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「日銀vs政治」の20年戦争、勝ったのはポピュリズム政治だった
http://diamond.jp/articles/-/162580
2018.3.9 ダイヤモンド・オンライン編集部
今後5年間の金融政策の舵取りを担う日銀の新執行部は、再任された黒田東彦総裁をトップに、日銀生え抜きの雨宮正佳、「リフレ派」の学者、若田部昌澄両副総裁の体制で今月中旬からスタートする。当面は「異次元緩和の維持」を掲げるとしても、最大の課題は、「金利ゼロ」からの正常化のレールをどう敷くかだが、「ゴール」までには10年あまりかかる見通しだ。そもそも20年近くに及ぶ「金利ゼロの資本主義」を生み出したものは何だったのか。金利のつかない資本主義とは何を意味するのか。DOL特集「金利ゼロの資本主義」第1回目は、ポピュリズム政治との関係を考える。(ダイヤモンド・オンライン特任編集委員 西井泰之)
再任の黒田総裁の「憂鬱」
政治に追い込まれた日銀の過去
1月4日、日銀本店内の役員食堂は、あちらこちらで談笑の輪ができた。この日、催されていたのは、総裁以下、新旧の政策委員や局長クラス以上の幹部が集まって開かれた「互礼会」と呼ばれる新年会。黒田東彦総裁になって5回目を数えていた。
だが、日銀に対し積極緩和策を求めていた安倍晋三首相の意向で、まるで “パラシュート”部隊のような形で就任した黒田総裁と、日銀生え抜きの幹部との間には、いまだぎこちなさが残っていた。
そんな状況を知る政策審議委員経験者が、黒田総裁にこう話しかけた。
「安倍首相に頼まれても、再任は受けるのはよく考えたほうがいいですよ。9月に自民党総裁に3選されても任期は3年だ。その後は誰が首相になるかは分からないですから。そうなると、今までのような政治の後ろ盾がなくなる。大丈夫ですか」
この時点では、黒田総裁まだ再任を応諾していなかったが、「黒田さんはえらく真剣な表情で話を聞いていた」と、この審議委員経験者は明かす。
政権との関係が今は盤石でも、3年後、「2%物価目標」を実現していなければ、「追加緩和策」という難題を求められる可能性もある。逆に、デフレ脱却が順調に進んだとしても、日銀が短期金利の利上げなど「出口戦略」に踏み出そうとすれば、政治に封じられてしまう可能性も否定できない──。
黒田総裁の頭には、そんな思いがよぎったのかもしれない。
実際、約20年間にわたって続いてきた「金利ゼロ」の状況は、日銀が積極的に金融緩和を進めた“結果”というわけではなかった。
政治との激しいせめぎ合いの末のことだった。
「うまい言い方で説明できた」
効果見通せないまま「苦肉の政策」
次ページの表を見ていただきたい。これを見れば分かるとおり、「金利ゼロ」の歴史は、「政治vs日銀」の“20年戦争”の歴史でもあった。
速水優総裁時代の1999年2月、「ゼロ金利政策」が初めて導入された時も、政治からの強い圧力があった。
バブル崩壊後の景気低迷が長引く中で、前年に経営破綻した日本長期信用銀行(当時)などの処理が政治問題になる一方で、円高が急加速していた。
「長期不況の原因はデフレであり、デフレは日銀の金融緩和が不十分だからだ」
そう主張する「リフレ派」と呼ばれる経済学者らに呼応するように、自民党や政府からは、長期国債の買い切りオペの増額や、「インフレ目標」の導入を求める声が高まった。
日銀は、誘導目標としていた「短期金利(無担保コール翌日物金利)」を引き下げて0.15%とし、「市場の状況を見ながら、一層の低下を促す」ことを決定。これが、事実上の「ゼロ金利政策」といわれた。
4月には、「デフレ懸念の払拭が展望できる情勢になるまで」、ゼロ金利を続けると表明。これは「時間軸政策」といわれ、日銀が将来もゼロ金利を続ける「コミットメント」することで、物価がいずれ上がるだろうという“期待”を醸成する狙いと説明された。
当時の日銀幹部によると、政策金利を0.5%に下げた頃から、金利が「ゼロ」になる事態を想定して、日銀内では二つの政策がひそかに検討されたという。
その一つが、金利ゼロのままずっと維持するシナリオ。金利がゼロまで下がれば、それ以上は緩和を続けても同じだという判断だった。
もう一つが、さまざまな金融資産を日銀が買い取ることで、市中に資金を流すというものだった。
「資産買い取りの効果は当時から疑問だった。いくら日銀が資金供給を増やしても、企業の資金需要が乏しければ、銀行は当座預金に置いておくだけだからだ。一方、金利ゼロでずっと行くシナリオは、『時間軸政策』といううまい言い方をしたことで、まるで日銀がインフレ目標に似た、新しい政策に取り組んでいるかのように受け止めてもらえた」
政治の要求に応じたように見せながら、自身の裁量や、金融政策の自由度を確保しようと、必死の抵抗を見せる日銀。
しかしこれは、あくまでも「始まり」に過ぎなかった。
抵抗を続けた日銀
金利調節の手段を失う危機感
そうして導入したゼロ金利政策の解除に踏み切ったものの、米国ITバブルの崩壊を受けて2001年3月に「量的緩和策」を打ち出した時も、同じだった。
この時は、政策目標を「金利」から、銀行が日銀に預ける当座預金残高という「量」に変える一方、コマーシャルペーパーや国債などを買い増すことで、市中への資金供給を増やし、インフレ期待を醸成するという“理屈”が考えられた。
「ゼロ金利に戻せば、解除の失敗を認めたと受け止められる。また、少しでも金利の機能は残しておきたかった。それに当座預金残高を目標にすれば、金融緩和をもっとやれという圧力に対しても、残高目標を上げていくことで対応できる。残高が膨らんでも“実害”はないし。それで政治を満足させられるのなら、それでいいと考えた」と当時の日銀幹部は振り返る。
そもそも日銀は、なぜここまで「ゼロ金利」に抵抗し続けてきたのか。
金利とは、将来の投資収益が、どの程度見込まれるかで水準が決まるもの。一方で、資金を持っているものの当面使う必要がなく、提供してもいいという人に支払う、お金の“価格”でもある。金利を通じて、投資と貯蓄は最適点で調整される。
日銀は、そうした性格を持つ金利を操作することで、需要(投資)を調整し、持続的な経済成長や物価安定を図ってきた。だが、金利がゼロとなれば、金利調節という自らの政策手段を失うことになってしまうほか、企業経営の規律を弛緩させ、競争力を失ったゾンビ企業を延命させることにもなりかねない。
日銀はそうした事態だけはどうしても避けたかったのだ。
最強硬派の安倍政権誕生で
政治優位が決定的に
だが、日銀と政治との綱引きは、第二次安倍政権の誕生とともに「政治優位」が決定的になってしまう。
安倍首相は、「ゼロ金利解除」時には官房副長官、福井総裁時代の量的緩和解除時には官房長官として、日銀が官邸の意向に反した政策を決めていく姿を苦々しい思いで見ていたといわれる。
民主党政権下で自民党が下野した時代には、日銀に対する政府の権限を強める日銀法の改正や、インフレ目標を主張する対日銀強硬論者の山本幸三議員らが始めた自民党内の勉強会に参加。同時にリフレ派の学者らとの親交を深め、政策ブレーンとして使うようになった。
そして、2012年秋の自民党総裁選。政府と日銀が政策協定(アコード)を結んで大胆な金融緩和を進めることなどを掲げて総裁の座に就き、直後に行われた総選挙でも、インフレ目標設定や、日銀法改正を公約に掲げた自民党が圧勝する。
もはや日銀に抵抗の余地はなかった。
閉塞感背景に「人気取り政治」
欧米中央銀行も受け身に
政治と中央銀行との“距離”、そして金融政策の在り方については、古くから議論されてきた問題だ。
「選挙で勝ったから、政治が公約した政策を全面的にやれといっても、専門的な見地からおかしなことであればやらない。かといって、民主主義国家で、選挙で選ばれた代表が言うことを100パーセント間違っているとも言えない。中央銀行は独立性があるといっても、そこまでやれば国の中に国を作るようなことになるからだ。結局、中間点を探るしかない」
今でも、当時の日銀幹部からこうした声が聞かれる。
だが、政権や与党には、こうした日銀の姿勢が物足りなく感じられた。「日銀は強く言わなければ動かない」から、次第に「強く言えば動く」となって、さらに政治の圧力が強まっていくという悪循環が生まれてしまった。
リーマンショック後は日本のみならず、海外の中央銀行も政治からの圧力にさらされ、多くの中央銀行が“苦渋”を味わってきた。
時を同じくして、先進国は低成長が構造的に固定化し、一部の勝ち組企業や富裕層を除いて、大半の企業は激化する競争に疲弊、雇用や賃金もかつてのように伸びなくなった。
そうした閉塞感が不安を生み、社会全体にストレスが広がった。そうした“世論”を感じ取った政治が人気取りに走り、金融政策に過剰な役割を担わせた。
社会保障費や財政赤字が膨らみ、財政出動が容易にできなくなった中で、「打出の小槌」のように使われたのが金融政策だった。
財政政策は議会で審議されるし、得をする人や損をする人が見えやすいが、利下げに関しては審議もなく、損をする人が見えにくいからだ。付け加えるなら、財政赤字を抱えた政府や企業は楽になる。
こうした状況下で、中央銀行も抵抗を示しながらも金融の“蛇口”を緩め続けた。
金融のグローバル化や技術革新が進む一方で、リスクが見えにくい“不確実性”が増す中、中央銀行は「経済失速の責任を負わされたくない」との意識もあって、多めの資金供給をしがちになった。
その結果、大量の資金供給(流動性供給)は、金融危機などの混乱や不安を抑える短期的な手段のはずが、輸出を伸ばす「通貨安」を狙った“為替対策”にも使われるようになる。
そして、いつしか慢性化し、まるでモルヒネを打ち続けるような政策に変質していった。
抜本策に取り組まず
「ゼロ金利」依存の経済に
中でも日本は、こうした「金融依存のポピュリズム」が現れた典型的な国だ。
そもそも物価の下落は、世界的な供給構造の変化やIT化など、さまざまな要因が原因だったにもかかわらず、「悪いのはデフレであり、デフレ脱却に不熱心な日銀のせいだ。金融緩和を拡大すれば、全てが解決する」といったシンプルな理屈にすり替えられ、ありもしない「幻想」が振りまかれた。
不況とデフレとの区別さえついていない政治家もいたし、違いを分かっていながら、景気拡大局面でもデフレ脱却を名目に不況対策を求める政治家もいた。
気がつけば、財政も企業もゼロ金利に“依存”してしまい、グローバリゼーションや人口減少といった環境変化への対応に遅れを取ってしまっている。
「当初は、効果もないが害も少ない“微益微害”と考えた政策が、だんだんそうでなくなっていった。最も怖れたのは、日銀が『国債消化機関』になってしまうことだ。政治の言っているロジックをまとめると、そうなる。それだけは絶対に食い止めようとしたんだが…」と日銀の元幹部は言う。
だが、実質的に日銀は政府との戦いに敗れつつあり、元幹部が憂う事態に近づいている。金利ゼロの状態がこれだけ続いても、企業が投資を増やす動きは鈍く、人々は逆に消費を抑えて自己防衛に走る。
日銀が「出口」に踏み出そうにも、社会全体が重い錨のように「ゼロ金利」にぶら下がっている。
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