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ゴーン追放も納得!謀略とリークの「日産クーデター史」
https://diamond.jp/articles/-/186136
2018.11.22 窪田順生:ノンフィクションライター ダイヤモンド・オンライン
瞬く間に世界を駆け巡った「ゴーン逮捕」の一報。記者会見で西川廣人社長はクーデターを否定したが、日産の過去の歴史をひもとけば、相次ぐクーデターはもちろん、会社から金をむしりとって豪遊し、世間を騒がせた労組会長など、ゴーン氏を彷彿とさせる人物も登場する。これが日産のカルチャーなのである。(ノンフィクションライター 窪田順生)
クーデター説から元妻刺客説まで
ゴーン逮捕で情報飛び交う
過去数十年の日産の歴史を振り返ると、クーデター(未遂も含む)が何度も起きたほか、強権を握った上に会社のカネで豪遊しまくった労組会長がいたなど、今回のゴーン氏追放劇が決して珍しい出来事ではないことが分かる Photo:Reuters/AFLO
こりゃどう見てもクーデターだろ、と感じている方も多いのではないか。
日本のみならず、世界的にも大きな注目を集める「ゴーン逮捕」。連日のように、逮捕前にゴーン氏がルノーとの経営統合を検討していたとか、日産幹部が捜査当局と司法取引をしていたとか報じられるなど、組織ぐるみの「ゴーン追放」を補強する材料が続々と飛び出している。
自動車業界で綿密な取材をすることで知られるジャーナリストの井上久男氏をはじめ、日産社内に多くの情報ソースを有する人々からも同様の見立てが相次いでいる。そこに加えて、ここにきて元検事の方などからは、「別れた元妻」が刺したのではという憶測も出てきている。
権力者のスキャンダルや不正行為の多くは、敵対する勢力より、「身内」からリークされる。離婚の訴訟費用が日産から出ていたという話もあるので、「ゴーン憎し」の元妻と、「ゴーン追放」を目論む幹部の利害が一致して「共闘」をしたのでは、というわけだ。
一方で、これらのストーリー自体が、ゴーンやルノー側の「スピンコントロール」(情報操作)である可能性も全くのゼロではない。
ご存じのように、不正やインチキが発覚した経営者が潔白を訴える場合、「私を貶めるためのデマだ」などと主張するのがお約束である。
筆者も記者時代、そのように解任された元・経営者の方たちから、「ハメられた」「裏切られた」というような訴えをよく聞かされて辟易した思い出がある。いつの時代も「クーデター説」は権力闘争時に飛び交う定番コンテンツなのだ。
今後、もしゴーン氏が潔白を主張する場合も、日産をルノーから守るための「国策捜査」だとか、日本人経営陣らにハメられたというストーリーがもっとも適しているのは言うまでもない。つまり、「クーデター」の既成事実化は、図らずもゴーン氏へのナイスアシストとなってしまうのだ。
ゴーン体制誕生のきっかけも
「クーデター」だった
事実、たった1人で1時間半の会見を乗り切って男を上げたといわれる、西川廣人・日産社長も「不正が内部通報で見つかり、そこを除去するのがポイント。クーデターではない」と断言するなど、あくまでゴーン氏は不正によってパージされたというスタンスを崩さない。
だが、日産という組織のカルチャーに鑑みると、こういうことを声高に主張されてもあまり説得力がない。自動車業界の方なら周知の事実だが、この会社の歴史は、クーデターの歴史といっても過言ではないからだ。
まず、記憶に新しいところから振り返ると、昨年発覚した「完成車検査不正問題」がある。
先ほどの井上氏も指摘しているが、これはゴーン氏ら経営陣が品質検査部門をリストラしたことに対する意趣返しとして、社内の不満分子が国土交通省に通報したことが発端だといわれている。不正自体は以前から行われていたのに、西川氏の社長就任から程なくというタイミングでリークされたということは、「西川おろし」を掲げたクーデター未遂事件といってもいい。
今でこそ「権力の集中」と叩かれるゴーン体制だが、そもそもたどっていくと、これを生み出したのもクーデターだった。
1999年、経営難に陥った日産を立て直そうとダイムラークライスラーやフォードも巻き込んだ外資交渉を進め、最終的にはゴーン氏をはじめ、ルノーから3人の幹部を役員として迎え入れたのは当時の社長、塙義一氏なのだが、実はこのルノー傘下入りは、相談役である歴代社長らに事前の相談もなく決められた。そのため、「ある種のクーデターといってもいい」(日経産業新聞1999年6月28日)と評されたのだ。
また、経営危機を招いた要因のひとつが、戦後からこじれにこじれた労使関係だといわれているが、ここでも社会主義国家を彷彿とさせるような劇的なクーデターが起きている。
日産中興の祖として知られ、1957年から16年という長期間、トップに君臨した川又克二氏の「労使協調路線」によって絶大な権力を握ったのが、日産グループ労組である「自動車労連」の塩路一郎会長である。
ゴーン氏とソックリ!
強権×銭ゲバだった労組会長
塩路氏は、川又社長との蜜月関係を武器にして、人事、新車開発、国際戦略という経営にも介入し、塩路氏が首を縦に振らない限り何も進められないというほどの権力を手中に収め、社内で「塩路天皇」などと恐れられるほどになっていたのだ。
だが、そんな「労組のドン」が強烈な“紙爆弾”に見舞われる。
1984年1月に発売された写真週刊誌『フォーカス』(新潮社)の「日産労組『塩路天皇』の道楽―英国進出を脅かす『ヨットの女』」というタイトルで、その豪勢な暮らしぶりと、若い美女とヨット遊びに興じる写真が掲載されたのだ。
当時の写真週刊誌の影響力は絶大で、今とは比べ物にならないほどパンチがあった。後に高杉良氏の小説「労働貴族」でも描かれた強権と豪遊ぶりは、世間からボコボコに叩かれた。
そして1986年2月22日、塩路会長は日産労組によって退陣要求決議を突きつけられ、「労働界から引退する」と表明するように追い込まれたのである。
この事件は「2・22クーデター」(日本経済新聞1986年3月17日)と呼ばれたのだが、実はこれを背後で仕掛けたのが、川又氏の後に社長に就任し、英国進出などグローバル経営へ舵を切ったことで、塩路会長と激しく対立していた石原俊社長だといわれている。
もちろん、日産はオフィシャルには、このような黒歴史を一切認めていないが、組織内で誰もが顔色をうかがうほどの強権を握り、常軌を逸したレベルで富をむさぼった挙句、内部リークによって引退に追い込まれる、という点では、ゴーン氏の追放劇と丸かぶりなのだ。
さらに、もっと過去へと遡っていけば、「労働貴族」を追放した石原社長も、かつてはクーデターの憂き目にあっている。
石原氏がまだ常務だった1969年、「日産エコー事故」というのが世間を騒がせた。高速道路で、エコーというマイクロバスの横転事故が立て続けに発生。それがシャフトの「欠陥」によるものだということが明らかになって、東京地検も捜査に動いたが、最終的には不起訴とされた。
組織に染み付いた「体質」は
簡単には変わらない
その騒動の最中、「朝日新聞」にこんなスクープが掲載された。
『「日産エコー事故」社内から(秘)通報 対策決め九ヶ月放置 東京地検に“警笛”1号 上層部も追求へ』(朝日新聞1971年2月27日、(秘)は丸囲み文字)
実は、事故の9ヵ月前、「配布先」として石原氏ら上層部の名前が記された、エコーの欠陥の原因と対策を決定した社内資料が存在していた。それが、「日産関係者」から東京地検特捜部検事の元へ持ち込まれたというのだ。
当時はまだ、マスコミと検察がズブズブでも何の問題もない時代だったので、検事に持ち込まれたはずの内部資料は新聞の一面にドーンと大きく掲載された。誰が見ても、上層部の一掃を狙ったクーデターであることは明らかだった。
表沙汰になっているだけでも、これだけのクーデターや、クーデター未遂がある。誰かが権力を握ると、誰かが背中を刺し、誰かに権力が集中すると、その人間の悪い話を捜査機関やメディアに持ち込むということが、この40年間、延々と繰り返されているのだ。
確かに、不祥事が起きたらそれをネタに経営陣を引きずりおろすとか、暴君をみんなで協力して追放するなどということは、どこの会社でも起きることだが、日産がかなりレアなのは、会社の進むべき道が大きく変わるような重要なタイミングで、必ずといっていいほど「クーデター」が起きているということだ。
先ほど述べた、日産の歴史はクーデターの歴史というのが決して大袈裟な話ではないことが、わかっていただけたのではないだろうか。
そう聞いても、「過去にクーデターが多いからといって、今回のゴーンもそうとは限らないだろ」という反論もあるかもしれないが、長く不祥事企業のアドバイスをしてきた立場から言わせていただくと、組織内で一度染み付いた「クーデター体質」というものは、なかなか変えることができない。
同じような隠蔽を繰り返した三菱自動車、データ改ざんが何十年も現場で脈々と受け継がれていた神戸製鋼を例に出すまでもなく、「組織カルチャー」というものは、ちょっとやそっとでは変わらない。
容疑段階で「ゴーン批判」全開
西川社長会見の異常さ
パワハラ上司に鍛えられた新人が、上司になると自然と部下にパワハラをしてしまうように、大企業という巨大コミュニティ内のカルチャーや価値観というのは、世代を超えて受け継がれるものなのだ。
例えば今から10年くらい前、ちょっとした不祥事に見舞われた、ある企業から相談を受けたことがある。その時、社員の皆さんが社長に言いたいことを言えない、どこか恐れているような印象を受けた。実際、不祥事というのも、社内の風通しの悪さが招いたものだった。
その会社を最近、久しぶりに訪れた。社長も代替わりしていて、すごくフランクな人になっていたにもかかわらず、その社長さんは「うちの社員は大人しくて、なかなか意見を言わない」などと愚痴っていた。
社会の荒波に揉まれている大人の皆さんならば身に染みていると思うが、人間の性格というのはなかなか変わらない。頑固な人はどこまで行っても頑固だし、いい加減な人は「心を改めました」と宣言しても、やっぱりいい加減だったりする。
そんな人間の集合体である「法人」の性格というのも、なかなか変わらないのである。
過去にこれだけ血みどろのクーデターを繰り広げて、ここまで成長した日産という法人が、外国人経営者が入ったくらいで、ガラリと性格が変わる、と考える方がおかしいのだ。
今回の会見で、まだ容疑段階であるにもかかわらず、激しい「ゴーン批判」を繰り広げた西川社長を、ネットでは「男らしい」ともてはやしている。確かに、もの言いがはっきりしているのは悪いことではないが、企業の危機管理的にはかなり型破りだ。いや、「異常」といっていい。
「逮捕=有罪」ではない。いくら不正をしていた証拠を掴んだにしても、司法の判断はこれからなのに、企業が元経営者をここまで激しく批判するのはかなり珍しい。
東京地検特捜部は極めて国策色の強い捜査機関である、ということを踏まえれば、グローバル企業である日産からすれば、もっと慎重なもの言いもできたはずだ。しかも、攻撃相手は一役員ではなく、かつてこの企業の全権を握っていた人物で、西川氏は長く側近として仕えた。自分たちにも延焼しかねない話であるにも関わらず、自信たっぷりに悪者をゴーンだけに限定できるのは、よほど何か大きな「保険」があるとしか思えない。
西川社長の上司は
クーデターを生き抜いた人物
では、そんなダイナミックな危機管理をした西川社長とはどんな人物か。
日産のホームページにある略歴は、1977年に入社の次は、1998年に欧州日産会社となっている。入社後21年間、40代前半までのキャリアの詳細はわからない。ビジネス誌のインタビューでは長く購買畑を歩んできたと記されているが、実は秘書の経験もあることはあまり知られていない。
1992年に社長に就任した辻義文氏の社長・会長時代に秘書を務めたとして、「日本経済新聞」(2007年3月9日)で、在りし日の辻氏の思い出を語っていらっしゃる。
辻氏といえば、「労働貴族」へのクーデターを仕掛けた石原氏の拡大路線を引き継いだ久米豊社長からバトンを受け継ぎ、日本の製造業の縮小均衡の先鞭をつけたといわれる「座間工場閉鎖」を断行したことでも知られている。
また、辻氏が4年の社長在任を経て後を託した塙社長は、先ほども触れたように、ルノー傘下入りというクーデターを仕掛けている。
秘書として、クーデターを生き抜いてきた日産経営陣を間近に見てきた西川氏が、社長になって程なくして、「ゴーン追放」という新たなクーデターで渦中の人となる、というのも何かの巡り合わせのような気がしてならない。
「まわる、まわるよ、時代はまわる」という歌があったが、これまで見てきたように、日産のクーデターもぐるぐると因果がまわっている。
過去に学べば、ゴーン追放は次なるクーデターの号砲になる可能性は高い。日産の内部には、こうしている今も、「次に刺されるのは俺かも」と震えている人がいるのではないか。
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