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後期高齢者が増える「重老齢社会」到来、定年の廃止が喫緊の課題だ
http://diamond.jp/articles/-/164195
2018.3.21 山崎 元:経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員 ダイヤモンド・オンライン
重老齢社会到来は時間の問題
現在、65歳以上の国民が高齢者と呼ばれているが、65〜74歳の「前期高齢者」と、75歳以上の「後期高齢者」に分類されている。寿命が長くなっているのはいいことなのだが、後期高齢者の数が前期高齢者の数を上回る状況が目前に迫っている。
総務省の人口推計によると、2月1日時点で、前期高齢者が1766万人、後期高齢者が1764万人であり、後者が前者を上回るのは3月か、あるいは4月かという“時間の問題”になっている。
後期高齢者が、高齢者の多数を占める状況を「重老齢社会」と呼ぶ向きもある。
近年、わが国では「人生100年時代」が流行語となっているが、寿命とともに、健康で他人の助けを借りずに過ごすことができる「健康寿命」も延びており、端的に言って、人が活発に活動できる時間が延びている。
しかし、高齢化が急速に進む中で、わが国の制度や慣行は、必ずしもこれに追いついていないように思われる。
では、「重老齢社会」に向かうわが国にあっては、何が必要なのかだろうか。
「定年」を即刻廃止せよ!
国民の寿命が延びて、同時に元気で活動できる健康寿命も延びていることを思うと、第一に行うべきことは、「定年」という慣行を廃止することだろう。
もともと「定年」という決めごとは、個人の能力差を無視した、年齢による不当な「差別」の一つだ。
一方この制度には、組織にとって、人的な新陳代謝を手間を掛けずに自動的に行う効果があった。わが国の法制上、一方的な解雇が難しい正社員に対しても、社員が一定の年齢になるとこれを理由に退職させることができるので、雇い主にとって、解雇にかかわる手間が必要ない点が便利だった。
しかし、「定年までは勤められるが、定年で解雇される」と分かっていると、定年が近い社員や公務員は、安心して勤められる一方で、生産性を上げるモチベーションが乏しくなる。
他方、相対的に高齢であっても、能力や意欲の高い組織人もいるのであり、彼らを形式的に定年で解雇したり、役職を奪って収入を大幅に下げたりすることは、彼らの能力発揮を阻害する。
ただし、定年の廃止は、正社員解雇の条件緩和をセットで進めるべきだ。解雇に関しては、金銭的な補償のルールを法律で定めて、大企業だけでなく中小企業に対しても徹底すべきだ。
「重老齢社会」にあっては、まだまだ元気な「軽老齢層」(65歳から74歳)を能力と意欲に応じて柔軟に活用することが重要であり、同時に、人材の流動化を進めることが望ましい。
確定拠出年金の拠出可能年齢延長も
人口構成が高齢化する社会にあっては、年金制度を人口構成に合わせて調整しなければならない。
国民年金、厚生年金については、支給開始年齢を引き上げることが適切だが、引き上げには相応の時間を要する。これとは別に、確定拠出年金の拠出可能年齢を70歳程度まで引き上げることが急務だろう。
通称「iDeCo」こと個人型の確定拠出年金は、一昨年から加入可能な対象者が公務員や主婦を含むなど大きく拡大されたが、高齢者の労働参加が望まれるわが国にあって、60歳以降拠出ができないことは、重大な制度的な欠陥と言って構わないレベルの問題だ。
iDeCoを含む確定拠出年金(DC)は、企業や国に運用のリスクを負わせることなく、個人が自分の判断で老後に向けて経済的に備えることを後押しする制度であり、「軽老齢層」が、自分の能力や意思に応じて利用することができる柔軟な仕組みだ。彼らが働きながら、「重老年」期に備えられる制度を充実させることが必要だ。
また、高齢者に限らずだが、社会人が自分の知識やスキルを再強化するために、大学等の学校教育を利用できるようにする必要もある。
例えば、「65歳」というと、大学を卒業してから概ね40年以上が経過している。学問の分野にもよるだろうが、かつての知識が陳腐化しているケースは少なくあるまい。また、現在の日本の大学教育は、仕事や社会生活に直接役立つ内容が少ない。
「人生100年時代」にあっては、社会人が高齢になっても、自分の必要に応じて教育機会を持てることが望ましい。
高齢者を含む社会人への教育機会の提供は、現在の日本の大学が進むべき方向の一つだが、基本的には大学の自主性に任せるべきテーマだろう。少子化で若年層の需要が減る中で、大学経営にとって活路の一つでもある。
「重老齢社会」にとって、最大のテーマの一つが介護だ。介護に関しては、介護に関わる人の報酬、介護施設の数、介護保険制度、など多くの検討事項があるが、大きな方向性として、在宅の介護よりも、施設における介護を重視することが望ましいのではないだろうか。
もちろん、それぞれの個人や家族の好みと方針を尊重すべきだが、たとえば、身内である重老者の介護に手を取られて、いまだ働くことができる軽老者が十分に働くことができないとすると、家庭にも社会にも損失が大きい。
社会全体として、介護にあって「規模の利益」を追求すべきだろう。
「老年学」に期待すること
人は、加齢によって、体力だけでなく認知能力や判断力も落ちる。このことによって、法律、経済、医療、社会活動などに、さまざまな問題や特有の現象が起こる。こうした問題を総合的に研究する学問をジェロントロジー(老年学)と称し、近年関心が高まっている。
例えば、金融取引にあっては、加齢で判断力が衰えて適切な判断ができない高齢者もいれば、高齢であっても確かな判断力を持ち、若年者と変わらない投資などを行いたいと考える人もいる。
金融機関は、現在、高齢者との取引にあって、「○○歳以上の顧客には×××のような金融商品の勧誘をしない」といった社内ルールを設けていることが多い。だが、例えば、画像認識とAIで、表情ややり取りを分析すると、十分な判断力を持っている高齢者を見分けることができ、大丈夫な高齢者にはリスクの大きな商品の勧誘対象にしてもいいのではないか、といった点に期待を持っているようだ。
高齢者が多額の金融資産を持っているケースが少なくない現在、金融機関が彼らをターゲットにしたい気持ちはよく分かるが、ジェロントロジーの成果が悪用されることがないように注意したい。
筆者がジェロントロジーに特に期待するのは、高齢者に対する後見人制度の研究だ。現在の法律制度下でも、認知・判断などの力が衰えた高齢者には、成年後見人をつけて、本人の代わりに財産の管理や処分などを行うことができる。
これまで、本人の家族が後見人になるケースが多かったが、この場合、遺産の分配をめぐって相続人同士でもめたり、相続人である家族が相続財産を大きくするため、本人のためにお金を十分使わない場合があったりといったトラブルの可能性がある。
一方、近年多い、弁護士や司法書士などの第三者である専門家が後見人に指名されるケースでは、後見人が、判断力があった頃の本人の意向を十分に汲んでいないケースがあったり、場合によっては、金融機関などと結託して、金融機関に多額の手数料を落とす取引を多数行ったりするような、ひどいケースがあったりすると聞く。
どのような後見人を選び、加えて後見人が適切に行動しているか否かをどのようにモニタリングするか、そのために必要な法制度やビジネス、あるいは技術をどのように用意するといいのかといった方策を考えることは、簡単ではなさそうだが、社会的な価値が高いテーマだと思う。「重高齢社会」に備える上で、研究の発展に大いに期待したい。
(経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員 山崎 元)
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