ウーマン村本は山川出版社の参考書のような間違った歴史認識や国防認識しかないど素人だ。その程度の認識で偉そうに喋るウーマン村本を軽蔑するし、つくづく無知とは恐ろしいと改めて思う。 ウーマン村本のような間違った歴史認識・国防認識のど素人に頼らざるを得ないとは阿修羅もヤキが回ったな。ついでに言うと、「ネトウヨ論法多数のため全部処理」とかぬかしている管理人に告ぐ。阿修羅掲示板という名称は是非変えるべきで、さしずめ阿修羅プロパガンダとでも言うべきだ。〈終戦記念日 僕は国よりも自分のことが好きなので絶対に戦争が起きても行きません よろしく〉 ウーマン村本はこんなことを言っているらしいが、命懸けで国や国民を守るために戦う人に対して恥ずかしくないのか? ウーマン村本のような人間の代わりに命懸けで戦う人がいるから、ウーマン村本は好き勝手なことを言っていられるのだ。 もしウーマン村本のような人間が増えたら喜ぶのは侵略者だけだ。 日韓併合は日本の誇り 2010年8月29日は日韓併合100年を迎えました。 これを機に歴史の立て直しと称し、日韓併合無効論を展開する韓国に対し、日本政府、マスコミ、保守系団体は他人事のように無視していました。これは昨日今日に始まったことではなく、戦後65年間、朝鮮問題となると政府はじめ国民も腰が引け、議論を避けてきたのです。議員や知識人が勇気を持って日本の正当性に言及すると、左翼やマスコミから叩かれ、大臣を辞職する羽目になったり、マスコミから干されたりして、ますます消極的になりました。韓国による竹島の不法占拠と北朝鮮による拉致は、日本の国家主権の侵害だというのに、政府とマスコミの対応は常に生ぬるく、なぜか国民の反応も鈍いのです。 どうして、日本はこんな不甲斐ない国になってしまったのでしょうか。 最大の原因は、戦後の日本が自国の誇りある歴史を自ら否定してきた事の結果だと言えます。 「日韓併合」も朝鮮半島の侵略と植民地化だったなどと自ら歴史の事実を否定し、矮小化してきた結果、「臭いものには蓋をする」意識が働き、国益を大きく毀損する朝鮮民族の許し難い歴史歪曲に対しても、反論による摩擦よりも無視する不作為で自らを誤魔化してきたのです。保守論者の中にも、「反論しないのは、国を奪われた朝鮮民族に対する武士の情けであり、憶測の情でもある」などと言う人もいますが、朝鮮民族に武士の情けも憶測の情も理解する心がないのですから、それは無駄な思いやりであり、偽善と言うべきでしょう。 かつての日本は、日清戦争で支那から未開の地であった台湾を割譲されるや、西欧列強の植民地政策とは異なる「内地化」という手法で瞬く間に近代化し、歴史上1500年の支那の属国で疲弊しきった朝鮮を併合するや、これも同じ手法で世界が目を見張るような早さで近代化したのです。満州の原野にたった15年で五族協和の工業国家満州帝国を築いたのも同じ手法であり、そこに善政を敷いた日本は、当時、支配を受けた全ての民族から賞賛を受け、西欧列強からは名実共にアジアの盟主として認められました。 台湾、朝鮮、満州の民族に永遠に続くと思われた幸せが、日本の敗戦と共に一瞬にして夢と化したことは、希望が大きかっただけに、戦争に負けた日本に対する彼らの恨みも大きかったかも知れません。しかしながら、内地化という手法で日本が培った近代化の遺産という果実は、台湾にも韓国にも見事に根付き、満州帝国の遺産も中華人民共和国の発展に大きく貢献したのです。したがって私たち日本人は、父祖が為したアジアにおける貢献を誇ることはあっても卑下する必要など全くないという事を肝に銘じておく必要があるのです。 もう、これ以上の自虐と怠慢と偽善は日本を破壊し、私たちの子孫を苦しめるだけです。 今求められているのは、たった1度、戦争に負けただけで、日本の類い希なる誇りに満ちた歴史を捨て去った戦後70年近くの過ちを正そうとする行動であり、日本の誇りを歴史の真実を通して1日も早く再興することだと考えます。 「朝鮮半島匕首論」を御存知だろうか。百済の白村江の敗戦で唐の侵攻に怯えた古代、2度にわたる蒙古襲来に見舞われた中世、日清日露の宿命的な戦争を戦った近代、北朝鮮の暴発を恐れる現代と、古来より朝鮮半島は地政学的に日本の弱点だった。 開国前後の日本には、欧米列強が日本植民地化の意図を持って押し寄せてきた。当時、有色人種の完全な主権国家は日本、トルコ、タイ、エチオピアの4カ国だけであり、世界は軍事力や経済力で他国や異文化をねじ伏せ、植民地化する事が当たり前の帝国主義の時代であった。 260年の鎖国から半ば無理矢理開国させられた日本が行く道は、白人の植民地となるか、有色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるかのどちらかの道しかなく、日本が選択したのは後者であった。 欧米列強に付け入る隙を与えなかった短期間の素早い維新で誕生した明治政府は、「富国強兵策」を展開し、「封建的農業国家」を一気に「帝国主義的近代工業国家」に改造したのである。不平等ながら欧米列強と開国条約を締結し、国際法的整備を終えた日本が直面したのが「朝鮮半島匕首論」であった。 極東から遠い欧米列強よりも、朝鮮半島に地続きで日本の隣国である支那かロシアが朝鮮半島を征服すれば、日本の安全保障が危うくなるが、朝鮮半島の主人公たる朝鮮の実情は支那の属国であり、朝鮮半島の安定を託す相手ではなかった。江戸の鎖国時代でも支那と朝鮮は交易を通じて様子が分かっていたが、新しい帝国であったロシアの強引な拡張主義は、江戸時代を通じて日本の恐怖の的であった。 その象徴的な事件は1861年(文久元年)の「ロシア軍艦対馬占領事件」である。不凍港を求めて南下したロシアが対馬をロシア領土にしようとした日本侵略であった。半年に亘る日本の抗議は聞き入れられず、最後はイギリス艦隊が圧力を掛けて排除した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6 「力こそ正義」である事を思い知った日本は、以後、自らの安全保障のために、宿命的な日清日露戦争に向かってひた走ることになる。 1876年(明治9年)日本は西洋の国際法方式に従い、7年かかって朝鮮を独立させた。欧米列強もその後、日本に続いて朝鮮と国交を開いた。 *江華島事件 1875年(明治8年)9月、朝鮮西岸で測量活動をしていた日本の軍艦雲楊が、飲料水を求めて江華島に近づいた時、同島の砲台から砲撃を受けた。雲楊は反撃を加え、兵隊を上陸させて砲台を占領した。翌年、日本政府は黒田清隆全権大使を朝鮮に送り、 (1)朝鮮政府が国書の受け取りを拒否していること (2)軍艦雲楊を砲撃したこと について朝鮮側の全権と談判させた。 *日朝修好条規 朝鮮側は、この2つについて非を認め、1876年(明治9年)2月、日朝修好条規が調印された。日朝修好条規の第1条には 「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」 となっていた。これは、「朝鮮国はどこの国にも従属しない」という意味であり、日本が朝鮮に求めていたのは、清国の従属から1日も早く独立国として自立し、日朝両国が対等の立場で交易し、互いに利益を得ること、将来的には近代化した日朝中3国が協力して西洋列強の侵略に対抗できる基盤を作ることにあった。 日朝修好条規には、釜山・元山・仁川の3港を開港することに加えて、開港地における日本の領事裁判権を認めることが明記されていた。これは、交流のあった徳川時代から朝鮮側が認めていた慣例に従うものであった。 日朝修好条規により、日本公使館を京城(漢城)に開設し、江戸時代以降途絶えていた日本と朝鮮の国交は回復した。 2017.1.10 17:32更新 【歴史戦】 中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に http://www.sankei.com/world/news/170110/wor1701100035-n1.html 中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から) http://www.sankei.com/world/photos/170110/wor1701100035-p1.html 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8年とする解釈を変更し、31年からの14年に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した1月3日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。 中国はこれまで「抗日戦争」として、37年7月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、31年9月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。 45年8月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には1894〜95年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。 福沢諭吉の「脱亜論」はアジア蔑視で、日本の朝鮮侵略の口実を作ったという反日派の説は本当でしょうか。 「脱亜論」は、日本・清・朝鮮3国が協力して西洋列強に対抗しようとの日本の呼びかけに応じなかった清・朝鮮に対する絶望感を表すものでした。 19世紀に入り、西洋列強の東アジア進出は盛んになってきた。特に、南下政策をとるロシアは、朝鮮半島に入ろうと機会をうかがっていた。 福沢諭吉は、 「今、西洋が東洋に迫るその有り様は、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすれば済むというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼は免れないからである」 と述べている。 福沢諭吉は、「西洋列強の侵入から日本を防衛するには、日本が近代国家になるだけでは不十分である。隣の朝鮮と清国も近代国家になってもらい、3国が力を合わせて西洋勢力に対抗していかねばならぬ」と考えていた。 日本政府の考え方も、福沢諭吉の考え方と同じであった。日本政府は国の立場で、福沢諭吉は個人の立場で、朝鮮の改革派が進めようとする近代化を授けた。 しかし、朝鮮を属国と見ている清国は、朝鮮に日本の影響力が及ぶのを嫌った。そして、朝鮮国内の守旧派と連携し、朝鮮の近代化政策を妨害した。 福沢諭吉は朝鮮の改革派である金玉均や日本に留学した若い朝鮮人たちを慶應義塾に受け入れて授けたが、朝鮮はその恩に報いることなく、逆に改革派を弾圧したのである。 そうした妨害の続くことに絶望して福沢諭吉が書いたのが「脱亜論」であった。その後、福沢諭吉は半ば諦めながらも、朝鮮や清国の覚醒を期待し続けた。 ・東学党の乱 1894年(明治27年)の春、閔氏(びんし)一族や両班(やんぱん)の悪政に苦しむ農民が反乱を起こした。東学党軍と呼ばれる農民軍は士気が高く、政府軍では抑えられず、朝鮮の宮廷は宗主国である清国に反乱鎮圧のための派兵を要請した。要請に応じて清国は軍隊を牙山に進駐させた。日本も天津条約(てんしんじょうやく)に基づいて、漢城(ソウル)方面に出兵した。外国軍の介入を予想していなかった東学党軍は、急いで政府軍と和解した。 和解内容の主なものは、 @不正腐敗官吏や両班の処罰 A勝手な課税の禁止 B土地の均等配分 C官吏の公平な登用 等であった。 ・日本が主導した甲午改革(こうごかいかく) 日本は、朝鮮政府の実情から見て、これらの和解案は実行に移されないと判断した。そこで、清国と共同で朝鮮の徹底的な内政改革を行うことを清国に提案したが、朝鮮を属国と見ている清国は、この提案を拒否した。 日本の安全保障のためにも朝鮮の改革を進めるには、清の属国から朝鮮を開放しなければならないとして決断したのが、日清戦争である。 (1894年7月開戦)日本は、日清戦争を開始した直後から、気概のある金弘集(きんこうしゅう)に組閣させ、朝鮮の内政改革に着手させた。 金弘集は東学党の要求に加えて、 @科挙制度の廃止 A裁判所・警察制度の新設 B人身売買の禁止 C罪人の連座法廃止 などを打ち出した。 この改革は、朝鮮の封建制度を一掃し、近代国家に変わる画期的なものであったのだが・・・・・ 1896年、この改革に反発する親露派の両班が中心になり、クーデターを起こし、この混乱の中で金弘集は民衆によって撲殺された。 日清戦争とは・・・朝鮮独立の為に血を流した日本 1894年、勢いを増す東学党の乱を政府軍では抑えられなくなった朝鮮の宮廷は、清国に派兵を要請した。清国は直ちに2400人を上陸させたが、天津条約に基づき日本も4400人を派兵した。東学党の乱は首謀者が処刑されて平定されたが、日本と清国は互いに朝鮮半島より兵を引かず睨みあいが続き、遂に豊島沖海戦で火を噴いた。日本は開戦の前に、閔妃等の清国事大派に対し、朝鮮の自主独立を侵害する清軍の撤退と属国関係の解消を迫ったが受け入れられず、政府内の閔氏一族を追放して大院君を擁立し、新政府を樹立した上で大院君から清国排除の要請を得て1894年(明治27年)8月1日、清国に宣戦布告した。 『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全般の平和などが謳われた。戦いは陸、海に於いて一方的な日本軍の勝利となり、遼東半島一帯を日本が占領して翌年1985年4月講和条約が成立したが、講和条約調印後6日目、ロシア・フランス・ドイツの3国が条件が厳しすぎるとして降伏条件の緩和を求めてきた。 列強の干渉に日本は涙を呑んで応じざるを得ず、遼東半島を返還した。しかしこの条約により、日本は台湾を獲得した他、邦貨約3億円の賠償金を取るなどで、アジアの一等国の地位を獲得した。 一方、欧米諸国は日本に領土を放棄させておいて、1898年から翌年1899年にかけ、ロシアは遼東半島を、ドイツは膠州湾を、イギリスは威海衛・九龍半島を、フランスは広州湾を租借したのである。 この結果、清国は唯一の属国だった朝鮮を独立国として認める一方で、清国自身も欧米列強に領土を切り取られ半植民地に落ちぶれた。 日本は戦費総額2億円、兵力動員24万人、戦傷者1万3000人(戦死者は1900人)、期間10カ月の犠牲を払った。 2017.1.10 17:32更新 【歴史戦】 中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に http://www.sankei.com/world/news/170110/wor1701100035-n1.html 中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から) http://www.sankei.com/world/photos/170110/wor1701100035-p1.html 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8年とする解釈を変更し、31年からの14年に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した1月3日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。 中国はこれまで「抗日戦争」として、37年7月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、31年9月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。 45年8月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には1894〜95年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。 日清戦争(1894年)後の朝鮮の日本の成果を全て横取りしようとしたロシア。 ロシアにとって日本は太平洋への出口を塞ぐ邪魔な国。 ロシアは日本侵略を意図してウラジオストック、旅順に加えて竜岩浦と馬山浦に軍港を造ろうとした。これが日英同盟に抵触することも知った上での挑発だった。 ・露館幡遷(ろかんばんせん)=ロシアと朝鮮の信じられない暴挙 1896年(明治29年)2月、ロシアは仁川に寄港した自国軍艦から120名の水兵を動員し、遂に朝鮮国王「拉致」に成功、ロシア公使館で政務を執らせた。露館幡遷という。この間に韓国の利権は次々にロシアに委譲された。 この異常事態は日本の小村寿太郎公使とロシアのウェーベル公使、モスクワに於ける山縣有朋特使とロバノフ外相の間の折衝で、1897年2月に解決し、高宗は王宮に帰還した。国王帰宮後、国名を「大韓帝国」に、国王を「皇帝」に、元号を「光武」に改め、中国使節を迎える迎恩門を壊し、独立門を建て、独立を祝った。 ・清国の没落 1895年日清戦争で清国が敗北すると、欧米列強はハゲタカの如く、清国に襲い掛かった。三国干渉の成果として1898年にロシアが遼東半島を租借すると、英国は威海衛・九龍半島を、ドイツは膠州湾、フランスが広州湾、と次々に清国からむしり取った。 ・日本を襲うロシアの脅威 更にロシアは満州を横断する東清鉄道、その途中のハルピンから大連・旅順に達する南満州支線の敷設権を獲得、満州に関する支配を強めてきていた。更に朝鮮半島南部、釜山の近くの馬山を租借し、軍港を作ろうとしていた。 ・日本を救った日英同盟 釜山の近くにロシアの軍港ができれば、ロシアの脅威は計り知れない。そこで日本は日英同盟を模索した。1901年英国から出された案は、「両国政府はひとえに東亜に於ける現状、及び全局に於ける平和を維持することを希望し、且つ韓国がいかなる外国にも併呑されざる事。及び清国の領土保全を維持し・・・・・」とあり、日本の希望する韓国に対する特別な優越権を保証する文言はなかった。 そこで秘密協定で、ロシアを仮想敵国とした海軍の軍事同盟と韓国に対する特別な優越権の保証を求めた。交渉は難航したが、1902年1月、第1条で清国及び韓国の独立維持を謳うと共に、英国は清国に、日本は韓国及び清国に格段の利益を有することを認め、別国の侵略行動により、その利権を脅かされた場合、必要な措置を取ることを承認することを明示した。 日本にとって日英同盟は軍事資金調達の後ろ盾・フランス参戦の回避・軍事的なイギリスからの援助・対露妨害の強化といった側面を持つことになった。 2年後の1904年(明治37年)2月、日露戦争が勃発し、日本は勝利した。 国王がロシア公使館で執務するという異常な状態(露館幡遷)は、日本の小村寿太郎公使や山縣有朋特使の外交努力の結果、約1年後の1897年(明治30年)にようやく解決して国王高宗は慶雲宮に還幸された。 日本とロシアとの合意の内容は、 1.朝鮮国王の還幸 2.適当な人物の閣僚任命の勧告 3.京城・釜山間の電信線の保護体制 4.京城・釜山・元山に日露同数の軍隊の駐留 5.両国の合意による財政改革 6.軍隊・警察組織の朝鮮の一任 7.日本の占有する通信線の承認とロシアによる京城・国境間の電信線架設の承認等である。 朝鮮では国王還幸後、国名を大韓帝国、国王を皇帝、元号を光武と改め、更に中国使節を出迎えた迎恩門を壊し、新たに独立門を建てて独立を祝った。 この結果、朝鮮は約1500年に亘る支那の属国状態から離れ、独立国として歩むことになった。 ロシアと朝鮮の間の異常な状態の解決に日本が関与しなかったら、朝鮮は間違いなくロシアに吸収され、その後のロシア革命でスターリンの軛に呻吟していたに違いない。日本は朝鮮の独立達成とロシアからの解放に貢献したことを誇りに思って良い。 世界に恐れられていたロシア帝国(白熊)を成敗した日本は、欧米列強にとって眩しく不安な存在になった。 日露戦争は1904年(明治37年)2月〜1905年(明治38年)9月に至る、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州南部を主戦場として行われた戦争である。 日本にとっては、三国干渉と北清事変後に満州を勢力圏としたロシア帝国の朝鮮支配を防ぎ、日本の安全保障を確保し、朝鮮半島での権益を守るための戦争であった。 日本には大英帝国、アメリカ合衆国、オスマン帝国が味方に付き、ロシアはフランスとドイツ帝国が同盟国だった。清国は早々に中立宣言を発し、大韓帝国も中立を表明したが、一進会や親日派知識人、親日派両班は日本を支持し、高宗をはじめとする支配者階級と独立派の知識人等はロシアを支持していた。 1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下に置くという満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなく拒否された。シベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎はロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。1904年2月23日、日韓議定書の締結で朝鮮での自由な軍事行動が保証された。日露戦争は列強の予想に反し、日本軍が大活躍、次の経過により日本の勝利に終わった。 1904年5月 鴨緑江渡河作戦勝利 1904年8月 黄海海戦・蔚山海戦で勝利、制海権確保 1905年1月 旅順陥落 1905年3月 奉天会戦勝利 1905年5月 日本海海戦勝利 バルチック艦隊壊滅 1905年8月 ポーツマス条約で日露講和会議調印 日本の勝利は欧米列強支配下にあった有色人種に大いなる夢と希望を与えたが、日本を裏切り続けた朝鮮民族には併合への道筋が見えた戦争であった。 2017.1.10 17:32更新 【歴史戦】 中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に http://www.sankei.com/world/news/170110/wor1701100035-n1.html 中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から) http://www.sankei.com/world/photos/170110/wor1701100035-p1.html 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8年とする解釈を変更し、31年からの14年に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した1月3日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。 中国はこれまで「抗日戦争」として、37年7月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、31年9月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。 45年8月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には1894〜95年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。 日本の敗戦に伴い、韓国はサンフランシスコ平和条約に戦勝国として参加することを希望していたが、連合国に拒否された。また、対馬や竹島を自国領土と主張していたが、アメリカはこれも「ラスク書簡」(1951年8月)で拒否した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9B%B8%E7%B0%A1 1951年(昭和26年)9月にサンフランシスコ平和条約は調印され、翌1952年(昭和27年)4月に発効されることになっていたが、韓国の李承晩大統領は1952年(昭和27年)1月、国際法を無視した軍事境界線、いわゆる「李承晩ライン」を日本海上に突如として一方的に設定し、日本領土であった竹島を取り込んで韓国領土であると宣言したのである。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3 外交の一瞬の隙を狙った、泥棒猫のような韓国の暴挙は、日本の主権が回復される3か月前であり、あからさまな侵略行為であった。 その後李承晩ラインを侵犯したとされる日本漁民は韓国側に拿捕されたり、銃撃で殺される事件も多発した。日韓漁業協定が成立する1965年(昭和40年)までの間に、韓国に抑留された船舶数は328隻、死傷者は44名を数えた。夫や兄弟を不当に強制連行された家族の苦しみはあまりにも大きく、日本政府はやむなく日本人抑留者との引き換えに、韓国政府の要求で、常習犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日朝鮮人472人を放免し、日本滞留特別許可を与えた。 竹島を奪われて60年以上になる。日本政府は国際法廷で決着を付けるよう韓国政府を度々説得するが、裁判は不利だと考える韓国はそれに応じない。国際世論を味方に付けようと、韓国は事ある毎に竹島が自国領土だと宣伝している。竹島の日を制定したり、教科書に竹島を記述すると、韓国は日本の侵略だと言い出す始末である。恩を仇で返す韓国の行為は誠に卑劣である。 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。当時、ポツダム宣言についてマスコミは「笑止」「黙殺」等と報じ本土決戦を示唆していたが、天皇の詔勅による突然の降伏を日本国民は従容として受け入れた。しかし、それに乗じて大混乱を引き起こしたのは、日本人とともに戦争を戦ったはずの朝鮮人と一部の台湾人だった。 進駐軍も当初、朝鮮人と台湾人が日本の植民地下で虐げられていたという前提で、日本人側か戦勝国側かの法的地位を明確にしないまま、心情的に日本人とは区別して扱った。そのために彼らは戦勝国の人間として扱われるべきだと主張し、突然、日本人に対する不法行為が増えた。 特に酷かったのは、進駐軍に名を借りた「朝鮮進駐軍」と言われる朝鮮人3万人もの集団であった。彼等はピストルや日本刀で武装し、武器を持てなかった無力な警察を襲い、敗戦に打ち拉がれた日本人を襲い、土地金品の略奪・銀行襲撃・殺人・強盗・暴行・強姦を欲しいままにした。やがて東京から日本全国に広がり、GHQの記録に残っているだけでも4000人以上の日本人が殺害されたのである。 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html 極めつけは、1946年12月20日に起きた首相官邸襲撃事件である。1万人以上の朝鮮人が参加して首相官邸に突入したが、日本警察では手に負えず、アメリカ憲兵隊が出動して鎮圧した。一方、彼らの不法行為を許せないとしてヤクザ集団が立ち上がり、日本人の鬱憤を晴らしたこともあった。 http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/2671500/ 「三国人」という呼称は戦後の朝鮮人・台湾人は日本人でも戦勝国人でもない第三の地位であるという意味である。その後、連合国もようやく事態の深刻さに気づき、在日朝鮮人は日本の国内法に従うべきとして通達を出した。なお、朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟中央総本部)は後の日本朝鮮人連盟。さらにこれが在日本大韓民国民団と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となった。 我々日本人は、民団も朝鮮総連も戦後の混乱期において既に日本人にとっては、恩を仇で返す存在であったことを思い出すべきである。 日本が朝鮮にした恐ろしいこと ・36年の日本帝国主義支配のせいで ・朝鮮半島の人口が2倍に増えて ・24歳だった平均寿命が30年以上伸ばされて ・人口の30%を占めていた奴隷が開放されて ・幼児売春や幼児虐待が禁止されて ・家父長制が制限されて ・家畜扱いだった朝鮮女性に名前が付けらるようになって ・度量衡が統一されて ・忘れられていたハングル文字が整備され、標準朝鮮語が定められ ・朝鮮語教育のための教科書、教材が大量に作成され、持ち込まれて ・5200校以上の小学校が作られて ・師範学校や高等学校が合わせて1000校以上作られて ・239万人が就学して、識字率が4%から61%に上がって ・大学が作られて、病院が作られて ・カルト呪術医療が禁止されて ・上下水道が整備されて ・泥水すすって下水垂れ流しの生活ができなくなって ・日本人はずっと徴兵されていて戦場で大量に死んだのに ・朝鮮人は終戦間近の1年しか徴兵されず、内地の勤労動員だけで済まされていて ・志願兵の朝鮮人が戦死したら、日本人と同じく英霊として祀られてしまって ・100qだった鉄道が6000qも敷かれて ・どこでも港が造られて、どこまでも電気が引かれて ・会社が作られるようになって、物々交換から貨幣経済に転換して ・2階建て以上の家屋が造られるようになって ・入浴するよう指導され ・禿山に6億本もの樹木が植林され、ため池が作られて ・今あるため池の半分も日本製で ・道路や川や橋が整備されて ・耕作地を2倍にされて ・近代的な農業を教えられたせいで、1反当りの収穫量が3倍になってしまって ・風習とは言え、乳を出したりして生活するのがとても恥ずかしくなって ・気が付いたらいつの間にか近代国家になっていた。 日本が朝鮮を保護国(日露戦争に勝った1905年第2次日韓協約により、統監府が設置され、韓国は日本の保護国となった)とする以前、大韓帝国時代に日本は朝鮮に膨大な投資を行い、鉄道を建設している。1900年(明治33年)、京仁線(ソウルー仁川間)の建設を皮切りに、1905年(明治38年)1月に京釜線(ソウルー釜山間)450qを開通させた。 さらに1906年(明治39年)4月、京義線(ソウルー新義州間)490qが開通し釜山から新義州まで南北縦断する鉄道幹線が完成した。この間の日本の投資額は合計6638万円にのぼり、当時の1円を現在の10万円とすれば、6兆6000億円の日本の税金が注ぎ込まれることになる。 韓国は「日本が大陸侵略の手段として勝手に鉄道を作った」と非難するが、利用客の大半は朝鮮人であり、それまで往復5〜6日かかったソウルー仁川間が2〜3時間に短縮され、ソウルから釜山や新義州まで徒歩で片道1カ月以上かかった道程を、座席に座ったまま、わずか数日で往復できるようになった朝鮮側の利益は莫大であった。鉄道インフラの整備により、朝鮮半島内での人・モノ・金の移動が飛躍的に発達したことで、朝鮮近代化の基礎が出来上がったと言える。1905年の大韓帝国の税収総額が784万円であり、大韓帝国自身ではこのようなインフラ投資は出来るはずはなかった。 日韓併合(1910年)後も朝鮮総督府は継続的に鉄道建設に力を入れた。 それも「大陸進出」とは関係のない地方ローカル線の建設に力を入れており、日韓併合後の鉄道関係投資額は合計2億5700万円に上り、現在の価値で言うなら、少なくとも10兆円以上の日本人の税金が使われたのである。 鉄道関係投資額は、日韓併合前の6兆円以上と日韓併合後の10兆円以上の合計で16兆円以上となる。 もし、それでも「日本が自己の利益追求のために勝手に作った」と言うのであれば、終戦後日本から独立した時点で全ての鉄道を破壊すべきであった。それを行わなかった韓国の主張を我々は受け入れることはできない。今後ともそのような恥ずかしい主張をするつもりならば、先ず、日韓併合時代の遺産を韓国自らの手で破壊してから主張すべきであろう。 1906年度の大韓帝国の税収総額は748万円に過ぎなかった。当時朝鮮を近代国家に作り変えるには、少なくとも年間3000万円が必要であり、差額は日本政府が負担した。 1907年より、立替金(朝鮮総督府への援助金)及び直接支援金(病院、鉄道建設など)で毎年約3000万円を援助した。これは現在の価値で2兆円近い額である。日韓併合(1910年)後も補充金(朝鮮総督府への補助金)および公債購入により毎年2500万円〜3000万円をつぎ込んでいる。 朝鮮総督府施政30年史(昭和16年版)に昭和10年から14年までの朝鮮総督府の歳入が示されているが、昭和14年現在においてすら、朝鮮総督府収入の25%を日本からの援助(補充金・公債)が占めていることが分かる。 統治全期間(1910年〜1945年)の日本政府負担額は期間中の平均レートを1円/3万円として換算すれば現在の価値で実に60兆円に達している。 上記とは別に、終戦時に朝鮮半島にあった日本人民間資産の合計金額は53億ドルに達していた。(連合軍総司令部民間財産管理局調査/大蔵省財政史室編「昭和財政史・終戦から講和まで」東洋経済新報社) これら民間資産は本来日本に返還されるべきものであるが、結果的に全て韓国側に没収され、日本人は裸同然で朝鮮半島から追放された。 終戦時11歳の少女だったヨーコカワシマ・ワトキンス氏が書き、アメリカほぼ全州の中学校の副読本となった「ヨーコ物語」(現・竹林はるか遠く)は、「家族と共に日本に引き揚げる際に多くの日本人が、朝鮮人に襲われ、強姦され、虐殺された」という当時の惨憺たる状況を伝えている。 なおこの副読本は後に在米韓国人団体が「歴史歪曲」と大騒動を起こし、彼女は罵倒され副読本から外されてしまった。 朝鮮と関わった35年間、内地の日本人は朝鮮支援の犠牲となって重税に苦しみ、朝鮮半島に渡って植林・水田開発・港湾建設に取り組み、朝鮮の近代化と経済発展のために日夜必死で頑張った日本人は、全ての財産を失った上に侵略者として命まで奪われていった。 日本人こそ朝鮮半島に収奪されたのである。その上、韓国は戦後25億ドル〜100億ドルという日本が破産するような強大な額の賠償金を「戦勝国」として要求してきた。手のひらを返す、とはまさにこのことである。 朝鮮半島に住む人々に日本人の「善意」は決して通じないことを我々は肝に銘じるべきであろう。 日清戦争(1894〜95年)の結果、清国は唯一の属国だった朝鮮を独立国として認める一方で、清国自身も欧米列強に領土を切り取られ半植民地に落ちぶれた。 日露戦争(1904〜05年)の結果、日本とロシアとの合意によって、朝鮮では国王還幸後、国名を大韓帝国、国王を皇帝、元号を光武と改め、更に中国使節を出迎えた迎恩門を壊し、新たに独立門を建てて独立を祝った。この結果、朝鮮は約1500年に亘る支那の属国状態から離れ、独立国として歩むことになった。ロシアと朝鮮の間の異常な状態の解決に日本が関与しなかったら、朝鮮は間違いなくロシアに吸収され、その後のロシア革命でスターリンの軛に呻吟していたに違いない。日本は朝鮮の独立達成とロシアからの解放に貢献したことを誇りに思って良い。 「創氏改名」により朝鮮総督府は朝鮮人の「姓」を奪って日本名を強要したという韓国の主張は全くの歴史歪曲である。 創氏改名(そうしかいめい)は、大日本帝国朝鮮総督府が、1939年(昭和14年)制令十九号(創氏)および二十号(改名)で、本籍地を朝鮮に有する日本臣民(朝鮮人)に対し、新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可するとした政策。 朝鮮総督府は日韓併合(1910年(明治43年)8月29日)後まもなくの1911年11月1日、総督府令第124号「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」で朝鮮人が日本名を名乗ることを禁じていた。朝鮮人の風俗を尊重していたのだ。その後30年が経ち、朝鮮人の間から「日本人でありながら日本名を名乗れないのは差別である」との声が上がり、特に朝鮮人満州開拓団からは「日本名でなければ馬賊や匪賊に襲われる」という危機感から日本名を強く要求された。 朝鮮総督府は日本人と朝鮮人を一切差別しない「一視同仁」の立場で「朝鮮人が望むなら日本名を名乗れるようにする」ことを決定した。 これがいわゆる「創氏改名」である。 一部において「朝鮮総督府の恩」に報いるために町や村ごとそっくり日本名に変える運動が展開され、強制を憂いた当時の南次郎総督は3度も「強制するな」との指示を出している。下のURLの新聞記事は「各都市などで朝鮮人議員の申し合わせとして氏(日本名)の創設が満場一致可決されたりしているが(中略)これは絶対に強制ではなく一視同仁の大御心から朝鮮同朋に内地人同様の氏創設の道が開かれたのであって一般に誤解なきよう主旨の徹底を図ってほしい」との南総督の発言が記載されている。 昭和15年3月6日付大阪朝日・中鮮版 http://dale-alv.iza.ne.jp/blog/entry/3024036/ 「創氏改名」はその施行日より半年以内に、戸籍上に新たに創設した「氏」の欄にファミリーネームを書き込むようにしたもの。「姓」の欄はそのままにしてあり朝鮮人の姓は全く変わっていない。さらに、名前も朝鮮名から日本名に変えたいという要望に答えるため、家庭裁判所に申請して認められれば名前も変えてよいとした。 それらは「朝鮮総督府施政年鑑昭和15年版」に明確に記載されている。 次のURLは創氏改名の翌年の記事が記載されている。洪思翊陸軍中将が朝鮮名で通して何ら問題なかったことを如実に示している。 http://blogs.yahoo.co.jp/sewayakimaman/6680228.html 2017.1.14 13:00更新 【「北朝鮮経済史」を読む】 創氏改名は「朝鮮が希望、日本は反対」 「左翼」が作った北朝鮮史は欺瞞に満ちていた… http://www.sankei.com/premium/news/170114/prm1701140003-n1.html 平成28年11月、知泉書館(東京都文京区)という学術専門出版社から『北朝鮮経済史 1910−60』が出版された。約150ページの書籍。日韓併合から敗戦による南北分断、朝鮮戦争(50〜53年)、「千里馬(チョンリマ)運動」などにより社会主義国家・北朝鮮が大躍進を遂げたとされる時代の経済史だ。日本統治時代のデータと旧ソ連にあった北朝鮮の公式データなどを付き合わせることで、日本における北朝鮮をめぐる近現代研究が、いかに欺瞞(ぎまん)に満ちていたかを指摘している。(文化部 村島有紀) (※1月6日にアップされた記事を再掲載しています) 初版わずか800部。著者の木村光彦・青山学院大教授は、ソ連の崩壊後、ロシア公文書館で公開された1946〜65年の北朝鮮に関する資料を翻訳し、6年前に『旧ソ連の北朝鮮経済資料集』を出版した経済学者だ。編集担当の小山光夫さんは「北朝鮮の情報を資料に基づいた研究をしている人は日本では木村さんだけ。その木村さんが間違いがないとする範囲で初めて出版した通史」と出版意義を強調。裏表紙には《半世紀にわたる北朝鮮の経済史を膨大なデータを活用して考察し、はじめてその実相を明らかにした画期的な概説書》と喧伝する。 本書の主なデータは、戦前は、朝鮮総督府の統計年報、戦後は北朝鮮や旧ソ連の経済資料などに依拠している。木村教授はもともと、アジアの開発経済が出発点。マクロとミクロ双方の視点から、データを基にコツコツと北朝鮮経済を研究するが、「本に書いたことがすべて」という。 そこで、代わりに木村教授との共著『北朝鮮の軍事工業化』がある、元通産省技官で、日本統治時代の北朝鮮の産業遺産に詳しい安部桂司さん(77)=ペンネーム、安部南牛=に、『北朝鮮経済史−』とその時代背景について、解説してもらった。 まず、1910〜45年の日本統治時代と、1945〜60年の北朝鮮経済を切り取り、分析する意義については、「北朝鮮の労働新聞(朝鮮労働党機関紙)には、日本統治時代の経済がいかにひどかったか、糾弾されている。そうではなく、実態はこうだったと伝えることが大事だから」と話す。 木村教授は本書で、日本統治時代の朝鮮半島の北半分(咸鏡道=北鮮▽平安道、黄海道=西鮮)を「北部」に分類。1910年以前の自然や産業などの初期条件を述べた後、農業、鉱工業、初等教育、防疫についてそれぞれ半世紀の変化を分析する。 例えば、農業の分野では「日本が朝鮮半島の物資を収奪したために住民が飢え、流民になった」などとされる。しかし、統計では、1920〜30年代には米の作付面積が大きく増え、1人当たり生産量で南部を上回る地域もあった。一方で、雑穀などの生産量も減っていない。木村教授は本書で《全食糧作物の1人当り生産量は、1920年代から朝鮮北部が南部を上回った》と述べ、住民の消費量を1938年に限って輸出入を調整して推計すると、0・28トン(穀物のみ)。《この量なら飢餓は起こらない》と結論づける。 朝鮮北部の米作発展を促進したのは、日本の東北地方から導入された寒冷地向けの品種だ。 安部さんは「もともと北部で米は常食されていなかった。日本の水利事業が成功したことで米を生産できる土地が増え、平壌は日本一の日本酒の産地になった。日本酒を造った理由は満州への需要が大きかったのと、米の消費先として最も収益がいいから。物資を奪ったわけではなく、農民には当然代金が支払われた」と説明する。 ◇ 日本統治時代のできごとは、徴用(賃金を払っての動員)が強制連行(奴隷労働)になり、資本主義に基づいた貿易が、「収奪」と言い換えられている。なぜ、このようなことが起きてきたのだろうか。 「資本主義は悪で、社会主義が善という考えで歴史をみてきたからだ」と安部さん。また、第2次大戦の敗戦後、朝鮮研究を熱心に担ったのは朝鮮半島出身の在日の学者や、贖罪(しょくざい)意識を持つ日本人研究者らの“左翼”で、帝国や総督府が発表した公式資料を「官の歴史として信用せず、一般人からの聞き書き、証言に資料価値を置いた」(安部さん)という。その結果、在日朝鮮・韓国人の間で語られた流言を含め、「飢餓輸出」や「強制連行」、「創氏改名の強制」「従軍慰安婦」などが“史実”として一人歩きを始めた可能性がある。 「戦前、朝鮮半島から日本に来るとき多くの人が日本名を名乗った。そのほうが便利だからだ。戦後、米国に移民した多く朝鮮人が米国風に名前を変えたのと同じだ。ところが、日本名を名乗るのは恥辱になり『強制された』となった。『創氏改名』は朝鮮側からの希望であり、実際は治安上や従業員管理の問題により日本側からは反対が多かった」と安部さんは憤る。 ◇ 一方、『北朝鮮経済史 1910−60』には、木村教授自身が長年、会費を払い続けた学会「朝鮮史研究会」(1959年発足、総連系)への“告発文”と読める文章が18ページに渡り「補章」として掲載されている。同会が極めて、北朝鮮寄りの政治性とマルクス・レーニン主義の歴史観を有し、実証的な歴史書編纂(へんさん)をしてこなかった過去と現在についての“告発”だ。 例えば、同研究会が昭和49(1974)年に出版した『朝鮮の歴史』(三省堂)だ。同書は、古代から現代までを記した朝鮮半島通史でありながら、《反日イデオロギーと情緒的日本断罪論》に終始。日本統治下で朝鮮人の生活状態が悪化した証左とするデータに誤った数字を用いた上、日本=絶対悪として批判する。 一方、同研究会の活動は、教育現場にも大きな影響を与えてきた。同じく朝鮮史研究会が編集した歴史書には、昭和61(1986)年に発行した『入門 朝鮮の歴史』がある。教職員向けのガイド本だが、1960年代初頭には、北朝鮮では農業生産力も順調な軌道にのり、北朝鮮内の自給が実現、米も安価に供給されているとある。 木村教授の分析は違う。北朝鮮の戦後統計では、朝鮮戦争中も穀物の総作付面積が増大している点を疑問視。《戦闘で国土が破壊された一方、労働力・資材の不足が極限にたっした中で、作付増大が生じたのは不自然》と述べ、1945年に0・26トンだった1人当たり食糧生産量が、1957年に0・45トンに急増したという数値についても《政府が過大に作り上げたプロパガンダの一種》と結論づける。 さらに『入門 朝鮮の歴史』にある「強制連行と徴兵」についての記述は以下の通りだ。 《朝鮮各地から強制的に狩り集められた若い女性たちが遠くはビルマ戦線から中国大陸、南洋諸島などに送り込まれ、日本兵士を『慰安』する肉体提供者として利用された。日本軍と行動をともにした彼女たちは戦死、病死、自殺に追いこまれ、生きて帰った人はまれであったといわれる。その数は確認できないまま今日にいたっているが、十数万人にのぼったといわれている》 今現在、韓国で信じられている“従軍慰安婦”の内容とほぼ同じ。強制の根拠となる事実や数字の裏付けがないまま一方的につづられている。 朝鮮史研究会は、かつて日本の朝鮮史研究者をほぼ網羅し、現在も数百人の会員がいるとされる。隣国の理解のためには、まず、研究者による歴史の実証研究が求められている。 朝鮮人も判っている従軍慰安婦と強制連行の嘘! いつまで自らを騙すのか! 次の新聞記事をご覧いただきたい。月給300円という大金で軍隊慰安婦を募集している当時の新聞記事である。多くの貧しい女性がハイリスクハイリターンの仕事として応募したのが歴史的事実である。 『京城日報』(1944年7月26日付) 「慰安婦至急大募集」 年齢 17歳以上23歳まで 勤め先 後方○○隊慰安部 月収 300円以上(前借3000円まで可) 『毎日新報』(1944年10月27日付) 「軍慰安婦急募集」 行先 ○○部隊慰安所 応募資格 年齢18歳以上30歳以内身体強健女性 募集期日 10月27日より11月8日 契約及待遇 本人面接後即時決定 募集人員 数十名 希望者 左記場所に至急問議の事 京城府鍾路区樂園町195 朝鮮旅館内光B2645(許氏) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:COMFORTA%EF%BD%84%EF%BD%84.GIF 軍慰安所従業婦等募集に関する件(陸軍省兵務局兵務課起案。1938年3月11日大臣官房決裁)慰安婦の募集に当たり誘拐などを行い軍の威信を貶める悪徳業者による斡旋を禁じる通牒。梅津美治郎次官、今村均兵務局長の捺印済 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Comfortwoman%E5%8B%9F%E9%9B%86ToBeRecruited.JPG 韓国では戦時中勤労動員で工場で働いた「女子挺身隊」と「従軍慰安婦」を混同しており、「何十万という朝鮮の乙女が国家制度で組織的に強制連行され慰安婦にされた」と主張している。 明らかな歴史の歪曲である。当時の朝鮮は今日の日本と同じ法治国家であり、国が国民(当時は朝鮮人も日本国民だった)を強制的に慰安婦にできるはずがない。 官憲は女衒に騙された女性を救出していた。 1930年代から1940年代の初めにかけて朝鮮半島では悪徳女衒が跋扈しており、彼らに騙されて売り飛ばされた女性も多く、日本の新聞記事が当時の様子をありありと伝えている。 これこそが歴史的事実である。 中国人に売り飛ばした朝鮮人の人身売買組織が日本政府によって検挙されたことを報じる1933年6月30日付東亜日報 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:1933%E5%B9%B46%E6%9C%8830%E6%97%A5%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%97%A5%E5%A0%B1%E3%80%8D.jpg 朝鮮半島で跋扈していた悪徳業者によって100名を超える婦女子が売り飛ばされた事件の捜査を報じる1939年8月31日付東亜日報 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%EF%BC%91%EF%BC%99%EF%BC%93%EF%BC%99%E5%B9%B4%EF%BC%98%E6%9C%8831%E6%97%A5%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%97%A5%E5%A0%B1%E3%80%8D.jpg 強制連行があったというのなら、なぜ朝鮮人は暴動を起こさなかったのだろう。当時の日本人は朝鮮半島の人口の2%程度であり、警官の半数は朝鮮人だった。暴動はいくらでも起こせたはずだ。 しかしそのような暴動は1件も発生していない。強制連行が事実ならば、当時の朝鮮人は自分の子供が、兄弟が、恋人が僅かな数の日本人に連行され慰安婦にされるのを指をくわえて見ていたことにんるではないか。朝鮮人は決してそのような無気力な人々ではなかった。暴動が起きなかったのは強制連行がなかった何よりの証拠なのである。 次の新聞記事は、韓国に駐留する国連軍(米軍)に韓国が国家として慰安婦を提供している事実を報じている。 韓国こそが国ぐるみで他国の軍隊に慰安婦を斡旋しているではないか。 国連軍を相手とする慰安婦の登録が1961年9月13日に実施されたことを報ずる東亜日報1961年9月14日付 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Registration_of_comfort_women.jpg アメリカ軍(美軍)慰安婦2名が韓国釜山で悲観のあまり自殺したことを報じる1957年7月21日付東亜日報 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Two_young_comfort_women_suicided_in_Busan,_South_Korea.jpg 韓国・アメリカ軍に捕えられた北朝鮮軍看護婦。捕えられた北朝鮮女性はレイプされたり強制的に慰安婦にさせられることもあった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%EC%A1%B0%EC%84%A0%EC%9D%B8%EB%AF%BC%EA%B5%B0_%EC%9C%84%EC%95%88%EB%B6%80.jpg
[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまっていない長文
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