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「日本にとって米国の核は不可欠」と岸信介!
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2017/09/10 23:46 半歩前へU
▼「日本にとって米国の核は不可欠」と岸信介!
10日夜のNHKスクープ・ドキュメント「沖縄と核」は、見ごたえのある内容だった。アジアにおける米軍の「核拠点」だった沖縄。いま「沖縄と核」に関する極秘文書の開示が相次ぎ、元兵士たちもようやく重い口を開き始めた。
1300発もの核兵器が置かれ、沖縄は冷戦下、東西対立の最前線として危機的な状況に置かれていた。
番組を見ながらメモったものを紹介する。
核兵器が最初に配備されたのは沖縄・伊江島だった。立ち退きを拒否した住民の家はブルドーザーで破壊され、畑はガソリンをまかれて焼き払われた。
伊江島は爆撃の訓練場に変貌した。核を搭載した4機が24時間いつでも出撃可能だった。住民は何も知らされず、核と隣り合わせで暮らしていた。
そうした中で1953年にソ連がいち早く水爆実験に成功した。50年から53年にかけ、朝鮮戦争。54年には台湾と中国の間で台湾海峡危機が勃発。
57年にはソ連がICBMの発射実験に成功。「ソ連が10メガトンの爆撃を仕掛けてくる」と元米軍兵士。米国は危機感を募らせた。
そんな最中の59年6月16日に事故が起きた。場所は今の那覇空港近く。迎撃ミサイル「ナイキ」。核弾頭を付けたまま突然、発射、海に突っ込んだ。操作を誤った米兵が1人死んでいた。
核は広島型と同じ20キロトンだった。極秘裏のうちに密かに回収した。元兵士は「核爆発していたら那覇は吹き飛んでいた」と語った。
1960年の安保改定で岸信介は「日本にとって米国の核は不可欠」だとして、事前協議に「沖縄を含まない」と米国の核持ち込みを黙認した。こうして沖縄に核を集中させた。
伊江島では超低空爆撃訓練が連日繰り返された。子どもたちが遊んでいるすぐそばにも戯爆弾が落ちた。その後ついに死者が出た。MD−6模擬爆弾で28歳の若者が即死した。9カ月になる子供を抱えた若妻は満足な保証もなく苦難に道を歩んだ。
60年代初頭、核巡航ミサイル「メースB」の配備をめぐって沖縄が騒然となった。本土政権の対応はお粗末だった。
1961年1月4日、外相、小坂善太郎とラスク国務長官が会談。
小坂善太郎
「沖縄にメースなどを持ち込む際、事前に発表されるため、論議が起きている。事前に発表しないことはできないか」
ラスク
「何らかの発表を行うことは必要と思われるし、隠しおおせることはできない」
小坂
「事後に判明する場合には、今更騒いでも仕方がないということで論議は割合に起きない。事前に発表されると、なぜ止めないのかといって日本政府が責められる結果となる」と反論。
あきれてものが言えない。沖縄に4つのメース基地が出来た。沖縄は核戦争の瀬戸際に立たされた。
そして訪れた1962年のキューバ危機。ソ連が密かに米国の鼻先のキューバに核ミサイルを持ち込んだのである。米ソの対立は極限に達し、一触即発の危機だった。私は幼子だったが、親たちの気配から戦争が始まるのではないかと怖かった。
ケネディー大統領は核戦争、第3次大戦も辞さずの構えで海上封鎖し、ソ連がキューバに向かうのを実力で阻止する構えに出た。ソ連のフルシチョフ首相が衝突直前で、核ミサイル撤去を決断し、危機は回避された。
そのころの沖縄。
核ミサイルの発射装置の扱いは「TOP SECRET」(トップシークレット)で限られた者しか知らされていなかった。担当者は核基地の司令部の外に出ることを禁じられた。
「DEFCON2」の表示は、いつでも発射できる状態で、別の計器は「HOT」の表示。「DEFCON1」になると発射。
元兵士は当時の心境を「二度と家族に会えないと思った。私たちと同じように、ソ連も(核を)持っているから」と語った。緊張も極限だったのだろう。
1969年、佐藤栄作首相とニクソン大統領が沖縄返還で合意。沖縄からの核の撤去に約束を取り付けた。しかしその裏で、緊急時の核持ち込みで“密約“が交わされていた。
再び持ち込む際、レアード国防長官は沖縄以外の場所について触れたが、日本側は沖縄を選んだ。これが自民党の姿勢だ。
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