「子どもは学校に行かなくてもいいんじゃない?」 孫泰蔵「思考停止を疑え」 変化する社会を生きるために必要なスキル2018年9月6日(木) 孫 泰蔵 新しい発想を生む視点や思考の組み立て方、その実践方法について、孫泰蔵さんに聞く連載「思考停止を疑え」。今回は「教育」にまつわる思考停止をテーマに聞いた。 (聞き手:日経BP社出版局編集第一部長・中川ヒロミ) 「オフィスと社員はもう要らない」という衝撃的なメッセージから始まった当連載、孫さんが繰り返しおっしゃっているのが「思考停止せず掘り下げよう」という提言です。教育に関してもお考えがある、とのことですが。
孫泰蔵氏(以下、孫):「これまでと同じ行動を取っているほうが安心」という“経路依存性”がはたらいて、教育についても思考停止状態に陥っている人は少なくないように思いますね。 私にも小学生の息子がいますが、親としてどういう教育をわが子にすべきかと不安になります。 孫:実際、どんな不安があるのでしょう? 小さなところでは「宿題をきちんとやらなくて困った」から始まりますが、集約すると、「将来ちゃんと社会でやっていける大人に育つために、勉強をしてほしいし、できれば就職に有利な学校に進んでほしい。でも、子どもは思い通りにならない」というところでしょうか。 孫:なるほど。では、さっそく問いを立てていきましょう。まず「ちゃんと社会でやっていく」とはどういう状態なのでしょうね? 「自分でお金を稼いで独力で生活できる」ということでしょうか。経済的に自立し、周りの人とも協調できる力は、やはり身につけてほしいと感じるのが親心なんです。 孫:ふむ。そうすると、ここで次の問いが立つわけですが、僕らは本当に“独力で”生きていかなきゃいけないんでしょうか? 経済的に自立しなきゃいけないって、誰が決めたんでしょうか? というか、そもそも経済的に本当に自立できている大人って、いますかね? 会社員は経済的に会社に依存しているじゃないですか。会社が潰れた途端に路頭に迷うわけですから。なんとなく、「バイトより正社員のほうが経済的に自立している」ようなイメージがありますが、どっちも同じ、会社に依存している生き方です。 では自営業はどうでしょうか。自分の裁量で稼いでいるという点では何かに依存しているわけではないように見えます。でも実際には自営業で成功している方ほど「周りのおかげ」とおっしゃいます。 これは僕の持論として言い切るのですが、人は独力で生きていけるわけがない。皆が支え合わなければ生きられないから社会を構成しているわけです。自分だけではできないことだらけだから、誰かそれを補助してほしい。その対価としてお金が必要で、だからたくさんお金を持つと安心できるという心理が生まれる、というわけですね。他に教育上の不安といえば、何か浮かびますか? 「周りの子と歩調を合わせないといけない」という不安もよく聞かれます。自分の子どもに少しでも不登校の兆候があると「このまま引きこもりになったらどうしよう」と心配になりますし、学校の先生から「昼休みに外に出て友達と遊ばず、1人で教室で過ごしているのが気がかりです」と言われて悩んでいる親もいました。 孫:その先生にぜひ直接聞いてみたいですね。なぜ昼休みに全員外に出て遊ばないといけないのか? と。「子どもは外に出て遊ぶもの、なんて誰が決めたんですか? あなた、毎日必ず運動場で遊んでましたか?」と問いたい。大人も子どもも関係なく、行きたい時には行くし、行きたくない時には行かない。そんなの人それぞれやんか、という話です。 お稽古の強要は「パワハラ」と同じ ただ、親も子も「皆と違うことをする」と不安になってしまうのも正直なところです。周りと一緒に塾に行かせて、なんとなく受験する。子どものことになると、「取り返しのつかないことにならないように」と心配になり、安全そうな場所を選びたくなるんです。
孫:出ましたね、僕が最も引っかかるワード(笑)。「取り返しのつかないことにならないように」。これ、すごく矛盾していると思うんですよね。取り返しのつかないことっていうけど、親自身がいったいどれだけ取り返しのつかないことを経験してきたというのでしょうか? 僕の知人が「子どもを英語教室に行かせてるんです」と言ってたんですね。「いろいろ調べて、のびのびと子どもが楽しんで学べる英語教室を見つけてきたんですよ〜。すごくいいところで」と満足気に。「良かったですね!ところで、あなたは英語話せるんですか?」と聞いたら、「いえ、苦手です」と。「そうなんですか。一緒に通わないんですか?」と聞くと、「いえ、私はいいんです」って言うんですよね。「もういい年だし、海外旅行程度はなんとかなるし、今さらやっても頭固いし」って。「お子さんは楽しそうに通っているんですか?」と聞くと、「うーん、まぁ、行けばなんとか」と。それを聞いて、おかしくないか?と僕は言いたくなるわけです。ずるくないですか。子どもにはやらせるのに、自分はやらないって。子どもが自分から行きたいと言っているならまだしも、行きたがっていない子どもを行かせるなんて。部下の意思を確かめもせずに「いいから黙って、研修に行ってこい!」と無理強いする上司のパワハラと何が違うのかと。 「いやいや」と反論、あると思います。「私も親として、子どもを思ってのことです。早く英語を身につかせないと取り返しのつかないことになると心配だから」と。でもね、実際のところ、英語ができないまま大人になった自分はどうですか。取り返しがつかないことになっていますか。本当に必要に駆られたら、血眼になってやり直そうとするんじゃないですか。 いやもう、耳が痛い。確かに親も自分のことになると、取り返しはつくと思っているんですよね。 孫:そうです。30歳だろうが40歳だろうが、急に海外赴任が決まったり、英語が絶対必要な条件にさらされたら、本気でやろうとするし、取り返しはいくらでもつきます。
僕、「本当に取り返しがつかないものってあるだろうか?」と真剣に考えてみたことがあるのですが、確かにあるにはあるんですよね。例えば、35歳を過ぎていきなりトップアスリートになるのはなかなか難しいでしょう。でも、そういうことくらいじゃないでしょうかね。つまり、フィジカルな条件に縛られる特別なことでない限り、たいてい“取り返しはつく”。語学やプログラミング程度のスキルは、何歳であっても本気で取り組めば身につくものだと思います。 たしかに冷静に考えると、焦らなくていいのかもと気づきますね。 孫:僕はモワッとした不安を感じた時には、不安のもとが特定できるまで考え抜くようにしているんです。考えないといつまでも不安が消えず、焦りを解消することに忙しくなりますから。真っ暗闇の空間を歩くのは怖いけれど、その暗闇の中のどこにソファがあり、テーブルがあるのか、特定できていれば、恐れを感じずツカツカと歩けるはず。知らないこと、つまり「不明」が不安を増大させると思うんです。 そして、この増大した不安を利用しようとするのが教育産業の一部の人たちです。「バイオリンを習わせるなら3歳からですよ」「テニスのトッププロを目指すなら5歳までにはラケットを」と“取り返しがつかなくなる不安”を刺激して、親を消費に向かわせる。産業側は現在活躍している演奏家や選手が皆そうであったかのように言葉巧みに宣伝しますが、実際には、中学の部活から始めてトッププロになった人だって相当数いるわけです。本当はいろいろな事例があるのに、一部の例だけを強調して不安を喚起させる。このビジネスに巻き込まれている親はとても多い。 子ども自身の意思表示を待て その時々で最高の環境を与えるのが親の責任ではないかと思い、いろいろやらせなければと焦ってしまうんですよね。
孫:それもまた、よくある親の思考停止ポイントの一つです。「最高の環境を与えること」は親の責任だろうか?と問うてみてほしいです。自分が育てられた過程を思い出してみてください。子ども時代に親がやってくれたことのすべてが「最高だった」と思いますか。 僕の場合は、小学生時代に「野球をやりたい」と言ったら「ダメ。塾に行きなさい」と言われて野球を諦めたのですが、それで親を恨んでいるかというとそんなことはありません。本気で野球をやりたければ、親に何を言われてもやっただろうし、それほどの強い動機ではなかったことは自分でも分かります。 大丈夫です。今ピアノを習わせなかったからといって、将来、子どもに恨まれることはありませんし、もしも恨まれたとしたらろくでもないと僕は思いますよ。なに人に責任転嫁してんだと。本気でやりたければ、いつでも自分の力で切り開ける。それくらいの力は、人間誰でも備えているんです。そこを信じましょうよ。むしろ、本人が本当にやりたいと思ってないのに無理やりやらせることで、せっかく素晴らしいことなのにそれを嫌いになるかもしれないというマイナスについて考えるべきです。 子ども自身の「これをやりたい」という気持ちが芽生える時を待てと。孫さんのお子さんは4歳ということですが、「○○したい」という意思表示はさすがにまだ? 孫:めちゃくちゃありますよ。最近は、「マーブル・メイズ」というビー玉を穴に落とさずにゴールさせる工作にハマっていて、この間、僕も一緒になって段ボールで1日かけて作りました。でも、「段ボールだとイマイチ」という評価を受けて落ち込んで(笑)。「今度は3Dプリンタで作ろう!」と意気込んでます。 そういった動機付けはどうやって? 何か手本を見せるのですか? 孫:こちらから見せるというわけではなく、本人が勝手に見つけてくるんです。「YouTube」とかを見て。 「昔、自分がやりたくてできなかった野球を、わが子にはやってほしい」という思いは? 孫:まったくありませんね。自分が子どもの立場だったら嫌だと思うからです。ありがちですよね。医者になってほしいから、ナイチンゲールの伝記を読ませるとか(笑)。でも、子どもだってバカじゃないので、親の気持ちを汲み取って忖度しますよ。子どもは親が好きだから、親の期待に応えようとするものですからね。それが結果的に、本人が心から好きになれる道ならいいけれど、そうじゃなければ不幸の道にしかならない。いずれは「私の好きにやらせてほしい」「俺のやりたいことをやらせてくれよ」とほころびが出る。 とはいえ、なんでも好きなように子どもにさせて本当に大丈夫なのか?という不安はつきまとうのではないでしょうか。例えば、学校に行くことも嫌だと言いだしたら?とか。引きこもりになってしまったら、どうしようと。 孫:ここでまた思考を止めてほしくないんです。「引きこもったら何が悪いんですか?」という問いを立ててみましょうよ。引きこもりってただの結果でしかなく、たまたまインドア派で外に出る頻度が極端に少ないだけであって、「イコール100%ダメ」とは言い切れないと思うんです。 たしかに、好きなことを追求した結果の引きこもりならポジティブに捉えられるかもしれませんが、「外に出るのが怖い」というタイプの引きこもりだとすれば? 孫:なぜそうなったのかを考えることが大事だと思います。きっとその背景には、「行きたくないところに無理やり行かされて、嫌々やらされていることに適応できず、いじめられて……」という原因がある。本当に好きなことだけをやり続けていたら、「外に出るのが怖い」という気持ちになるはずがありませんよね。引きこもりの原因はいたってシンプルだと僕は思います。引きこもりは、行きたくないところへ子どもを無理やり行かせるから起こるんだと思います。「行かなければならない」と親が子どもに強いるからますます嫌いになり、それが最後には「引きこもり」という形で爆発してしまうんだと思うんです。 学校に行くかどうかも自由に選択していいと思いますし、僕個人の考えをもっと言ってしまうと、「学校は行かなくっていい」とさえ思っています。これまで自分のFacebookにもマイルドに投稿していますけれど、ぶっちゃけ、「学校なんか行かせるかっつーの」というくらいの気持ちです。 10年で世界はがらっと変わる なぜそこまで言い切ってしまえるんですか?
孫:理由をこれから説明します。以下の1900年に撮影されたニューヨーク5番街の写真には、この年に初めて公道を走った自動車が1台だけ写っています。この頃の人々の交通手段は馬車でした。しかしこの13年後の同じ場所の写真を見ると、道路は自動車で埋め尽くされ、逆に馬車が1台だけになっているんです。街の風景が一変するのに要した年数が、たった13年だったことを証明しています。振り返ると、スマートフォンも10年程度でほぼ「皆のもの」に浸透しましたよね。 1900年に撮影されたニューヨーク5番街の様子(写真:TopFoto/アフロ) たしかに10年前には想像しなかった世界を、今の私たちは生きています。
孫:世の中の前提となるテクノロジーは10年程度で変わる。交通手段の変遷でいうと、この先10年の変化として予想されるのは、当然、「自動運転」になるでしょう。 テクノロジーの変化は、人々が習得すべきスキルをも劇的に変化させます。19世紀の馬車の時代には馬術が必須科目でしたが、20世紀には運転免許が必須となり、21世紀にはAIをうまく使いこなす能力が問われていく。 社会を生きるために必要となるスキルはそのまま教育にも反映されます。19世紀には読み書き算盤、20世紀はいろいろな知識の正確な習得でした。必要な時に必要な知識を取り出して応用できる知力が評価され、それを測るためのテストも必要とされてきました。さて、これからはどうか。 知識の量ではAIに絶対にかなわない中で人間ができるのは「自ら未来を切り開く力」でしょう。具体的には4つのCと言われていて、「クリエイティビティ(創造する力)」「クリティカル・シンキング(常識を疑い、枠組みを変えて物事を見る力)」「コミュニケーションスキル」「コラボレーションスキル」。ここまではきっと、「ふむふむ」と聞いてくださる方が多いと思うのですが、僕がさらにここで踏み込みたいのが、「じゃ、この4つを教えるのに最適な場所はどこですか?」という問いです。 それが必ずしも「学校」ではないのではないかと。 孫:はい。これらの力を育む上で、学校は最悪とは言わないまでも、決して良い場所ではないと思います。1時間目・国語、2時間目・算数、3時間目・社会と、決められた時間割の中で決められた教科書の範囲を学ぶ環境で、はたしてクリエイティビティが育めるのか?と思うわけです。「勝手なことをしてはいけない」という同調圧力は、クリエイティビティにとって真逆の環境。学校や先生の方針に従わないと叱られるんですから、クリティカル・シンキングの力も育つはずがありません。 さらに、教室は同学年で統一されるというのも不自然です。多様性のある環境でのコミュニケーションスキルやコラボレーションスキルが育まれません。ということで、いまの日本の学校の大半は21世紀に必要なスキルを習得するのにはまったく適さないという結論に至ったわけです。 「経験主義型」の学びの場を増やしたい 学校をなくしてしまったほうがいい、というくらいのご意見でしょうか?
孫:いえ、「選択肢をうんと広げて、学校に行ってもいいし、行かなくてもいいし、複数の学校に行ってもいいし、学校ではない他のところで学んでもいいというような、『社会全体』で学べる環境を創ろうよ」という意味合いに近いですね。 教育哲学には大きく「系統主義」と「経験主義」とがあって、現在の学校教育の多くは、系統的にカリキュラムを組み立てて順序立てて伝授するという「系統主義」に則ったやり方をとっています。一方、ほとんど提供されてこなかったのが「経験主義」型の教育で、これは一人ひとりが個別の経験を積む中で必要に応じて知見を習得していくという方式。僕はこの経験主義型の学びの場をもっと増やしていきたいと思っているんです。 実際にその場も作られたと。 孫:千葉県柏の葉に昨年夏にオープンした「VIVITA」が、その一つのモデルですね。VIVITAは会員制の自由参加型アフタースクール・プログラムとして運営しているのですが、「ノーカリキュラム・ノーティーチャー」というコンセプトでやっています。 何をやっているかというと、子どもたちが好きなことに本気で取り組める場の提供です。ロボットを作る子、洋服を作る子、アニメーションを作る子、仮想通貨のシステムを作ろうとする子、新聞社を作ろうとする子……。無料で開放していて、レーザーカッターや3Dプリンタのような本格的なモノづくりをするための機械やプロ用のマテリアルを自由に使えます。柏の葉T-SITEの児童書も自由に読めるから、皆すごく熱心に研究していますよ。 今出入りしているのは400人くらいで、毎日来る子もいれば、時々しか来ない子もいる。別に毎日来るから偉いわけでもないので、「明日も来てね」なんて絶対に言いません。だって、「今日やって充分にできた」と思った子がしばらく来なくなるのは当然ですからね。大人が子どもを管理しない方針を徹底しています。 すべて子どもの自己判断に任せているんですね。「教える」立場の大人はいないのですか? 孫:“いろんな分野のすごい人”はちょくちょくやって来ます。それも「俺はこういうふうに作っているよ」と見せるだけで、一方的に教えることはせず、聞かれたら答えるスタンス。例えば自動車メーカーで活躍しているデザイナーの人がボランティアで来ていたりして、「車をデザインしてみたい」という子が聞きに来たら、「流体力学というのがあってね」と自然と知識の種を植えるわけです。 少し前に、ロボットコンテストを開催したのですが、独創的なすごいアイディアが集まりましたよ。僕たちはとくに教えていないんですが、「いやあ、俺には作れんわ」という傑作ばかり。「今度はこういうロボットを作りたい」「私はアプリを」と自分の好奇心がエンジンになっているから、子どもたちは夢中で学ぶんです。15時に開く前から並ぶ子もいて、ドアが開いた途端に競走馬みたいに突進して来る感じです(笑)。今すごく楽しみなのが、風船ドローンを開発した10歳の女の子。最初はうまくいかなかったんですが、ドローンのスタートアップの社長を訪ねて「教えてください」と門戸を叩いたんですよ。それで、社長さんも嬉しくなって「全部教える」とガチで技術開示をして一緒になって3カ月かけて開発して、本当に完成させちゃったという。本格的な開発に入って商品化の話もあったり。調べたら、会社登記は10歳からできるそうで、もしかしたら10歳のドローン会社社長が誕生するかもしれません。 すごく夢のあるお話ですね。 孫:アフタースクール・プログラムを始めることに「わけわからん」と言われることも多々あったんです。「孫さん、一体なんの儲けになるんですか」とか。でも、思考停止をしないようにと考え続けていった結果、こういう新しい試みが生まれて、結果として未来につながる手応えをすごく感じている。だからやはり、問いを立てることをサボらずに、考え抜くことって大事なんだなと改めて思いますね。 構成・文/宮本恵理子 写真/竹井俊晴
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