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なぜ、東大卒に「活躍する人材」が少なくなったのか
http://diamond.jp/articles/-/168804
2018.5.2 田坂広志:田坂塾・塾長、多摩大学大学院教授 ダイヤモンド・オンライン
拙著、『知性を磨く』(光文社新書)では、21世紀には、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という7つのレベルの知性を垂直統合した人材が、「21世紀の変革リーダー」として活躍することを述べた。この第45回の講義では、「技術」に焦点を当て、新著、『東大生となった君へ? 真のエリートへの道』(光文社新書)において述べたテーマを取り上げよう。
■「東大神話」が崩壊する時代
世の中には「東大神話」という言葉がある。しかし、それは、文字通り「神話」であり、「真実」ではないことを意味している。
例えば、「東大を出れば、世の中で活躍できる」という神話。
この神話は、子どもを東大に入学させようとする父母の間では、いまも根強いようだが、残念ながら、これも真実ではない。
では、なぜ、こうした「神話=誤解」が生まれてくるのか。その一つの理由は、世の中で語られる二つの言葉が混同して使われるからであろう。
一つは、「求められる人材」という言葉。
一つは、「活躍する人材」という言葉。
この二つの言葉は、しばしば同じ意味のように使われるが、実は、全く違った意味の言葉である。
まず、「求められる人材」とは、文字通り、人材市場において、ニーズがあり、職に就ける人材のことだ。
これに対して、「活躍する人材」とは、自分が働く会社や組織、職場や仕事において、リーダーシップが発揮できる人材のことだ。
そして、いまの世の中における現実を述べるならば、東大卒の人材は、「求められる人材」になることはできるが、「活躍する人材」になることは、全く保証されていない。
言葉を換えれば、東大卒の人材は、どこかの会社に就職することはできるが、その会社でリーダーシップを発揮できるとはかぎらない。
筆者は、永年にわたり、民間企業で、マネジャーとして、経営者として、多くの東大卒の人材を見てきたが、それが、冷厳な事実だ。
そのことを象徴するのが、職場でしばしば耳にする、次の言葉であろう。
「あの人は、あれで東大卒なんだけれどもね…」
これは、「東大卒だから、もっと仕事ができると期待したのに、期待はずれだ」という意味に使われる言葉だ。最近、色々な職場で、この言葉を耳にする。いや、さらに、もっと厳しい言葉を耳にすることもある。
「あの人は、お勉強はできるが、世間知らずの東大卒なんだな…」
この言葉の意味は、説明するまでもないだろう。
では、せっかく「最高学府」と言われる大学を卒業し、「頭脳優秀」と言われる東大卒の人材が、あまり実社会で活躍できないという現実が、なぜ生まれてしまうのか。
■東大卒の人材が抱く錯覚
それは、端的に言えば、その東大卒の人材が、「自分は優秀だ」と思っているが、実は、実社会の基準からすれば「優秀ではない」からだ。
なぜ、そうした奇妙なことが起こってしまうのか。
それは、その人材が、実社会における「優秀さ」とは何かを、理解していないからだ。そのため、実社会に出てから、どのような能力を身につけるために努力すべきかを、間違ってしまうからだ。
もう少し分かりやすく述べよう。
世の中では、東大卒の人間は、よく「頭が良い」と言われる。そのため、自分は「頭が良い」と思い込み、そのまま、「自分は優秀だ」と思い込んでしまう。しかし、実は、東大卒の人間の「頭の良さ」とは、偏差値教育の基準における「頭の良さ」にすぎない。
そして、偏差値が高いという意味での「頭の良さ」とは、端的に言えば、「論理思考力」と「知識修得力」に優れているということだ。
すなわち、論理思考力に優れていれば、入試において物理や数学は高い点が取れる。また、知識修得力に優れていれば、日本史や世界史、生物や化学、英語で高い点が取れる。そのため、論理思考力と知識修得力が優れていれば、偏差値が高くなり、東大に入れるというのが、現在の入試の仕組みだ。
もちろん、この論理思考力と知識修得力において優れているということは、決して悪いことではない。しかし、それは、実は、人間としての「優秀さ」の初歩的な段階にすぎない。人間の持つ「優れた能力」の基本的な段階にすぎない。
だから、もし、この東大卒の人材が、実社会で活躍したいと思うならば、まず、人間としての「優秀さ」には、さらに高い段階があることを理解しなければならない。そして、実社会において、次に述べる「五つの能力」を、総合的に身につけ、磨いていかなければならない。
しかし、東大卒の人材は、なぜか、「自分は優秀だ」と思い込み、その幻想に安住し、実社会が求める「本当の優秀さ」を身につけるための努力を怠ってしまう人が少なくない。
では、「五つの能力」とは何か。
■活躍する人材が持つ「五つの能力」
この「五つの能力」については、新著『東大生となった君へ』(光文社新書)において詳しく述べたが、ここでは、その要点を述べておこう。
第一は、「基礎的能力」と呼ぶべきものだ。
これは、知的作業に取り組むときの「集中力」や「持続力」であり、その作業に、どれほど没頭できるか、どれほど継続できるかの能力だ。いわゆる「知的スタミナ」と呼ばれる能力でもある。
第二は、「学歴的能力」と呼ぶべきものだ。
これは、先ほど述べた「論理思考力」や「知識修得力」であり、現在の我が国の教育制度では、この能力の高い人間が、偏差値の高い大学を卒業し、「高学歴」と評価される。いわゆる「勉強ができる」と評される能力だ。
第三は、「職業的能力」と呼ぶべきものだ。
これは、実社会において「仕事ができる」と評されるようになるために、必ず求められる能力であり、例えば、交渉力、営業力、会議力、企画力といったものは、すべて、この能力だ。この能力の基本は、スキルやセンス、テクニックやノウハウと呼ばれる力だが、そこに「直観判断力」や「知的創造力」が加わったとき、「プロフェッショナル力」と呼ぶべき高度な力になる。この「直観判断力」や「知的創造力」は、「学歴的能力」である「論理思考力」や「知識修得力」とは全く違った能力だ。
第四は、「対人的能力」と呼ぶべきものだ。
これは、相手の考えを理解し、相手の気持ちを感じ取る「傾聴力」や、相手に自分の考えを理解してもらい、自分の気持ちを伝える「伝達力」であり、総じて「コミュニケーション力」と呼ばれる能力だ。しかし、この力の最も高度な部分は、言葉の使い方といった「言語的能力」ではない。実は、「コミュニケーション力」の八割は、言葉ではなく、眼差しや目つき、表情や面構え、仕草や身振り、姿勢やポーズ、雰囲気や空気といったものを通じてメッセージの交換を行う「非言語的能力」だ。
第五は、「組織的能力」と呼ぶべきものだ。
これは、一つの組織やチームの中で、リーダーシップが発揮できる能力であり、その組織やチームを適切にマネジメントできる能力のことだ。そして、この「リーダーシップ力」や「マネジメント力」の中核になるのは、多くの人々が、共に働き、共に歩もうと思ってくれる「人間的魅力」や「人間力」と呼ばれるものだ。
■実社会における「優秀さ」とは
このように、もし、我々が、実社会で活躍したいと思うならば、日々の仕事を通じて、この「五つの能力」を身につけていかなければならない。この「五つの優秀さ」をこそ、身につけていかなければならない。
しかし、そのために、まず、東大卒の人材が理解しなければならないことは、東大卒の「優秀さ」とは、第一と第二の能力が優れているにすぎないということだ。そして、人間としての「優秀さ」には、さらに高い段階があるということだ。
たしかに、東大卒の人材は、第一の「基礎的能力」と第二の「学歴的能力」において、高い水準の優れた力を持っていることは保証されている。
東京大学に合格するための厳しい試験勉強ができるほど、知的作業における集中力と持続力が優れていることはたしかだ。そして、難しい入学試験に合格できるほど、論理思考力と知識修得力が優れていることもたしかだ。
しかし、もし、東大卒の人材が、実社会で活躍したいと思うのならば、その二つの能力だけでなく、第三、第四、第五の能力を身につけていかなければならない。「職業的能力」「対人的能力」「組織的能力」において「優秀」と言われる人間になっていかなければならない。
もとより、世の中を見渡せば、東大卒の人材で、見事な活躍をしている人も、決して少なくない。
しかし、それは、彼らが「東大を卒業した」からではない。
彼らが、学歴に驕ることなく、実社会に出てから、様々な経験を通じて、この「職業的能力」「対人的能力」「組織的能力」を身につけ、それを磨いてきたからだ。
特に、実社会で活躍するためには、何よりも、難しい人間関係に処する「対人的能力」を身につけていかなければならない。そして、さらにそれを超え、一つの組織やチームの中で仲間が共に歩もうと思ってくれる「組織的能力」を身につけていかなければならない。その能力に支えられたリーダーシップの力を身につけていかなければならない。
現在、実社会で活躍している東大卒の人材は、「学歴的能力」に安住することなく、そうした能力を身につけ、磨いてきた人材に他ならない。
しかし、残念ながら、長く続いた偏差値教育の影響から、最近では、自身の「学歴的能力」の高さを「優秀さ」であると思い込み、実社会における本当の優秀さである「職業的能力」や「対人的能力」「組織的能力」を身につけなかったために、期待されたような活躍ができない東大卒の人材が増えていることも、事実である。
■人事部が東大卒を採用する「本当の理由」
しかし、それでも、これまでの時代は、東大卒という肩書を持っていれば、それなりの会社に就職できた。
それは、なぜか。
私は、ある銀行系シンクタンクに在籍していたとき、部長として、人材採用の仕事に携わり、数百名の人材の審査・面接を行い、人事部長と共に採用の可否を決めてきた。そのとき、この人事部長が語った言葉を、印象深く覚えている。
それは、ある東大卒の人材を採用するかどうかの判断に迷ったときのことだ。最後に、その人事部長が、こう言った。
「いいじゃないか…。まあ、地頭は良いんだから、とりあえず採用しておけば…」
これは、何を言っているのか。
東大卒だからといって、「職業的能力」「対人的能力」「組織的能力」が高いということは何も保証していない。従って、当社で活躍する人材になるかどうかは、現場で使ってみなければ分からないが、「学歴的能力」はある(地頭は良い)のだから、言われた仕事はしっかりやるだろう。知的創造力やリーダーシップなど、期待した能力が無ければ、そうした能力を持つ人材の下で、部下として働かせればいいだろう。会社で幹部になっていく人材ではないとしても、優秀な兵隊として使えばいいだろう。
分かりやすく翻訳すれば、この人事部長は、そう言っているのだ。
そして、こうした考え方をするのは、この部長だけではない。いま、世の中の大企業の多くの人事部長が、同様の考え方をしている。
すなわち、人材採用において、採用したすべての人材が、将来、幹部になっていくことを期待しているわけではない。その必要はない。しかし、その幹部やリーダーの下でしっかりと働く「兵隊」は必要だ。優れた知的創造力やリーダーシップを発揮する人材ではなくとも、言われたことを正確に早く実行できる、「地頭」の良い兵隊は必要だ。その点、東大卒は、期待はずれでも、「地頭の良い兵隊」としては使えるのだから、とりあえず、採用しておこう。
実は、大企業の人事部が、東大卒を採用する本当の理由は、こうした考え方からだ。
会社を軍隊にたとえることは、好きな比喩ではないが、東大卒の人材は、この「地頭」という言葉と「兵隊」という言葉の怖さを知っておくべきであろう。
いまや、「東大卒だから知的創造力があるだろう」「東大卒だからリーダーシップがあるだろう」などと期待している人事部は存在しない。そして、東大卒だから出世が約束されている会社など存在しない。
しかし、それでも、先ほど紹介した人事部長の言葉、「いいじゃないか……。まあ、地頭は良いんだから、とりあえず採用しておけば…」という言葉は、東大卒の人材にとっては、救いの言葉であった。
なぜなら、その企業で、その官庁で出世はできないとしても、東大卒という「地頭の良さ」(学歴的能力)の証明書さえ手にしていれば、とりあえず、企業や官庁は採用してくれるし、社会で食いはぐれることはなかったからだ。
「活躍する人材」になることはできなくとも、「求められる人材」になることはできたからだ。
しかし、これからの時代は、残念ながら、その救いも無い。
それは、なぜか。
人材市場に、「人工知能革命」の厳しい荒波がやってくるからだ。
次回、そのことを語ろう。
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