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ゼロ金利が示す「資本主義の終わり」は、決して悪いことではない
http://diamond.jp/articles/-/163825
2018.3.19 佐伯啓思:社会思想家、京大名誉教授 ダイヤモンド・オンライン
1999年にいわゆる「ゼロ金利」政策が始まって以来、多少の変動はあっても、20年近くにわたってゼロ金利が続いている。2016年には民間銀行が日限に持つ当座預金の準備預金金利をマイナスにするという政策がとられた。将来に向けて「資本」を増殖させ、その「資本」によって経済を成長させる「資本主義」で、資本の価格がゼロというのは何を意味するのか。資本主義の大きな変質が起きていると考えるべきだろう。(社会思想家、京都大学名誉教授 佐伯啓思)
将来の期待収益が低下
資本主義の成長力、限界に
企業が投資をする際の資金調達コストは、長期の実質金利に依存する。
長期の実質金利は、政策金利に代表される短期金利から物価上昇率の期待を差し引いたものと見てよいから、物価上昇率の期待がマイナス、つまりデフレが続くとみなされれば、仮に政策金利がゼロでも実質的にはプラス金利になる。
だから実質金利をゼロまで落とそうとすればマイナス金利政策をとることもあり得る。
だが理屈はそうだが、これは異常な事態というほかない。
日銀は民間銀行が日銀の口座に金を積むことに対して「罰金」を科していることになる。それほどまでに、民間の資金需要が弱いことになる。
そもそも利子とは何か。
現在、使うはずの資金を他人に貸し付けることで、将来の回収を目指す、その際の手数料である。
ただそのためには、その資金を必要とする経済主体がなければならない。
この経済主体は、個人であれ企業であれ、その資金を投資して将来に収益を得ることを目的としており、期待される収益率は利子率を上回らなければならない。これが、経済活動の原則である。
資本主義的な経済活動とは、将来にわたって継続的に利益をあげることで、新たな投資を生み、その投資がいっそうの収益をあげる、という循環的拡張だ。
だから、利子率とは、この将来にわたる経済活動の活性化を測定する尺度だともいえよう。
将来の見通しが明るく、経済が成長するとみなされれば、企業は投資のために資金需要を活発化する。そのときには利子率は上昇する。
ということは、ゼロ金利とは、それほどまでに、将来の経済状態についての楽観的な期待が持てない、ということだ。
将来にわたる企業の収益率の予測がそれほど悪い、もしくは、あまりに不確実性が高すぎて、収益率を予測できない、ということである。
このことが意味するものは何か。
それは、将来に向けて「資本」を増殖させ、その「資本」によって経済を成長させるという「資本主義」が行き詰まってしまう、ということだ。
ゼロ金利にしなければならないほど資金需要が停滞しており、それほど将来の投資から得られる期待収益が低下しているのだ。
端的にいえば、資本主義の成長力が著しく低下しているということになる。
「禁じ手」動員しても低成長
新たな社会に直面したと考えるべき
確かに、資本主義には景気循環があって、一時的に生産過剰になって景気が悪化する。このような状態に陥ったときには、財政・金融政策によって景気を回復させることができる、はずだった。
にもかかわらず、速水総裁が緊急避難的と考えていたゼロ金利が30年も続けば、これはもはや例外的とはいえない。
しかもこの間、日本経済はゼロ成長に近い低成長を続け、さらには物価・賃金が傾向的に低下するというデフレ経済にあった。
アベノミクスは、いくぶん、この状況を改善し、企業業績の回復(これは円安や米中の経済回復による輸出企業の好調によるところが大きい)や雇用の拡大、また株式市場の活性化をもたらしたが、それも、これほどの異次元的金融緩和と機動的財政拡張の発動からすれば物足りないというほかない。
しかも、この二、三年、財政と金融を一体化させ、事実上、日銀が大量の国債を買い取り、政府財政を日銀がファイナンスするに等しい「禁じ手」まで動員してのことなのである。
もはや、経済政策そのものが機能しなくなっている、といわねばならない。
財政・金融政策によって景気を回復させ、経済を成長させるという常識が無効になりつつあるのだ。
どうしてこうなったのか。
エコノミストは、経済学に基づいた政策論争を繰り返すが、私には、そのようなレベルの問題ではなく、この事態は、資本主義経済の大きな変質であるように思われる。
それは、一時的な政策上の問題というより、資本主義経済の本質にかかわる長期的な問題である。
われわれは、金利ゼロ社会という新たな社会に直面しているのだ。
80年代以降、
レジームの変化を繰り返して来たが
戦後、先進国の経済は、おおよそ30年にわたってかなりの成長を遂げた。平均して年率で10%近くの成長率を実現した日本の高度成長はとりわけ顕著な例である。
この成長を可能にしたのは、製造業を中心とする大量生産・大量消費であり、それを支えた企業体制と中間層の形成であった。
企業の技術革新が新たな商品を提供し、消費者はそれに飛びつくことで大量消費・大量生産を可能とし、賃金を押し上げるという好循環が生み出された。製造業を軸にする「産業中心的循環」である。
それが、70年代末にはおおよそ行き詰まる。
アメリカではダニエル・ベルが『脱工業社会の到来』を書いて、製造業中心の工業社会の段階は終わった、と述べた時期である。
新たな経済的レジーム(体制)が模索される。そこで登場したのがいくつかの試みであった。
第一に、グローバル経済の形成である。
発展途上国を巻き込んだグローバル市場を作り出すことで、先進国に利益を誘導するという方向だった。
第二に、製造業の実体経済から金融中心経済への移行だ。
金融市場の自由化や新たな金融技術の登場(各種のデリバティブや金融工学など)によって金融市場に資本を集めて利益を生み、その金融的利益によって消費を喚起し、経済を刺激するというやり方だ。
「金融中心的循環」といってよい。
そして第三に、IT革命に代表される情報経済への移行だ。
しかし情報経済は、製造業のような装置産業に見られる巨大な投資を必要としない。また、雇用効果もさして大きくはない。
つまり、新たな産業革命である情報化は、マクロ的にはさしたる成長力を持たないのである。
こうして、とりわけ冷戦以降、資本主義経済のレジームは大きく変わった。
(1)「グローバル経済」の形成、(2)「産業中心的循環」から「金融中心的循環」へ、(3)「工業社会」から「情報社会」への変化だ。
そして、それ支える経済的イデオロギーも大きく変わった。
端的にいえば、ケインズ型・福祉型の経済運営から新自由主義的な市場中心主義への変化であり、冷戦以降の上の三つのトレンドに適合するのは、新自由主義型の市場中心主義だった。
「グローバル経済」や「金融中心経済」や「情報経済」が肥大化すれば、政府主導の経済政策はうまくいかない。
とりわけ、これほどグローバルな金融市場が膨張すれば、金融市場の動向は国際的な投機資本の手に委ねられ、それが経済全体の動きを左右する。
たとえどれだけゼロ金利によって景気を刺激しようとしても、市場へ供給される資金は金融市場へと流れ込み、投機的に運用されるだけだ。
先進国の成長率は明らかに鈍化
成熟経済では消費は拡大しない
それでは80年代以降のこのレジーム変化によって先進国経済は成長したのだろうか。
一般論としていえば、その後、40年以上が経過し、先進国全体の成長率は明らかに鈍化している。
日本の場合は、90年代以降、ゼロ成長に近い状態である。
70年代までの「ケインズ型・福祉型資本主義」のもとでの世界のGDP成長率は4.8%程度、それが80年代以降の「新自由主義型資本主義」のもとでは3.2%程度だ。
日米欧で見れば、成長率の下落傾向はいっそう著しい。
先進国経済は、少なくとも国内で考える限り、ある程度の成熟段階にある(これは社会が成熟しているということではない)。
60年代のように、技術革新によって生み出された新商品に人々が群がり消費が喚起され、それがさらに企業の投資を呼び、総需要の拡張が経済を牽引した状態ではない。
今日、ゼロ金利という異常事態を演出してまで企業の投資を誘発しようとしてもさしたる効果がないのは、結局のところ、将来にわたって大きな消費需要の拡大が期待できないからである。
確かにこの間の超金融緩和によって家計金融資産は、この20年で1.5倍に増えた。今では、1800兆円ほどの個人金融資産が積み上げられ、そのうちの半分ほどが現金か銀行預金である。
人々は資金を消費には回さず、将来に備えて手元に置く。これは成熟経済の特徴である。
ケインズは、いずれ、資本主義は豊かさの果てに、ほとんど資本収益率がゼロになるほど資本を積み上げるだろうと予測していた。
それは資本主義の終わりである。
資本主義とは、つまるところ、人々の欲望を喚起し、現在の投資によって将来にその欲望の充足を可能とするシステムだからだ。そこに経済成長が可能となる。
だがこの欲望の膨張と、消費・投資が生む経済成長が傾向的に低下し、徐々にゼロに接近するということは、資本主義の限界を意味している。
しかし、それは決して悪いことではない、と思う。
GDP至上主義を変えれば
悲惨でも衰退でもない
われわれは徐々に「定常化社会」へ向かっている、というに過ぎないのだ。
そして、それは決して悲惨なことでもなければ社会の衰退でもない。
戦後、われわれを突き動かしてきた物的な意味での「豊かさ」がそれなりに充足した、ということである。
いまこの成熟経済でわれわが必要とするものは、市場競争によって利益を生むものではなく、生活の質にせよ、医療、教育、地域の維持、文化的なものなど、公共的性格が強い。
ただ、その方向に社会を変えるには、われわれの価値観を変えなければならないのだ。
成長至上主義から脱却し、GDPという市場価値で測定されたものにのみ価値を認めるという今日の偏向を見直さなければならない。
お金さえ供給すれば豊かになれるという金銭中心的な価値も見直す必要があるだろう。
「ゼロ金利時代」とは、われわれの社会の価値基準の変更を迫る時代なのである。
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