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嘘を発信し続ける中国と韓国、信じて日本を叩く米国「民間活力を引き出せるか」習近平の苦悩 韓国「国家不渡りの日」ヒット背景
http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/774.html
投稿者 うまき 日時 2018 年 12 月 06 日 20:05:30: ufjzQf6660gRM gqSC3IKr
 

(回答先: マクロンの改革に国民が激怒するフランスの特殊事情 フランスの起業を変えたマクロン メイ英首相に離脱採決延期を閣僚らが要求 投稿者 うまき 日時 2018 年 12 月 06 日 19:58:42)

嘘を発信し続ける中国と韓国、信じて日本を叩く米国

米国の対中・対韓認識は虚飾だらけ、太平洋戦争時の悪夢再び?

2018.12.6(木) 森 清勇
米中首脳会談での合意「可能性十分ある」 クドロー国家経済会議委員長
ドナルド・トランプ米大統領(左)と中国の習近平国家主席。北京の紫禁城で(2018年11月27日撮影)。(c)Jim WATSON / AFP〔AFPBB News〕

 ラビア・カーディル元世界ウィグル会議議長が中国のウィグル政策に対して、「米国は目覚めた」と語っている(「産経新聞」平成30年10月21日付)。

 自由や民主主義、法の支配は古代から幾多の哲人や革命などを経て確立され、近代社会になると人権も重視され、今日では普遍的価値とされている。

 また、17世紀半ばのウェストファリア条約体制で、「国家主権の尊重」が確立され、普遍的価値と共に現代の国際社会を律する基本とみなされている。

 そうした中で法の支配を無視する韓国、自由や人権も含めた普遍的価値観を蔑にする北朝鮮などの独裁国家も依然として存在する。

 ところが中国は、中華思想や華夷秩序も手伝ってか、普遍的価値観を認めず、他国の国家主権の侵害も平然と行い、覇権を追求してやまない国であるようだ。

ピルズベリー博士の指摘
 米国のマイク・ペンス副大統領はハドソン研究所で行った10月4日の演説で、対中対決の姿勢を明確にした。

 「ソ連の崩壊後、中国の自由化は避けられないと想定した」

 「自由が経済的だけでなく政治的にも拡大することを期待した」

 こう述べ、そのため「楽観主義をもって米国経済への自由なアクセスに合意し、WTO(世界貿易機関)にも加盟させたが、その希望は満たされなかった」と断言したのだ。

ペンス米副大統領、トランプ氏との不仲説を一蹴 「2人で大笑いした」
マイク・ペンス米副大統領(2018年11月17日撮影)。(c)Fazry ISMAIL / POOL / AFP 〔AFPBB News〕

 副大統領は、ハドソン研究所理事のマイケル・ピルズベリー著『China 2049』の論拠をなぞるような形で演説した。

 ピルズベリー博士は、もとCIA(米中央情報局)の高級職員として米国の歴代政権に仕え、1973年から中国各軍の将官や政府の強硬派と仕事をしてきたと自認する人物である。

 コロンビア大学の博士課程時代の政治学の指導教官は「西洋と日本がいかに中国を不当に扱ってきたかを強調し、『贖罪すべきだ』と示唆した」と述べる。

『China 2049』(日経BP社)
 その結果、中国を研究する米国人の多くは「(中国を)西洋帝国主義の気の毒な犠牲者」と見做しがちであるという。

 「中国を助けたい」という願望と、「犠牲者という中国の自己イメージ」を盲信する傾向が米国の対中政策の軸となり、「中国分析の専門家による大統領などへの提言」にも影響を与えたという。

 『China 2049』は、博士が50年間中国に関わってきた集大成として2015年に上梓したものである。

 中国専門家として中国の軍部や諜報機関に誰よりも通じていたと自負する著者が、朝鮮戦争、中ソ関係、ニクソン訪中、天安門事件などに関わる中国の考えを米国は少しも理解していなかった、というから驚きである。

 ピルズベリー氏と同じように、ジョージ・ワシントン大学のロバート・サタ―教授なども中国の攻撃的行動を過小評価していたことを告白している。

 中国が依然として「孫子」の国であったことを如実に示したというべきであろう。

 そこに習近平氏が登場し、ケ小平の遺訓ともいうべき「韜光養晦」の終焉を告げたのである。

 「中華民族の偉大なる復興」を掲げて権力を集中し、「中国製造2025」で世界一の軍隊を作り上げ、太平洋の二分を目指すと公言したのだ。

 そのベースになる研究や技術は米国や日本など先進国の知財窃盗によるものである。

 中国が米国に対峙する、あるいは凌駕する覇権国家を目指すと闡明するに至っては、好意的にサポートしてきた米国も黙っているわけにはいかないと立ち上がったのだ。

中国の条約破りに加担した米国
 日本で参事官として1919年まで2年間勤務したジョン・マクマリーは、帰国後は国務省で極東部長や国務次官補を務め、1925年から4年間、公使として中国で勤務する。

 1921〜22年のワシントン条約会議にも参加し、中国の主権や領土をいかに保全するか真剣に議論されたことを知り尽くした人物である。

 また、米国が英国に代わって世界のリーダーに躍り出る仕組みを仕かけ、日英同盟もこの時に破棄されたのだ。

 しかし、中国は条約違反を繰り返す。

 日本が被害を受けている事実を中国の後見人ともみなされた米国に訴えると、逆に日本の対応に異議を唱える始末で、中国を諫めるどころか増長させていくことになる。

 そうした顛末については、マクマリーが『平和はいかに失われたか』に詳述している。

 米国がもっと日本の言い分に耳を傾け、また約束を守らない中国に強く当たったならば、状況は全く変わったであろうというのだ。

 著名な外交史家のジョージ・ケナンやジョセフ・グルー駐日米国大使もマクマリーの見識を高く評価していた。

 特にケナンは、ワシントン条約破り常習犯の中国に日本が苦労していることや共産主義に日本が対処している実情を米国が理解していれば、その後の米国がソ連という共産主義国に対処する必要は起きなかったといったニュアンスのことを述懐している。

 日本人で当初共産思想に憧れ、米国に帰化したカール・カワカミ(カールはカール・マルクスに由来)は、後に米国紙誌の論壇で保守思想家として活躍する。

 1930年代、満州や中国本土なども視察し、中国を最も知っているのは日本(人)であると述べ、その日本の忠告に耳を傾けない米国に意見する。

 実際どのように米国が親中反日的行動をとっていたかを、下記2人の米国人が教えてくれる。

中国の宣伝に踊ったルーズベルト大統領
(1)フレデリック・ウイリアムズの忠告

 ウイリアムズは少年時代に外人部隊に所属し、その後は世界各地を放浪する冒険者的生活を続け、新聞で発表していた経験からジャーナリストになる。

 支那事変前の日本軍と中国軍にも従軍して取材し、正義感はどちらが持ち合わせているか、また共産主義の危険性などを警告する。日米と米中の貿易についても商務省統計を使って事実を明かす。

 「西洋諸国はアンチジャパンで、(中略)日本が負けたら、ソビエトがあらゆる国を中国貿易から締め出し、共産主義の垂れ幕の下に宝の山を運び入れるだろうという事実を彼らは考慮に入れない」

 「ロシアの脅しが聞こえている。いままさに行動に移ろうとしている。日本はいまにも世界のパワーになろうとしているソビエトを阻止しようと一人で戦っている」

 「我々が日本に1ドルを支払うごとに、彼らは20ドルをアメリカに支払っている。日本は1937年では、アメリカから41%以上を買っている」

 また、1936年と37年の米国の対日中貿易額の細部にわたる統計資料(36年:対日出超額3179万1000ドル 対中入超額2681万7000ドル、37年:対日出超額8417万6000ドル 対中入超額5391万9000ドル)から、両年で対日出超額は5238万5000ドルの164%増加に対し、対中入超額が2710万2000ドル、10%増加を示す。

 そして、「日本は西洋の工場で生産された農業機械類、鉄道資材など、無数のものを必要とした。(中略)アメリカ人が目覚め、外国のプロパガンダの手先になることをやめれば、このビジネスに参加できる」と、真実に目覚めるよう訴える。

 蒋介石のプロパガンダについては「かつてなかったほど沢山の偽物写真がアメリカの新聞雑誌にこっそりと挿入されている。彼らは次々と人々に恐怖を起させようと、実にタイミングよくリリースしていった」として、上海の爆撃で破壊された廃墟で泣き叫ぶ赤ん坊の写真を例示する。

 「世界中に配布されているから、偽物だと論破するにはもう遅い。(中略)『無法行為』をしでかした『非人間的な日本人』への反感から、義憤が立ち上がってきた。このような写真は沢山ある。・・・そして日本の敵には大変な名声を博している」

 「没落し行く紹介石政府は絶望したあげく、アメリカ人が結果として干渉してくることを期待して、まず同情を、それから援助を獲得しようとして宣教師たちにすがり寄った」

 「宣教師がやろうとしたのは、アメリカ人からの寄付であった。(中略)彼らは軍閥の支配体制、泥棒性、いかさま性、不信性、道徳的堕落、野蛮性、ふしだら、賄賂といったことには言及しない」

 「これらは役人にも大衆にも共通する中国人の日常生活である。彼らは『素晴らしい』ところ、哀れを誘うところ、同情を喚起するところしか言わないのだ」

 「中国人は善意で貧しくて、西洋世界とキリスト教が彼らに与えられるものを評価し、あこがれていると」

(2)ラルフ・タウンゼントの警告

 タウンゼントはコロンビア大学卒業後、新聞記者、大学講師を経て外交官となり、カナダから1931年に中国に赴任する。上海、厦門、福州で領事として2年勤務する。

 中国に対する知識をほとんど持たずに赴任した実体験から、中国人の生き方や社会観、国家観などが自分の国と著しく違うことを知り、同時に米国が行っている援助や布教活動は全く無意味なものであると考え、外交官を2年で辞職する。

 中国の本当の姿を知るのは宣教師、事業家、外交官らであるが、宣教師と事業家は本国からの援助や事業継続のために真実を覆い隠し、外交官は美辞麗句の建前報告をする一方で、日本の脅威のみが誇張されたという。

 中国の本当の姿を米国人に知らせる必要があるとして『暗黒大陸 中国の真実』(1933年)を書き上げる。

 その後も大学講師の傍ら米国の極東政策のあるべき姿を示し、米国人の間違った日本観、中国観を執筆や講演・ラジオで糾すことに明け暮れる。

 ルーズベルト大統領が進めている極東政策、なかんずく対日政策の誤りを質すものだけに、言論弾圧にも似て出版も放送も制約され、自宅あてに希望冊数などを寄せた者へ配送するなど大変な窮状の中でやらざるを得なくなる。

 サンフランシスコのラジオ局から放送された原稿などを集めた『アメリカはアジアに介入するな!』では、中国発信の嘘を米国が拡大発散していく状況を、軍隊の規模や商務省の統計などを活用して明らかにしている。

 当時の米欧諸国は「狂犬病的日本軍国主義の恐怖にさらされている」という話で持ちきりであるが、タウンゼントは「いかなる証拠があっての言い分か?」と訝る。

 そして「最大限入手可能な中立国の資料を総合して弾いた兵力」を、中国225万人、ソ連130万〜150万人と紹介し、同時期の日本の常備軍は列強中最小の25万人だという。

 しかも、中国とソ連は合体し400万人の兵力と圧倒的優位な資源で日本に対処してくる恐れがある。これでどうして「(日本が)世界征服を企てる」と言えるのかと疑問を呈する。

 日本は「米国を脅したことは一度もない」し、「どこの国よりも米国に対して丁重であり、借金をきっちり返済する唯一の国である」と事実に基づいて言う。

 軍国主義ばかりでなく、日本の印象を悪くするためにありとあらゆる偽情報、例えば最大の海軍増強国、独裁国家、未開の国、侵略国家などが流されているという。

 他方で、「民主主義の中国」、「平和愛好国家中国」と称揚し、「孤立するアメリカ」と際立たせて、すべての原因が日本にあると言わんばかりの一色に染め抜かれた状況に言及する。

 こうした「反日アジは、中国の領土を保全しようとして起きたものでないことは明らか」という。

 なぜなら、1895年(日清戦争)から1910年(韓国併合)までずっと日本が領土を拡張していた頃、「アメリカの新聞は大の親日」であり、西海岸の一部の新聞を除いて1918年(WW1終了)まで「心から日本を支持」していた。

 実際、親日世論もあって日露戦争(1904〜5年)時、クーン・ローブ社のニューヨーク銀行のジェイコブ・シフはかなりの額の融資を行う。

 タウンゼントはこうした真実を米国民に訴え続けるが、米国政府の(日本を敵に仕立てる)政治的企みがもたらす悪意の宣伝に抗すべくもなく、前述のウイリアムズともども、日本を好意的に報道したとして外国代理人登録法違反で囚われ、日米開戦数か月後から囚われの身となり刑に服する。

米国の対中認識は遅すぎた
 米国の中国専門家や政治家が中国に対する敵対心を高めている。しかし、ざっくり言えば、上述のように政治的思惑から放任してきたわけで、寝ぼけた話である。

 日清戦争は中国の約束破りから起きたもので、日本はそれ以前から中国の狡猾に気づいてきたし、諸外国に警告も発してきた。

 しかし、諸外国、特に米国は一向に耳を傾けないどころか、日本を悪者に仕立てて批判するばかりで、日本は孤軍奮闘する以外になかった。

 こうした状況は昔話ではなく、今でも南京事件や慰安婦問題などに受け継がれている。

 中韓の誇大宣伝は真よりも偽の拡大をベースにしている。対する日本は物事の真髄を指摘して、さほど騒いだりしない。

 ところが、多くの米欧メディアは偽を騒ぎ立てる中韓に加担して、「日本=悪」という前提を固守しているように見受けられる。

 「一帯一路」に関係する諸国は、中国の底意に気づき、プロジェクトに疑義を持ち始めた。

 これらの諸国よりも1世紀以上も長く中国と関わってきた米欧諸国もマーケットの大きさなどに幻惑されることなく、中国の本質をしっかり見極めてほしいものである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54852

 

 

「民間活力を引き出せるのか」習近平の苦悩 ケ小平の「改革と開放」から40年の節目を迎える中国の現実
2018.12.6(木) 新潮社フォーサイト

◎新潮社フォーサイトの関連記事
・米「INF全廃」離脱に見える「核なき世界」追求の衰え
・米中「経済摩擦」激化で日本企業が抱えかねない「市場リスク」
・中国「監視社会」強化に米国が築く「分断線」


ケ小平氏没後10周年 - 中国
2007年1月23日、四川省広安(Guangan)で催されたケ小平の没後10周年追悼展示会。(c)AFP/LIU Jin〔AFPBB News〕

(文:田中直毅)

 師走を迎えると、ケ小平(当時、中国副総理)が開始した「改革と開放」からちょうど40年の節目となる。

 シンガポールのリー・クァンユー首相(当時)が、10年にわたった文化大革命(1966〜76)の悲惨さからの離脱の手法に頭を悩ませていたケ小平に、シンガポールの見学を誘ったのは1978年5月の訪中時だった。この年11月にシンガポールを訪問したケ小平は、南方に成立した都市国家の繁栄ぶりを見て「改革と開放」に踏み出す決意を固める。1カ月後の12月には、その後の中国経済を決定的に変えた「改革と開放」が発表された。

 この間の経緯については、シンガポールでの宿泊の地となったエンプレス・プレイスの施設周辺に、控え目ではあるが英語の解説がなされている。「改革と開放」に強烈な刺激を与えたのはシンガポールなのだ、という自負の表れである。

「利益の刈り取りに余念なしという姿勢なのだ」
 リー・クァンユーは、周辺のマレー系国家に対して常に慎重に対処した。インドネシアでもマレーシアでも、国内政情が不安になれば、「華人街」は攻撃の対象となった。このため中国との国交の樹立もASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国で最後と決めていた。「改革と開放」から10年以上経過した1990年になって、やっとシンガポールと中国との国家間関係が成立している。

 ケ小平がフランスを目指す途中、シンガポールに2日間だけ立ち寄ったのは1920年のことだった。港湾機能はあったものの、貧しい華人がイギリスの支配のもとで働いているという印象しかなかったはずだ。文化大革命によって経済基盤の破壊がはなはだしく、もはや華僑による資金と経営能力の中国回帰を図る以外の手法はないとの思いが「改革と開放」の理念の背景だった。広東省と福建省とが華僑の圧倒的な故郷である以上、焦点はまずこの2省だった。リー・クァンユーは広東省、そしてその後継者となったゴー・チョクトン(元首相)は福建省を、父祖由来の地としている。

 シンガポール政府が江蘇省蘇州という中国文化の中心地に工業開発パーク「蘇州工業園区」の建設投資を決めたのは、ケ小平による1992年の南巡講話によって「改革と開放の加速」が決まってからだ。資産接収の恐れが中国人から消えたのは1992年以降である。ケ小平によって歴史が刻まれてきたことは明らかで、しかも彼を刺激し続けたのはリー・クァンユーであったと言える。

 しかし中国の現実は一直線ではない。「蘇州工業園区」の建設にシンガポールは培ったノウハウのすべてを注ぎ込むが、しばらくするとその隣接地に蘇州市政府の手で独自の「工業園区」が立ち上がる。彼らは地代に差をつけたので、シンガポールの「蘇州工業園区」は大苦戦に陥る。リー・クァンユーは腹を立てた。私は晩年のリー・クァンユーに、この点についてインタビューしたことがある。彼は「中国文化の中心地であったので蘇州と立地を決めた。それでもこの有り様だった。中国に根付くのは背信への恐れよりも、利益の刈り取りに余念なしという姿勢なのだ」と苦笑まじりに経緯を話してくれた。

「輸入博覧会」を開いてはみたが
本コラムは新潮社の会員制国際情報サイト「新潮社フォーサイト」の提供記事です。フォーサイトの会員登録はこちら
 中国は2001年にWTO(世界貿易機関)加盟を果たす。今世紀に入った段階で中国経済の世界に占める比重は約5%だった。しかしこれが今日では15%に達した。5%の時には大目に見られたことも、20年足らずの間に3倍もの比重になれば、「知的所有権の実質的剥奪があったとしても、それは巨大市場へのアクセスの代価だ」とは中国に進出した世界企業も言っていられなくなる。これが中国のWTO違反の廉(かど)として取り上げざるを得なくなる由縁といえよう。「米中貿易戦争」と一括して表現されることが多いが、WTO改組構想に各国とも必ずしも熱心といえないのは、中国がまず基本方針を変えることが先決と考えているからだ。中国の指導者は「自由貿易と多国間主義の原則は守らなければならない」と主張する。しかしだからといってWTOの場が際立つわけではないという現実が、地球規模において重い。

 11月に入って上海で中国国際輸入博覧会が開催された。輸入推進に焦点を絞った世界で初めての博覧会という触れ込みで、中国の指導部がおよそ1年をかけて企図、実施したものである。

 博覧会は、習近平中国国家主席の演説で開幕した。当初は中国各地からの業者、関係者が、後半では抽選で一般消費者も参加できるという仕組みである。交通規制も安全保障上の理由から厳しく、顔面認証も徹底しているので、お客様を迎え入れるという雰囲気には遠かったが、世界にどのように伝わるのか、という視点を突出させて立案されたものであることは確かだ。

 展示はもちろん企業サイドの裁量に委ねられている。私が立ち寄ったところではトヨタ自動車は水素自動車に重点を置いており、FCV(燃料電池自動車)のバスには来会者が殺到していた。中国における環境汚染対応の緊急化と多様化という課題が焦点となりつつあることを示すものと言えよう。

 しかし、国際輸入博の開催が米中摩擦の緩和策の切札というわけにはいかないことは、中国の指導部も承知しているだろう。中国経済にはすでに間違いなく、投資や生産面において下押しの圧力がかかっているからだ。ケ小平の指導並みに画期的な民力引き出しの施策を打ち出したいところだ。

 ところが皮肉なもので、習近平時代とは国有企業の比重の一層の高まりと共産党指導の強化によって特徴づけられる、との理解が広まったままだ。反腐敗のスローガンに批判される側面はないはずだが、全国各地で共産党指導部による恣意的な民間企業への介入が相次いでいるとの声がネットにあふれ始めている。習近平体制の行き詰まりを示す1つの側面が、米中貿易摩擦の最中において、これまでは等閑視してきた民間企業の活力への期待を表明せねばならなくなっているという状況であろう。

 そもそもアリババの創始者ジャック・マー(馬雲)の引退宣言や、オンライン・ゲームでのしあがったテンセントに対する締めつけも、権力による民間への介入が民間企業の意欲を奪い始めているのでは、という指摘に繋がってきたというのが現実であろう。

企業統治の原則が踏みにじられることが常態に
 ところがここへきて、民間企業の比重が圧倒的に高い福建省が中国メディアで取り上げられることが増えた。習近平主席が福州市党委員会書記や福建省長などを歴任して18年近くも在任した地であり、福建省長当時の2002年には、晋江市での民間企業の積極的な取り組み事例を称賛したこともある。そして今日になって、「晋江での実践」が再び持ち上げられる気配だ。

 河北省の保定の近辺では「雄安新区」という巨大都市の建設が、習近平主席の呼びかけで始まった。BATと呼ばれるバイドゥ、アリババ、テンセントというIT(情報技術)時代の覇者たちは、雄安新区での新しい挑戦に追い立てられようとしている。環境、効率、安全の共創を掲げ、スマートシティ建設の第1号にしようとする試みといえようが、完全監視社会の実現が、果たして中国の掲げるイノベーションの実現に繋がるのかどうかについて、私の知る限り中国でも疑問視する人が多い。

 民間活力の引き出しに繋がったとされる「晋江での実践」も、「あれは習近平指導が腐敗防止を掲げる前の事例で、民間事業者は規制措置、許認可、行政介入という壁を乗り越えるに当たって、採用できるものはすべて使った結果であったに過ぎない」と解説してくれた人もいる。ここでは「雄安新区の建設手法」と「晋江での実践の称揚」とはまったく方向が逆で、民間活力を引き出すという方向性に収斂していない、との声が広まりつつあるのだ。彼らは次のように表現する。「10月から11月にかけてのわずか1カ月間に習近平主席は5回も民間企業の重要性に言及し、民間企業セクターの懸念に正面から向き合う、とした。これは共産党指導の現場においては、民間企業への抑圧的介入の事例が相次ぎ、株主の意向を企業経営に反映させることを旨とする企業統治の原則が踏みにじられることが常態になりつつある、との指摘への危機感がなせるものだ」。

 米中摩擦への対応が急がれる中で、中国共産党による民間指導も、また重要な局面を迎えつつあると言えよう。「改革と開放」から40年が経過し、中国はもう1つ乗り越えねばならない厳しい局面を迎えた。ケ小平は香港に隣接する深?を選んで「改革と開放の加速」の発言場所とした。深?では「天は高く王様は遠い」という表現が使われる。自由の気風が満ち、権勢家の威力も及びにくいところを選んだのがケ小平だとすれば、「雄安新区」は王様のプロジェクトとでも呼ぶべきもので、必達目標として提示せねばならない。他方、民間活力の引き出しとなると、福建省晋江市での実践しか参照事例として提示できない習近平主席の苦悩は相当に深い、と見るべきであろう。


田中直毅
国際公共政策研究センター理事長。1945年生れ。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。専門は国際政治・経済。2007年4月から現職。政府審議会委員を多数歴任。著書に『最後の十年 日本経済の構想』(日本経済新聞社)、『マネーが止まった』(講談社)などがある。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54844


 


あれから21年…韓国で「国家不渡りの日」の映画公開
IMF危機、「国辱の日」がヒットする背景は
2018.12.6(木) 玉置 直司
韓国・ソウルの夜景
 2018年11月28日、韓国でIMF経済危機を描いた映画「国家不渡りの日」が公開になった。最初に週末で大ヒット作である「ボヘミアン・ラプソディ」を抜いて観客数1位に躍り出た。

 映画の舞台は今から21年前、1997年の韓国だ。

 この前年の1996年、韓国は先進国クラブともいえるOECD(経済協力開発機構)に加入した。経済は絶好調だった。

年初から「異変」が見えた1997年
 ところが、年が明けた1997年初めから「異変」があちこちで起き始める。1月に中堅鉄鋼メーカー、韓宝グループが事実上倒産した。

 これを皮切りに、無理な拡大経営を続けてきた中堅財閥が相次いで経営危機の陥る。金融、流通、機械、建設・・・。国民企業だった起亜自動車まで経営危機に陥る。

 東南アジアから始まった通貨危機の直撃も受けて、連鎖倒産は止まらない。この頃の話だ。

 映画は3つのストーリーが同時並行の形で進む。

 1つは、中央銀行である韓国銀行の女性通貨政策チーム長と、韓国銀行、財政経済院、青瓦台(大統領府)の幹部との間で繰り広げられる激しいやり取りだ。

 迫り来る危機をどうとらえるのか。何をすべきなのか。折りしも、1997年12月には大統領選挙を控え、政権は末期で求心力は大きく低下していた。

https://movie.naver.com/movie/bi/mi/photoViewPopup.nhn?movieCode=164192 (国家不渡りの日のポスター)
 危機の可能性を国民に知らせるべきだとする声が、かき消される。密室での堂々巡りのやり取りを続ける間に傷口はどんどん大きくなる。

 この間、一部の財閥トップにだけはこっそりと事実が知らされる・・・。

 結局、韓国は、「国家倒産の危機」に直面し、IMF(国際通貨基金)に緊急支援を要請する。ところがこれで一件落着ではない。

IMFからの厳しい要求
 IMFから突きつけられる熾烈な「国家構造改革要求」。

 金利の大幅引き上げ、金融機関の大規模整理、外資規制の大幅緩和、労働者の解雇要件の緩和、不振企業の退出・・・すさまじい内容だった。

 その影にちらつく米国政府の影。同時に進む大統領選挙・・・。

 綱渡りの交渉の結果、1997年12月3日、IMFは韓国を緊急支援することになる。外貨が底を尽きかけていた韓国に550億ドルの資金援助が入った。

 一方で、IMFの厳しい管理下に置かれ、韓国では今もこの日を「国辱の日」と呼ぶ。

 2つ目のストーリーは、雑貨品を製造販売する町工場だ。

 数人の従業員を使って手堅く工場を運営していた経営者にある日、思いも寄らぬ大きな商談が飛び込む。韓国の名門デパートへの製品納入だった。

 飛び上がらんばかりに喜んだ経営者に1つの条件がつく。

 「支払いは手形です」

 現金決済一筋できた経営者は最初は難色を示す。しかし、信頼する部下に「こんなチャンスを逃す手はない」と説得され、これに応じる。

 その直後だった。この名門デパートが倒産したのは。

 映画ではこのデパートも実名で出てくる。ミドパだ。今は、ロッテのヤングプラザ館になっている。

 町工場の経営者は、個人所有の住宅まで失い、文字通り、裸一貫となってしまう。

 3つ目のストーリーは、ノンバンクに勤務していた課長。1996年までの好景気の乗って急成長していたノンバンクだが、異変が始まっていた。

 韓国からの資金引き上げの動きが外国系金融機関で始まっていた。

ドル買いでぼろ儲けした元金融マン
 「これから大変なことが起きる。もうこの会社にいても意味がない」と真っ先に退社し投資会社を始める。

 「未曾有の危機が来る!」

 大転換期を見越した投資を薦めるがこんな予想に乗ってくれたのは2人だけだった。

 韓国政府は「危機など起きない」と繰り返していたからだ。2人が用意した資金をまずつぎ込んだのが「ドル買い」だった。

 「ウォンは必ず暴落する」という予想を立て、街金で買えるだけのドルを買い込んだ。

 これが大当たり。次に目をつけたのが、ソウルの不動産だった。

 「必ず暴落する」と見て、底値で不動産を買いまくり、その後、大金持ちになり「投資の鬼才」と呼ばれる。

 この3つのストーリーが、1997年の韓国の大混乱期にめまぐるしく展開する。「国家不渡りの日」はそういう映画だ。

 IMF危機は、韓国では「朝鮮戦争以来最大の国難」(1997年12月の大統領選挙で当選して収拾に追われた金大中=キムデジュン=元大統領)と言われた。

 半分以上の大手財閥、金融機関が連鎖倒産した。サラリーマン、商店主、自営業者・・・多くの韓国人の人生が変わってしまった。

 筆者の周りにも、もちろん、IMFで人生が変わった人たちがたくさんいる。大企業の「人員整理」はすさまじかった。肩たたきどころの騒ぎではなかった。

 1998年に韓国を訪問した時、40代初めの知人がほとんど「失業者」だったことがある。

いまなお爪痕深いIMF危機
 今なお、あちこちにその痕跡が残っている。されど21年だ。「IMF」は徐々に歴史の中の出来事にもなりつつある。

 韓国経済も企業も、その後短期間でめざましい回復を見せた。IMFからの支援金は返済し、「構造改革」を通して競争力をさらに高めた大企業は急成長を続けた。

 その一方で、「IMF」を機に、韓国は超競争社会、超格差社会に変質してしまった。

 あの時、採算が悪化した企業は売却し、業績が悪化すると大規模合理化をすることでしのいだ企業は、その後も、「人に優しい」とは言いがたい「合理的」と称する経営を続けた。

 文在寅(ムン・ジェイン=1953年生)政権が、「包容」を掲げ、最低賃金の引き上げ、労働時間短縮、非正規職の正規職転換などを優先課題として掲げるのは、「格差社会」を何とか是正しようという信念があるからだ。

 こういういう「信念」の原点がIMF危機とその克服過程にあったことは間違いないだろう。

なぜ、いま、IMF危機の映画を見るのか?
 では、今の時期にどうしてこんな映画がヒットするのか?

 一時は見たくも思い出したくもなかったその時代についての映画を見ると言うことは、それだけ、時間が経過し、危機を克服したということではある。

 だが、その一方で、「漠然とした不安感、が多くの観客を引き付けているのではないか」(韓国紙デスク)という指摘も多い。

 韓国経済は、最近、明るい話題が少ない。経済成長率は鈍化し、青年失業率は最悪の水準だ。さまざまな統計発表があると、メディアは「IMF危機の時を超える水準」「IMFの時に匹敵する水準」などと書く。

 ではその時何が起きたのか?

 もう一度きちんと知りたいと言う意識が映画館に足を運ばせる理由ではないかということだ。

 映画は、IMFとの交渉から20年経過した姿を描写して終わる。韓国経済は復調し、それぞれが新しい人生を歩んではいる。

 それでも、IMFを引きずりながら生きている。

危機は反復する? 漠然とした不安広がる
 最後に、危機は反復するというメッセージで終わっている。

 この映画が封切りになった前後に、韓国の家計債務が1500兆ウォン(1円=10ウォン)を超えたという統計が発表になった。

 ソウルの優良不動産の価格は、ここ1年で2倍に跳ね上がった。

 「やっぱり、こんなこといつまでも続かないよね・・・」

 映画を見た筆者の50代の知人は、「IMF危機なんてもう起きないよなぁ? いくら何でも」と嘆きながら話した。

 2019年の経済見通しに明るい材料が乏しい中で、韓国では「国家不渡りの日」という何とも物騒なタイトルの映画がヒット中だ。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54877  

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