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「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言 時代遅れの巨大戦艦「大和」とともに
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54188
2018.01.24 栗原 俊雄 現代ビジネス
「何とか生きて帰ろう」と思ったが…
「燃料は半分。飛行機の護衛はない」
今から73年前の1945年4月、駆逐艦「雪風」の寺内正道艦長は、西崎信夫さん(91)たち乗員にそう話した。「特攻だ」と。
「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』と言われていました。だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」
実際、西崎さんは1944年、かつて世界最強を謳われた、連合艦隊の機動部隊が壊滅したマリアナ沖海戦、その連合艦隊自体が事実上壊滅したフィリピン沖海戦、さらには護衛していた巨大空母「信濃」が米潜水艦に撃沈された海戦からも生きて帰った。しかし「特攻」と聞いた時は「『いよいよこれはダメだ』と」。
第二次世界大戦末期、劣勢の大日本帝国陸海軍が進めた特別攻撃隊=「特攻」について、筆者は昨年3回、現代ビジネスに寄稿した。いずれも戦闘機や爆撃機などが爆弾もろとも敵艦に突っ込む「航空特攻」について取り上げたものだ。
しかし、特攻にはそれ以外にも水上の軍艦による特攻(水上特攻)や小型潜水艦などによる特攻(水中特攻)があった。
ドラマや小説、ノンフィクションでも繰り返し描かれてきた航空特攻ほどは知られていないだろう。だが、これらの特攻では航空特攻に匹敵するほど多くの兵士たちが死んでいった。
「水上特攻」の代表は、戦艦「大和」など10隻による沖縄水上特攻がそれである。筆者はこれまで、「大和」を中心にこの特攻から生還した人たち30人近くに取材をしてきた。本稿では、この「特攻・大和艦隊」のことを振り返ってみたい。
「世界最強」のはずが…
1941(昭和16)年12月に始まった米英などとの戦争で、大日本帝国は当初、勝利を重ねた。だが連合国軍が体制を整え本格的な反攻を始めると、劣勢に転じた。決定的だったのは1944年。ことに7月、サイパンやグアムなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことだ。米軍がここを拠点に、大型爆撃機B29による日本本土爆撃が可能になった。
そのことを、日本の為政者たちは知っていた。だが、戦争をやめなかった。そのため被害は拡大した。戦争による日本人死者310万人のうち、実に9割が1944年以降と推算されている(『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』吉田裕著・中公新書)。
同年10月には、フィリピン戦線で航空特攻が始まった。「大和」など連合艦隊の主力が、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍を撃退すべく、航空機の援護がないままに出撃した乾坤一擲の戦いであった。
「大和」は開戦間もない1941年12月16日に竣工した。全長263メートル、全幅38・9メートル。基準排水量6万5000トン。「世界最大」の戦艦であった。また戦艦の存在価値は主砲で決まる。「大和」の主砲は四六センチ砲九門で、最大射程距離は四二キロ。同時代の、他のどの国の戦艦より主砲が大きく、射程距離は長かった。
【PHOTO】gettyimages
「大和」は「アウト・レンジ」戦法、つまり敵艦の砲弾が届かないところから、その巨砲で一方的に攻撃することができるはずだった。「世界最強」と謳われた所以である。
これは、敵味方の戦艦が主砲を打ち合って雌雄を決する(たとえば1905年、日露戦争の日本海海戦)という戦術思想に基づくものである。また、航空機は戦艦を沈められない、という前提もあった。ところが航空機の発達により、海戦の主力は戦艦から航空機とそれを積む航空母艦(空母)を中心とした機動部隊に移っていった。
「大和」は、誕生した時点で時代遅れの巨大兵器だった。帝国海軍が期待したような、アウト・レンジで敵艦隊を撃滅することはなかった。そもそも、「大和」にはそういう戦闘場面すらなかった。
「大和」が期待された戦果を挙げられなかったのは、海軍が使い道を対水上艦隊にこだわり続けたせいでもある。たとえば早くから機動部隊の護衛として、あるいは上陸した米軍を艦砲射撃で叩くことに使用されていれば、それなりの戦果を挙げただろう。
水上部隊だけ何もしないわけには
ともあれ戦局の大きな節目となった1944年は、帝国海軍にとっても最悪の年になった。まず7月、前述のマリアナ諸島を守るべく出撃したマリアナ沖海戦で米海軍に惨敗。かつて世界最強だった機動部隊が壊滅した。さらに10月には、前述のレイテ島を巡る海戦で連合艦隊そのものが事実上壊滅した。「大和」とともに「浮沈艦」と言われた姉妹艦の「武蔵」も撃沈された。
為政者たちがずるずると勝ち目のない戦いを続けるうち、敵は日本本土に近づいてきた。そして1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸した。この米軍を撃退するために出撃したのが「大和」特攻艦隊である。「大和」以下、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」「冬月」「涼月」「雪風」「初霜」からなる「第二艦隊」の10隻であった。
航空機の援護を持たない艦隊は、敵の機動部隊には勝てない。勝てないどころか惨敗を喫する。そのことは、ほんの半年前、フィリピン近海で学んでいたはずだ。
さらに沖縄近海を遊弋する米海軍の戦力は、機動部隊以外でも「大和」艦隊を桁外れに上回っていた。たった10隻でそこに殴り込んでも、勝算はほとんどない。そもそも沖縄にたどり着くことすら極めて難しい。無謀そのものの「作戦」だった。
このため海軍内部では反対論が強かった。第二艦隊でも伊藤整一司令長官以下、なかなか賛成しなかった。
こうした、失敗の可能性が極めて高い特攻が発令されるには、いくつかの背景がある。まず、底が見えてきた燃料事情だ。開戦直後に侵攻した、東南アジアの石油産出地域は占領を続けていた。しかしそれを運ぶ補給路を連合国軍に押さえられているため、運ぶことができない。備蓄の燃料が少なくなる中、膨大な燃料を消費する巨艦は「厄介もの」扱いされつつあった。
さらに連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介の証言によれば「一部の者は激化する敵空襲に曝して何等なすところなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手傍観はその意を得ぬというような考えから、これが早期使用に焦慮していた」(『聯合艦隊』)という雰囲気があった。
つまり、このままでは敵の空襲でなにもしないままやられてしまう。あるいは航空特攻を初めとして「全軍特攻」を標榜する中、水上部隊だけがなにもしないというわけにはいかない、といった危機感だ。
昭和天皇への「忖度」
さらに、昭和天皇の影響もあった。
2014年9月、宮内庁が公開した『昭和天皇実録』(『実録』)には以下の記述がある(1945年3月26日の項)。
「御文庫において軍令部総長及川古志郎に謁を賜う。なおこの日午前十一時二分、聯合艦隊司令長官は天一号作戦の発動を令する」と記されている。「天一号作戦」とは、沖縄方面での航空特攻を主体とするもの。及川が作戦の詳細を説明したとみられる。
さらに4日後の30日、天皇は及川に会い「天一号作戦に関する御言葉への連合艦隊司令長官よりの奉答を受け」(『実録』)た。
及川が答えを言うからには、昭和天皇から何か質問されたはずだ。『実録』はその内容を記していない。しかし、その会話をうかがうヒントがある。宇垣纏(まとめ)海軍中将の日記『戦藻録』だ。1945年4月7日、つまり「大和」が撃沈されたその日に以下の記述がある。
「抑々(そもそも)茲(ここ)に至れる主因は軍令部総長奏上の際航空部隊丈の総攻撃なるやの御下問に対し、海軍の全兵力を使用致すと奉答せるに在りと伝ふ」
宇垣によれば、沖縄の作戦に関し及川から説明を受けた天皇は「航空部隊だけか」という趣旨の「御下問」をした。「水上部隊はどうするのだ。『大和』は出撃しないのか」と催促したわけではない。しかし、及川は大元帥=昭和天皇の意志を忖度した。それが第二艦隊の特攻につながったとみられる。
とはいえ、昭和天皇の言葉だけで特攻が決まったわけではない。前述のように、もともと海軍の一部には、「大和」を特攻させたい勢力があった。昭和天皇の一言は、そうした勢力を後押ししたのだ。
しかし、第二艦隊は特攻に納得しなかった。連合艦隊からは説得のため、草鹿龍之介参謀長(中将)を山口県・徳山沖に停泊する「大和」に向かわせた。納得しない伊藤らに対し、草鹿は言った。
「要するに、一億総特攻のさきがけになってもらいたい」
一億=国民すべてが本当に特攻したら、国家も民族も消滅する。それでは戦争を続ける意味がない。「一億総特攻」は比喩でしかない。草鹿の言葉はおよそ論理的ではないが、論理を超えた説得力があったようだ。「とにかく特攻したほしい」。そういう連合艦隊の本音に対し、伊藤は「そうか、それなら分かった」と応じた。
自分の命が削られていく音
1945年4月6日、午後3時45分。豊田連合艦隊司令長官は第二艦隊に電文を発した。
「(前略)帝国部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ挙ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル攻撃ヲ決行セントスル。
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ 茲ニ殊ニ海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタル(後略)」
この「特攻」を「命令」していることを確認しておきたい。というのは戦後、特攻を指揮した将官などが「特攻は兵士たちの意志だった」といった旨の発言をし、今日に至るまでそう信じられているむきがあるからだ。
自らの意志で特攻に飛び立った兵士は、確かに多かった。しかし、そうではない兵士もたくさんいた。
筆者はこれまで、実際に特攻で出撃した兵士30人に取材してきた。この中に、特攻するかしないか選択を任された者は1人もいなかった。特攻「大和」艦隊の人々がそうであるように、初めから特攻と決まった「作戦」に送り出された者がいたのだ。
根拠もなく「意志だった」と言い張る将官は、そうでないと自分の責任が追及されることを恐れてのことか、そうでなければ自分に催眠術をかけて罪の意識から逃れようとしたのだろう。
艦隊による「特攻」を知った「雪風」の西崎さんは、居住区で瞑想していた。
「父の形見の腕時計をしていたんです。ふだんは聞こえない、『カチカチ』という音、秒針の音が聞こえました。自分の命が削られていく気がしました」
1942年に海軍特別年少兵一期生として入団した西崎さんはこのとき19歳。「酒も女も知らないで死ぬのか」と戦友に話すと「俺は国のためではなく、家族のために戦う」と言った。「おれも家族、それに友だちのために戦おう」と応じた。
同4月6日、前述の10隻からなる第二艦隊が沖縄を目指して山口県・徳山沖を出撃した。開戦前、米英とならぶ世界屈指の軍事力を誇った帝国海軍が、最後に送り出した艦隊となった。沖縄の陸軍は米軍に押されつつあったが、翌日反転攻勢に出る計画であり、特攻「大和」艦隊はこれに呼応する狙いもあった。
連合艦隊の方針では、航空機による援護はしないことになっていた。だが翌7日、かつて「大和」に乗っており、この時は鹿児島県鹿屋を基地とする第五航空艦隊司令長官だった宇垣は、自身の判断で特攻「大和」艦隊の直衛機を出した。しかしわずか10機。時間は午前6時から10時までだけだった。
そのわずかな護衛機がいなくなるのを見計らったように、米軍機の空襲は正午ごろから始まった。それ以降の凄惨な戦闘については、拙著『戦艦大和 生還者たちの証言から』(岩波新書、2007年)を参照して頂きたい。
水上特攻の成果は…
「世界最強」と謳われた戦艦「大和」は実質2時間程度の戦闘で撃沈された。乗員3332人のうち、伊藤司令長官ら3056人が戦死した。生還者は276人。一割にも満たなかった。軽巡洋艦「矢矧」と駆逐艦「磯風」、さらに「濱風」「朝霜」「霞」も沈んだ。艦隊全体では4044人が死んだ(前掲『戦艦大和 生還者たちの証言から』)。たった。
この水上特攻で米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。沖縄を取り巻く米軍を蹴散らすどころか、敵艦の陰すらみることはなかった。
無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった。さらに陸軍が予定していた4月7日の反転攻勢は延期された(12日に実施し失敗した)。
宇垣は、この戦いについて海軍上層部を激しく批判した。
「全軍の士気を高揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る処無き無謀の挙と云はずして何ぞや」(前掲『戦藻録』)
士気を高めるためだったが、悲惨な結果となった。「復讐してやる」という気持ちを抱かせただけで、何も得るところがない無謀なことだった。そういう意味だ。
さらなる苦難
さて沈没する「大和」などから離れ助かった兵士たちには、さらなる苦難があった。
「大和」大爆発の後、あたり一面は重油の海となった。生き延びるためには、その海を漂いながら駆逐艦に救助されなければならない。疲れ切り、あるいは負傷した兵士たちには酷に過ぎた。駆逐艦側も、敵の制空権内に長く留まるのは極めて危険だった。
西崎さんの乗った「雪風」は舷側からロープを下ろして兵士たちを収容した。人間一人をひっぱりあげるのは相当な苦労だ。しかも、西崎さんは戦闘中、機銃弾が左足を貫通する傷を負っていた。それでも「火事場の馬鹿力」を振り絞った。
助けられる方は「疲れているし、重油ですべるからなかなか上がってこられない」。1本のロープに2人がぶらさがった。とても引き上げられない。「そういう時は、棒で一人の腕を叩きました」。叩かれた兵士は海に落ちた。その後どうなったのかは分からない。「そういう業(ごう)があるんですよ……」。西崎さんは70余年前のその光景を今も脳裏に刻んでいる。
特攻「大和」艦隊のように、船もろとも沈んだ遺体はほとんどの場合、回収されない。第二次世界大戦ではおよそ30万人もの日本人がこうした「海没遺骨」となった。無謀な作戦を遂行した者たちが、陸地で寿命を全うし、人によっては国会議員などになり再び国策遂行に関わったことを考え合わせると、戦後日本のありようが立体的に見えてくるだろう。
さて昭和天皇は敗戦後、この「大和」特攻について語っている。沖縄戦を振り返る中で、「とつておきの大和をこの際出動させた、之(これ)も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」とし、「作戦不一致、全く馬鹿馬鹿(ばかばか)しい戦闘であつた」と断じた(『昭和天皇独白録』)。
筆者に特殊な能力があったら、4000人以上の死者たちにこの評を知らせたいものだ。
「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言(現代ビジネス)米軍が直接的に被ったのは戦闘機3、爆撃機4、雷撃機3の計10機の損失と戦死が12人。これが「大和」以下六隻と、4044人の命と引き替えた、直接的な戦果である。鉄板に卵を投げつけたような戦いだった。https://t.co/fuPLmdWJcj
— teru(テル) (@teru_lefty) 2018年1月23日
怒りと涙なしには読めない。指導者らの体面や逡巡でごま粒のようにすり潰された人々の無念を思う。だからこそ特攻記念館には腹が立つ。靖国や右翼など「愛国者」たちは人非人だ。
— muttbob (@muttbob) 2018年1月24日
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本文中にある雪風にロープで引き揚げられた1人がわたしの祖父です。
— オーモリコーヘー (@kou_728) 2018年1月24日
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「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース https://t.co/fmkQTbAu8n @YahooNewsTopics 昭和天皇も大和の特攻は馬鹿馬鹿しいと思ってたんですね。この独白録を呉の大和記念館に展示してあげたいものです。
— りお (@riohalhalo) 2018年1月24日
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— 新米先達mayan (@mayan1969) 2018年1月24日
大井篤参謀「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」
「母親から『是が非でも生きて帰ってきなさい。それでこそ立派な兵隊ですよ』と言われていました。だから、『何とか生きて帰ろう』と思っていました」
— YUTAKA #ANTIFA (@yutakatheblues) 2018年1月24日
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『無残な失敗の責任は、もちろん4044人にはかけらもない。この「作戦」を進めた海軍上層部にこそある。そしてその責任を負うべき者たちは、決して第一線には行かなかった』
— 守山玲司 (@Rage022) 2018年1月24日
「命が削られる音がした…」沖縄水上特攻・生還者たちの証言 https://t.co/DXS8RnWqUc
ややもすれば同じことがまた繰り返される。そんな改憲を許す訳におけない。
— サンサンカレー (@taifu_curry) 2018年1月25日
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