>軍部が暴走して、戦争が起こった戦前のようで恐いです。 世界一規律が正しかった戦前の日本軍が暴走する訳ないだろ
真実は
鬼頭久二(1916年8月生まれ) 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊
南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、 「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」 ちゅう命令やった。 天皇陛下の命令やと言ったな。 当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。 沢田小次郎(1915年9月生まれ) 第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。 つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。 (略) 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。 反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。 するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。 とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。 命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では 「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。 それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。 中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。 その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。 ___ 戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した
中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。 その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。 だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。 だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。 参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm
[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理
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