林博史『極東国際軍事裁判に各国が提出した日本軍の「慰安婦」強制動員示す資料(7点)』 既報のように、日本軍による「従軍慰安婦」の強制動員を示す資料が確認された。 関東学院大学の林博史教授が4月17日、日本外国人記者協会で会見を行い 公表した資料は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にオランダ、中国、フランスの検察団が提出、受理された公文書で、現在、東京大学社会科研究所図書館に所蔵 されている。 以下、資料の内容を紹介する 【資料1】(PD5330/EX1702) インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック 日本海軍占領期間中蘭領東印度西部ボルネオに於ける強制売淫行為に関する報告 一九四六年七月五日
一九四三年の前半にポンチアナック海軍守備隊司令海軍少佐ウエスギ・ケイメイ(同人は一九四三年八月頃日本に帰国したり抑留を要求し置けり)は日本人はインドネシヤ或は中国の婦人と親密なる関係を結ぶべからずといふ命令を発しました。当時全ての欧州婦人と事実上全ての印度系欧羅巴婦人は抑留されて居ました。彼は同時に公式の慰安所(official brot-hel)を設立するやう命令を出しました。是等の性慰安所(brothel)は二種に分類することになって居ました。即ち三ヶ所は海軍職員専用、五、六ヶ所は一般人用で其の中の一ヶ所は海軍民政部の高等官用に当てられました。 海軍職員用の性慰安所は守備隊が経営しました。司令の下に通信士官海軍大尉スガサワ・アキノリが主任として置かれ日常の事務は当直兵曹長ワタナベ・ショウジが執って居ました。日本人と以前から関係のあった婦人達は鉄条網の張り廻らされた是等の性慰安所に強制収容されました。彼女等は特別な許可を得た場合に限り街に出ることができたのでした。慰安婦をやめる許可は守備隊司令から貰はねばなりませんでした。海軍特別警察(特警隊)が其等の性慰安所に慰安婦を絶えず補充するやうに命令を受けていました。此の目的の為に特警隊員は街で婦人を捕へ強制的に医者の診察を受けさせた後彼等を性慰安所に入れました。是等の逮捕は主としてミヤジマ・ジュンキチ、コジマ・ゴイチ、クセ・カズヲ、イトウ・ヤスタロウ各兵曹長によって行はれました。 一般用の性慰安所は南洋興発株式会社支配人ナワタ・ヒサカズが経営しました。守備隊司令は民政部に命じて之を監理させました。民政部は此の経営を報国会(日本人実業家の協会)に依嘱してナワタが報国会の厚生部の主任であったので是等一般人用の性慰安所の主任に任ぜられました。彼は帳簿をつけたりするやうな事務的仕事には彼の会社の使用人を使用しました。毎朝、夜間の収入は南洋興発会社の出納係キタダ・カゲタカに引渡されました。是等の慰安所に対する婦人達も亦特警隊の盡力によって集められました。 其等の性慰安所に充てられた家屋は敵産管理人から手に入れ家具は海軍用性慰安所にあっては海軍が支給し一般人用にあっては報国会が支給しました。遊客は原住民である傭人に(海軍の場合には其の階級に従って)金を支払はねばなりませんでした。又その傭人は其の金を毎日当直兵曹長又は南洋興発の出納係に引渡しました。両者の場合共三分の一は諸経費、家具、食物等を支弁する為保留され、三分の二が当該婦人の受取勘定に繰り入れられました。此の中から婦人達は随時彼等各自の用に充てる為其の一部を引出すことが出来ました。毎月の計算書は民政部の第一課に提出せねばなりませんでした。 特警隊は婦女を捜すに当り民政部及日本人商社の全婦人職員に特警隊に出頭するやうに命じその婦人達の何人かを真裸にし日本人と関係していたとなじりました。次いで医師が検診をしましたが数人は処女であったことが判りました。是等の不幸な婦人達の中何人が性慰安所に強制的に送られたか確実には判りません。婦人達は性慰安所から敢て逃げ出さうとは致しませんでした。と言ふのは彼女等の家族が特警隊に依って直ちに逮捕されて非道く虐められるからでした。一例として此の様な事の為当の少女の母親が死んだ事があります。 幸にも占領期間中引続き診療に従事することを許された、在ケタパンのインドネシヤ人軍医ルフリマ博士は特警職員の命令で彼の行った是等婦人の検診に関し宣誓供述をする事が出来ました。 彼の証言に依ると婦人達は強制的に売淫させられたのであります。上記の報告は日本人戦犯者の訊問から得た報告と本件関係者の宣誓陳述とから輯録されたものであります。 私は上記の事実は真実に上述の報告書に相違する点のない事を情報将校及日本語通訳として誓って断言致します。 バタビヤ 一九四六年七月五日 ジェー・エヌ・ヘイヂブロエク J.N.Heijbroek陸軍大尉 蘭印軍情報部 (訳注)「蘭印軍情報部の公式記録より採られたもの」と記された、蘭印軍情報部戦争犯罪課長チャールズ・ヨンゲテル陸軍大尉の署名付「証明書」も付けられている。「慰安婦」と訳されている箇所は英文では(women)のみ。
【資料2】(PD5326/EX1701A) インドネシア・ボルネオ島(カリマンタン)ポンティアナック ポンテヤナック虐殺事件に関する一九四六年三月一三日付林秀一署名付訊問調書
調書 本日、一九四六年三月一三日容疑者林秀一は在ポンチヤナック臨時軍法会議予審委員たる予、即ちメーステル・イエ・ベ・カンの面前に出頭した。 問 君の氏名、年齢、住所及職業を私に言ひなさい。 答 林秀一、二十四歳、日本石川県生れ、海軍軍属。 一九四三年七月十三日私はポンチヤナックに到着して警備隊長上杉ケイメイ大尉のところに出頭しました。ポンチヤナックでは私は私が設置したハナ機関の地方部長となりました。このハナ機関は海軍の情報機関でありました。(略) [証人ラフィアの訊問調書が容疑者に提示され、これについて訊問がなされた] 答 この婦人がポテム及アミナと共に上杉より訊問を受けたことは本当であります。その場合私は馬来語通訳として立会ひました。上記婦人は日本人と親密にしたと云ふので告訴されたのです。日本人と親密にすることは上杉の命によって許されていなかったのであります。私は上記の婦人を平手で打ったことを認めます。又彼等の衣服を脱がせたことも認めます。之は上杉の命令で行ったのであります。かくて三人の少女は一時間裸で立たなければなりませんでした。 問 これは日本で婦人を訊問する時の慣習か。 答 それは私は知りません。 問 君は部下の巡査ではない。併しポンチヤナックで独自に仕事をして居るスパイである。故に上杉のかくの如き命令に従ふ必要はない。 答 私はこの婦人たちが脱衣して裸にならなければならなかったことを承認しました。私は此の婦人たちは実際は罰すべきでなかったと信じます。併し彼等を抑留したのは彼等を淫売屋(brothel)に入れることが出来る為の口実を設けるために上杉の命令でなされたのであります。 脱衣させたのは彼等が日本人と親密になったことを彼等に認めさせることを強ひるためでありました。結局その婦人たちは淫売屋へは移されませんで、上杉の命令で放免されました。何故だか私は知りません。 問 幾日間その婦人たちは特警隊の建物の中にいたか。 答 私の思ふのには五日乃至六日間でした。彼等は建物の後の監房の一つにいました。 (以下、略。現地住民や中国人、ヨーロッパ人らの大量逮捕、虐殺の話になる。) (訳注)上杉大尉やハナ機関などには漢字が当てられているが、「音訳」と但し書きがついているものはカタカナ表記に直した。 【資料3】(PD5591/EX1794) インドネシア・モア島 オハラ・セイダイ陸軍中尉の宣誓陳述書 一九四六年一月一三日 問 貴方の氏名、年齢は? 答 シメイはオハラ・セイダイ、年齢は二十七才。 問 貴方の所属部隊は? 答 タナカ部隊ハヤシ隊 (略) 問 一九四四年九月に於けるモア島の指揮官は誰でしたか。 答 私でありました。 問 一九四四年九月中にモア島で土民が殺されたことがありますか、又その人数は? 答 セルマタ島及ロエアン島で約四十名の土民が捕虜となり且殺されました。 問 何故殺されたのですか。 答 土民達がセルマタ及ロエアン島の憲兵隊を攻撃したからです。 問 誰がその殺すことを命令したのですか。 答 タナカ将軍は土民達を司令部へ送るやう命じました。然し土民達がモアを出発する前に右命令は変更され私がモアで彼等を殺し土民の指導者三、四名をタナカ部隊に送るやうにと命ぜられました。 問 貴方は自分でその土民達を殺しましたか。 答 いえ、私は唯その殺すのを監督したのです。 問 誰が貴方の手助をしたのですか。 答 ウド曹長、トヨシゲ軍曹、マツザキ軍曹及二十一名の他の兵卒達です。 (略) 問 どんな風にして土民達は殺されたのですか。 答 彼等は三人宛途上縦隊を作って整列させられました。それから前に述べた二十一人の兵達は銃剣で彼等を突刺し一度に三人を殺しました。 問 或る証人は貴方が婦女達を強姦しその婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたがそれは本当ですか。 答 私は兵隊達の為に娼家(brothel)を一軒設け私自身も之を利用しました。 問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。 答 或者は快諾し或る者は快諾しませんでした。 問 幾人女がそこに居りましたか。 答 六人です。 問 その女達の中幾人が娼家に入る様に強ひられましたか。 答 五人です。 問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。 答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。 問 ではその婦女達は父親達のした事の罰として娼家に入る様強ひられたのですね。 答 左様です。 問 如何程の期間その女達は娼家に入れられていましたか。 答 八ヶ月間です。 問 何人位この娼家を利用しましたか。 答 二十五人です。 (以下略) (訳注)オハラの階級について、陸軍中尉が、海軍大尉と後から直されているが、経歴を見ると陸軍なので、陸軍中尉のままにした。
【資料4】(PD5770/EX1725) インドネシア・ジャワ島マゲラン イエ・ベールマンの尋問調書 一九四六年五月一六日
私は一般被抑留者としてムテラン(Moentilan)収容所に抑留されました。一九四四年一月二十八日、私は吾が婦人部指導者レイツスマ夫人から日本軍俘虜収容事務所へ出頭する様にと云はれました。此処で私は爪哇人の一警視を見ました。彼は私を他の六人の婦人や少女等と一緒に連れて収容所の外側にあった警察署へ連れて行った。連行された人々の名前は(略)。 私達が爪哇人警視に案内されて収容所へ帰へって鞄に所持品を充めた後に其警視は私等を日本軍俘虜収容所事務所へ連れて行きました。此処で私等は三人の日本人に引渡されて三台の私有自動車でマゲラン(Magelang)へ輸送され午後四時に到着しました。我々はテウグラン(Teogoeran)と称せられ十四の家屋から成っていた小さい収容所へ連れて行かれました。一九四四年一月二十五日、私達の収容所から連行された婦人や少女等の一団と此処で会ひました。 (略) 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼(brothel)に向けられるものであると聞かされました。其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後9時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠りましたが他は其通りにしました。 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。 一九四四年二月の終り頃か三月の始頃に私は事務所へ出頭する様に命じされました。其処にはタキグチと言ふ日本の一将校が居ました。彼は私が受けた待遇に関して私の訴を根拠として事件を調査すると約束しました。彼は亦私達を抑留者収容所へ送還するために極力努力することを約束しました。彼は兵卒や下士官や一般日本人に対して娼家を閉館して私達のために直に情況を改善して呉れました。 (訳注)証言者は、証言時、27歳。 【資料5】(PD5806/EX1792A) ポルトガル領チモール(東チモール) ルイス・アントニオ・ヌメス・ロドリゲスの宣誓陳述書 一九四六年六月二六日 一九四二年二月二一日、私は、日本軍がディリの中国人やその他の家々に押し入り掠奪をおこなうのを見ました。 日本軍があちこちで族長らに対して、日本軍慰安所(brothel)に現地の少女たちを提供するように強制したことを私は知っています。その際に、もし少女らを提供しなければ、日本軍は族長らの家に押しかけて、慰安所に入れるために近親の女性たちを連れ去るぞ、と言って脅迫しました。 (訳注)この宣誓陳述書の中で、日本軍が族長に命じて、労働力を提供させたことなども述べられており、族長に強制して提供させる手法がとらえていたことがわかる。なおこの宣誓陳述書には、連合軍東南アジア司令部の戦争犯罪捜査将校とポルトガル領チモールの行政官のサインが付されており、ポルトガル当局が捜査に協力していることがわかる。
【資料6】(PD2772E-5/EX2120) ベトナム・ランソン ニェン・ティトンの口述書抜粋 四日間自由であった後、私は街で日本人に逮捕され印度支那保安隊の病院の後方にある憲兵隊に引致されました。(中略)私は八日間、日本憲兵隊に監禁された後放免されました。其後私は数回逮捕され乱暴に殴られました。日本人等は私の仏人との交際を咎めたのでありました。
(略) ランソンに於ける捜査の間、日本人等はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数名に彼等/日本人等/が光安(Tienyen)に設けた慰安所(broth-el)へ一緒に行くやう強制しました。私は巧い計略の結果、彼等から免れることが出来ました。 (訳注)証言者は一九一五年生まれ、住所はハノイ。
【資料7】(PD2220/EX353) 中国桂林 軍事委員会行政院戦犯罪証拠調査小隊「桂林市民控訴 其の一」 一九四六年五月二七日
敵軍の我が桂林を侵略せしは一年間にして其の間姦淫、捕虜、略奪等為ささる処無く長縄大尉なる日本福岡県人は敵復興支部長の職を担当し、人と為り陰険悪毒にして桂林市に有る偽新聞社並びに文化機関をして自己の支配下に置き其等を我が民衆の懐柔並びに奴隷化の中心機関とし且又偽組織人員を利用し工場の設立を宣伝し四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き強迫して妓女として獣の如き軍隊の淫楽に供した。 長縄の秘書即ち鈴木華□(日本女性)は彼の行為を幇助し、更に甚しきは此の敵が楽群路に在った李子園に憲兵隊を設立し、(以下略) http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data5/data5-04.htm#02 一九四四年二月三日、私達は再び日本人医師に依って健康診断を受けました。此間は少女達も含んで居ました。其処で私達は日本人向き娼楼に向けられるものであると聞かされました。
其日の晩に娼楼が開かれる筈でした。帰宅後ブレッカー夫人と私は凡ゆる戸や窓を閉めました。午後九時頃戸や窓を叩く音がありました。私達は戸も窓も開け、閉さしてはならぬと命ぜられました。寝室だけは戸を錠で閉して私は其処へ閉ぢ籠もりましたが他は其通りにしました。 私は是を二月五日 日曜日まで継続しました。其日にも亦日本軍兵卒等が収容所へ入って来ました(以前は日本軍将校のみでした)。是等兵士の幾らかが這入って其の中の一人は私を引張って私の室へ連れて行きました。私は一憲兵将校が入って来るまで反抗しました。 其憲兵は私達は日本人を接待しなければならない。何故かと云へば若し吾々が進んで応じないならば、居所が判っている吾々の夫が責任を問はれると私に語りました。この様に語った後、憲兵は其兵士と私とだけ残して立去りました。 其時ですらも私は尚ほ抵抗しました。然し事実上私はやられてしまいました。彼は衣服を私の身体から裂き取りました。そして私の両腕を後に捻りました。そこで私は無力となり、その後で彼は私に性交を迫りました。私は此の兵卒は誰であったか又其憲兵将校の姓名を知りません。 此の状態が三週間継続しました。労働日には娼楼は日本将校のために日曜日午後は日本下士官達のために開かれ日曜日の午前は兵卒等のために保留されました。娼家へは時々一般日本人が来ました。私は常に拒絶しましたが無効でありました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-19/2007041906_02_0.html 強制性示す新資料 研究者ら公表 東京裁判で証拠採用
-------------------------------------------------------------------------------- 旧日本軍が占領地の女性たちを強制的に「従軍慰安婦」にした事実を裏付ける東京裁判(一九四六―四八年)の関連資料が明らかになりました。 関東学院大学の林博史教授、中央大学の吉見義明教授、バウネット・ジャパンの西野瑠美子共同代表が十七日、都内の外国特派員協会での会見で公表しました。 資料は、オランダ、フランス、中国の検察団が東京裁判に提出した尋問調書や陳述書など七点。いずれも同裁判で証拠書類として採用されました。 林教授が昨年、東京大学社会科学研究所の図書館に所蔵されていた資料から見つけました。 オランダ提出の尋問調書では、ボルネオ島の日本海軍情報機関の軍属が、拘束した現地女性を平手で殴り服を脱がせ、三人の少女を裸で一時間、立たせたと証言。 拘束の理由について 「彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるため、命令でなされた」 と述べ、命令した守備隊司令の名をあげました。 公表された資料は、インドネシア・ジャワ島やベトナム・ランソン、中国・桂林などで日本軍が現地女性らを強制的に慰安婦にしようとしたことを裏付けています。資料の一部は一九九七年に報道されています。 林教授は、これらの資料は「日本政府がサンフランシスコ平和条約で受け入れた東京裁判の証拠であり、日本政府も認めざるを得ないものだ」と指摘しました。 吉見教授は、被害者への「おわびと反省」を述べた河野談話を否定する安倍晋三首相の態度について、「首相の人権感覚が問われる問題。河野談話からの後退は許されない」と批判しました。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-04-18/2007041802_05_0.html 日本軍慰安婦問題をめぐり、東京裁判に提出された各国検察団の証拠資料の中から、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされたことを示す尋問調書などを、林博史・関東学院大教授(現代史)が確認した。17日に日本外国特派員協会で会見して公表する。裁判で証拠として採用されたもので、東大社会科学研究所図書館に所蔵されている。 東京裁判には、日本軍によるアジア各地での住民・捕虜殺害など具体的な残虐行為を立証するために膨大な証拠資料が提出された。今回、林教授が確認したのは、オランダやフランス、中国など各国の検察団が提出した調書や陳述書など。 インドネシアで、ジャワ島やモア島、カリマンタン(ボルネオ島)で女性たちが強制的に慰安婦にされたことを示す証拠資料が提出されたことが判明したほか、アジア各地で同様のケースがあった。これまで、国立国会図書館所蔵の東京裁判関係資料から尋問調書の一部が確認されていた。 オランダが提出した、ボルネオ島で海軍の情報機関にいた男性軍属に対する46年3月13日付の尋問調書。日本人と親しくしていた地元女性が日本軍に拘束され、警備隊長に平手打ちをされ、裸で立たされる状況に触れて、取調官が追及する。 彼女たちを拘束した理由について、男性軍属はこう答えた。「抑留したのは彼らを淫売(いんばい)屋に入れることができるための口実を設けるために警備隊長の命令でなされたのであります」 46年5月16日付の尋問調書では、ジャワ島の民間抑留者の収容所にいたオランダ人女性が強制的に慰安婦にされたことを証言している。 44年1月28日、インドネシア人警察官が彼女を含め計7人の女性や少女を日本軍捕虜収容所事務所に連れていき、日本人に引き渡した。さらに車で小さな収容所に運ばれた。同年2月3日に医師による健康診断を受けた際、日本人向けの「娼楼(しょうろう)(brothel)」で働かされることを知ったという。 「労働日には娼楼は日本将校のために、日曜日午後は日本下士官のために開かれ、日曜日の午前は兵卒等のために保留された。時々一般の日本人が来た。私は常に拒絶したが無駄だった」 フランスが提出したベトナム人女性の口述書の抜粋には「日本人はフランス兵と一緒に生活していた私の同国人数人に、光安に設けた慰安所(brothel)へ一緒へ行くよう強制しました」とある。 中国の「軍事委員会行政院」が46年5月27日付で作成した資料は日本軍の桂林での残虐行為に言及、 「四方より女工を招致し、麗澤門外に連れ行き脅迫して、妓女(ぎじょ)として獣の如(ごと)き軍隊の淫楽(いんらく)に供した」 と記す。東京裁判の判決も桂林の残虐行為に触れた中で、 「工場を設立するという口実で、かれら(日本軍)は女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」 と認定している。 一連の資料について林教授は 「これらは各国が作成した公文書であり、判決でも強制したことが事実認定されている。サンフランシスコ平和条約で戦犯裁判を受諾した日本には、これらの文書の意味は無視できないだろう」 と話している。 http://www.asyura2.com/07/senkyo33/msg/462.html 「慰安婦」強制に新証拠
日本軍、200人をバリ島に連行 関東学院大・林教授ら 旧日本軍「慰安婦」問題で日本軍の関与と強制性を認めた「河野談話」を裏付ける新資料が、関東学院大学の林博史教授(日本近現代史)らによってこのほど発見されました。新資料は、旧日本軍が軍の資金を使って慰安所事件を隠蔽していた事実も浮き彫りにしました。
資料は、戦後のオランダによるBC級戦犯裁判(バタビア臨時軍法会議)で裁かれた二つの事件にかかわるもの。林教授の研究室が国立公文書館保管の資料から見つけました。
同裁判(25号事件)で裁かれたバリ島駐屯の海軍第三警備隊特別警察隊長(海軍兵曹長)の男性が戦後、法務省の調査(1962年8月)に対し、「戦中の前後約4カ年間に二百人位(くらい)の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ」と強制的に女性を連行した事実を証言しています。 軍が隠蔽工作
さらに、「終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約70万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。これが完全に功を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴え出なかった」と、隠蔽工作についても赤裸々に語っています。 同時に発見された同裁判の尋問調査には、警察隊長の男性が連れてきた女性を「慰安婦」として働かせる慰安所を開いていた商人の証言や、男性によって慰安所に入れられそうになった女性の証言が存在しています。調書には、 「彼女たちが強制されていたということは、彼女たちが車から降りて慰安所に入るときに泣いていたという事実から明らかでした」 「彼女たちは(被告)によって一人ずつ車から引きずりだされたので、服は引き裂かれていたほどでした」 などの商人の証言が記載されています。 愛人にされた
また、バタビア裁判での別の裁判(88号事件)の資料も発見され、同裁判での被害者の尋問調書では、 「親米容疑で憲兵隊に捕まり、ボソドオソの慰安所に連れて行かれ、ここにずっといるか、一人の決めた日本人と同棲(どうせい)するか、選べといわれる」
「逮捕され、ボソドオソの慰安所だったホテルに連行。憲兵隊将校の愛人にされた」 などの証言が記載されています。
旧日本軍「慰安婦」新資料(抜粋、林博史教授提供) http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-04-07/2014040714_01_1.html
慰安婦強制動員を裏付ける文書…ソウル大鄭教授チームが発見
日本軍が慰安婦を強制動員したことを裏付ける公式文件が見つかった。これまで被害者の証言はあったが、慰安婦動員の強制性と暴力性について書かれた資料は極めて少なかった。
ソウル大の鄭鎮星(チョン・ジンソン、社会学)教授チームは12日、「1946年7月5日、オランダ軍情報部隊が日本軍の慰安婦強制動員と慰安所運営について作成した文書を確保した」と明らかにした。 「日本海軍占領期にオランダ領東インド西ボルネオであった強制売春に関する報告書」と題した文書は、その間、オランダ政府記録物保存所に保管されてきた。 この報告書は 「日本の特別海軍憲兵隊が路上の女性を連れて行き、強制的に身体検査をさせた後、慰安所に入れた」 「慰安所は厳格に統制・隔離された」 など、日本軍の蛮行が書かれている。 また 「女性が慰安所を脱出したという理由で母親が殺害されたケースもあり、慰安所の女性は脱出も考えられなかった」 「女性は特別許可を受けてこそ慰安所から外出することができた」 などと明らかにした。慰安所の女性の国籍は書かれていない。 報告書は 「1943年、日本海軍駐屯軍司令官はこの地域の日本人に対し、インドネシア・中国の女性と親しくするなという命令を下した。その代わりに公式的な慰安所を設置しろという命令も出された」 と記述している。 報告書によると、慰安所は当時、海軍専用と民間用の2つが運営され、 民間用慰安所は日本軍司令官の指揮で日本人事業者協会が運営責任を預かった。 以外な点は「慰安所で支払われた代金の3分の2が女性に入った」という部分。 これに続いて「女性は時々、一部のお金を受け、個人的な用途に使った」と書かれている。 鄭教授は 「慰安婦に代金が積み立てられていただけで、実質的には支払わられていなかったことを裏付ける証拠」 と指摘した。 報告書は日本人戦犯に対する尋問や関係者らの証言を基礎に作成された、と書かれている。 ◇「安倍首相の妄言を覆す証拠」=鄭教授は
「当時オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)で行われた戦犯裁判のために作成された資料と推定される」 とし 「昆明の報告書より具体的に当時の状況が書かれている公式文書が初めて見つかった」 と説明した。 鄭教授は「安倍首相の『慰安婦を強制動員した証拠はない』という妄言を覆す証拠だ」と強調した。 04年公開された米戦略事務局(OSS)の報告書(45年5月作成)にも、当時中国南部の昆明で日本部隊を脱出し中国軍に投降した女性25人全員が‘強要と詐欺のため’性奴隷になったと明示されている。 これに先立ち、共同通信は11日、インドネシアで慰安所を運営した日本人が戦後オランダで行われた戦犯裁判で「軍部の指示によって民間慰安所を設置した」と証言した内容が見つかった、と報道した。 (クォン・クンヨン記者) http://www.asyura2.com/07/senkyo33/msg/437.html 南京が占領され、情勢が落ち着いてくると、日本軍は現地の売国奴を通じて「募集」、脅迫、騙しといった方法で中国の女性を集めて慰安所を設置し、商業ベースでの経営を行った。南京にかいらい政権がつくられると、今度はかいらい政権にこの仕事のための専門要員を派遣させた。 日本軍自身も南京で慰安所を開設した。これは主として高級・中級将校のためのもので、軍部は中国に在留する日本の風俗店主にこれを委託した。こうした慰安所は主に市南部の夫子廟から大行宮の一帯に集中していた。この地区は南京の繁華街で、かつ日本当局が決めた日本人居留民が集中する「日本人街」の所在地でもあり、その上日本軍の兵営や多くの軍事機関にも隣接していたため、日本軍当局や日本の風俗店主の経営する「安楽ホテル慰安所」、「松下富貴慰安所」、「青南楼慰安所」などが集中していた。 経盛鴻教授によると、多数の慰安婦が野獣のような日本軍将兵によって蹂躙 (じゅうりん)された。 多少なりとも不服従または反抗の様子を見せた女性には、 軽い場合で食事を与えず、 重い場合は、軍刀で乳房や手足を切り落とし、さらには犬に食いつかせるなどして、他の慰安婦の見せしめとした。 1945年8月15日に日本が無条件降伏すると、南京当局は10月に日本軍が設置した「慰安所」を閉鎖し、看板をとりはずし、慰安婦となった内外すべての女性を解散させた。これをよって南京に8年間にわたって存在した日本軍慰安所と慰安婦制度は、ようやく完全に歴史のゴミ箱に送り込まれた。 (南京8月9日発新華社) http://www.fmprc.gov.cn/ce/cejp/jpn/zt/qqq115/t206723.htm
『ある日赤紙が来て』 真鍋元之著 1981 1942年頃、平陽鎮の軍専用慰安所 つねに満員だったと言う。 「私の馴染んだ慰安婦は、職業用の日本名をミサオと呼んでいた。生家は江原道のもっとも貧しい農家だったが、ある日突然村長がやってきて 「軍の命令だ。お国への御奉公に、娘を差し出せ」 という。御奉公の意味がすぐに分かったので、父母は手を合わせ声の限りに哀号を繰り返したが、村長は耳を貸さない。この面(村)へ8名の割り当てが来たが、面には娘は5人しかいないから、ひとりも容赦はならぬ、とニベもなく言い放つ。村長の背後では、刀を吊った日本人の巡査(警官)が、肩をそびやかせている。 5名の村娘が、石ころのようにトラックに乗せられ、村境の土橋を渡ったのが、故郷との別れであった。文字が書けないので、家族の安否を、手紙で問い合わせる事もできない。・・・」 http://d.hatena.ne.jp/kounodanwawomamorukai/20121208/1354914020 子供を抱いていれば二三人がかりで赤ん坊をもぎ取って、女を引きずってトラックに押し込む。
そういう場合は、赤ん坊だけでなく、三歳四歳・・三歳か五歳ぐらいの子供が母親を奪われる現場では、泣き叫んで命がけで母親にとりすがる。それを突き飛ばし蹴飛ばし・・ 慰安婦強制連行は一週間にわたり、10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊によりおこなった。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいた。
女工たちは竹かごの中から貝殻を、手早く鉄わくの中へ入れ、足踏み機械を操作すると、一銭銅貨より小さなボタンを同時に十個ばかり作っていた・・・・隊員たちがすばやく工場内の二か所の出入り口を固め、木剣の先を突きつけて、女工たちを起立させた。 「体格の大きな娘でないと、勤まらんぞ」 と山田が大声で言うと、隊員たちは笑い声をあげて、端の女工から順番に、顔とからだつきを見つめて、慰安婦向きの娘を選びだした。 若くて大柄な娘に、山田が「前へ出ろ」とどなった。娘がおびえてそばの年取った女にしがみつくと、山田は・・・・台をまわって行って娘の腕をつかんで引きずりだした・・・・ 女工たちはいっせいに叫び声を上げ、泣き声を上げていた。隊員たちは若い娘を引きずり出すのにてこずって、木剣を使い、背中や尻を打ちすえていた。・・・・女工の中から慰安婦に徴用した娘は十六人であった。 ____ 旧日本兵:日本軍が中国人女性を捕えるのを目撃 安倍氏謝罪を 2013-05-25 91歳の松本正義さん(韓国・聯合ニュースより) 兵役時の松本さん(韓国・聯合ニュースより) 韓国・聯合ニュースは23日、かつて太平洋戦争に参加した旧日本兵が23日、日本軍が戦争中に慰安婦を強制連行した野蛮な行為を暴露し、過去の犯罪行為について安倍晋三首相にお詫びを促したと報じた。環球時報が伝えた。 91歳の旧日本兵、松本正義さんは23日、聯合ニュースの電話インタビューに応じた。松本さんは1944年初めから1946年3月まで日本軍第一軍「固旅」第7大隊で衛生兵を務めた。その前の6カ月間は中国・山西省陽泉市盂県の大隊本部に配属され、その後の約1年半は上社鎮駐留の第一中隊に所属した。日本軍将兵へのコンドーム支給と韓国人慰安婦の性病検査を主に担当していた。 松本さんによると、大隊本部配属時には韓国人慰安婦6-7人が逃げられない環境の下、50人以上の日本軍将校の欲望の対象となることを余儀なくされていた。正式な慰安所がない状況での慰安婦の境遇は極めて悲惨だった。 また、当時日本軍は中国の庶民も潜在的なゲリラと見なしていたため、しょっちゅう村落を攻撃しては「女性を捕獲」していたという。松本さんは「有漂亮的姑娘」(きれいな女の子がいる)という中国語を今だに覚えている。きれいな女性を見つけた日本軍が部隊に連行して輪姦するのも目の当たりにした。 ある上等兵が「女性を捕獲」しようと住民の家に入った際に地雷を踏んで爆死したことや、部隊長と村長が交渉し、部下が捕えて来て姦淫した7-8人の女性を返す代わりに別の2人の女性を連れ帰ったことも覚えている。地雷で爆死した上等兵はその後、靖国神社に埋葬された。国家のために命を捧げたというのがその理由だ。 松本さんは「本当の戦闘など当時していなかった。われわれは住民に攻撃されることを恐れていた。部隊がしたのは女性を捕獲することだけだ」と述べた。 http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-05/25/content_28929997.htm 東ティモールにおける日本軍性奴隷制 四半世紀にわたるインドネシア支配の陰で、封印されてきたもうひとつのの占領の記憶がある。それは1942年2月から1945年8月までの日本軍占領期の歴史、特に「慰安婦」という名の性奴隷にされた東ティモール人女性の体験である。 ■証言
1942年から1945年の間に慰安所はポルトガル領ティモール全土に設置された。関係者の証言や東ティモールに駐留した部隊の記録によって現在までに確認された慰安所の所在地は、ボボナロのメモ村、ウアタ村、マロボ村、オアト村、バウカウのティリロロ村、アイレウ、サメのキラス、クレディリ、アラス、オッス、バギア、アビス、ラウテンそしてディリである。 日本軍は、リウライと呼ばれる伝統社会の王や村長に命じて少女や女性を集めさせた。彼らは反抗すれば殺されると脅された。また多くの住民が日本軍の治安管理を助ける「ポムベラ」として使われた。 ◇エスメラルダ・ボエさんの話
ある日、私が兄と畑でタピオカを収穫していると、日本軍の兵士が5人やってきて、何か言いあいながら私の腕を取り、首を締め、彼らの家に引きずっていった。そこからシモムラ(Shimomura)という司令官の家に連れていかれ、そこで私はシモムラに強姦された。私はその後解放されて家に戻り、両親に自分の身に何が起きたか告げた。両親は村長に相談した。村長は両親を「逆らうと殺される」と諭した。当時私は12、3歳ぐらいで初潮もむかえてなかった。 それから夕方になるとシモムラがやって来て、私を家に連れていき強姦した。こうして約2年間私はシモムラの相手をさせられた。シモムラが去るとシモムラと同じ家にいたカワノ(Khawano)の相手をさせられた。カワノの次はハルカ(Haruka)だった。兵舎にいる一般の兵士のために女性たちが連れて来られているのも見たが、別の村の女性たちなので誰が誰かわからなかった。 性の相手をさせられる以外に農作業もさせられた。働きが悪かったり疲れて休んだりすると、その場で殴られたり、厳しい罰が待ち受けていた。私は日本の歌を憶えさせられて日本軍の娯楽のためによく歌わされた。私は3人の司令官の名前と何度も歌わされた日本の歌を決して忘れない。 東ティモールに侵攻した日本軍はすべてを破壊した。私たちの牛や豚や鶏を奪い、男や女を殺害した。多くの女性が慰安婦にされた。ティモール人はみな重労働を強いられた。農作業も木材伐採も道路や橋の建設も全部ティモール人の仕事だ。 午後、外の仕事が終わると男は家へ帰されるが、女性は慰安所で働かされた。女を求めて兵士が村へやってくることもあった。少女が家から引きずり出され、慰安所に連行され、強姦された。そうした少女の中には死んだ者も重い病気になった者もいる。強姦された後殺されて山の中に捨てられた者もいる。私とマルタがこうして生きていられるのは幸運だ。生きてこうして話ができるのはありがたいことだ 。 私の兄のひとりは日本軍に殺された。兄は逆さ吊りにされて喉を切られた。死体は埋葬されなかった。埋葬されるどころか吊るされたまま火がつけられた。なぜ兄がこんな目にあったかというと、彼は私の姉と妹を助けようとしたからだ。この姉と妹は10人以上の兵士に強姦されて殺された。彼女たちの遺体は山の中に放置された。 兵士たちは既婚女性の家にも踏み込むことがあった。そこに夫がいても気にせず、その妻を連行し犯した。夫が家にいない時間をみはからって踏み込み、その場で妻を強姦するという場合もあった。日本人は本当にひどい国民だ。既婚の女性に何の敬意も払わないのだから。残虐だよ。あるティモール人の男は日本の憲兵に協力して働いていたのに、日本軍の酒宴に妻を出すことを強要された。 私たちには着る服も与えられなかった。しかたないので米の袋を切って服をつくった。それでもその時着ていた服よりははるかにましだった。私たちの身なりがあまりにみすぼらしい時は、酒席に呼ばれても行く気がしなかった。しかしそんな時でも「お前たちは慰安婦だ。俺達を楽しませるのが仕事だろ」といわれ引きずり出された。 日本軍は私たちから何でも奪った。あらゆる食べ物を奪った。キャッサバ(いも)さえだ。日本は豊かな国だと聞いたが信じられないね。何でも私たちから奪ったんだから。キャッサバさえも。 兵士は私たちの家にやって来て、何か欲しいものを見つけると、金はあるからそれをくれといった。でも金など払ったためしはない。ひと度機嫌を損ねると厳しい罰が待っている。例えば片手に岩を持たせ片足で立たせるとか。疲れて手や足を下ろすと竹の棒で肘や膝をしたたか殴られた。 心の傷が残っているかだって?今でも誰かのおしゃべりが聞こえると「エスメラルダは日本軍の慰安婦だ」って嘲笑されている気がする。思いだす度つらくてこれまで人に話したこともない。でもしゃべってよかったよ。すっきりしたよ。シモムラたちが生きて目の前に現れたら?そうだね、思いきり殴ってやるさ。(2000年12月11日談) ◇マルタ・アボ・ベレさんの話
エスメラルダも言ったが、当時、私たちは日本軍からさまざまな労働を強制された。私たちは、橋や道路や家屋の建設のための労役に従事させられたし、家屋をつくるために必要な竹などの資材を遠くから調達し運搬しなければならなかった。 私はオアト村から温泉のあるマロボに連れて行かれた。マロボには慰安所があり、そこで働かされた。その慰安所で私は毎日10人もの兵士に強姦された。 昼は昼で畑仕事やその他の労働をさせられた。そして夜になると慰安所に戻される。マロボの慰安所で毎日10人もの男性に強姦されて、私は自分が家畜になった気がした。実際私たちは家畜のように働かされた。まるで日本軍に所有された馬だ。昼は戸外で働かされ、夜は兵士に対する性的サービスをさせられた。 あれは動物としての扱いだった。その慰安所にはいくつかの部屋があり、小さめの部屋に5人ほど、中くらいの部屋に7人ほどが入れられた。寝床と寝床の間にはカーテンなどの仕切は一切なく、他の少女たちが犯されるのを見ながらまた自分も犯された。 私たちの性器は彼らのためのものだった。まるで動物の、牛の性器のようだ。ひとり以上の男、十人以上の男に毎日使われて。十人以上の男に強姦された後はもう普通に歩けない。ちゃんと立てなくてこんなふうにしか動けない。でも昼は昼で外で働かされるんだ。私たちはいつも牛の角で作ったメガフォンで呼び集められた。「さあ出てこい。男も女も。仕事だ、仕事だ」って。 あんたたちは本当に酷いことを私にしたよ。あんたたちは強姦したんだ私を。あの時私たちの性器はすごく痛いんだ。十人以上の男にされたらもう何もできないんだよ。 もし嫌だといったら、仕事を拒もうものなら、逆さ吊りにされて喉をしめられた。怖いよ。すごく怖くて、だから行くしかないんだ。 私たち女性は神様が造られたものだ。でも日本の男たちは女性が神の創造物と考えない。自分たちだって女性から生まれたのに。母親が産んでくれたのに。どうしてこんなふうに女性を扱えるんだろう。私たちだって彼らの母親と同じなのに。 あの男たちだって、疲れれば家に帰り休息を取るだろう。私たち女だって人間なんだから疲れるんだ。男と同じ仕事を昼間して、夜は一晩中セックスの相手をしなければいけない。私たちだって疲れるんだ、人間なんだ。 仕事が終わっても家(宿舎か?)に戻って何か食べてくることも許されない。お腹がすいて死にそうだった。あまりにひもじい時、私は日本軍のために働かされているティモール人の村長に食べ物を取りに家に帰らせてくれと頼んだ。何も食べる物がないと働らけないんだ。(2000年12月11日談) 【補足/マルタ・アボ・ベレさんが慰安婦にされた経緯】
ある日、日本軍の兵士と東ティモール人のガイドが家にきて 「いっしょに行こう。キャッサバを食べに行くのだから怖がらないでよい」 と言った。日本軍のために道路や兵舎をつくる仕事をしろということらしいが、怖かった。しかし、叔母に自分が行かないと両親や叔母が日本兵に殺されるといわれ、しかたなく従った。マロボに連れていかれると、集められた他の少女たちとともに草刈りや道路づくり等をさせられた。しばらくしてそういった仕事が一段落すると、アツァベ出身のドミンゴスという男が適当な少女を選んで慰安所に連れていった。マルタも連行され約3カ月間慰安婦として働かされた。三カ月後病気になり、両親の懇願によりもとの村に帰ることを許された。) ボボナロに駐留した部隊は、1944年3月まで駐留した歩兵第47連隊の第7中隊、 1944年3月に同部隊と交代した台湾歩兵第1連隊の第6中隊、軍用道路の建設に携わった台湾工兵第48連隊などである。 ◇エルメネジルド・ベロさんの話
日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。 日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。 ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。 慰安所の女性たちは苦しんでいた。昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。 中にはうまく逃げおおせた女性もいた。しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。 私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。 ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。 日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談) 【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】 ◇クレメンティーナ・カルドゾさんの話
私はスアイのティリマールのワラ村の出身だ。ある時、日本軍の命令を受けたジョン・オリベイラというリウライ(村長?)の指示で、村の者は男性も女性もズマライに行かされ、軍用道路建設の人夫をさせられることになった。ズマライでは、村の男性と女性は分けられ、別々の住まい(小屋)をあてがわれた。日本軍の兵士は女性たちの住まいから気に入った女性を次々とバラック(兵舎)に連行し、性の相手をさせた。これらの女性たちは昼間はその他の村人とともに肉体労働に従事させられた。 当時、私は17、8歳で結婚していた。私も軍のバラックに連れていかれ、慰安婦をさせられた。そのバラックにはたくさん、そう60名ぐらいの少女たちがいた。私は一度女性たちの小屋に戻された。二度と連れていかれたくなかったので、夜中に密かに男性小屋へ行き、夫に事情を打ち明け、助けを求めた。夫はその時まで私の身の上に起きていたことを知らなかったので、非常に怒った。 その後夫は女性小屋までやってきて、日本軍の兵士が私を連れていこうとするのにはむかった。兵士が夫に向かって武器を振り上げたのを見て、私は夫をかばおうとして抱きついた。兵士は抱きついた私ごと夫を殴った。夫は死んだ。 私はこの時に右手首を骨折した。大怪我だったので、その時は兵舎に連れていかれなかった。傷は薬草で癒したが、私の右手首は折れたまま二度と動くことはなかった。その後も日本兵は私を慰安婦にしようと連れにやってきたが、 「夫が死んだのだから命は惜しくない。連れていくなら死んでやる」 と叫び、抵抗し続けた。夫の死後、私が慰安婦として働かされることはなかった。私の知るかぎり、自分の意思で慰安婦になった女性などいないし、また女性たちに報酬など一切支払われていない。 (2001年3月26日談) ◇リム・ファ・ニエさんの話
私はアイリウの出身だ。アイリウには日本軍の中枢があった。ある日、中国人のポンベラが家にやってきて日本軍のために働けといった。14歳か15歳の頃だった。 母親が死んでから父親は病気がちだった。それから二年間は飯炊きとして働かされた。この時未婚の少女が3人とティモール人の男性3名がいっしょに働いていた。ポンベラが来た時自分はまだ幼かったが、ポンベラたちは 「しばらくすれば使いものになるだろう」 と言った。二年たつと、慰安所(小さなホテル)に移された。その慰安所には中国人の少女だけが集められていた。アイナロやボボナロ出身の女性もいた。アイナロ出身のある女性は、日本軍によって夫を殺された後、連行されたと言っていた。 慰安所で私はハナコと呼ばれた。アイリウは軍事拠点でアイリウの兵営にはヘリコプター、タンクその他様々な兵器・機器が置かれており、兵士は夜間それらの警備を行なうため、私たちが慰安所で兵士の相手をさせられたのは朝から夜までだった。相手をさせられた兵士の数は1日20人ぐらいだったと思う。仕事が終わると立って歩くこともできなかった。兵士はコンドームを着用していた。性病検査はなかった。 賃金は一切支払われなかった。すごくつらかったが逃げようとは思わなかった。そんなことをしたら親が殺されると思った。ある中国人(英国人との混血)は娘を差出すのを拒んだため殺されたという話を聞いていた。私が解放されたのは日本軍が撤退する時だった。 その後結婚したが、ある時夫は娘と自分をおいて逃げた。夫には自分が慰安婦にされたことを話していないが、夫はそのことを誰からか聞いて知っていたのかもしれない。夫が逃げたのは自分が慰安婦だったことを知ったためだと思う。 何か、あんたの祖父(だったかもしれない男たち)が戦争中ここでひどいことをして、その孫がその話を聞きに来ているっている感じだね。(2001年3月27日談) ◇ガブリエル・ラランジェラさんの話
私はサメ県バブル村のある慰安所で警備長だった。バブル村には慰安所がみっつあった。慰安所には毎日担当の軍人がやって来て「女たちを清潔にしろ」と私に命令した。私は部下に命じて女性たちを水浴びさせ、よごれがないかチェックさせた。その軍人はこういう時にも現れ、慰安婦たちの身体を検査し、例えば足の指に泥がついたままだったりすると私たちを叱りつけた。 一日の終わりには女性たちの部屋の床は使用済みのコンドームでいっぱいだった。私たちは毎日その掃除をした。寝台の間に仕切はなかった。慰安婦たちは穴のあいたボロボロの服を着ていた。いくらさがしても布らしきものは穀物袋だけ。女性たちはそれらを利用して服を縫った。女性たちへの報酬はなかった。もし彼女らが金をもらってたら、あんなボロを身にまとったりしないだろう。 日本軍の将校は村の女性を気に入ると、その女性が既婚者でもかまわずに、性欲を満たそうとする。ある女性が所望された時、その夫婦は困ってリウライに相談した。リウライはその女性を自分の娘だと偽って、その将校とかけあったが、無駄だった。言うことを聞かなければ妻も夫も殺すと脅された。結局、その将校はその女性を思いのままに扱い、事が済むと家へ返した。 慰安婦たちに食事は支給されなかった。だから親が食料を運んだり、女性たちが食料をもらいに家に戻ることもあった。だからといってそれが逃亡の機会にはならない。女性たちは自分たちが逃げたら身内にどんな害が及ぶか理解していた。逃げ切れないことも知っていた。あの状況で日本軍の意向に逆らえる者などいなかった。(2001年3月30日談) http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html 中国・フィリッピンの被害者の証言には、軍による強制連行が多い。インドネシアでもこのケースの証言が少なくない。被害者の証言以外では、インドネシアの事例が明らかになっている。
ジャワ島スマランなどでオランダ人女性を強制連行したケースやスマランからフローレス島へオランダ人・インドネシア人女性を連行したケース、ボルネオ島ポンティアナックで地元女性を連行したとみられる事件、モア島で軍が強制連行したとする裁判資料、サバロワ島で地元女性を連行したっとする証言、アンボン島で地元女性を連行したとする証言などがある。 秦郁彦教授でさえフィリッピン「慰安婦」の証言について「多くは事実を反映している」と述べているほどである。 陸軍第117師団長・鈴木啓久(ひらく)中将
「私は巣県に於て慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令してこれを設置せしめ、中国人民及朝鮮人民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました」 「日本侵略軍の蟠居する所には私は各所(豊潤、砂河鎮、其他2,3)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約60名であります」 (特集「侵略の証言」『世界』98年5月号) 2012-12-13 ■[資料][慰安婦]日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態 http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1
慰安所の前で巻脚絆(ゲートル)を外し順番を待つ兵士たち 場所:中国、時期:1938年頃 http://f.hatena.ne.jp/dj19/20121208002024 出典:村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録』(初出:日本機関紙出版センター,1987年)新版:2005年 慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。
それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。 以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。
最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。
■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
場所:中国中部の山東省 一九四一年のある日、国防婦人会による〈大陸慰問団〉という日本人女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。
(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382) この証言について歴史研究者の永井和教授は論文『日本軍の慰安所政策について 日本軍の慰安所政策について』の中で次のように述べています。
この例も、話が事実なら、同様に国外誘拐罪、国外移送罪(当時の刑法はこちらを参照*2)の被害者である。内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう例は未然に防止されたはずである。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、犯罪事件が告発された形跡がない。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのである。
軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずである。 一九三七年末から一九三八年初めにかけて軍慰安所が軍の後方組織として認知されたことにより、事実上刑法旧第二二六条はザル法と化す道が開かれたのだといってよい。それは警保局長通牒が空文化したことを意味する。 論文に出てくる『内務省警保局長通牒(原文はこちらを参照*3)』には、現在の警察庁長官に相当する内務省警保局長から全国の各庁府県長官宛に出された通牒『支那渡航婦女の取扱に関する件』 (1938年2月23日)というものがあります。
この通牒は「婦女・児童の売買を禁止する国際条約*4」(未成年の女性を売春に従事させることを禁止し、成年であっても、詐欺(誘拐)などによる強制的手段が介在していれば刑事罰に問われることを定めた国際条約。)に接触しないよう指示した箇所があるのですが、初めから「北支、中支方面に向ふ者に限り当分の間之を黙認」して出国に必要な「身分証明を付与」すると抜け穴が作られているのです。 さらにこの通牒は日本国内に限定されたもので、朝鮮・台湾といった植民地では出されていないのです。そのため植民地からは未成年の女性たちが制限無しに国外に誘拐・拉致、人身売買といった強制的手段で連れて行かれたと考えられています。 ■長尾和郎『関東軍軍隊日記 - 一兵士の生と死と』経済往来社,1968年
関東軍兵士の記録、場所:中国東北部、黒竜江省 東満の東寧(とうねい)の町にも、朝鮮女性の施設が町はずれにあった。その数は知る由もなかったが、朝鮮女性ばかりではなく日本女性も…… (一般兵用)施設は藁筵(むしろ)でかこまれた粗末な小屋で、三畳ぐらいの板の間にせんべい布団を敷き、その上に仰向けになった女性の姿を見たとき、私の心には小さなヒューマニズムが燃えた。一日に何人の兵隊と営業するのか。外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい義憤めいた衝動を覚え、その場を立ち去った。
これらの朝鮮女性は「従軍看護婦募集」の体裁のいい広告につられてかき集められたため、施設で営業するとは思ってもいなかったという。それが満州各地に送りこまれて、いわば兵士達の排泄処理の道具に身を落とす運命になった。わたしは甘い感傷家であったかもしれないが、戦争に挑む人間という動物の排泄処理には、心底から幻滅を覚えた。…… おれは東京の吉原、洲崎の悪所は体験済みだが、東寧の慰安婦はご免だ。あれじゃ人体でなく排泄装置の部分品みたいなものだが、伊藤上等兵も同感する。 「東満」地域とは、1943年10月1日、満州国にかつて存在した3省、牡丹江・間島・東安を総括し設置された「東満総省」の地域を指し、「洲崎」とは現在の江東区東陽町にかつてあった遊郭街のことです。
この慰安所にいた朝鮮人女性たちは「従軍看護婦」の「募集」だと騙されて国外に連れて行かれています。これは当時でも誘拐・拉致という犯罪で刑法第226条に違反しているのですが、女性たちの身元も調査しているはずの軍の方で送り返すなどした様子もなく、女性たちは軍の管理下にある慰安所で軍人の性の相手を強要されています。 また、当時この兵士は、慰安所のあまりに人権が無視されている状況に「義憤めいた衝動を覚え」「外に列を作っている兵隊たちを一人一人殴りつけてやりたい」と感じたと書いています。この後でも紹介するように、慰安婦の状況を非人道的だと感じた日本軍将兵の手記や証言というものはけっして少なくありません。 ■『私たちと戦争〈2〉戦争体験文集』タイムス,1977年,p.32
島本重三 軍「慰安所」 第七三三部隊工兵一等兵の記録、場所:中国東北部の吉林省・琿春 兵隊専用のピー屋(慰安所)は琿春の町に五軒散在していた。一軒の店に十人ほどの女がいた。『兵隊サン、男ニナリナサイ』。朝鮮の女たちは道ばたに出て兵隊を呼びこんでいた。まだ幼い顔の女もまじっていた。
兵隊の慰問のために働くのは立派なことで、その上に金をもうけられると誘われ、遠い所までつれてこられた。気がついたときは帰るにも帰れず、彼女らは飢えた兵隊の餌食として躯(からだ)を投げださねばならなかった。 日曜日にはけだものとなった兵隊を相手に少しも休むまもなかった。まだ終らないうちから次の兵隊が戸を叩いてせかした。ベニヤ板張りの小さな部屋には、貧弱な鏡台とトランクがあった。それが彼女の全財産であった。 せんべい布団を被ううす汚れた敷布には、解剖台のような気味の悪い血がしみついていた。生理のときも休むことを許されず、働かねばならない女たちであった。 「まだ幼い顔のまじった」朝鮮人の女性たちは騙されて国外に連れて行かれており、刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たり、国際条約にも違反している可能性が高いのです。しかし慰安所を管理する軍はここでも業者を不処罰としており、女性たちを送り返した様子がありません。
■土金冨之助『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』創芸社,1977年
スマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった憲兵の記録、場所:インドネシア・スマトラ島 (慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私はK子とY子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出身)とよく話をするようになった。……K子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかった。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」 彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。…… 将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。 ここで詐欺(誘拐)の名目に使われている「女子挺身隊」とは、昭和19年の女子挺身勤労令による女子挺身隊のことではなく、当時の朝鮮で、未婚女性が国(軍)のために勤労報国するという意味で使われた「女子挺身隊」のことだと思われます(こちらを参照*5)。
そしてまた、慰安婦にされた女性たちと慰安所を利用する将兵たちとの認識のギャップが当時から強く存在していたことがわかります。 当時18、19歳の女性が過去の出来事を語っているということは、騙されて連れて行かれた時期は1、2年さかのぼり年齢は16、17歳頃だったろうと推測できますが、このケースも国際条約違反、刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たります。 ここでも軍の方で取り締まった様子はまったくありません。 ■菅野茂『7%の運命 - 東部ニューギニア戦線 密林からの生還』光人社,2005年
ウェワクからラバウルに帰還した兵士の記録 帰途ラバウルの街の慰安所に寄った。……メインストリートの街路樹の下で船から下りたばかりと思われる女たちの一団(十五、六名)が休息していた。大勢の兵隊がもの珍しそうにその兵隊たちの中にY軍曹と運転手のE上等兵の姿があったので、私たちが近寄ると、「あの娘たちは、海軍の軍属を志願したそうだが、だまされて連れてこられたらしい。あの娘は富山の浴場の娘だと」E上等兵は、指差しながら、気の毒そうに私たちの耳元でささやいた。
なるほど言われてみると、どの娘も暗く沈んだ表情。ろくに化粧もなく、どう見ても巷で働く女たちではなかった。炎天の中に和服を着て柳行李を持っている姿が、一層いたましく写った。男も女も滅私奉公の時代である。だが、私には割り切れなかった。こんなことが公然と行われてよいのだろうか。私は胸に噴き上げるものを抑えながらその場を去った。 この日本人女性たちは就業詐欺(誘拐)など強制的手段で連れて行かれており、こうした犯罪の事例を刑事罰に問うことを定めていた国際条約(婦女・児童の売買を禁止する国際条約)にも違反しています。
また15、6名もの女性たちの一団が違法な方法で集められていることを警察が黙認し渡航に必要な身分証明書を発給していたことになります。「警察が厳しく取り締まっていた」のならこうしたことは起こり得ないはずです。 そしてこのケースも刑法第226条に違反しており、軍が違法な状態で集められた女性たちを軍用船で輸送していたのなら国外移送罪に該当しますし、移送されてきた女性たちを慰安所の設置と管理をしていた兵站担当の将兵が収受していた場合は刑法第227条にも違反します。 しかし、ここでも軍の方で犯罪として認識している様子はありません。この女性たちはその後どうなったのでしょう。 f:id:dj19:20121208002026j:image:w420
ニューブリテン島・ココポの陸軍「慰安所」に行列をつくり並ぶ兵士たち、時期:1943年末頃 出典:水木しげる『総員玉砕せよ!』講談社,1995年,p.14 1943年末頃にラバウル近郊のココポ(ココボ)にあった慰安所のことを、水木しげる氏が回想しています。
「日本のピー(日本人慰安婦)の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。」(『本日の水木サン - 思わず心がゆるむ名言366日』草思社,2005年)
「彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。」(『水木しげるのラバウル戦記』筑摩書房,1994年) (「慰安所はまさに地獄の場所だった」…水木しげる:http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-167.htmlより)
水木しげる氏も彼女たちが慰安婦になるために「自由意志で自発的に応募した」とは認識していないようです。
■長沢健一『漢口慰安所』図書出版社,1983年
軍医の記録、日本から騙されて連れてこられた女性について。場所:中国中部・湖北省武漢市 赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉でなきじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられると知らなかった。帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げて泣く……
(契約書は一般に)はじめに借用証文、次の行に、一、何千円也、ついで右借用候也、右の金額は酌婦稼業により支払うべく候也と書かれ…… これも騙され連れて行かれたケースです。歴史研究者の吉見義明教授はこのケースについて次のように述べています。
慰安所で働くということは聞いているけれど、慰安所とは何かは聞かされていない。だまされて連れてこられたので、誘拐された女性ということになります。それから、あとのほうでは重い借金を負っていると書かれているので、人身売買でもあります。しかし、この女性が日本から誘拐され、人身売買により連れて来られているにも関わらず、軍はこの女性を解放せずにそのまま慰安所に入れるわけです。連れてきた業者はもちろん逮捕されていない。これは、こういうことが一 般的に行われていた、ということを示すものではないでしょうか。
慰安婦問題に関する吉見義明教授の講演 文字起こし:http://www.ianfu-kansai-net.org/2012-10-23.html『2. 朝鮮・台湾では、軍または総督府が業者を選定し、業者が誘拐や人身売買などにより連行した。これも強制連行。』【資料4】より
吉見教授はさらに戦前の日本においても契約書に書かれている「右の金額は酌婦稼業により支払う」という「売春によって借金を返させるという」契約は「民法90条違反だった」ことを指摘しています。 ■小俣行男『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社,1967年
読売新聞の従軍記者・小俣行男の記録、1942年5月か6月頃、場所:ビルマ (朝到着した貨物船で、朝鮮の女が四、五十名上陸したと聞き、彼女らの宿舎にのりこんだとき)私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」
考えた末に憲兵隊に逃げこんで訴えるという方法を教えたが、憲兵がはたして助けるかどうか自信はなかった。結局、8人の少女は憲兵隊に救いを求めた。憲兵隊は始末に困ったが、将校クラブに勤めるようになったという。しかし、将校クラブがけっして安全なところでないことは戦地の常識である。「その後この少女たちはどうなったろうか」 (『ビルマラングーンの「慰安所」情報』:http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070603#p1より) *将校クラブとは将校専用の慰安所のこと。 この口述資料からは、軍の方で将校クラブを含め各慰安所に配置する慰安婦の人数を決定していたことがわかります。そしてこれも騙されたケースです。
40名から50名に及ぶ女性たちの一団が、同じ日に同じ場所に到着していることから、軍から慰安婦を集めてくるよう指示された業者による大がかりで違法な徴集が朝鮮半島で行われたことは明らかだと思います。 違法な方法で集められた女性たち(16、7歳の未成年者を含む)に身分証明書と出国許可を与えているのは警察です。永井教授が述べているように、軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、組織的に「見て見ぬふり」をしなければ、とうていこのようことはおこりえないはずです。 そしてこのケースもやはり刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪、さらに刑法第227条にも違反しています。しかし、軍の方で違法な契約を破棄させ16、7歳の未成年者を含む女性達を送り返そうとした様子はありません。ここでも軍は業者を不処罰とし犯罪を黙認してしまっています。 ■『こんな日々があった戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年
須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」 1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所 スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……
「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。 女性が逃亡しないよう監視されていたことは、慰安婦にされた多くの女性たちの証言と符合します。そして、「周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ」ていることから軍の施設内に「急ごしらえの」バラックを建てそこを慰安所にしていたのではないかと推測できます。
また、女性たちがインドネシアまで連れて行かれるまでには、朝鮮半島で、軍や総督府が選定した業者が違法な方法で女性たちを集めたことを警察が黙認しなければ出国許可は下りていないはずです。1人2人でなく20人近くもの女性たちなわけですから、うっかり見逃すというのは考えにくい。 さらに軍は軍用船の乗船許可を与え女性を移送し、現地では憲兵や兵站担当の将兵などが受領しますが、その際も身元調査などを行っているはずなのに軍が女性たちを送り返し業者を罰するなどをしていないのです(刑法第226条、刑法第227条に違反)。 こうした事例を見ていくと、日本政府や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」という否定論者の主張が、まったくのデタラメであるとわかります。 ■伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史 - 兵営と戦場生活』番町書房,1969年,p.212
1938年に入隊した作家の伊藤桂一の記録、場所:中国 兵隊と、なんらかの意味で接触する女性は、慰安婦のほかには、中国民衆(つまりその土地の住民)、在留邦人、慰問団、それに看護婦くらいなものだろう。このうち、慰安婦がいちばん兵隊の役に立ってくれていることは事実だが、慰安婦も多くは、欺(だま)されて連れて来られたのである。
■伊藤桂一『戦旅の手帳』光人社,1986年 騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。
伊藤桂一氏は、92年に慰安婦が大きく問題化する以前はこのように率直に語っています。近年は保守系雑誌『諸君!』で性奴隷を否定する主張などもしていますが、それでも軍が慰安所を作ったことや慰安婦が軍属扱いだったことなどを語っており*6、元慰安婦の悲惨さも知ってるがゆえに彼女たちに同情的です。ネットで捏造を拡散している人達のように「単なる金ほしさの売春婦だ!」などという誹謗中傷はしていません。
■『従軍慰安婦110番 - 電話の向こうから歴史の声が』明石書店,1992年,p.54
陸軍パイロットの証言、場所:マレー マレーの場合、飛行場は町外れにあったので、町にある慰安所までは、一、二里あります。そこで慰安所に行くときはトラックにギッシリ乗って行きました。中隊ごとに200人ぐらいが外出しました。……「トミコ」という源氏名の朝鮮人慰安婦がいましたが、彼女が「私たちは軍属募集され、お国のためと志願してきたのに、裏切られて…もう、国には帰れない」と話していました。この慰安所の経営者は、年配の日本人でした。
これも騙されたケースです。刑法第226条、第227条などに違反する犯罪に当たりますが、ここでも軍及び憲兵が取り締まった様子がありません。
■『特集「慰安婦」100人の証言』DAYS JAPAN 2007年6月号,p.16
独立混成第4旅団の兵士、近藤一の証言、場所:中国北部の山西省太原 大隊本部がある太原には慰安所がありました。……日本人女性は将校専用なので下級兵士は行けません。朝鮮人と中国人の2ヶ所が下級兵士用です。……朝鮮人のところへ行った時には話をしただけでした。彼女は田舎の出身で家が貧しく、お金儲けができるからと日本の工場へ誘われて来たのに、気がついたら慰安所で、結局あきらめざるをえなかったと言っていました。
これも騙されたケースですが、貧困層の女性であり前借金に縛られ連れて来られた可能性が高いと思われます。ここでも軍は管理下にある業者を処罰していません。
■山口彦三『ビルマ平原 落日の賦』まつやま書房,1987年
第十八師団の兵士の、日本から騙されて連行されてきた在日・朝鮮人女性についての記録。場所:ビルマ(ミャンマー )、中国・海南島 第十八師団の兵士が、ビルマのメイミョーの公光荘という軍慰安所で出会ったマリ子という日本名をもつ朝鮮人慰安婦から聞いた話によれば、彼女は、下関に住んでいたとき「対馬の陸軍病院で雑役婦を募集しているから行かないか」という話を聞き、紹介人が朝鮮人の産婆で信用できる人なので応募したら、約一〇〇名の女性と一緒に海南島の軍慰安所に送り込まれたという。
(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書,1995年,p.91より重引用) これも騙されたケースで、国際条約や刑法第226条及び刑法第227条に違反しています。
■輜重兵第三二連隊第一中隊 戦友会 八木会編『我らの軍隊生活』
カリマンタン・タラカンにいた同中隊の戦中記に記された兵士の記録。時期:1944年 慰安婦は三十名余りおり、その中の一人に源子名(ママ)を清子(本名リナー)と名乗る十八才の若い娘を知り、よく遊びに行った。彼女らはセレベス島のメナドから、東印度水産会社の事務員にすると騙(だま)されて、ガレラに連れてこられ、慰安婦にさせられたそうである。彼女らの女学生時代のセーラ服姿の写真を見せられたが、日本の女学生と同じ服装で、メナド人はミナハサ族といって色白で、日本人によく似た顔立ちで美人であった。彼女らは当時としては高等教育を受けた良家の子女達であった。
(『皇軍慰安所とおんなたち』吉川弘文館,2000年,p.118、『従軍慰安婦』岩波新書,pp.123-124、「戦争体験記・部隊史にみる『従軍慰安婦』」季刊 戦争責任研究 第5号、94年秋季。より重引用) これは日本内地や植民地から連行されたケースではなく、インドネシアで騙しによる誘拐によって慰安婦を強制されたケースですが、軍の方で当時、犯罪と認識している様子がありません。
■河東三郎『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年
海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用) これも騙されたケースです。刑法第226条の国外移送目的誘拐罪、国外移送罪などに当たりますが、ここでも取り締まった様子はありません。
■鈴木卓四郎『憲兵下士官』新人物往来社,1974年,pp.91-93
鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言 一九四〇年夏の南寧占領直後に〈陸軍慰安所北江郷〉と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は〈田舎の小学校の先生を思わせる青年〉で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、〈兄さん〉としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。
(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.383より重引用) 軍から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」とのことで女性を集めた朝鮮人の業者自身が騙されていたと思われるケースです。
■鹿野正伍『ある水兵の戦記』光風社,1978年
海軍所属の兵士・鹿野正伍の記録。場所:トラック諸島の夏島(現ミクロネシア・チューク諸島) (夏島の慰安所で)妓に内地に手紙を出してくれと頼まれた。「助けると思って、中を読んでください。騙されて連れてこられました」妓は掌(てのひら)を合わせた。媚びた感じではない。妓の目尻に光るものがみられた。
■『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年
松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127 1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された軍属の記録 ― その夏島に「慰安所」があったのですね。
松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。 源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。 トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。 (http://194586245.web.fc2.com/18.htmlより) このケースも刑法第226条に違反した犯罪ですが、朝鮮半島を出国する際には警察が身分証を発給し出国の許可を与え、トラック諸島まではおそらく軍用船で連れて行かれていると思われます。
そして、ここでも女性たちは送り返されることなく軍管理下の慰安所で慰安婦になることを強要されています。警察や軍が厳しく取り締まった形跡は何処にもありません。 ■陸軍通訳の永瀬隆の証言。場所:シンガポール
シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)に駐留していた陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12〜13人が送られてきて慰安所が開設された。……氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、その教育にあたった。彼女らと話をしていた時に「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100 円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えたという。
(林博史「マレー半島における日本軍慰安所について」http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htmより) 「朝鮮人」の「12〜13人」の女性たちは「レストラン・ガール」と騙されて連れて行かれ慰安婦を強要されています。これも刑法第226条に違反する犯罪ですが、軍の方でそれが犯罪であると認識している様子がありません。
■溝部一人 編『独山二』〔独立山砲兵第二連隊の意〕私家版,1983年,p.58
山口時男軍医の1940年8月11日の日記 場所:中国中部 1940年8月、湖北省董市附近の村に駐屯していた独立山砲兵第二連隊は、「慰安所」の開設を決定し、保長や治安維持会長に「慰安婦」の徴募を「依頼」した。その結果、20数名の若い女性が集められたが、その性病検査を担当した軍医は、8月11日の日記に次のように記録している。 さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなか襌子(ズボン)をぬがない。通訳と維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰臥位にして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。
次の姑娘も同様で、こっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。保長や維持会長たちから、村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣く来たのであろうか? なかには、お金を儲けることができると言われ、応募したものもいるかも知れないが、戦に敗れると惨めなものである。検診している自分も楽しくてやっているのではない。こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が念頭から離れない。 (『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波書店,2010年,pp.25-26より重引用) これは中国人女性の事例ですが、中国ではこのように占領した地域の有力者に女性の供出を命じて女性を徴集した事例が多く報告されおり、徴集の形態が日本内地や植民地であった台湾・朝鮮とは異なっていました。
そしてこの軍医は当時の日記に、慰安婦を強いることが「人間性を蹂躙している」と感じ、そうした「意識が念頭から離れない」と苦しい胸の内を書き留めています。 一方、現在の慰安婦問題否定論者の言動から溢れ出す人権感覚はどうでしょうか、戦時中に存在していた人権感覚よりひどい状態にあると言えそうです…。 公文書に記述された慰安婦の強制
■『日本人捕虜尋問報告 第49号』1944年
1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人慰安婦と2名の日本人の周旋業者に対する尋問調書。 場所:ビルマ・ミッチナ(ミャンマー・カチン州) 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡し金(前借金)を受け取った。
アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
http://megalodon.jp/2008-1206-1528-25/members.at.infoseek.co.jp/ash_28/ca_i02_1.html この資料は歴史修正主義者に都合良くつまみ食いされることが多いのですが、丁寧に読んでいけば、軍から慰安婦の徴集を依頼された日本人の業者が朝鮮半島で騙しによる誘拐と人身売買によって、連行当時17,8歳の未成年を含む女性たち22名を連れて来ていること。そして女性たちが軍の管理下の慰安所で本人に意思に反し性的“慰安”を強要されたことが明らかにされています。
■『極東国際軍事裁判速記録』10巻・雄松堂書店,1968年,p.186
極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決 場所:中国南部の桂林 桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した
東京裁判の判決文のなかに、日本の軍隊が女性を「女工を募集」と騙して集め「醜業(売春)を強制した」と記述されています。これは軍が女性たちに売春を強制し慰安婦にしていた証拠ですが、ここで重要なのは、このような犯罪行為が当時、軍のなかでなんら問題にされず見過ごされていたということです。
「慰安婦」制度が違反しているもの
当時の、刑法第226条、刑法第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童の売買を禁止する国際条約、強制労働条約 第29号(1930年)、奴隷条約(1926年)など。
ここで取り上げた以外の日本軍将兵の手記や証言記録
日本軍将兵が回想している軍が直接、連行、徴集したケース http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/gunkyouseirenkou.html
秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断してえらんだ」9つの証言の検証など http://www.geocities.jp/yubiwa_2007/ianfukyousei.html 朝鮮人慰安婦が出てくる戦記、日誌、日記本 - 軍慰安婦を考える会・ホームページ http://194586245.web.fc2.com/01.html 吉見義明「従軍慰安婦」岩波書店 http://sikoken.blog.shinobi.jp/CM/69/1/ 従軍慰安婦資料集 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/1794/ianfu.html *1:このエントリは、軍が組織的に慰安所設置を本格化させた1937年末以降に徴集されたと思われる朝鮮人と日本人の慰安婦に言及された口述資料を中心に収集しています。
*2:当時の刑法第226条:国外誘拐罪、国外移送罪: http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BE%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8#p2 *3:「内務省警保局長通牒」の原文: http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal14/react785.html *4:当時の「婦女・児童の売買を禁止する国際条約」についてはこちらを参照: http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BE%B7%B3%B0%D6%B0%C2%C9%D8#p3 *5:「慰安婦」「挺身隊」「処女供出」 - Stiffmuscle@ianhu - 従軍慰安婦問題を論じる 「慰安婦」「挺身隊」「処女供出」 - Stiffmuscle@ianhu - 従軍慰安婦問題を論じる *6:2007年8月号『諸君!』「僕が出会った気高き慰安婦たち」: http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-107.html コメント
kounodanwawomamorukaikounodanwawomamorukai 2012/12/14 03:27 これだけ証拠がれば言い逃れは不能ですよね。 徴集したのは、大方業者(女衒)でしたが、その業者に慰安婦を集めるように依頼したのは軍であり、身分証明書を与えて便宜をはかり、軍が直営した慰安所においても、「騙された女性達を送り返した」形跡がほとんど無い。(小林よしのりが上げた例はただの小説の話。よしんばあったとしても大多数は送り帰してはもらえなかった) 騙して連れて行って、そこで強姦同然に慰安婦にしておいて「それは強制じゃない」なんて言い逃れができる訳がない。 http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63630718.html http://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/63581579.html また連行時の強制に関しても、東南アジアに多くの例があり、その横暴なやり方を朝鮮半島においても行ったと考えるのが自然である。さらに総督府警察や面事務所(役所)が女性を集めた関特演があり、騙したりすかしたりしたのである。 もはや言い逃れは不可能であるに違いない。 やまもとやまもと 2013/01/25 06:49 この問題は、規制法が存在していても、実際の現場では事実上有名無実化している。という今も変わらぬ日本社会の体質を象徴しているように思います。やくざの手配師の原発作業員集めを黙認していた東電と同じ。昔、言われていた「新聞はエリートが書いてヤクザが売る。」も同じですね。自分達では直接手を下さず、「黙認」という方法で汚い事は底辺層にやらせる。そして、時折、思い付いたように取り締まりを強化して帳尻を合わせる。この国の支配層の狡猾さは、外国からはよく見えるのでしょう。池田信夫という人がNYタイムスに意見書を提出したそうですが、厚顔無恥、そして無知もいいところですね。
たけしたけし 2013/03/09 23:43 はじめまして、すごく勉強になるブログをありがとうございます。 合気道家の塩田剛三先生の『合気道修行』に空手などを訓練した兵士たちが中国人捕虜を縛り付けて「試し打ち」をしてるシーンが出てきます。 当時の人権状況はこんなものだったのだろうし、慰安婦の人たちの扱いも推して知るべしだなと思います。 慰安婦などを否定したい人たちは昔の戦争に行った日本人と自分を過度の同一視をしてるんじゃないかなと思います。昔の日本人の行為が悪かったとなると自分が悪いような気がしてしまうんじゃないでしょうか。
山下 由佳山下 由佳 2013/05/18 12:44 平和資料館・草の家「戦争を記録する会」元教師の梅原先生は、従軍慰安婦を密かに逃がした体験のある高知出身の兵士の証言を記録しています。悲惨な戦争の最中にも、良心的に、できる範囲で動いた一兵士がいた。この史実を明るみに出したい。http://blogs.yahoo.co.jp/costarica0012/24896941.htm
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35. 中川隆[-5596] koaQ7Jey 2018年3月02日 08:50:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523] ▲△▽▼ ニューギニアで旧日本兵が行った残虐 ウエワクの約2百人の集会ではロレンス・イフィンブイさん(70代・男性)が、 「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅されたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。 それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。 母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」 と語った。 「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。兵隊の階級には関係なく、多くの人の相手をしました。約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。 第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。わたしは幸い宿舎から逃げ出せました。何ヶ月かわからないけど、長い間でした」 というのはウルゥプ村のカミ・ドマラさん。証言する彼女に寄り添う夫は日本軍のケンペイ(憲兵)として働かされ、暴行を受けたという。
すでに被害登録は約6万5000人にのぼるという。ちなみに現在のパプアの人口は390万人。登録者は約60人に1人になる(登録者はニューギニア島東部だけではなくラバウルなど周辺の島々を合わせた数)。
最も多いのは「武器や食料の運搬に駆り出された」約2万6000人だが、 人肉食犠牲者1817人、
胸を切断され死亡した女性19人、 性器を蛮刀でえぐられて殺された女性8人、 強姦されて殺害された女性5164人 など、とても信じられないような数字が並ぶ。
はたして、この被害の実態が被害者側の証言だけで証明できるのだろうか。おもにオーストラリアとアメリカの資料をもとにニューギニア戦線での日本軍の人肉食を検証した著作「知られざる戦争犯罪」のある田中利幸メルボルン大学教員は、
「東京裁判でオーストラリア側が日本軍の人肉食を戦争犯罪として明示したのに、審理からは抜け落ちた。オーストラリアでは、食べられたと見られる自国兵の死体について約100のリポートが出ている。だが、戦闘中なので目撃証言が乏しく、裁判は難しかったようだ。これらの史料に、わずかだが現地の人たちの人肉食被害が出てくる。現地の人たちについては集落のなかでの出来事なので、むしろ目撃者は多かったのでは」 と指摘する。 http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.html 慰安婦にされた女性たち−フィリピン http://www.awf.or.jp/1/philippine-00.html 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。 フィリピン地図 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。 捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。 北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。 中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。 パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。 セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。 レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。 同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。 また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。 同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。 また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。 フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より
(全文はこちら) http://www.awf.or.jp/pdf/0197.pdf 多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。
ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。 日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。 また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。 このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。 ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。
ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。 ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。 ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。 4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。 ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。 ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。 そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。 マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。 6〜7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。 マリア・ロサ・ヘンソンさんロサ・ヘンソンさんの場合
マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。 1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。 そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。 彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。 彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。 ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。 ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。 その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。 (ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら) http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html#philippine ロサ・ヘンソンさんは、1944年1月、ゲリラによって救出されました。連合国の上陸によってフィリピンは日本軍の占領状態から解放されたのです。
[スレ主【赤かぶ】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員によくあるコメントはスレ主が処理可能) アラシ。
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