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稲田朋美とは何者だったのか?〜欺瞞と不誠実さ以外に残ったモノは… 日本はもうPKOに参加できないかも
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52548
2017.08.23 篠田 英朗東京外国語大学教授 国際関係論、平和構築 現代ビジネス
■稲田大臣の辞任を思い出す
すでに二代前の防衛相の話になるが、外務大臣との兼務を一週間こなした岸田文雄氏、二回目の防衛相就任となった小野寺五典氏と比して、あまりに低評価だった稲田朋美防衛相が内閣改造の一週間前に辞任したのは、南スーダンPKOに派遣した自衛隊員の日報隠ぺい問題の不手際の責任をとってのことだった。
稲田元大臣が残した負の遺産は大きい。その最たるものは、日本のPKOへの貢献に対するマイナス効果だろう。
もともと自衛隊の南スーダンからの撤収は、これまでのPKO派遣とは違い、国連ミッションが終了する前に一方的に撤収を図るという点で、初めての出来事だった。現代の国連PKOに日本が参加することの難しさが露呈した事件であった。
南スーダンPKO派遣の自衛隊部隊〔PHOTO〕gettyimages
撤収が発表された3月11日、私は次のようにブログに書いた。
「これまで自衛隊の撤退を要求する人々は、常に抽象的かつ非現実的な言い方で、自衛隊ではない平和への貢献の仕方があるはずだ」、と言い続けてきた。明日も多くの人がそういうことを言うだろう。気楽である。
誰も具体的な方策に関心がないのだから。抽象的かつ非現実的な言い方で、「日本政府は、自衛隊派遣以外の方法で、早く南スーダンを平和にするべきだ」、と言い続けておけばいい。それで日本社会ではOKである。
これまで自衛隊の撤退を要求する人々は、南スーダンは危険地だ、紛争地だ、ジェノサイドが起こる、と様々なことを言ってきた。しかしそれもせいぜい5月までの話だろう。
そうすれば日本では誰も南スーダンの話などをしなくなる。少なくとも余程の事件でも起こらなければ、ニュースなどで取り上げられる可能性も皆無だろう。」(参照「自衛隊の南スーダンからの撤収は残念でならない」)
もはや過去の昔話のように感じられるが、「早く撤退させろ」「政府は戦争をしたがっている」「アベは戦死者を作りたいんだ」の大合唱をしていた批判勢力は、その後すっかり「モリ・カケ」問題の専門家となった。
さらに今は新しい攻撃材料を探しながら内閣支持率の低下率をチェックするのに忙しく、まさか「自衛隊以外にも日本は南スーダンにできることがある」などといった昔の言葉を思い出す余裕があるはずもない。
だがだからこそ稲田元大臣について思い出してみることは、日本のPKOへの関与という「時機を外した」ネタについて考え直してみるための、ささやかな方法であるかもしれない。
■「司法試験に合格した?」
内部リークと思われる情報が相次ぎ、最後の最後まで「まつエク」に気を遣っていたなどのエピソードが豊富な稲田元大臣だが、私個人が最も目を見張ったのは、次のような記事だ。
「弁護士であることが自慢の稲田氏は、大臣レクでもすぐに『これ、法的根拠あるのか?』と問い詰めてくる。職員がすぐに返答できないと『あなた司法試験に合格したの? してないでしょう』と畳みかけるのがパターンです。」(参照「『司法試験に合格した?』と驕る稲田朋美氏 陸自“2.15クーデター”で撃沈」)
にわかには信じられないやりとりだ。政治家というのは人の上に立って責任を取る役を引き受けるのが仕事だろう。
私が得た情報を見る限り、稲田氏は、実際にはあまり弁護士としての実践歴がないようだ。あるいは依頼人にも「あなた司法試験に合格したの?」と問い詰めていたのだろうか。
私事になるが、私の亡父は、弁護士だった。私にとって弁護士とは、「法的根拠があるのか? と問い詰める人」のことではない。むしろ深夜にかかってきた「先生、大変なことになりました」といった電話に、夜を徹して何時間でも付き合う、そういう生活をする人のことだ。
人間を相手にしない医者や法律家、そして官僚や政治家は、社会において最も信頼してはならない人物だろう。
稲田元大臣時代に、南スーダンで「戦闘」があることが否定され、あるのは「衝突」だけだと説明された。「戦闘」だと言ってしまうとPKO協力法違反になってしまうので、「衝突」と言っているのです、と稲田大臣が自分自身で説明して、大きな衝撃を放ったこともあった。
どう考えても、「戦闘」か「衝突」か、といったことは、何ら重要なことではない。たとえ「衝突」だと言い張った場合でも、隊員の士気を高めるために名誉を与え、必要な措置を提供するために努力することは、もっとできたはずだ。
ところがそのような努力を払うことなく、大臣が「戦闘ではなく衝突なのですから、つまり問題がないということです」、と言わんばかりの態度を取り続けたことは、今後の日本のPKO派遣に巨大な負の貢献をした。
欺瞞と不誠実さに満ちた態度が、国連PKOへの日本の取り組みに付帯するものなのだとしたら、いったい誰が積極的にPKOに貢献しようなどと思うだろうか。
■日報問題と日本の国益の行方
私の大学の同僚の伊勢崎賢治さん(東京外国語大学教授)は、自衛隊派遣にともなう矛盾を指摘し、一度撤収させて体制を整備するべきだ、という論陣を、この『現代ビジネス』も含めた各種メディアで展開させていた。
私自身は、正直、懸念していた。矛盾の是正というのは誰がやろうとしても簡単ではないので、ハードルを高くしすぎると、結局、趣旨は正当でも、効果は逆にふれることがあるのではないか、と。
つまり、矛盾があまりにも顕在化してしまうと、かえってもう誰もPKOに手を付けようとしなくなるのではないか、と懸念していた。
私とて個人の願望としては、政治家の方に勇気を持って矛盾の整理に動き、その上で日本のPKO活動を充実させてもらいたいと思っている。
だが、日本国民の多くが私のように考えているわけではないし、実は伊勢崎さんのように考えているわけでもない。
つまり政治家の多くは関心を持っていない。結果として、矛盾の強調は、日本のPKOからの静かな全面撤退だけを招いていくのではないか。
私は近い将来日本が大々的なPKO派遣を行う目処はない、と推察している。日本はこのまま国連PKOへの貢献を停滞させていきかねない。国際協力全般も停滞の時代だろう。
それでいいのか。それで日本の国益は確保できるのか。それで日本が目指す国家政策の遂行は問題なく進められるのか。停滞を前提にすると、問うべきは、むしろこうした政策的な問いだろう。
日本が国連安保理常任理事国になる可能性がまだ残っている、といった議論は、もう時代遅れだ。
すでに中国はPKOへの分担金比率では日本を抜いているが、2019年度からの分担金比率改定で国連本体への分担金でも中国が日本を抜いて2位になることが決まっている。今や中国のGDPは日本の約2.5倍なので当然なのだが、彼我の差はどんどんと開いていく。
ちなみに中国は実に10の国連PKOミッションに総計2,500人以上の派遣を行っている。同じ北東アジアからもう一つ別の国が常任理事国になる可能性は乏しい、と考えるのが自然である。そんなことはもう誰もが気づいているのに、惰性でアジェンダがまだ残存しているかのように振る舞うことは、建設的ではない。
私はむしろ日本が国際社会の中で普通の国として生き残るために、国力に見合った程度の国際貢献をすることは必要だ、と言ってきている。要員貢献していなくても財政貢献だけで日本が尊敬されるような時代は終わり始めているのだから。
PKOをやっている余裕はない。近隣の安全保障問題への対応に傾注すべきだ、という意見もある。それは確かに大枠ではそうかもしれない。だが私としては、緊迫する朝鮮半島情勢を考えればこそ、国連PKOへの継続参加が重要だ、とあえて言いたい。
朝鮮半島で危機が訪れれば、日本は必然的に関与を迫られる。そのとき、実態として関与できるかどうかは、大きな課題だ。そのためには、一人でも多くの国際的な治安/平和維持活動・紛争後平和構築活動の経験者を増やしておく必要がある。
いざというときに集合的な努力を発揮していくためには、国連PKOのチャンネルを活用する以外にはほとんど方法がない。国際的な専門家層の人的ネットワークも、平時から築いておかなければ、いざというときに役に立たない。
だがこうした問題意識が、今の日本社会のトレンドではないことは、もちろん私も知っている。稲田元大臣の時代には、PKOと言えば日報隠ぺい疑惑の問題、といったレベルの議論が横行してしまった。大変に残念である。
■PKO5原則の問題性
問題の淵源は、PKO協力法の運用にあたって、いわゆる「五原則」を維持しなければならない、という枠組みが作られてしまったことにある。
「五原則」の一つは、「紛争当事者の間で停戦合意が成立していること」である。「戦闘」が発生していると「停戦合意が成立している」とは言えなくなると危惧されたため、「衝突」しかない、ということになったらしい。
稲田元防衛相にとっては「戦闘」と「衝突」には大きな違いがあったようだが、普通の人々にとっては、特に違いは感じないだろう。PKO5原則は、数々ある憲法解釈関係の議論の中でも、最も衒学的な部類に属する話の一つだ。
もし「衝突」が「戦闘」だったら、一夜にして自衛隊は南スーダンから撤退しなければならない、ただし「戦闘」が「衝突」だったら、何も問題が発生していないということだ……、もっとも先週は「戦闘」だったので慌てて撤退したが、今週は「衝突」になったので慌てて戻る事にした……などといった考え方は、ほとんど笑い話である。
「五原則」は、政治的な折衝によって作り出されたものに過ぎない。PKOの実態とかけ離れている。さらに言えば、そもそも憲法典解釈としても成立していない代物だ。上記の笑い話の状況は、日本国憲法典が要請している事態ではない。
せいぜい一部の憲法学者の恣意的な憲法解釈で引き起こされている事態でしかない。そういう人たちは、もともとPKOに反対していたりする人たちだ。
こうした不健康な国内情勢に気を取られて、五原則なるもので、国連PKOの妥当性を審査する、などという国連加盟国として不適切な慣行は、もうやめるべきだ。
派遣後の情勢変化によって何らかの「戦闘」が起こったとしても、茶番めいたやり取りで隠し通すことに労力を払うのは、もうやめるべきだ。
PKO五原則によって、いちいち国連PKOの性格を審査しようなどという態度は、国連加盟国として不適切である。加えて刻一刻と変化する紛争(後)国の状況を、五原則なるもので描写できると考えていることが、根本的に非現実的である。
私自身は、PKO協力法の運営から、五原則の足かせを取り除くことが、最も明晰な現状打開策だと考えている。ただし、政治家から見れば、それは利益の見えないリスクでしかないかもしれない。
それでは何とかせめて、五原則の適用は派遣決定時に行うものだ、というくらいのところにまで持ってくることはできないのだろうか。
自衛隊が派遣されている何年もの間、一秒たりとも五原則が崩されてはならない、と極東の島国で力説するのは、いかにもガラパゴス的である。
もし派遣決定時の審査基準として用いられるのが五原則であるとすれば、派遣後の情勢変化に対応するやり方は政策判断だ、ということにすればよい。
つまり「戦闘」が発生した場合には、「戦闘」があるので、派遣当時に認定した原則的状況から変化が生まれた、と客観的に言えばよい。
そのうえで、ただ撤収を判断しなければならないほどの深刻な事態が継続するかどうかまでは判断できないので、事態を注視しながら、状況対応体制を充実させている、といった態度を示せばよい。
それで最後にやはり撤収するなら撤収する、あるいはそれでも踏みとどまるなら踏みとどまる、ということを、政治的責任を負うべき人物がしっかり責任の所在をはっきりさせながら決めればよい、ということにできないのか。
■日本は国際平和活動の蚊帳の外
私は日本のPKO参加を推進したい、という意見を持っている。ただ政治家が、陳腐な言葉遊びをすることにしか興味がないのであれば、本来の意味でのPKO参加の推進などは不可能になる。
つまり私は実現不可能なことを推進したがっていることになる。
残念だが、それなら、「もう日本は国連PKOには人を送れない」、と結論づけざるをえない。もしそれが不可避なら、それはそれで仕方がない。そういう国として生きていく覚悟を定めるということだ。
PKO協力法も成立して25年がたった。多少は欺瞞的に矛盾を隠してでも、とにかく実績を積み重ねていって……という思考方法では、もう持たないところまで来ているかもしれない。
いい加減に国内政争の道具としてだけ国連PKOを捉えるのをやめないと、PKOはガラパゴス日本の国際的な行き詰まりを象徴する分野となってしまうかもしれない。
南スーダンは、武力紛争が再燃した状況が続いているとはいえ、和平に向けた努力も続けられ、国際社会の多大な努力が投入され続けている。UNMISS(国連南スーダンミッション)には、約1万6千人の要員(軍事・警察部隊だけで1万2千人以上)が勤務している。
ちなみに日本の費用負担は、PKO全体の年間予算約78.7億ドル(UNMISS年間予算は約10億ドル)の1割程度だが、自衛隊の撤収により回収できる費用がほぼなくなった。現在は、約10万人の加盟国派遣のPKO要員総数の中で、UNMISS司令部に残した4人のみが、日本人である。
現代世界では先進国は国際平和活動をやっていない、といった暴論がある。間違いである。
現代国際社会では、国連PKOは各国の平和活動の一部でしかなく、特にNATO、EU、さらにはAU、ECOWAS、IGADへの側面支援などの様々な地域機構・準地域機構の活動を通じて、欧米諸国は国際平和活動に大々的に従事している。日本は蚊帳の外だ。
相変わらず日本では、紛争下でPKOをやるなんて国連も欺瞞的だ、などといった勘違いや、防衛省日報問題はモリ・カケ問題と並ぶ重大で深刻な大事件だ、などといった言説が、あふれかえっている。
冷戦=高度経済成長期であれば、こうした天然ボケのような態度は、かえって平和繁栄の秘訣である、と言えたかもしれない。しかし今はそんな時代ではない。
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