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森永製菓<下>「大森永」の誕生を阻むドンたちの根深い確執
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/227441
2018年4月19日 日刊ゲンダイ
森永製菓・新井徹社長(C)日刊ゲンダイ
森永製菓と森永乳業の経営統合が幻となった。
2017年3月30日、両社は統合の見送りを発表した。製菓と乳業の統合話は今回が初めてではない。
創業者・森永太一郎の孫の剛太(現・会長)は1997年、松崎昭雄(現・相談役)の後を継いで森永製菓の6代目社長に就いた。創業家直系の3代目は統合への意欲を隠さなかった。
2008年12月、製菓と乳業の統合交渉が報じられた。明治製菓と明治乳業の統合が発表された直後だった。いよいよ「大森永」の誕生かと受け止められた。しかし、統合交渉は進展しなかった。食品業界は、両社の根深い確執をあらためて思い知らされた。
戦後の1949年、製菓の乳業部門が分離して森永乳業が発足した。現在も、製菓は乳業の10・5%の株式を保有する筆頭株主だが、両社の関係は微妙だ。
55年に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件が暗い影を落としている。森永乳業が乳業トップの座から滑り落ちただけにとどまらなかった。菓子の不買運動に発展、森永製菓の経営に大打撃を与えた。 これが製菓が、乳業に不信を抱く原因となった。
関係を悪化させたのは創業家の扱いだった。ヒ素ミルク事件以降、乳業では森永家以外の人物がトップに就いてきた。事態を収拾し再建を果たしたのが大野勇。乳業の“中興の祖”と呼ばれている。
85年、勇の次男の大野晃が乳業の社長に就いた。親の勇から子の晃への世襲である。当時、製菓の社長だった松崎昭雄が「オーナー家でもないのに、なぜなのだ」と異論を唱えた。これに対して晃は「製菓でも番頭の松崎が社長になっているではないか」と反発したという。
このことが両者の感情的な軋轢を生んだとされる。
ライバルの明治製菓と明治乳業が統合した「大明治」に触発された創業家の森永剛太は「大森永」の結集に意欲を燃やした。だが、乳業の大野晃が目の黒いうちは大同団結は難しいというのが業界の共通認識だった。
乳業のドンとして30年間君臨してきた大野晃は15年6月、会長を退任して名誉会長に退いた。これで障害がなくなり製菓と乳業が統合へ向けて動き出すことになる。
しかし、両社の確執の根は太く、そして深い。統合後の人事をめぐり対立した。
乳業社長の宮原道夫が持ち株会社の会長に、製菓社長の新井徹が社長に就く案に、乳業側から反対論が噴出した。
資本関係では、製菓が乳業の大株主だが、売上高は乳業が製菓の3倍(18年3月期の売上高は乳業が6000億円、製菓は2075億円の見込み)。製菓に主導権を握られることに我慢ならなかったわけだ。
永田町では「“安倍昭恵騒動”を乳業が嫌がり、断る理由にした」との噂が流れた。だが、これは後講釈。相互不信が原因だ。
両社の確執を知らない世代がトップに就かない限り、統合は難しいだろう、といった悲観的な見方さえある。
「大森永」が頓挫したため、いち早く、製菓と乳業が合併した明治ホールディングス(18年3月期の売上高は1兆2623億円の見込み)に業績で大差をつけられた。
世界の食品業界では、大型再編が進む。メンツとプライドにこだわる森永は、どうやって、この荒波を乗り切るのだろうか。=敬称略
有森隆 ジャーナリスト
全国紙の経済記者を経て独立。豊富な人脈と経験、知識を生かし、経済事件の裏側をえぐったり、経営者を論評する名著が多い。「企業舎弟 闇の抗争」「創業家物語」「ネットバブル」など。経済記者の大御所である。
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