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徳島、「阿波おどり」で内紛する間にさらに地盤沈下? 衰退する地方復活の可能性はあるか
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/post-10899.php
2018年9月4日(火)18時33分 木下 斉(まちビジネス事業家)*東洋経済オンラインより転載 ニューズウィーク
「阿波おどり」で大混乱に陥った徳島市。だがその裏には徳島市の衰退と再開発をめぐる争いという根深い問題が横たわっている(徳島市の中心部、筆者撮影)
徳島の夏の風物詩、「阿波おどり」が大混乱のうちに幕を閉じました。いろいろな意味でメディア露出は多かったにもかかわらず、4日間での人出は減少して約108万人。昨年より15万人減少しました。
確かに日取りも悪かったものの、「主催者団体の巨額累積赤字」だけでなく「徳島市観光協会の破産」と来て、さらには全員参加でフィナーレとして行う総踊りについても「やる、やらない」を、祭りの当日まで引きずってしまったため大混乱となりました。
大混乱を招いた原因についてはすでに「徳島の阿波踊りが『イベント地獄化』した理由」で触れたとおりですが、「地域内の泥仕合」に本当に飽き飽きした方も多かったのではないでしょうか。一時が万事、今回の阿波おどりの混乱は徳島市の現在の状況を象徴する出来事であり、衰退地域によくある構造とも言えます。
「地域の衰退→行政の予算化→利権争い」の構図
そもそも祭りは、本来であれば「稼ぐ地域産業」があり、その「地域産業による余剰を地域内で循環させるための行事」といった側面が強くあります。大抵の伝統行事は神事と絡んだものです。そのなかでも華やかな祭りには「その地域の経済力が増した時代に発展したもの」が多くあります。
しかしながら栄華を極めた地域産業が衰退していくと、「不採算だけど伝統行事だから」ということで行政が予算を出すようになり、祭りに関連する利権で稼ごうとする人が暗躍します。阿波おどりも例外ではありません。長い歴史の中で形成されてきた、さまざまな利権の所在をめぐって互いに争っているわけです。
今回の「総踊りをめぐる小競り合い」も、ある意味の茶番です。徳島市の思惑はこうです。阿波おどり事業で過去の赤字責任を事実上認めて3億円の寄付を行った徳島新聞を、運営の中核に置きつつ、新たな「分散会場での手法で稼ごう」とするのが本心なのに、表向きは「安全のため」という建前で「総踊り中止」で押し切ろうとしました。
対立している踊り手団体である「阿波おどり振興協会」側も、「いやいや、ダイナミックな総踊りを市民は望んでいる」、などといって「総踊り」を独自に決行しましたが、不明瞭な運営が指摘され、破産した徳島市観光協会との関係がチラついたままです。
表向きは権力側と市民側の対立のようにメディアは描いていたものの、実際のところはどっちもどっちというところです。こうした「しょうもない対立」に、市民や観光客など多くの人が飽き飽きとしたことが動員数の伸び悩みにつながったことは否めないでしょう。
市と地元有力団体との対立は、実はこれだけではありません。
徳島市の遠藤彰良(あきよし)市長(2016年就任)は、選挙の争点となっていた「新町(しんまち)西地区市街地再開発」でも、白紙撤回することで市民の信託を得て当選し、中止を決定して大きな争点となっています。
「阿波おどり騒動」の裏にある、深刻な再開発めぐる対立
この新町西地区は、阿波おどり会館のある眉山(びざん)のふもとで、地元の有力者たちが土地を持ち、長年にわたって再開発計画を進めてきたエリアです。
しかし、実はこれまでの市政と再開発組合が計画してきた再開発事業は、総事業費約225億円にも上り、さらにこれから開発される施設の多くは巨大な市民ホールなどとなり、市が税金で買い取るというものでした。中止決定後、再開発組合は遠藤市長を相手取って異例の訴訟に踏み切りましたが、1審で市の決定に権利の濫用などはないとされ、控訴審判決でも棄却されています。
今回、阿波おどりをめぐる混乱のなかで破産した観光協会などは前市長、つまりは再開発推進派を選挙で推していたわけですが、当選した遠藤市長はそれを真っ向から中止に追い込んだという形となっており、再開発問題だけでなく阿波おどり問題にも無関係とは言い切れないのです。
このように、遠藤市長率いる市政側と、地元の各種団体との間ではさまざまな形で対立が起きています。阿波おどりは目に見えやすい対立構造であるからこそ、メディアなども巻き込み大騒動になっただけでしょう。
そもそも徳島自体がこのように再開発をめぐる問題や、阿波おどりの事業赤字問題などでもめるのは、前出のように、「そもそも地域経済が大きく沈んでしまっているから」と言えます。
経済に余裕があれば、再開発も行政投資などを期待せずとも推進できるわけですし、また祭りに資金を拠出する民間企業などもより多く出てくるはずなのです。経済が好調であれば財政力も豊かになるため、逆説的ですが市民ホールなどを建設する事業費などもそれほど問題にならないと言えます。しかし、経済が低迷し、引きずられて税収も低迷する徳島市にとっては、過去にやっていたことを当たり前のように続けることさえできなくなり、地域内のさまざまな組織が「誰がそのマイナスを引き受けるか」でもめていると言えます。
読者の皆さんの中には驚かれる方もいるかもしれませんが、かつて、徳島市は全国有数の大都市だった時代があります。その繁栄の礎は戦国時代に築かれていきます。藍染(あいせん、あいぞめ)です。藍染めは、「虫などが近づいてこない」ということで武士の間で人気になり、さらに江戸時代に入ると一般大衆にまで普及していきます。
人々が着る服の素材として麻から綿へ普及が変化したものの、一般的な自然染料では綿が染まらない中、藍染は綿にも染色が可能だったからと言われます。こうして、藍は多くの人たちに愛され、日本社会の到るところで見られるようになりました。明治時代に日本にやってきたイギリス人宣教師で科学者でもあるR.W.アトキンソンによって書かれた「藍の説」の中では「ジャパンブルー」と呼ばれるようになり、今でもサッカー日本代表のユニフォームは藍色なのは、これに起源があります。
もしくは、安藤広重の浮世絵で世界に広まったことで「ヒロシゲブルー」と呼ばれることもあります。安藤広重の「東海道五拾三次」を活用して、当時の人々の中でどれだけ古い藍染が普及しているかを調べた研究があります。結果、同作品に登場する衣類全体の41%、登場人物の64%が藍染めされたものを着用しているなど、いかに当時藍染が普及していたかがわかります。
このように江戸時代から明治初期にわたって広く普及した藍。そのトップブランドを誇ったのが、実は徳島だったのです。なかでも阿波藍は「本藍」と呼ばれ、その他の地域で生産されるものは「地藍」と呼ばれるほど「一段上のブランド」でした。
徳島で藍染が栄えた「3つの理由」
なぜ徳島は藍染で栄えることができたのでしょうか。その背景には大きくわけて3つあると言われます。
1)【政策要素】紆余曲折ありながらも、徳島藩は、藍染流通を一部の藍商などに独占させ、製造・販売・品質管理に至る統制制度を徹底し、藩の財政基盤として藍産業を形成していきました。こうした政策要素があります。
2)【生活様式】時代が移り変わる中で、人々の着る衣料素材が麻から綿に変化し、染料としての藍の需要が拡大しました。こうした生活様式の変化です。
3)【地理的要因】地政学的に吉野川流域に位置する、徳島の広範囲なエリアの恩恵です。徳島は毎年のように吉野川の氾濫などの影響を受けていました。そのため台風が到来する旧盆よりお前に収穫が終わる作物として藍が最適だったという地理的要因があるのです。
実質的に言えば、藍染は植物から作られる加工品であり、地域経済に落とされるお金は極めて大きく、江戸時代には「吉野川が育てた最大の特産物」と称されました。実際、阿波藩の財政基盤となり、「阿波25万石、藍50万石」ともいわれるほどの経済力を誇っていました。
その勢いは、明治時代の中ほどまで続いたのです。実は、1873(明治6)年から、1889(明治22)年の市政が敷かれるまでは徳島市は、全国トップ10の人口規模を擁する大都市でした(5万〜6万人前後で推移)。当時の徳島市は、のちに急速に発展していく横浜や神戸などとさほど変わらない繁栄を謳歌していたのです。
全国の市場を相手に形成された藍産業などによる経済力は、地域内経済にも強い影響を与えます。
たとえば取引業者が徳島を訪れた際に、藍商が接待などを積極的に行うことで飲食業界や花柳界が栄え、発展していきます。この折に阿波おどりも一般大衆の踊りというだけでなく、華やかさをグンと高めるようになったというのが定説です。地域産業によって、阿波おどりは全国からも注目されるレベルの華やかさ、藍商などの経済力で全国各地の踊りの流派を呼び込むなどして、先進的な形式へと進化していったのです。
しかしながら、武士の世の中が終わり、工業的なインディゴ(鮮やかな藍色の染料)が流通し始める明治時代の後半からは藍産業は衰退していきます。残念ながら、戦後は主たる地域産業も大きくは発展することができていません。さらに1990年代には明石海峡大橋で陸続きとなった神戸・関西エリアへ消費が流出していくことなどによってさらに衰退することになり、その結果、現在の徳島市は全国88位の人口規模の市となっています。
「内輪もめ」している暇はない、敵はつねに「外」にいる
今回の阿波おどりの大混乱については、それぞれの組織・個人に言い分はあるはずです。しかし、内輪で互いにもめればもめるほど、地域としての力は低下していきます。敵は地元ではなく、外にいます。徳島市の状況は江戸・明治中期までを頂点にして、その後産業は細り、衰退の流れを止められていません。
2018年は徳島と関西を接続することになった明石海峡大橋が開通して、20年の節目の年に当たります。もともと、徳島経済は関西経済とも海によって一定の隔たりがあったものが、橋の開通によって神戸や大阪の商業とつながりが深くなり、そして物流が改善したことによって徳島内にさまざまな「地元外資本」による大型モールが開業していきました。競争のゆるい内需経済に慣れていた徳島市中心部商業は壊滅的な打撃を受け、地域として輸出する産業も細る中、内需経済にも「決定打」となる変化となりました。
このような中で、年に一度の大イベントである阿波おどりや、再開発事業といったもので互いに利権を奪い合い地元でもめればもめるほど、それは地元が衰退し「その分だけ他の地域に吸い上げられる」と認識したほうがよさそうです。写真は2009年に撮影したものですが、今の徳島市の中心部は残念ながら、あまり変わっていません。
シャッター通りとなった徳島市中心部のアーケード街(筆者撮影)
実は、徳島市と対極にある都市も数多くあります。代表的なのが、筆者が前から注目している福岡市です。
地元のおじさんたちのもめごとが地域を衰退させる
日本の他の地域の商店街が「百貨店よ、出て行け!」などと大型店を排斥しようとし、地域内対立を深めていた時代に、福岡市では天神地区にある百貨店や商店街などが互いに連合して「都心界」を組織しました。そして、合同で、隣接する都市の商業中心地に「天神に来てください」といった「エリア営業」をかけて、しだいに優位性を築いていきました。
また、祭りでも大いに参考になります。もともと「博多祇園山笠」は、「博多部」で長らく続いてきていた伝統行事でしたが、「福岡部」にあたる天神から参画することを受け入れ、「飾り山笠」を建てるなどしています。
こうしたこともあり、もともとは新興商業エリアにすぎなかった天神は、今や九州一の商業中心市へと発展。1889(明治22)年時点では徳島市よりも人口が少なく全国15位だった福岡市は、現在全国5位の大都市へと成長しています。
徳島市の実情をみれば、市の経済力も財政力も、伝統行事とのかかわり方も含め、内輪でもめている猶予はもうありません。
一刻も早く外を見て、新たな地域経済の立て直しにとりかからなくてはいけません。簡単に言えば、次の100年に徳島は「何で飯を食っていくのか」「何に力を注ぐのか」を決めることです。それらは、官民の関係なく、地元のさまざまな組織のトップの重要な役目です。
ひとことで言えば、「地元のおじさんたちのもめごとが未来を衰退に至らしめる」のは、何も徳島市に限った話ではないのです。
「誰と戦い、誰と組むべきなのか」。より合理的な判断と行動が熱望されます。
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