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(回答先: 幹部逮捕のファーウェイ「中国封じ込め」の矢面に 米中対立、貿易以外でも幅広く悪化 中国で跋扈する「赤ちゃんのような大人」 投稿者 うまき 日時 2018 年 12 月 06 日 19:48:17)
熱海がV字回復できた「本当の理由」
齊藤栄熱海市長インタビュー
2018/12/06
WEDGE Infinity 編集部
「熱海がV字回復している」――。数年前からメディアなどでそう言われることが増えている。昔ながらの温泉街、かつての新婚旅行や社員旅行での定番の行き先、でもその後は廃れていった……。多くの人はそんなイメージを抱いているのではないだろうか。しかし、平日の日中に降り立った熱海駅は、たくさんの人で賑わっていた。高齢者だけでなく、若者のカップルやグループ、家族連れも目立ち、まさに老若男女が集まる観光地。なぜ熱海に再び人が集まるようになったのか。2006年に市長に就任し、現在4期目に突入した齊藤栄氏に話を聞いた。
熱海市の中心市街地の全景
熱海の『宝』の良さに改めて気づき、その価値を高めた
「熱海の宿泊客のピークは昭和44年、532万人でした。そこからはほぼ一貫して減少の一途をたどります」(齊藤市長)。
バブル景気で一時持ち直したものの、東日本大震災のあった2011年には247万人まで落ち込んだ。しかしそこからは4年連続で増加し、2015年には307万人と13年ぶりに300万人を突破、以降もその数値をキープしている。一体どんな施策を打ったのだろうか。
「一番大きかったのは、熱海梅園とあたみ桜という、熱海の『宝』の良さに改めて気づき、その価値を高めたことです」(齊藤市長)。
熱海の梅はなんと11月には咲き始める。桜も河津桜よりも早くクリスマスの頃には咲くそうだ。ただ、他にはない貴重な観光資源だったにもかかわらず、梅園は明治19年の開設から大規模な改修もされず、老木化が進んでいた。あたみ桜も、駅から徒歩圏内の糸川遊歩道沿いに色々な種類の花木が脈絡なく植わっており、印象に欠けるものだった。それらを熱海に縁のある大塚商会の名誉会長である大塚実氏の支援によって大規模改修が実現した。齊藤市長は、これが最初のきっかけだと考えている。
梅まつり期間中の熱海梅園。園内には59種472本の梅が植えられている。
「2011年から『シティプロモーション』施策を開始しました。2012年からは『ADさんいらっしゃい!』といって、AD(アシスタント・ディレクター)や制作部を全面的に支援し、ロケ誘致を推進。ドラマ・映画のロケ地となることで、観光客も徐々に増えていきました。また、ソムリエの田崎真也氏が特別招聘審査員として名産品を認定する事業も開始しました。認定率約50%と、行政主導らしからぬ「厳しさ」で、熱海のブランドイメージアップを図ってきました。
これらの施策によって「熱海ブランド」が高められ、プロモーションがうまくいったことで観光客が戻ってきたのでは、という指摘をされることが多いのですが、その前提として、熱海にある良いものに改めて気づき、その価値を高めていったことが大きかったのではと考えます。それなしには人は戻ってこなかったのではと思うのです」(齊藤市長)。
齊藤栄熱海市長
磨きをかけたことで、それが売り物となり、初めてプロモーションの意味をもつ。実は齊藤氏が市長に就任した当初、市は約41億円もの不良債務を抱えていた。夕張市の破たんは多くの国民の知るところだと思うが、熱海市も同様の危機下にあったと言っても過言ではない。危機感を強くもった齊藤市長は、まずは財政の立て直しを最優先に取り組む。歳出カットのために、市庁舎の建て直し、駅前広場の建設、再開発事業など公共事業はいったん取り止め、約4半世紀ぶりとなる水道料金の値上げ(2007年に6%、2年後には9%) 、さらにゴミ袋の有料化など、市民にもすべからく負担をお願いした。そのような状況で観光事業の立て直しにまだ手がつけられない中、取り組めた梅と桜というコンテンツの強化が後々生きてきたのだという。
あたみ桜は熱海市の木にも指定されている早咲きの桜。糸川遊歩道をはじめ、市内各所に植えられている。例年1月から3月にかけて見頃を迎える。
観光産業は「オンリーワン」か「ナンバーワン」を目指す
こう聞くと、「うちにも梅や桜はある。売りになるかも」と飛びつきたくなる自治体もいるだろう。だが事はそんなに単純ではない。
「観光産業に関しては、『オンリーワン』か『ナンバーワン』にならないと生き残れないと思います。熱海の梅・桜は日本でこれ以上早く咲くものがないから価値があるのです。他にも、ポルトガルなどで有名なジャカランダという紫色のきれいな花があるのですが、海外旅行好きの女性の間で大変人気が高く、これも市街地に100本近く植わっているのは熱海だけだと思います。この花は毎年どんどん伸びていくので、後から植えたとしても熱海が先行優位性を保てます」
「競争相手に必ず勝てる状況を作って、舞台を回していかなければいけません。すぐにまねされて追いつかれるものはやってはいけないのです。常に熱海が優位に立てるものを中心に取り組んでいます」(齊藤市長)。
ジャカランダは例年6月頃に咲く、世界三大花木の一つ。国際姉妹都市であるポルトガルのカスカイス市から贈られた2本の木がはじまりで、現在は遊歩道も整備されている。
確かに、ゆるキャラ、B級グルメ、ふるさと納税、一事が万事その調子だ。自治体の特色はそれぞれ違うはずなのに、「すべての自治体がお手本探しをしているよう」だと齊藤市長は言う。
「自治体が100あれば、生き残り方は100通りあるはずです。立地、歴史、産業構造、人口構成などの要素によってそれぞれ異なってきます。たとえば、熱海の隣接自治体である伊東市と湯河原町も、同じ観光地で近接しているにもかかわらず、雰囲気も強みもまったく違います。そこを冷静に考え、アクションを起こしていく必要があるでしょう」(齊藤市長)。
また、行政と民間の協働も欠かせない。それぞれの役割を全うするとともに、それらがつながってうまく循環していけば、まちは活性化していく。熱海でも様々な取り組みがなされているが、官民の連携という点では「A-biz」が注目だ。ブランディングやマーケティング、ITの専門家チームが主に売上アップに特化した無料の経営支援を行なった富士市産業支援センターの「f-Biz」をモデルにした取り組みを行っている。まさに頑張る民間を応援する行政の仕事と言えるだろう。「頑張れば売り上げが上がりますよ、と具体策なしに口で言っても意味がないですし、事業者もやる気が出ません。先ほどお話した熱海の名産品の認定制度もそうですが、もっと味をこうしたら、パッケージをこう工夫したら…と具体的なアドバイスがあり、それが結果を生み出すことで『それならもっと頑張ってみようかな』という気持ちになれるのです」(齊藤市長)。
まちづくりは時間がかかる
「V字回復した」と言われる熱海。齊藤市長も4期目を迎え、今後どのようなビジョンを描いているのだろうか。
「4期目の公約に『回復から躍進へ』と掲げていますが、これから熱海がもっと発展していくためには、観光事業の枠組み自体を変えないといけないと考えています。その一つとして『DMO*』を作ることは必要だと思います。これが世界の潮流であり、行政も民間も専門家も一緒にまち全体を経営していく……。ハワイ然り、ヨーロッパ然りですよね」
*Destination Management Organization(デスティネーション・マネージメント・オーガニゼーション)の頭文字の略。『地域の「稼ぐ力」を引き出すとともに地域への誇りと愛着を醸成する「観光地経営」の視点に立った観光地域づくりの舵取り役として、多様な関係者と協同しながら、明確なコンセプトに基づいた観光地域づくりを実現するための戦略を策定するとともに、戦略を着実に実施するための調整機能を備えた法人』(観光庁HPより)
「重要なのは専門性と機動力です。そのためには例えばマーケティングのプロを正当な対価を支払って雇い、その人を核に関係者10人くらいの組織体にするイメージです。大きな方向性とビジョンを策定し、具体的な施策に落とし込んでいきます。基本的に行政は年度単位の予算設定で動くので、刻々と変わっていく状況に対応するのが難しい場面が多々あります。ですので、民に近い形でのDMOで、専門性と機動力をもって運営していければと思います」
「その運営のために、私が4期目の立候補の際に掲げた『宿泊税』を当てることも考えています。宿泊税に限らず、たとえば入湯税を上げる、という選択肢もあるかもしれません。いずれにしても、観光事業は常に新しい投資をし続けないと飽きられてしまいます。そのための財源確保は考えていかないといけません」(齊藤市長)。
まちづくりは時間がかかる。2016年には約10年かかってやっと不良債務を解消した熱海市。これまでの取り組みも「まずは3年は続けてみよう」というのが齊藤市長の信念だ。大切なのは自分たちの頭で考えること。観光事業であれば、他のまちが追いつけないコンテンツを作り出すこと。それぞれの自治体がいかに自立していくか、もっと真剣に考えていかなければならないだろう。
●熱海市基本情報
伊豆半島の東側に位置し、相模湾に面する。人口37,284人(平成30年2月末時点の住民基本台帳人口)、21,458世帯(一世帯あたり約1.7人)。産業構造は、宿泊業が大きな割合を占める。江戸時代から湯治場として栄え、昭和9年の丹那トンネルの開通によって観光地化・大衆化が進み、その後新婚旅行や社員旅行のメッカに。その後の衰退、回復は記事の通り。
●イベント情報
<忘年熱海海上花火大会>
2018年12月9日(日)・16日(日)時間 20:20〜20:45
場所 熱海湾(熱海サンビーチ〜熱海港)
https://www.ataminews.gr.jp/event/8/
<第75回熱海梅園 梅まつり>
2019年1月5日(土)〜3月3日(日)
時間 8:30〜16:00
場所 熱海梅園
https://www.ataminews.gr.jp/ume/
<第9回あたみ桜 糸川桜まつり>
2019年1月12日(土)〜2月11日(月)
時間 見学自由(ライトアップ 16:30〜23:00)
場所 糸川遊歩道
https://www.ataminews.gr.jp/event/208/
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/14659
【第1回】 2018年12月6日 鈴木博毅 :ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表
なぜ日本の組織は息苦しいのか?今も昔も日本人を支配する妖怪の正体
忖度、パワハラ、同調圧力、いじめ、ネット炎上、無責任主義……。なぜ、日本の組織は息苦しいのか? 会社から学校、家族、地域コミュニティ、ネットまで、日本社会が抱える問題の根源には「空気」という妖怪が存在する。それは明治維新、太平洋戦争、戦後の経済成長にも大きく作用し、今日もまったく変わらず日本人を支配する「見えない圧力」である。15万部のベストセラー『「超」入門 失敗の本質』の著者・鈴木博毅氏が、40年読み継がれる日本人論の決定版、山本七平氏の『「空気」の研究』をわかりやすく読み解く新刊『「超」入門 空気の研究』から、内容の一部を特別公開する。佐藤優氏推薦!「日本型組織の病理がわかる。組織で巧みに生き残るための必読書」
旧日本軍からネット炎上まで
今も昔も変らず日本人を支配するもの
1977年(文庫版は1983年)に出版された山本七平・著『「空気」の研究』という書籍があります。この書は、日本人の特殊な精神性や日本的な組織の問題点を指摘する存在として、世に出て以降ずっと読み継がれてきました。
同書を一読されたほとんどの方は、この書が今の日本の何か重要な問題を描き出していると感じるのではないでしょうか。
神経をすり減らす人間関係、個性より周囲との協調性を優先する教育、繰り返される組織内での圧力などが今、問題となっています。
息を潜めて、目立つことを避けながらも、周囲を常に意識しなければ不安にさせられる「相互監視的」な日本社会のリアル。誰もが「空気」に怯えながら、「空気」を必死で読む日々に疲れ切っているように見えます。
山本氏は、世界の歴史や宗教への深い造詣、戦地での極限の体験などから、日本人を支配する「空気」という存在を、多角的に描写してその力学を解き明かしています。『「空気」の研究』で鋭く描写された多くの理不尽な構造は、残念なことに現代日本でもまったく変わらないままです。
エスカレートする日本社会の生きづらさ
「空気」という言葉から、日本社会の息苦しさを連想する人は多いのではないでしょうか。自由に意見が言えず、人と違えば叩かれ、同調圧力を常に感じる。
山本氏は『「空気」の研究』で、日本の組織・共同体は「個人と自由」という概念を排除する、と指摘しました。
最近ではネットやSNSでの誹謗中傷、匿名の集団による個人攻撃もエスカレートしています。学校ではいじめや自殺がなくならず、会社ではブラック企業や過労死が問題になっています。
1977年に同書が世に出て以降、日本社会の生きづらさは改善されるどころか、益々ひどくなっているように思えます。では、なぜ日本社会はこんなにも息苦しいのでしょうか?
それは、私たちの社会に浸透する「空気」と大いに関係しているのです。
「空気」が日本を再び破滅させる
東日本大震災後の国の対応、東京都の築地市場の移転問題、相次ぐ巨大企業の不祥事と隠蔽、次々と明らかになる組織内でのパワハラやセクハラ……。その都度指摘されるのが「同調圧力」「忖度」「ムラ社会」「責任の曖昧さ」などです。
問題への対処にさえ「なかったフリをする」「起きた事故の惨禍に目をつぶる」など、日本社会の悪しき慣習が、この国の問題を拡大して日本人を苦しめているかのようです。
『「空気」の研究』で、山本氏は衝撃的な予言を残しています。
もし日本が、再び破滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦大和の場合の如く「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われたら、同じように「あのときは、ああせざるを得なかった」と答えるであろう(*1)
山本氏は砲兵士官として1944年にフィリピンのルソン島に出撃し、その地で敗戦を迎えています。そのため『一下級将校の見た帝国陸軍』などの軍体験を活かした著作も多いです。その山本氏が「日本が再び破滅するなら、空気のためだ」と予言しているのです。
敗戦後の日本は、1980年代まで経済成長が続き、一億総中流時代と呼ばれた豊かな時期を経験していました。その頃すでに、日本の未来に「空気による破滅」を山本氏は予感していたのです。
旧日本軍の失敗と今の社会問題に共通すること
終戦直前、護衛戦闘機もなく沖縄へ出撃した戦艦大和は、アメリカの戦闘機の波状攻撃を受けて戦果なく撃沈されました。無謀な作戦の理由を聞かれて、軍令部次長だった小沢 治三郎中将はこう答えたと言います。
「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う(*2)」
山本氏はこの発言に「空気」の存在を見ていました。
当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる(*3)。
さらに、山本氏は大胆に、空気を「妖怪」のようなものだと指摘します。
統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とすると、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる(*4)。
「空気」で合理性が消し飛ばされ、非合理極まりない決定に突き進むかもしれない。日本が破滅の道を避けるには、「空気という妖怪」の正体を見極めるべきなのです。
なぜ穏和な日本人は集団になると攻撃的になるのか
日本社会でたびたび問題となる「いじめ」。集団の中で誰かを多数で攻撃したり、陰湿な差別をすることに、学校現場で歯止めがかかりません。いじめの対象にされた子どもが自殺する痛ましい犯罪がいまだに続いています。
最近では、ネットや不特定多数が参加するSNSでも、特定の人物を袋叩きにするような現象が頻繁に起こっています。
空気を乱す者を敵視して、集団になると個人の倫理を捨てて一斉に攻撃する陰湿さ。日本人は性格的に穏和な人が多いと言われながら、特定の状況には極めて非情、不寛容で仲間外れにすることに容赦がありません。まるで古い時代の村八分のようです。
一体、なぜこのようなことが起きるのでしょうか。そしてなぜ、日本社会はそれを克服できないのでしょうか。
日本的なムラの仕組みにも、「空気」が大きく関係しているのです。
(注)
*1 山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)P.20
*2 『「空気」の研究』 P.15
*3 『「空気」の研究』 P.16
*4 『「空気」の研究』 P.19
一瞬で頭が切り替わり矛盾も気にしない
日本人は海外に行くと、その国に溶け込んでしまうと言われます。「郷に入れば郷に従う」で、その国の文化や信条にできる限り従おうとするからでしょう。日本人の民族性の一つは、「状況に即応する」ことなのかもしれません。
何かに染まりやすい、自らを進んで塗り替える性質を持っているのです。裏を返せば、状況に即応する意味での一貫性が日本人には常に存在しています。
山本氏は「明治維新」「文明開化」「敗戦後」には、がらりと変わったという意味での共通点があると指摘します。みんなが一緒に新しい方向を向く。文明開化の時代と言われたら、国を挙げてそれに取り組み、みんなが乗っかってしまう。
敗戦で戦争が終わり、平和な時代になると、鬼畜米英がアメリカの自由主義万歳になる。一瞬でほとんどの人の頭が切り替わり、なぜそうなったかは気にしない。こうした日本人の瞬時の対応力を、山本氏は「見事なものだ」と何度も褒めています。
時代の転換点で、状況にすぐ頭が追いついてしまう。だから時に、他国を驚かすような急激な変化を実現し、ちょっと前までの自分たちと矛盾することなど、日本人は苦にもしない。そのプラス面が出たのが明治維新であり、その後の文明開化や敗戦後の経済成長だったのです。
仮装の西洋化では変わらなかった日本人の根源的ルーツ
変わってしまった状況に「即応する」のが日本人の行動原理だとするなら、江戸時代から明治維新、戦前から戦後という大激変期にも、日本人の根本は変わっていないのではないでしょうか。
「仮装の西洋化」で日本人は自分が変身したように感じて、過去を捨ててしまう。しかしその実体は、「変化に即応する」「先に進む度に過去の歴史を捨てる」など、変わらない日本人の根源的な行動様式、一貫した思想の結果ではないか。
平成になり、21世紀に生きているように振る舞いながらも、その規範や意識、抱えている問題は、まさに「昭和の行動原理」から生み出されているのかもしれません。いや、日本人の根源的な思想は、大昔から変化していない可能性さえあるのです。
日本人を知るための、もう一つの「失敗の本質」
過去30年以上読まれ続けた『失敗の本質』という名著があります。野中郁次郎氏ら6名の共著者によるこの書籍は、旧日本軍の戦略・組織上の失敗を明らかにした書として累計70万部以上のロングセラーとなっています。
山本氏の『「空気」の研究』は、日本人の思考様式や文化的精神性の「失敗の本質」を解明した名著と言えるかもしれません。日本人が集団として組織化したときの“規範”も分析しているため、日本人が陥りやすい「失敗の本質」を探り当てているのです。
明治維新や近代化、敗戦後の復興と経済成長では、日本人は世界でも稀な偉業を成し遂げています。誇るべき日本人の文化的・思想的ルーツの力なのは間違いありません。
一方で、日本は悲惨な第2次世界大戦で数百万人の命を失いました。敗戦後の経済至上主義的な社会でも多くの問題を生み出し、放置したまま拡大して惨劇にまで発展させたことがたびたびありました。この傾向は現在も続いています。
山本氏が描いた「空気」を本当の意味で知ることは、私たち日本人を知ることです。日本人の思考や精神のメカニズムを知ることです。日本人を縛り続け、歴史上の幾多の成功と失敗へと導いてきた恐るべき「何かの力」を把握して、その正体を見極めることなのです。
空気という妖怪の正体をつかむ「7つの視点」
新刊『「超」入門 空気の研究』は、『「空気」の研究』を構造から把握するために、次の7つの視点で紐解きます。
●第1章「空気という妖怪の正体」
なぜ空気が合理性を破壊するのか。不可能とわかり切っている作戦をなぜ決行するのか。この章では、日本人が合理性と空気の狭間で引き裂かれている理由を解説します。
●第2章「集団を狂わせる情況倫理」
日本人は共同体、集団になると、なぜか愚かな決断をしてしまう。ムラ社会と言われる日本で、空気が共同体にどんな影響を与えているかを解説します。
●第3章「思考停止する3つの要因」
日本社会の中に、空気の拘束をより強力にしてしまう要素が存在します。何が空気を狂暴化させているのか、日本人の思考法とともに空気の構造を読み解きます。
●第4章「空気の支配構造」
空気が日本社会を支配するときの、3つの代表的パターンを紹介して、精神的な拘束が、物理的な影響力に転換される構造を明らかにしていきます。
●第5章「拘束力となる水の思考法」
加熱した空気を冷やす「水」という存在。山本氏の記述から、水の機能とその正体を解説し、その限界を明示することで、空気を打破する新しい入り口を考えます。
●第6章「虚構を生み出す劇場化」
空気は虚構を生み出すが、人間社会では虚構こそが人を動かす。日本人が、虚構の劇場化で社会を動かし、時に狂う理由を、歴史を踏まえながら解説していきます。
●第7章「空気を打破する方法」
山本氏の解説した「根本主義(ファンダメンタリズム)」などから、本書第6章までの分析を踏まえて、空気打破の方法を発展的に論じます。
山本氏は空気の拘束から脱出するためには、その正体をまず正確に把握すべきだと何度も強調しています。
日本社会に息苦しさを生み出す空気と、個人に自由を許さない共同体原理。日本の組織を支配して、時に合理性を完全に放棄させるその恐ろしさ。太平洋戦争の惨禍と社会統制の異常な時代を体験した多くの日本人は、空気の異常性を訴え、空気打破への願いを込めて、さまざまな形で空気の正体を描写しようとしてきました。
山本氏の『「空気」の研究』は、空気打破への英知の集大成と考えることもできます。
私たち日本人は、明治維新から150年を経て、空気を打ち破る入り口に立っています。今こそ、悲惨な歴史を繰り返さないため、健全な未来を創造するために、『「空気」の研究』からその打破の方法を学びとるべきなのです。
(この原稿は書籍『「超」入門 空気の研究』から一部を抜粋・加筆して掲載しています)
https://diamond.jp/articles/-/186200
ビジネスに人文科学は必要ないが、人間には必要だ
ジャンピエロ・ペトリグリエリ:INSEADの組織行動学准教授。
2018年12月6日
ビジネスやテクノロジーには、もっと人間的な要素が必要だという主張は、何十年も前から言われ続けている。だが筆者は、そうした主張に正面から反論する。人文科学を何らかの利益を生み出すための道具として用いる行為、それ自体が弊害である。逆説的だが、人文科学に利便性を求めないことで、いっそう有意義な存在になると筆者は言う。
複雑な問題を、単純な物語だけで説明できそうに思えることがある。
例を挙げよう。数年前にフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグは、スクラブルという言葉遊びのボードゲームで、友人の10代の娘さんに負けた。「2戦目を始める前にザッカーバーグは、手持ちの文字を辞書で調べる簡単なプログラムを書いた。当てはまるすべての言葉を選べるようにするためだ」と、『ザ・ニューヨーカー』誌の記者エバン・オスノスは述べている。
女の子はオスノスにこう語ったという。「私がプログラムと対戦している間、周りの人たちはどちらか一方を応援したの。“人間チーム”と“機械チーム”に分かれたのよ」
この逸話は、あまりに面白すぎて無視できないものだった。ザッカーバーグについて我々が知っている(と思い込んでいる)すべてを表しているように見えたからだ。地頭のよさ、強烈な競争心、極端な論理性をもってテクノロジーを信じる姿勢、そして、賛否両論を呼ぶ彼の強力なソフトウエアである。このエピソードは一気に拡散した。
この話がウケた理由は、寓話として読めるからだ。どんな問題にも技術的な解決策を見出そうと決意している、コンピュータを知り尽くした達人の物語である。そこにはスクラブルよりはるかに複雑な問題――フェイクニュースや二極化、疎外感など――も含まれる。
世界中で公の議論に影響を及ぼせるザッカーバーグの役割について、彼と縦横に話し合ったオスノスは、こう結論づけている。「ザッカーバーグは懸命に――常に首尾一貫していたわけではないが――まったく準備のできていなかった問題を理解しようと努めていた。それは真夜中に解決できるような技術的な問題ではなく、人間の最もデリケートな側面にまつわる問題だ。たとえば、真実の意味、言論の自由の限界、暴力の源泉などである」
このようなストーリーを、あるリーダーの性格と、それが大衆文化に与える影響を表す話として読むのは簡単だ。しかし、結局のところ、どのリーダーも、その時代の文化を反映しているのだ。テクノロジーやその他の業界にいる「準備不足のまま、頑張りすぎる人」を称える文化において、ザッカーバーグは一人の代表的な存在にすぎない。
企業が好む不安に駆られた頑張り屋とは違い、準備不足の頑張り屋には、自分の仕事が与える影響について熟考する辛抱強さがない。前者は承認を求めて完璧であろうとするが、後者はデータを好み、さまざまなことを躊躇せずに試してみる。素早く行動して物事を打ち壊し(フェイスブックの社是)、破壊したものが実は価値あるものだったという事態になれば、謝罪して次はもっとうまくやると誓うのだ。結局、失敗とは見方を変えれば学習である、というわけだ。
それは必ずしも正しくない。失敗が単なる怠慢や完全なる無知にすぎない場合もある。
批評家筋が主張するように、テクノロジー業界の大物の中には、人文科学や社会科学のコースをもっと受講していたらよかったのに、と思われる人がたくさんいる。こうした一般教養の主要科目は、未来のリーダーが人間の生活と社会におけるジレンマや複雑さに取り組む準備をするためにあるのだ。
昨今、経営やハイテク関連のカンファレンスで、「テクノロジー業界にはもっと人間主義が必要だ」という話を耳にしないことはない。我々は皆が、「人間チーム」と「機械チーム」に二分されているようだ。
経営書の著者チャールズ・ハンディは、2017年のグローバル・ピーター・ドラッカー・フォーラムでの感動的な演説の冒頭で、こう述べた。「我々は、テクノロジーがどれほど進歩しても、それを人間性に代替することはできない。感受性、愛や美や自然への理解と感謝、愛情や同情や意義を求める心、希望や恐怖、直感、想像、論理を超えた信念などには、替えられない」
経済学者、石油企業の経営者、経営学教授としてビジネスに関わってきた人生経験をもとに語る80代のハンディは、ひときわ印象的だった。ビジネスに人間性を求める声は目新しいものではなく、その課題がまったく解決されていないということを、彼は思い出させてくれる存在だ。
人文科学の活用
エルトン・メイヨーは1930年代、組み立てラインの労働者に敬意と配慮をもって接すれば生産性が高まることを立証し、人間関係論の潮流を引き起こした。この潮流は、フレデリック・テイラーの科学的管理法――労働者を効率重視の産業機械に組み込まれた扱いにくい歯車へとおとしめた――に異議を唱えるものとなった。
人間関係論の提唱者たちは、生産性の向上を目指しながら、疎外感――メイヨーが言う「自分の社会的役割および集団との一体感に、自信が持てなくなる」ことを抑制しようとした。ほどなくして、ピーター・ドラッカーが「経済人の終わり」を予言した。しかし、経済至上主義者が死ぬというその知らせは、いまだ実現していない。それから半世紀後、グローバル化時代の前夜になってもドラッカーは、経営とは科学よりも一般教養に近いと主張し続けていた。
テクノロジーや経済の動向に不安が生じるたびに、ビジネスに人間性を求める声が表出するようだ。2008年の金融危機の後、ビジネス・スクールは倫理のコースを急いで追加した。それ以来、人間的成長と社会貢献に関するクラスは増加の一途をたどっている。人々は再び人文科学を必要としており、さもなければデジタル変革はテイラー主義と化してしまうだろう。
文学や哲学、社会科学は、ビジネスリーダーの不備を補い、我々を救済してくれるのだろうか。私はそうは思わない。
たしかに、意欲に満ちた大物リーダーが、ジェーン・オースティンやジョージ・オーウェル、マヤ・アンジェロウ、ミシェル・フーコーなどを読む時間を増やせば、ためになるだろう。しかし、人文科学の味を知ったところで、準備不足の頑張り屋は、人間をめぐる問題をうまく管理できるようにはならない。なぜなら、頑張り屋が準備不足に陥るのは、彼らが知らないフィクションのせいではなく、彼らが信じている物語のせいだからだ。
それは、テクノロジーと経済の力が、進歩を否応なく牽引するという物語だ。その物語の中でも人文科学の役割はあるが、権利を伴わない。テクノロジーは仕事熱心な大黒柱で、人文科学は慎ましい家庭の主婦なのだ。
彼女たちは「美しく」「便利」でなければならない。その責務は、ビジネスリーダーが共感力や思いやりや魅力を備え、人々に力を与え鼓舞し、影響力を持てるようにサポートすることだ。けっして疑問を抱いたり、葛藤したり、助力を惜しんだりすることはない。この都合がよい結婚は、古びたスウェットパーカーのように、サイズは合っていてもお似合いではないのだ。
機械チームは存在しない
スクラブルで優位に立つためにテクノロジーを使ったマーク・ザッカーバーグの場合であれ、蒸気ドリルにハンマーで対抗して勝ったが息絶えたジョン・ヘンリー(米国の民話)の場合であれ、「機械チーム」は存在しない――これが真実である。競争は常に、人間同士の間で起きているのだ。
一部の人間は機械を持っているが、トロイア戦争でギリシャを勝利に導いた伝説の木馬のように、機械は必ずしも贈り物というわけではない。そう考えると、「テクノロジーが人間性にどう影響するか」という危惧は、「力を持った人間が他者に何をするか」という、昔からある問題を覆い隠してしまう。
もし「機械チーム」があるとしても、彼らは機械の味方をしているのではない。機械を自分の味方につけているだけなのだ。したがって「人間チーム」が侵入、剥奪、偏った競争条件と恐れるものを、「機械チーム」は解放、効率、楽しみ、進歩と見なすのも不思議ではない。
問題は、機械は(人間性にどう影響を及ぼすのか、ではなく)リーダーにとってどのように役立ち、リーダーに何をもたらすかである。なぜなら、まもなく同じことが他の人々にも起こるからだ。
昔から、人間がテクノロジーをつくるのと同じく、テクノロジーもまた人間をつくってきた。農業技術が定住に、産業革命が都市化につながり、インターネットが民族主義の世界的広がりを招いた。新しい経営モデルも、大きな技術変化への適応であることが多い。人間は使用するものに合わせて変化するのだ。
テクノロジーと経済の進化は止められない、という言説が、リーダーの意思をいかに曇らせているか考えてみよう(愚かな話だ、ただの機械なのに)。あるいは、その進化に対する信念が、視野を狭め二極化をあおるイデオロギーをどれほど助長するか考えてみよう(ただの愚かな機械なのに)。
このイデオロギーは、一見するとイデオロギーのように見えない。なぜなら、そこでは道具主義が実用主義を装っているからだ。問題を解決して利益を生み出すもの、生活を便利にして人々の能力を高めるものであれば、何であれ優れているとされる。人々に求められるのは、効率性と一貫性だ。疑念やジレンマは解決されなければならない。迷ったり、考えを変えたりすることは許されない。どちらか一方を選ばなければならないのだ。
かつて、フランシス・スコット・フィッツジェラルドは次のように綴った。「一流の知性とは、2つの相反する概念を同時に持ちながらも、それらを機能させ続ける能力である。たとえば、絶望的であることを理解し、なおかつそれをやり抜く決意を持てるということだ」
この人間的な基準に照らし合わせると、機械的な、あるいは機械でつくられた知性は、それほど知的ではない。ビッグデータは狭量な思考を生じさせる。人は道具主義を受け入れた途端、機械を使うのではなく、自分が機械と化してしまうのだ。
昨今では、ハイテク業界のリーダーの多くは、自分の魔法でつくり出したものを制御できない、見習い魔法使いのように見える。プライドと不安が入り交じっている。その好例が、新しい言葉を編み出して会話を交わすようになったチャットボットを停止したフェイスブックのAI(人工知能)研究者たちだ。彼らは、何も非道なことはなかったと説明した。機械が有益なことを何もしなかっただけだ、と。
私は機械に同情した。この話を聞いて、自分の好きな場所の運命を心配するようになった。イタリアの広場、フランスのレストラン、学会、小説、食卓――。人々がこうした場所で交わす会話は、はたから見ればたいして有益とは見えないこともある。
人間主義は、捕らわれの身となれば死ぬ
機械をつくりながら自分が機械と化してしまう、道具主義に従って生きているのは、テクノロジー業界の魔法使いや企業経営者だけではない。「人間チーム」のジャージを着ている知識人の多くも、よく見ると「機械チーム」の一員となっている。
広く読まれている経営学の文献をめくれば、ほとんどの論文は、問題を指摘して現実的な解決方法を提示する、という月並みの形式に従っていることがわかる。我々はうまく機能するものや自分の能力を高めてくれるものを称賛し、より効率的になるための助言やテクニックに熱心に耳を傾け、うまく生きていくためのショートカットやハックが大好きなのだ。
我々が立ち止まり、こうした処方箋の副作用について考えることはめったにない。「ベストプラクティス」が人を堕落させるとしたら、どうだろうか。不便さや不快を覚えたり、退屈したり気が散ったりすることは、よき人生には付きものであり欠陥ではないとしたら、どうだろうか。社会の分断や働きがいの欠如が、失敗の症状ではなく成功の副作用とは考えられないだろうか。つまり、問題解決と利益獲得への執着がもたらした、意図せぬ結果だとしたら?
人文科学はこうした問題に対処する一助となるが、それを詩的な「生産性ハック」に矮小化してしまうと役に立たない。哲学が、よりよい戦略を立てるための手段と見なされ、小説を読むことが、自分の魅力度を高めるための手段と見なされ、社会的意義と理念には商業的価値があると見なされるたびに、人間性は捕らわれの身となり、少しずつ死んでいく。
逆説的な言い方だが、「実用的な人間主義」はほとんど役に立たない。人間主義の面倒な部分を受け入れずにヒントだけを求めると、その価値は損なわれてしまう。人間主義は、批判や隠喩を与えてくれる。道具主義的な処方箋や手法やショートカットに対抗してバランスを取るための、曲がりくねった道を示してくれる。これらを受け入れない限り、人間主義の威力はかすんでしまうのだ。
人文科学が最も効果を発揮するのは、自由に解き放たれ、思う存分能力を発揮できる空間を与えられたときである。そうなれば人文科学は我々に、他者の存在や死について思い起こさせ、何が公平で意義深いのかを問い掛ける。そして、何かがうまく機能するからといって、その存在を必ず肯定すべきではないのだと主張する。
不都合な結婚
要するに、人間主義と道具主義は、互いが互いの問題となっているため、互いの問題を解決できないのだ。両者の最善の関係は、不都合な結婚である。ビジネスに貢献し、我々をよりよい人間にするには、人間主義と道具主義は互角の敵対者のままでなければならない。
我々が機械への恐怖を感じるとき、本当に恐れているのは何だろうか。人間主義と道具主義の競争が、互角ではなくなるかもしれないことだ。疑問を持たなくなることや、人間には生産性や効率性や合理性の他にも大事なものがあるという感覚を失うことだ。そして、人間を人間たらしめている矛盾を失うことだ。
すなわち、生きていくためには将来をコントロールしようと努めなければならない一方で、生きていると感じるためには、自由に将来を想像しなければならない。何かを実際につくるのと同時に、何かをでっち上げる必要がある。
たとえば、ソーシャルメディアでのプロフィールと文芸雑誌における人物描写の違いを考えてみよう。後者をより人間らしく、より真実らしく見せているのは、ディテールではなく矛盾だ。
再びザッカーバーグの例を見てみよう。彼をローマ皇帝――彼自身がその偉業を研究し敬服するアウグストゥスのような人物――として見るなら、彼は恐ろしい存在だ。しかし、彼をハムレットとして見るなら、魅力的である。武器を手にしながらも行動を躊躇する、葛藤を抱えたこの王子は、少しずつ理解していく。その武器の使い方次第で、彼がどういう人間なのかが決まるのだ、と。文学を通して見れば、彼はいっそう複雑で有望な人物になる。より人間的になるからだ。
それこそが人文科学の役割である。自分の嫌な部分を思い出させる相手に戦いを挑もうという気にさせるのではなく、自分の中に複雑さや矛盾、変化をもたらすうえで役立つのだ。ビジネスが、そしてビジネスリーダーやビジネス論文がより人間らしくあるためには、インスピレーションや力を与えるだけではなく、問題を抱えて自制することも伴うのだ。
人文科学の課題
では、ビジネスをよりよいものにするための人文科学の課題とは何だろうか。いつの時代にもそうであったように、人々に無力感を与える力に対抗することだ。
それはメイヨーの時代には、労働者の疎外感に対処すること、そしていわゆる「鉄の檻」の中での自主性を促進することを意味した。今日では、自動化に対抗すること、そしてかつてなく流動的で自動化の進む職場で、人間の責任と絆を取り戻すことが求められる。
それらを実現し、同時にスクラブルのゲームでも高得点を取れるかもしれない3つの方法を提案したい。道具主義への盲信が引き起こしている、意識の崩壊、コミュニティの崩壊、コスモポリタニズムの崩壊に対抗するのだ。
意識とは、いま現在の意識を冷静に保とうと集中することにとどまらない。それは、自分の仕事がより広い範囲で長期にわたって及ぼす影響を考慮することだ。コミュニティとは、単に自分たちのパフォーマンスを強化するための「部族」ではない。それは、皆の幸福と学習のために尽力する集団だ。コスモポリタニズムとは、エリート意識ではない。それは、自分の領域や文化や信念の外にあるものに対し、好奇心を持つ姿勢だ。
人文科学に利便性を求めるのをやめれば、真に有意義なものになる。そうすることで、人間チームは初めて、機械チームに追い付けるだろう。しかし最終的には、どちらか一方が極端に前進しすぎてはならない。両者の相克こそ、人間を人間らしくし、社会を発展させるものであり、失われてはならないものである。
素早く動いて物事を破壊することが役立つときもあるが、ゆっくり動いて人々を癒やすことが賢明なときもあるのだ。
HBR.ORG原文:Business Does Not Need the Humanities — But Humans Do, November 02, 2018.
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ジャンピエロ・ペトリグリエリ(Gianpiero Petriglieri)
INSEADの組織行動学准教授。医学博士号を持ち、精神医学の専門家。リーダーシップ開発の研究と実践を行う。同校の「マネジメント・アクセレレーション・プログラム」と、グローバル企業のリーダーシップ・ワークショップの指揮を執る。ツイッターは@gpetriglieri、フェイスブックはこちら。
http://www.dhbr.net/articles/-/5635
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