための助言やテクニックに熱心に耳を傾け、うまく生きていくためのショートカットやハックが大好きなのだ。
 我々が立ち止まり、こうした処方箋の副作用について考えることはめったにない。「ベストプラクティス」が人を堕落させるとしたら、どうだろうか。不便さや不快を覚えたり、退屈したり気が散ったりすることは、よき人生には付きものであり欠陥ではないとしたら、どうだろうか。社会の分断や働きがいの欠如が、失敗の症状ではなく成功の副作用とは考えられないだろうか。つまり、問題解決と利益獲得への執着がもたらした、意図せぬ結果だとしたら?
 人文科学はこうした問題に対処する一助となるが、それを詩的な「生産性ハック」に矮小化してしまうと役に立たない。哲学が、よりよい戦略を立てるための手段と見なされ、小説を読むことが、自分の魅力度を高めるための手段と見なされ、社会的意義と理念には商業的価値があると見なされるたびに、人間性は捕らわれの身となり、少しずつ死んでいく。
 逆説的な言い方だが、「実用的な人間主義」はほとんど役に立たない。人間主義の面倒な部分を受け入れずにヒントだけを求めると、その価値は損なわれてしまう。人間主義は、批判や隠喩を与えてくれる。道具主義的な処方箋や手法やショートカットに対抗してバランスを取るための、曲がりくねった道を示してくれる。これらを受け入れない限り、人間主義の威力はかすんでしまうのだ。
 人文科学が最も効果を発揮するのは、自由に解き放たれ、思う存分能力を発揮できる空間を与えられたときである。そうなれば人文科学は我々に、他者の存在や死について思い起こさせ、何が公平で意義深いのかを問い掛ける。そして、何かがうまく機能するからといって、その存在を必ず肯定すべきではないのだと主張する。
不都合な結婚
 要するに、人間主義と道具主義は、互いが互いの問題となっているため、互いの問題を解決できないのだ。両者の最善の関係は、不都合な結婚である。ビジネスに貢献し、我々をよりよい人間にするには、人間主義と道具主義は互角の敵対者のままでなければならない。
 我々が機械への恐怖を感じるとき、本当に恐れているのは何だろうか。人間主義と道具主義の競争が、互角ではなくなるかもしれないことだ。疑問を持たなくなることや、人間には生産性や効率性や合理性の他にも大事なものがあるという感覚を失うことだ。そして、人間を人間たらしめている矛盾を失うことだ。
 すなわち、生きていくためには将来をコントロールしようと努めなければならない一方で、生きていると感じるためには、自由に将来を想像しなければならない。何かを実際につくるのと同時に、何かをでっち上げる必要がある。
 たとえば、ソーシャルメディアでのプロフィールと文芸雑誌における人物描写の違いを考えてみよう。後者をより人間らしく、より真実らしく見せているのは、ディテールではなく矛盾だ。
 再びザッカーバーグの例を見てみよう。彼をローマ皇帝――彼自身がその偉業を研究し敬服するアウグストゥスのような人物――として見るなら、彼は恐ろしい存在だ。しかし、彼をハムレットとして見るなら、魅力的である。武器を手にしながらも行動を躊躇する、葛藤を抱えたこの王子は、少しずつ理解していく。その武器の使い方次第で、彼がどういう人間なのかが決まるのだ、と。文学を通して見れば、彼はいっそう複雑で有望な人物になる。より人間的になるからだ。
 それこそが人文科学の役割である。自分の嫌な部分を思い出させる相手に戦いを挑もうという気にさせるのではなく、自分の中に複雑さや矛盾、変化をもたらすうえで役立つのだ。ビジネスが、そしてビジネスリーダーやビジネス論文がより人間らしくあるためには、インスピレーションや力を与えるだけではなく、問題を抱えて自制することも伴うのだ。
人文科学の課題
 では、ビジネスをよりよいものにするための人文科学の課題とは何だろうか。いつの時代にもそうであったように、人々に無力感を与える力に対抗することだ。
 それはメイヨーの時代には、労働者の疎外感に対処すること、そしていわゆる「鉄の檻」の中での自主性を促進することを意味した。今日では、自動化に対抗すること、そしてかつてなく流動的で自動化の進む職場で、人間の責任と絆を取り戻すことが求められる。
 それらを実現し、同時にスクラブルのゲームでも高得点を取れるかもしれない3つの方法を提案したい。道具主義への盲信が引き起こしている、意識の崩壊、コミュニティの崩壊、コスモポリタニズムの崩壊に対抗するのだ。
 意識とは、いま現在の意識を冷静に保とうと集中することにとどまらない。それは、自分の仕事がより広い範囲で長期にわたって及ぼす影響を考慮することだ。コミュニティとは、単に自分たちのパフォーマンスを強化するための「部族」ではない。それは、皆の幸福と学習のために尽力する集団だ。コスモポリタニズムとは、エリート意識ではない。それは、自分の領域や文化や信念の外にあるものに対し、好奇心を持つ姿勢だ。
 人文科学に利便性を求めるのをやめれば、真に有意義なものになる。そうすることで、人間チームは初めて、機械チームに追い付けるだろう。しかし最終的には、どちらか一方が極端に前進しすぎてはならない。両者の相克こそ、人間を人間らしくし、社会を発展させるものであり、失われてはならないものである。
 素早く動いて物事を破壊することが役立つときもあるが、ゆっくり動いて人々を癒やすことが賢明なときもあるのだ。

HBR.ORG原文:Business Does Not Need the Humanities — But Humans Do, November 02, 2018.
■こちらの記事もおすすめします
経営戦略は実学であり、科学である
経営は論理だけでは語れない

ジャンピエロ・ペトリグリエリ(Gianpiero Petriglieri)
INSEADの組織行動学准教授。医学博士号を持ち、精神医学の専門家。リーダーシップ開発の研究と実践を行う。同校の「マネジメント・アクセレレーション・プログラム」と、グローバル企業のリーダーシップ・ワークショップの指揮を執る。ツイッターは@gpetriglieri、フェイスブックはこちら。

http://www.dhbr.net/articles/-/5635
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 2018年12月06日 19:55:43 : ZzavsvoOaU : Pa801KbHuOM[181] 報告
2018年12月6日 福原麻希 :医療ジャーナリスト
先生の「過労死」、文科省が検討する新制度で防ぐことができるのか
学校教員の長時間労働は是正できるか?(写真はイメージです) Photo:PIXTA
2016年、第3次安倍内閣発足時から始まった「働き方改革」は、民間企業から学校教員や医師の現場の議論に移行してきた。長時間労働を強いられている学校教員の過労死が相次ぐ中、文部科学省の検討会で改革の方向性と内容を決める議論が最終段階を迎えている。(医療ジャーナリスト 福原麻希)
平時でも東日本大震災の教員と同じ
激しい疲労、過剰な緊張状態、睡眠不足
 小学校・中学校の教育現場における最大の課題は「長時間労働の常態化」で、いかに縮減できるかが焦点となっている。
 厚生労働省の「過労死等防止対策」では、国の目標として「月の労働時間が60時間を超える労働者はなくすよう(法定労働時間は1日8時間、週40時間)」定められている。だが、学校教員の場合、「週当たりの労働時間が60時間を超えている」と小学校教員の約3割、中学校教員の6割弱が回答した(図参照)。副校長・教頭はさらに長時間労働で、小中学校の約6割が週当たり60時間を超えていた(*1)。
◎1週間当たりの学内総勤務時間数の分布
文科省「教員勤務実態調査」(平成28年度、2017年)
拡大画像表示
 週当たりの労働時間が60時間を超えているということは、月当たりの時間外労働が週当たり20時間×4週=80時間となる。これは、脳卒中、および心筋梗塞等による過労死発症が高まる「過労死ライン」を超えている。これらの勤務時間は勤務校によって大きく異なるともいう(*1)。
 日本疲労学会の発表では、「大阪府の公立学校教員は平時でも、東日本大震災時の宮城県の教員の健康評価(自覚的な心身の激しい疲労、過剰な緊張状態、睡眠リズムの異常)とほぼ同じ」という数値が出たこともある(*2)。
 その背景は日本の教員は世界の国々と比較して、勤務時間内の業務がとても多いからだ。
*1 文科省「教員勤務実態調査」(平成28年度、2017年)
*2 大川尚子他「学校職員に対する客観的疲労度評価」日本疲労学会誌(2014年)
 学校では「学習指導」「生徒指導・進路指導」「学級経営・学校運営業務」の他にも、範囲が曖昧なまま、教員が担ってきた業務があった。
 そこで、文部科学省・中央教育審議会(中教審)では「学校における働き方改革特別部会」を設置し、業務を仕分けしたところ、必ずしも教員が担う必要のない業務が8種類、教員の業務ではあるが負担軽減が可能な業務が6種類あることがわかった(*3、図参照)。
出所:文科省「学校における働き方改革まとめ(中間報告)」 拡大画像表示
 さらに、学校現場ではごく最近までタイムカード等による勤務管理がなされていなかったため、残業を抑制してこなかった。
 その理由は、1971年、教員の仕事は複雑で管理が難しいという理由から「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法(給特法)」によって、教員の給与には「教職調整額」としてあらかじめ給料に週2時間弱の残業代(給料月額4%)が上乗せされてきたからだ。それ以上の時間外労働は「自発的行為」とみなされる。
 このことが、実際には時間外労働による脳・心臓疾患で過労死しても、公務災害と認められず、補償を受けることを難しくしている。これは長年の課題だった。
 文科省は時間外勤務手当を導入すると、「国と地方で少なくても9000億円」と試算している。つまり、教員は9000億円のサービス残業をしていることになる。
 そこで、中教審の働き方改革特別部会では「長時間労働」と「サービス残業」を適正化するための話し合いがなされており、12月6日、答申の最終報告案が提示される。
*3 文科省「学校における働き方改革まとめ(中間報告)」
10年後に再議論する
「1年単位の変形労働時間制」
 その答申最終報告に盛り込むべきこととして、いくつかの提案が上がっているが、特に「1年単位の変形労働時間制」導入の是非をめぐって、激しい論争が繰り広げられている。
 1年単位の変形労働時間制とは、労働時間の規制を労働基準法上の1日、および、1週単位ではなく、「1ヵ月、あるいは、1年単位等で平均労働時間を考える」ことで、今回は1年単位が提案されている。
 具体的には、繁忙期は1日8時間より長く働き、閑散期(夏季休業期)の8月は1日8時間より短くなる。これで、1年間の週の法定労働時間(週40時間)を達成させる。
 この提案は、かつて2007年にも中央教育審議会答申「今後の教員給与のあり方について」で「教員の勤務時間の弾力化」として話し合われたことがある。
明星大学教育学部の樋口修資教授
 当時10年前、教員の勤務実態調査で8月の夏季休業期の1日当たりの平均時間外労働は小学校教員で14分、中学校教員で26分だった。このため、「一年単位の変形労働制」が議論の俎上(そじょう)に載せられたが、結論として「長期休業期中(8月)においても、研修、教材・授業研究、補習、部活動等の多様な業務があること等を踏まえ、慎重な検討が必要」と意見が出て、棄却されている。
 つまり、この提案は改正労働基準法に則っているという理由で蒸し返されたわけだ。教育関係者は口をそろえて「長時間労働が常態化している中、学校現場への導入は不可能。現場を見ていない」と強く批判する。
 また、社会的に生徒が夏休み等の休暇時、教員は休めると思われがちだが、実際には10年経ったいまも、8月は行政研修や教員の免許更新のための講習受講、教材・授業研究に忙殺されているという。
 明星大学教育学部の樋口修資(のぶもと)教授はこう言う。
「すでに1日の時間外労働が3〜4時間、つまり、月の労働時間が80時間を超えているのですから、8月まで体がもたないでしょう。いくら時間外の上限を規制しても、業務が減らなければ、このまま長時間労働が恒常化し固定化するだけです」
 加えて変形労働時間制の導入時は要件が6項目(1.労使協定の締結 2.労働日および労働日ごとの労働時間に関する限度 3.労働日および労働日ごとの労働時間の特例 4.労働基準監督署への届け出 5.割増賃金の支払い 6.育児等を行う者に対する配慮)ある。
 だが、民間企業の労働者とは異なり、地方公務員には法律で労使協定の締結権等が付与されておらず、条例による導入とされている。このため、教員側の意向を聞くことになっておらず、「あらかじめ」業務繁忙期の勤務時間を特定されてしまうと懸念されている。
「調整休暇制度」で時間外勤務を
賃金支給と代替休暇で振り替え
 一方、変形労働時間制の代替案として、「教職員の働き方改革推進プロジェクト(代表・明星大学樋口修資教授)」からは、給特法を抜本的に改正するだけでなく、「調整休暇制度」を導入することが提案されている。
 調整休暇制度とはヨーロッパで広く導入されている「労働時間貯蓄制度」を日本版にアレンジした提案で、特に、教職員の働き方改革推進プロジェクトでは「時間外勤務の割増賃金支給」と「超過時間を代替休暇に振り替える」の二本立ての構成を提案する。
 その構成は、まず時間外労働できる業務範囲・内容を明確化する。教員の場合は、現在、「超勤4項目(時間外勤務として認められている業務)」として、(1)校外学習等、生徒の実習に関する業務、(2)修学旅行等、生徒の行事に関する業務、(3)職員会議に関する業務、(4)非常災害等、その他やむを得ないことに関する業務が決まっているが、すでに、これらのほかにも時間外業務が発生しているため見直しを迫られている。
 さらに、時間外労働の上限設定(45時間)をしたうえで、一定の時間外勤務分は賃金として支給し、その対象を超えた場合は代替休暇で振り替えるという。「時間外勤務の割増賃金支給」とは、すべての時間外労働分(前述の「少なくても9000億円」)は確保できないが、「月の時間外労働として平均20時間(給与の10%)と試算する。
 一方、使用者側(任命権者=県教育委員会、服務監督権者=市町村教育委員会、学校で職職員を監督=校長)に時間外勤務抑制のインセンティブを持たせて、労働時間全体の縮減を図ることを意図している」と前出の樋口教授は説明する。また、代替休暇は使用者側の責任で付与しなければならないとしている。
 そもそも、私たち人間の生活は1日単位のリズムで成り立ち、そのなかで睡眠時間や生活時間を確保していく。まず、毎日の時間外労働が長くならないことがとても重要なポイントとなるため、とても理にかなっていると言える。
 教員に対する調査結果では、「仕事に働きがいを感じている」は9割にのぼるが、最近の身体状態について「ひどく疲れたことがあった」に9割強、「イライラしていることがあった」に約8割が回答している(*4)。睡眠時間が少なく、疲労やストレスが取り切れていないのだろう。
12月4日の給特法抜本的改革を訴えるグループによる 記者会見
 それにもかかわらず、次期学習指導要領の改訂は“明治維新以来の教育改革”とも言われ、小中学校、および、高等学校では授業における「ICTの活用」「英語教育が必修に」「プログラミング教育の導入」「アクティブラーニング導入」などが始まる。
 これまで以上に、教材研究や授業研究に時間を割くことになり、教員の長時間労働はより一層深刻化するだろう。
 このため、「学校の働き方を考える教育学者の会(呼びかけ人・国立大学財務・経営センター市川昭午名誉教授他)」では、前述した「給特法の抜本的な見直し」「労働基準法の適用」「年単位の変形労働時間制の導入見送り」を強調する。
インターネット署名サイトchange.orgにて署名活動中、12月4日、厚生労働大臣および文部科学大臣に署名用紙を手渡した
教員定数の適正化(増員)の声も非常に多い。だが、子どもが減っているため、財務省は教員を増やすことは必要ないとする。
 そうであれば、病院のチーム医療のように支援スタッフを配置することもできるだろう。
 小学校の教務主任は「理科実験等の支援員」「スクールソーシャルワーカー」「学習支援員」「外国人児童生徒への日本語指導員」「外国語指導助手」「学校司書」「スクールカウンセラー」「ICT支援員」のスタッフに、負担軽減を感じていた(*5、図表参照)。
◎支援スタッフによる教員の負担軽減を認知している割合
出所:「多忙化縮減をめざす学校と支援スタッフの連携協力の在り方に関する調査研究」(教員の勤務環境と支援スタッフに関する実態調査研究会、2017年)
 記者会見では毎回、教員の過労死遺族からも訴えが出ている。もう、これ以上、教員の過労死を出してはいけない。
*4 日本労働組合連合会 「教員の勤務時間に関するアンケート」(2018年)
*5「多忙化縮減をめざす学校と支援スタッフの連携協力の在り方に関する調査研究」(教員の勤務環境と支援スタッフに関する実態調査研究会、2017年)
*参考文献:『学校をブラックから解放する』(教職員の働き方改革推進プロジェクト編、2018年、学事出版)
https://diamond.jp/articles/-/187524


 
即座に考え直すべき珍名「高輪ゲートウェイ駅」
山手線新駅名から透けて見える「ポスト・トゥルース」
2018.12.6(木) 伊東 乾
四十七士、忠義の行進「赤穂義士行列」 東京
東京都中央区を歩く「赤穂義士行列」の参列者たち(2016年12月14日撮影)。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi〔AFPBB News〕

 

 今回は、10年ほど前に「日経ビジネスオンライン」に経済コラムを連載し始めて以来、初めて「東京大学大学院情報学環」の教員である伊東個人として、合理的な背景を明示した意見を記したいと思います。

 このコラムでは一貫して一私人として様々な問題を考えて来ましたが、今回は大学に所属する人間として、一定の背景を持って、問題点を指摘すべきだと思ったものです。

 12月4日、東京都内に新設される予定の、山手線に30番目の新駅名称案が発表されました。

 即座に再検討すべきと思います。発表された案はあまりにも問題が多すぎ、考慮の対象にならないと考えます。

 「高輪ゲートウェイ」

 すでにネットでも様々な反対意見を目にしました。賛成というものは、私が見た限りまだ1つも確認できていません。

 以下に私が記す主要な理由は、不合理である以上に、「無用のコストや手間の発生が見込まれるから」というもので、本稿はその根拠を一つひとつ明示していきたいと思います。

 ちなみに、かつて国鉄から分割民営化直後のJRに「E電」という、不可思議な呼称があったのを、ご存知でしょうか。さっさと消えました。「高輪ゲートウェイ」も同様に思います。

 一度発表してしまったら後に引けないなどと無駄な意地を張らず、普段私は大学の肩書を一切併用しませんが、今回は、一定の背景を持つ東京大学スタッフの一私人として客観的に記しますので、虚心坦懐に見当してもらいたいと思います。

 時宜を逸さず差し替えるのが、JRのためでもあるし、何より私自身を含む利用客のためでしょう。

公共交通機関に恣意的な名称?
 すでに報じられている通り、山手線新駅については「公募で名称を決定」するとして6万4000通以上の応募があり、1万3000種以上の新駅案が寄せられたといいます。

報道されるトップテンは

1位:高輪(8398件)
2位:芝浦(4265件)
3位:芝浜(3497件)

同数4位:新品川と泉岳寺(各2422件)
6位:新高輪(1275件)7位:港南(1224件)

8位:高輪泉岳寺(1009件)
9位:JR泉岳寺(749件)
10位:品田(635件)

 いずれも命名の理由が第三者にも明確です。「品田」というのは「品川」と「田町」の間ということでしょう。

 私の最寄り駅「国立(くにたち)」は「国分寺」と「立川」の間に作られたので「国立」と名づけられたもので、1926年の開業から92年を経ていますが、地元にしっかり愛されています。

 戦後の1951年からは自治体の名前(国立町→国立市)にもなり、私自身の母校も「国立」の2文字が入っています。必然性のあるネーミングであれば、地元にも愛され、長く定着することでしょう。

 そこで、「たかなわげーとうぇい」に、こうした定着が期待できるか?

 まずもって無理と思う第1の理由に「ゲートウェイ」という日本語が一般には定着していないことを挙げるべきでしょう。

 大学院情報学環というものを設立して着任した大学人として申しますが、私たちITに関わる人間にとって「ゲートウェイ」とはコンピュータ―のネットワークを、プロトコルの異なるネットワークと接続するノードを意味します。

 日本語のカタカナ英語として定着している例を調べてみると、グーグルなどの検索エンジンで見る限り、上記の意味以外をほぼ見出すことができません。

 例外としては、ホテルの名称など固有名詞がある程度。日本語のカタカナとして「ゲートウェイ」という一般呼称が定着しているとは、まず言えないと判断して構わないでしょう。

 一方、横文字で「gateway」を引くと

1 可算名詞 (塀・生け垣の木戸のついた)出入り口.
2 [the gateway] 〔…へ通じる〕入り口,道 〔to〕.
3 The gateway to success(成功への道).

(weblio英和辞典) 

 などと出てきます。これらから安全に結論できることは「高輪」という地名と「ゲートウェイ」というカタカナを組み合わせる確率が極めて低いという判断です。ネットの情報資源から推定演算などすることも可能です。

 ネット上には

 「1位:高輪(8398件)だダメで130位:高輪ゲートウェイ(36票)が通るのなら、何のために公募しているのか解らない」

 という意見がありました。私が不勉強なだけかもしれませんが、「高輪」と「ゲートウェイ」という、全く隔絶した2概念を合体させた名称が、たかだか6万の母集団の中で36通もあったというのは驚きです。

 全く作為がないとすれば天文学的に珍しい偶然ということになりそうです。というより、一般には不可能な現象と言った方が早いと思います。

 「高輪」と「ゲートウェイ」が出会う確率は「中央」と「フリーウェイ」が出会うよりも低く、荒井由美の作詞能力よりも稀な現象と言うべきで、こんな少数母集団で偶然に36通もあるわけがないと思うのは、私だけでしょうか?

 「中央」は「高速」ですから、まだフリーウェイと出会う可能性があるでしょう。高輪にはそんなものはないと思うのですが。

 しばらく前に「ゆるきゃら投票」で組織票が問題になりましたが、「高輪」と「ゲートウェイ」の出会う確率は一般にはゼロに近く、複数で合議し、同じ名称を投票した可能性が第1に考えられます。

 「大学入学試験で、隣接する座席の答案がそっくりである」と比較可能な程度に、稀な現象であるのは間違いありません。

 JR東日本は、選出された案で「応募頂いた方全員に賞品(クリスタル・ペーパーウエイト)を差し上げます。さらに、応募頂いたすべての方からも抽選で100名の方に差し上げます」http://www.jreast.co.jp/press/2018/20181201.pdfと発表しています。

 もしこれが本当だとすれば、最初から商品は150程度しか準備していなかったことになり、この募集の公正性が著しく疑われる可能性があるかもしれません。

 私企業のキャンペーンなのだから、でき試合でもいいじゃないか というご意見もあろうかと思います。

 しかし、元来は国鉄という公の資産であった鉄道メディアであること、珍奇な言葉の組み合わせですので、仮に意匠登録など法的な問題が後々発生すると、非常にやっかいであること、さらには、以下に触れるような客観的、合理的な背景から、この名称は直ちに廃絶するのが正解と思います。

 先ほども触れたように 昔、「中央フリーウエイ」という歌がありました。中央高速があるから「中央」「フリーウェイ」はまだ結びつきます。

 荒井由美の詩想よりも稀な言語の跳躍「高輪」+「ゲートウェイ」ができる人が6万人に36人もいるのなら、日本全国に7万2000人以上、松任谷由美に勝るソングライターがいて不思議でないことになるでしょう。

 それくらい、この特殊なネーミングが 「36通」もあったというのは、ランダムな公平性から偏った現象であると思われます。

 こんな、1970年代の「ニューミュージック」みたいな特定の趣味も垣間見えるネーミングに、そのあたりにかぶる年代層、少数の恣意があるのでは、といったことも勘ぐったりできますが、主観的な勘ぐり以上に、客観的な問題がこのミス・ネーミングにはほかにも山のように指摘できます。

 そのうちの2点だけ、以下に記してみましょう。

「情報量」から判断する不適切
 東京大学大学院情報学環の伊東として、第2に指摘したいと思う、この名称の不適切さは「情報量」にあります。

 現在、山手線では29の駅が営業してしていますが、そのうち3駅が「4文字の名前」を持ちます。具体的に示せば、

西日暮里
新大久保
高田馬場

 の3つになります。

 また8つの駅が「3文字の名前」を持っています。これもすべて記すなら

日暮里
御徒町
秋葉原
有楽町
浜松町
五反田
恵比寿
代々木

 で、それ以外の18はすべて漢字2文字の駅名です。これはさすがに全部は記しませんが

東京
新橋
品川
渋谷
新宿
池袋
上野・・・

 と、我が国を代表する電車の駅の名が並びます。これ以外にはありません。つまり、山手線すべての駅が「漢字4文字以内」で記されています。 

 これを、山手線に加えて、三鷹から千葉まで東西に伸びる「総武線」に拡大しても

阿佐ヶ谷
千駄ヶ谷
御茶ノ水
下総中山
幕張本郷
新検見川 

 と「駅の名前」は4文字以下に限られています。

 さて、日本の工業規格であるJISでは漢字1文字を16ビット=2バイト、英数半角カタカナ、記号などを7あるいは8ビット≦1バイトで表記する体系を採用しています。このため漢字を「2バイト文字」などと呼んだりするわけです。

 現在の山手線の駅名はすべて漢字4文字以内ですから、それを表記するのには

 2×4=8バイト(=64ビット)

 の情報空間があればすべてを尽くすことができます。翻って「高輪ゲートウェイ」という8文字は、仮にカタカナを半角で表現しても

 2×2(「高」「輪」+1×6(「ゲ」「―」「ト」「ウ」「エ」「イ」)=10バイト(=80ビット)の情報量を必要としていることが分かります。

 もっと単純に考えるなら、従来は4文字が最高だったところに、いきなりカタカナを含む8文字の駅名が登場したわけで、フォーマットの破壊も著しいと言わねばなりません。

 発券などにあたっての、コンピュータ―のシステムに、そんなに多大な影響があるとは考えていません。

 もっと現実的に、表示枠の文字数が決まっている箇所が、既存のJR情報資源には少なくないと思われます。

 端的に言えば、3〜4文字分しか枠のない枠に「高輪ゲートウェイ」を無理やり押し込めばどうなるか?

「高輪ゲ」
「高輪ゲー」
「高輪ゲト」
「高輪ゲウ」
・・・

 ろくなことになりません。

 「半角で押し込めばいいだろう」という人もあるでしょうが、少子高齢化でこれから老眼人口が増える一方の我が国で、いまさら新駅に蟻の行列ですか・・・?

 率直に申して、ため息しか出て来ません。

 駅名は、中央線まで拡大すれば「武蔵小金井」さらに「武蔵溝の口」など10バイト以上のものもありますから、システム上困ることは少ないだろうことを祈りますが、ユーザフレンドリーな形では全くないのは一目瞭然でしょう。

 これはさらに、ビジュアルという観点で考えると、ほぼ致命的なことになってしまうのがすぐに分かります。

即座に考え直した方がよい「高輪ゲートウェイ」
 最後に、現在の東京大学で私一人と思いますが、芸術実技の教員として、半分は畑違いですが、ビジュアルに及ぼすかなりの影響を指摘したいと思います。

 駅を1つ増やすと、あらゆる路線図を更新することになります。シールなど貼って対応しているケースも目にしますが、今回のケースではどうでしょうか?

 JR東日本の「東京近郊IR路線図」http://jasf.org/rosenzu/ をリンクしますので、確認してみてください。

 このように水戸、那須塩原、高崎、木更津から小田原、熱海あたりまでを一望のもとにおくと、駅の名前というのは、日本人の大半の苗字と同様、漢字2文字か3文字が圧倒的に多いのが分かると思います。

 5文字以上は、「本庄早稲田」とか「葛西臨海公園」とか、短縮するにできないなりの理由が明確に分かるものが、後に述べる例外を除いて大半のように思われます。

 そんな中で、山手線の「品川」と「田町」の間を見ていただきたいのです。

 この込み合ったエリアに、どうやって8文字の駅名とそのアルファベットを、この場合は半角などという老眼敵対的なことは絶対にやってほしくないわけですが、入れ込むというのか?

 もとより4本の路線が並走しているエリアです。

 さらに向かって右、すなわち東側には、東海道新幹線が走り、すぐ横に「高速鉄道りんかい線」それらと直交して浜松町から羽田に伸びる「東京モノレール」が入り組んで、この一帯は山手線沿線の中でも、最も「文字が込み合ったエリア」であることが分かります。

 さて、路線図上、少し右上に視線を向けると、画面上、宇都宮線(東北本線)尾久駅の真上に、やたらと広い面積を食っている駅名が1つ目につきます。吉川と南越谷の間に位置する

 「越谷レイクタウン」駅

 です。いま、ここでは「越谷レイクタウン」という駅名が良いとか悪いとか言うつもりはありません。

 検索してみたところ、武蔵野線の新設駅として多くの利用があり、栄えているとのことで、結構だと思います。問題は、そのレイアウトにあります。

 「越谷レイクタウン」と「高輪ゲートウェイ」文字数が同じであるのが分かると思います。

 いま、縦書きで表示されている、この「越谷レイクタウン」と同じだけの文字表示面積を、縦書きでも横書きでもいい、田町と品川の間にレイアウトしようとすると何が起きるか?

 すでに「シールを貼って一部修正」で済む限界を超えているのは明らかに分かるでしょう。

 山手線の内側に書こうとすると、品川や大崎、五反田すら通り過ぎて目黒あたりから書き始めないと文字が入りません。無理です。

 それでは、と山手線の外に書こうとすると、先ほどの「高速鉄道りんかい線」「東京モノレール」などが犇めき、こちらもこちらで「天王洲アイル」「大井競馬所前」「流通センター」と、長い駅名がずらずらと続いている。

 つまり、このままじゃレイアウトできない、ということですね。

 抜本的、それも相当本腰を入れてのレイアウトの変更をしないと、こんな8文字名前の駅など、山手線の中に書き込むことはできない。

 皆さんも、頭の中で実際にレイアウトを思い描いて、脳内シミュレーションしてみてください。

 例えば、常磐線我孫子駅の先、土浦の手前に「ひたち野うしく」駅があります。万博中央駅から転じた駅で今回のものよりは少ない「7文字」ですが、周囲のスペースを含めてやたらと存在感があります。

 これと同じというか一文字多いわけですが、これだけのスペースを日本語とアルファベットで品川や流通センターがひしめくこのエリアに読みやすくレイアウトするなら、相当手がかかるのは、一目瞭然でしょう。

 「そんなの、新たにデザインすりゃいいだけのことじゃないか・・・」

 言うんですよ、そういうことを、なーんも考えないでアイデア出してるつもりの広告代理店とか、プロデューサーとか、現場を知らない人間が。

 私も『題名のない音楽会』というテレビ番組の監督時代、この種の現場知らずのために、どれくらい無駄な時間と労力をかけさせられたか、知れたものではありません。

 変えればいいと言っても、変えられないものもあります。例えば車内路線図の面積などは変えようがないでしょう。

 比較的行儀よく、細密充填に近い形でいまレイアウトされている品川、田町近在に、余計な8文字を入れるとすると、下手をすると山手線の半径から拡大するようなデザイン変更となるかもしれません。

 そうなると、文字通り「しわよせ」を食うのは周辺部でしょう。

 今だって、甲府から先の中央本線とか、水戸より先の水郡線とか、かなり文字が詰まっていますが、さらに工夫して詰めるしかないのかもしれない。

 また、明らかに影響を受けるのは、東京モノレールなど至近部分で、下手なレイアウト変更は、およそ不自然なものになりかねない。

 よしや、それらの課題を全部クリアしたとしても、以下は断言して構わないと思いますが、要するに、見難くなります。

 そんなのは、こんなに紙幅を使わなくても当たり前のことで、従来は大半が漢字2〜3文字、カタカナなど皆無の路線に、いきなり不自然なものを押し込むのですから、場所を食って周囲が歪むことは間違いありません。

 そうやって、スペースを食うことで、下手なテレビ芸人のアピール法みたいに、目立たせようという考えがあるのかもしれません。

 しかし、作為を弄してメディア上だけにプレゼンスを作るとすれば、典型的な「ポスト・トゥルース」の手法と言うべきで、あらゆる意味で感心できません。

 要するに「ウソ」の一種と言って外れないでしょう。

 そして、それらすべてが「コスト」を発生させます。必要のない出費があらゆる方面に求められ、最終的にそれらは旅客の運賃に跳ね返ってくるしかない。

 とんでもないネーミングだとしか、言いようがありません。さっさとこんな案はやめてほしいと思います。

 ちなみに身の回りで学生などにも意見を訊いてみたところ「タカゲーとか言わないんじゃないですか?」「クソゲーみたい(笑)」「呼ぶとしたら普通に高輪ですよね」といった意見ばかりを耳にしました。

 そりゃそうでしょう。ティーンも呆れていましたから、我々の世代ばかりが疑問を呈しているわけではないと言っていいかと思います。

 最後に個人の意見を付すならば、島国で国際化しているつもりかもしれませんが、諸外国の重要な駅名で、この種の外来語借用例を私は思いつくことができません。滑稽な仕儀と映ります。

 漢字2〜3文字、せいぜい4文字の、ごくごく当たり前、平凡で定着する真っ当な名前に、早急に改めるべきだと思います。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54878


 

ひきこもりで変わり者、分身型ロボットで起業オリィ研究所の吉藤氏「世間より自分の顔色を窺おう」
日経ビジネスRaise「オープン編集会議」


2018年12月6日(木)
飯泉 梓

「分身型ロボット」というユニークなロボットを開発し、注目を浴びるオリィ研究所の吉藤健太朗代表。だが、もともとは人とのコミュニケーションが苦手で、3年半のひきこもり生活をするなど「変わり者」として見られていた。だが、その変わり者であったことが、ゼロからイチを生み出す原動力になったという。吉藤氏に起業の経緯とゼロイチ人材に必要なことを聞いた。


吉藤健太朗(よしふじ・けんたろう)氏
オリィ研究所代表。1987年、奈良県生まれ。小学校5年から中学校2年まで不登校を経験、工業高校にて電動車いすの新機構の開発を行い、国内の科学技術フェアJSECにて文部科学大臣賞、ならびに世界最大の科学大会Intel ISEFにてGrand Award 3rdを受賞。その際に寄せられた多くの相談と自身の療養体験がきっかけとなり「人間の孤独を解消する」ことを人生のミッションとする。早稲田大学にて2009年から孤独解消を目的とした分身ロボットの研究開発に専念。2012年、オリィ研究所を設立。青年版国民栄誉賞「人間力大賞」を受賞するなど注目を集めている。(写真:菊池くらげ、以下同)
持ち主の動きや言葉を再現する分身型ロボット「OriHime(オリヒメ)」が話題を呼んでいます。どんなロボットなのでしょうか。

吉藤健太朗氏:オリヒメにはカメラ・マイク・スピーカーが搭載されており、スマートフォンやパソコンなどを介して操作することで会話をしたり、その場の様子を観察したりすることができます。つまり操作する人は家にいながらにしてあたかもその場にいるようにコミュニケーションができる。一方、オリヒメが置かれた場所にいる人も操作している人の存在を感じることができます。

 今、オリヒメは難病などで寝たきりになっている人や育児や介護で職場に行けない人、全身の筋肉が衰えていく難病ALS(筋萎縮性側策硬化症)の患者さんにも使われるようになっています。ALSの患者さんは目だけでオリヒメを動かし、それまでは難しかった多様なコミュニケーションが可能になりました。オリヒメを使うことで、「行きたいのに行けない」「会いたいのに会えない」状態がなくなり、孤独の解消につながると思っています。

学校に行かなかったから“我慢弱い“
面白いですね。吉藤さんがこれまでなかったものを生み出せた、つまり「ゼロからイチ」を成し遂げられたのはなぜだと思いますか。

吉藤氏:自分はゼロから0.1を生み出して、後はみんなに助けてもらったという感じですが。基本的に自分が「やりたい」と思うことしか、やりたくないんです。このロボットも、「人々の孤独を解消したい」ということを目的に、それを突き詰めた結果できあがりました。

 実は私はとっても“我慢弱い”んです。だから、我慢してやりたくないことをすることがとても苦手で。これは学校にまともに行っていないことが関係していると思います。学校に行くと、集団生活の中で価値観が統一され、いつの間にか我慢することを覚えてしまう。

学校にはあまり行かなかったのですか?

吉藤氏:もともと人とコミュニケーションを取るのが苦手で、小学校5年から3年半もの間、不登校になりました。中学は1年間だけ、工業高校、高等専門学校、早稲田大学には一応通っていましたが、授業にはあまりでず、自分の好きなことだけをやっていました。だから、協調性がないし、空気も読めません。学校で誰もが教わるであろう野球やバスケットボール、サッカーなどのルールも知りません。

 そして先ほども言いましたが、とても我慢弱いです。ダメと言われたことでも、なぜダメなのかを突き詰めて、それを排除することでなんとかできるようにしようとします。

 例えば歩きながらスマートフォンを操作する「歩きスマホ」は禁止されていますよね? みんなは「やってはいけない」というルールだからやらない。だけど、私は歩きながらスマホを操作したい。では、「なぜ歩きスマホは禁止されているのか?」と考えてみる。スマホ画面に集中してしまい、前を見ないで歩くことが危ないからですよね。ではスマホを見つつも、前を向いて歩ける方法を考えればいいのではないかと。眼は2個ついているので、できるはずです。そこで専用の眼鏡を開発し、一つの眼はスマホの画面、もう一つの眼は前を見れるようにしました。この眼鏡をかければ歩きながらスマホを操作しても安全です。

そういう発想は普通の人はなかなか持たないですよね。学校に通わなかったことで既成概念やルールにとらわれなかったのですね。

吉藤氏:そう思います。学校は基本的に自分が行きたい時に行けばいいのではとさえ思っています。私からみると、みんなとても我慢強くて、既成概念やルールに縛られているなと思います。

 洋服一つとってもそうです。私は毎日、オリジナルの黒い白衣を着ています。ただ単に白衣がかっこいいから着たいと思ったからなのですが、多くの人は「白衣は医師や研究者が着るものだ」と思っていますよね。けれど私は、なぜ着てはだめなんだろうと。それに白衣だけれど、黒くしたらもっとかっこいいのではと考え、黒い白衣を自分でデザインし、着用することにしました。

ひきこもり時代の経験がロボットの発想の原点
学校に行かなかった経験が、分身型ロボットの発想の原点にもなっています。


吉藤氏:そうですね。ひきこもりをしていた時は本当に辛かったです。とにかく孤独で。他の人よりも勉強も心の成長も大きく遅れているという劣等感、疲弊した家族の顔を見るたびに襲われる焦燥感、家からも出られず、誰にも求められていないという無力感……そういう思いばかりが募りました。人と会うことで自分と比べてしまい劣等感を感じ、さらに人前に出れなくなってしまう。ひどい時はベッドに寝たきりになり、天井ばかりを見つめていました。こんな孤独な状態を他の人に味わってほしくない。そんな思いがオリヒメの開発につながっています。

ひきこもりから脱するきっかけは何だったのでしょうか。

吉藤氏:母親がある日突然「ロボットコンクールに応募したから」と言ってきたのです。もともと手先が器用で、モノを作るのが大好きでした。いつまでもひきこもっている私を見かねて母が応募したんだと思います。このコンクールに出場し、たまたま出会ったのが、私が師匠と呼ぶ工業学校の先生です。世間ではようやく二足歩行ができるロボットが話題になっているような時代に、一輪車に乗るロボットを開発していた。「これはすごい。この人に弟子入りしたい」と思ったんです。そこで残りの中学生活を必死で勉強して、なんとか希望の工業高校に入学しました。

先生を師匠と呼ぶのが面白いですね。

吉藤氏:ああ、これも学校に行かなかったことが影響しています(笑)。マンガばかり読んでいた影響からか、世の中の人には全員師匠がついていると思っていたんですよ。だから、自分の師匠はこの人だと。

工業高校に通って、ロボット作りの基礎を学んだのですか?

吉藤氏:ここではロボットに必要となるプログラミングを学びました。ただ、一番熱中したのは車いすの開発です。私は折り紙が得意だったので、師匠から「特別支援学校での学校間交流のボランティアに行って来い」と言われ、車いすを目にしたことがきっかけです。特別支援学校の生徒たちと仲良くなって車いすを押してみると、あまりの不便さに衝撃を受けました。歩道で車いすが傾いたり、車道から歩道に上がる際の4cmほどの段差が乗り越えられなかったり。特別支援学校の生徒は「そんなもんだよ」と言うけれど、持前の“我慢弱さ”から、「もっと使いやすくできないか」と。そこで高校時代の大半を車いすの開発に注ぎました。

 来る日も来る日もタイヤやいすを改良し、傾かず、段差も楽に乗り越えられる車いすを開発しました。

その車いすで日本最大の科学コンクールに出場し、優勝することになります。

吉藤氏:ありがたいことに日本の大会で優勝し、世界大会にも進出しました。ただ、この時思ったのは、この先もずっと車いす作りをしていきたいのか、ということです。新しい車いすを開発し、喜んでもえらたことは嬉しいのですが、これをずっとやり続けたかったわけではなかった。当時、体が弱く、自分が30歳まで生きることができるのか自信がありませんでした。あと10年しか命がないと仮定して、何をしたいんだろうと。やっぱり自分が心底やりたいことをしなければ、続かないと思いました。

そこでロボットにいきつくわけですね。

吉藤氏:はい。車いすを使っている人と話をすると、「足が悪いから人に会いにいけない」などと孤独を抱えている人が多かった。私自身もひきこもり時代に、とても孤独でした。そこで孤独を解消することに残りの人生をささげよう、孤独を解消するようなロボットを作りたいと考えるようになりました。

AIで孤独は癒やせない

孤独を解消するロボット。とてもユニークな発想ですが、どう開発していったのですか?

吉藤氏:ロボットの開発を本格的に始めようと、高等専門学校に編入しました。そこでAI(人口知能)を搭載したロボットを作り、人間の友達のような存在にすれば孤独は癒やせるはずだと考えていました。ただ研究を進めれば進めるほど違和感を覚えたのです。人口知能は本当に孤独を解消してくれるのかと。

 当時の私は、以前と同様に周囲とのコミュニケーションがうまくいかず、友人がいませんでした。しかし「ロボットの友達を開発するために高専にきたのであって、人間の友達は必要ない」と考えていました。黙々と誰とも話さず、研究を続けていたのです。

 ただ、ある日猛烈な違和感を覚えました。本当に人工知能で孤独は解消できるのか。工業高校時代、私も多少社会復帰できていたと思うのですが、それは周囲の人が支えてくれていたからではないか。人付き合いはストレスばかりで面倒なものだが、人を癒やせるのは人だけなのではないか。このまま友人がいない私がAIを搭載されたロボットを作り、本当に孤独は感じなくなるのかと。

 そして「AIで孤独を消すことはできない」と判断し、せっかく編入した高専を1年足らずでやめてしまいました。

その後早稲田大学に進学することになります。

吉藤氏:たまたま以前出場した科学コンクールの優勝者を対象にした入試制度があったので、それを受けることにしました。ただ、早稲田では誰も私のやりたいことを理解してくれる人はいませんでした。ゼロからイチを生み出すようなことをしているときは、最初は誰にも理解されないし、応援もされないと思うので、ある意味当然のことだとは思います。

 入りたい研究室が1つもなかったので、自分の下宿先に1人で研究室を作ることにしました。それが、会社の前身ともなるオリィ研究室です。「オリィ」というのは当時の私の呼び名です。折り紙が得意だったことから、そう呼ばれていたんです。

大学は必修科目を無視して、出たい授業のみ出席
たった1人の研究室では何をしていたんですか?

吉藤氏:ネットで情報を収集しながら、ロボットの研究を始めました。この当時から分身型ロボットの発想がありました。病気などで自分がその場に行けなくても、そこに行っているかのような感覚を味わい、孤独を感じないようにする。そのためには自分のもう一つの身体、分身を作ることが必要だと。

 大学を卒業することをあきらめて、自分が出たいと思った授業だけに出ることにしました。必修科目は無視して、ロボットに必要な美術、会社経営の知識が得られる商業など、他の学科の授業も含めて面白そうなものだけもぐりこむことにしたのです。9年間通いましたが、結局、卒業していません。

 そもそも大学の卒業資格はなぜ必要なのでしょうか。卒業するために興味のない授業に出席しなければならない。卒業資格を考えず、本当に興味がある授業を受けた方がよっぽど身に付きます。親は「大学に行け」と言いますが、それは子供を「会社から必要とされる人間」にしたいからではないでしょうか。

1人だけの研究室から、会社を設立するに至ります。

吉藤氏:やはりロボット開発は私1人の情熱だけでは続きません。お金も必要です。ロボットのプロトタイプが完成してから、学生ビジネスコンテストなどに出て、そこで得た賞金をもとに会社を設立しました。

 ただ、儲けたいという気持ちはありません。むしろ身銭を切って研究すると楽しい。やりがいを感じるし、仕事が趣味になりますよね。

吉藤さんのような「ゼロイチ人材」になるにはどんなことが必要なのでしょうか。

吉藤氏:とにかく自分が本当に何をしたいのかを見つけることです。世間の評価なんてころころ変わります。ほんの10年前は「変人」「変わっている」は悪口でした。でも今や「変わっている」は一種の褒め言葉ですよね。

 世間の顔色を窺うのでなく、自分の顔色を窺ったほうがいい。何がやりたいのかわからないのであれば、いろいろと挑戦してみる。痛手を負わない程度にやってみて、違ったらまた次のことを探してみる。

 私はもともと体が弱かったので、常に「人生は有限」ということを意識して、やりたいことを探しました。だから、仮に100億円積まれても、「やりたくないこと」は絶対にしたくありません。「あと10年しか生きられなかったら何をするか」と考えてみれば、自分の本当の気持ちが分かるかもしれません。その気持ちに素直に行動すればいいと思います。

日経ビジネスRaiseのオープン編集会議では「ゼロイチ人材の育て方」をテーマにした企画を実施しています。イノベーションを活性化しようと、モノやサービスを創造する“ゼロイチ人材”を求める声は日増しに高まっていますが、同調圧力の強い日本社会ではそうした人材が育ちにくいといった批判も尽きません。そもそもゼロイチ人材ってどんな人? ゼロイチ人材の目を摘んでいるのは誰? こんなことをみんなで議論しています。

↓ ご意見の投稿はこちら ↓

ゼロイチ人材ってどうしたら育成できるんでしょう?


このコラムについて
日経ビジネスRaise「オープン編集会議」
読者が自分の意見を自由に書き込めるオピニオン・プラットフォーム「日経ビジネスRaise(レイズ)」を活用し、日経ビジネスが取材を含む編集プロセスにユーザーの意見を取り入れながら記事を作っていくプロジェクト。一部の取材に同行する「オープン編集会議メンバー」も公募。Raiseユーザー、オープン編集会議メンバー、編集部が一緒に日経ビジネス本誌の特集などを作っていく。
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/070600229/120500028/

2. 2018年12月07日 06:47:41 : eUTpkAQIBY : _ykxv7Bctt8[1230] 報告
「空気」といいつつ、息苦しいという
つまり酸欠になるというのなら、
それは汚染大気、有毒ガスと言い換えた方が
いいのかも知れない

尤も英語圏にも、atmosphereなど、
日本語と同様の文脈でしばしば使われる比喩表現はある

ただ、やはり日本のそれは、極端に密度の濃い密閉空間の「汚染大気」を
連想させるという意味で、突出した空気社会だとは思う

▲上へ      ★阿修羅♪ > 経世済民129掲示板 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 経世済民129掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
経世済民129掲示板  
次へ