http://www.asyura2.com/17/senkyo230/msg/390.html
Tweet |
「原爆死ヒロシマ72年目の真実」8月6日、Nスペ
〔始めて可視化された8月6日の朝〕
55万人の被爆者のデータを基に始めて可視化。広島市の外から8万人が市内に向かっていたことが分かった。国のために動員された学生や女性たち。その人々の頭上に原爆は投下された。
今回、広島市が集めた55万人以上の被爆者の資料を(個人が特定できない形で)始めて入手、そのビッグデータを解析して原爆による死−原爆死の全貌に迫ることにした。これまでに明らかにされてこなかった死の実態が次々と浮かび上がってきた。
投下された日の死者は53644人。それぞれに被爆した場所が詳細に判明した。また「死のドーナツ地帯」とも呼べる特定に地域で被爆した人々が翌日以降次々と亡くなっていた。さらに原爆の放射線がほとんど届かなかったとされる2.5キロより外の地域でも謎の死が相次いでいたことが分かってきた。ビッグデータを手掛かりに追った被爆者一人ひとりの死に至るまでの姿。
〔倒壊建物の下で起きていたこと〕
爆心地から3キロ以上離れた場所でも死者が出ていた。青で示したのは人々が亡くなった場所。データは広島の町の1/3程に限られていた。この場所の死因を詳しく見ていくと、最も多かったのが黄色で示した焼死で1406人に登った。赤で示したのは聞き慣れない死因ー圧焼死であった。被爆者が描いたおよそ400枚の絵が残されている。8月6日の絵を描いた場所を特定した。その絵の一枚は倒壊した家に火災が迫るものだった。瓦礫に挟まれた母と子が助けを求めている、圧焼死とは生きながら焼かれ亡くなった人々の姿だった。
〔1週間続いた苦しみ 死を招いた原因に迫る〕
爆心地から500m以内で亡くなった人は6日の9530人から翌日には218人に激減。代わって死者が増えたのがその周辺部、500mから1.5Kの間にあるドーナツ状の地域である。
8月7日には1940人、8日には1226人に増え、その後も毎日600人以上の死が一週間にわたって積み重なっていった。
ビッグデータを基に原爆の被害について研究を続ける原田輝一医師(日本熱傷学会元理事)は、
「皮膚のすぐ下のところでおそらく血管が発熱して熱破壊した。通常の熱傷ではないまったく別のメカニスムがあると思う」
原爆が発した強烈な光線ではないか。原田医師が推測する原爆の光線によるやけどのメカニズムは、強烈な光線が皮膚を通過し血管に到達、熱せられた血管から水蒸気が発生、血管を破裂させる、これにより徐々にまわりの組織は死滅、皮膚が剥がれたまま2〜3日かけて命が絶たれる(この現象の実験結果もある)。やけどによる死者の推移を見ると、原爆投下の翌日から3日間で多くの人が亡くなっていたことが確認できる。
さらにこの3日間を乗り越え生きとり留めた人を感染症が襲う。深いやけどは治りにくいため、傷口から細菌が侵入しやすくなる。全身で炎症が起き、臓器が死滅、激しい痛みと高熱に1週間ほど苦しめられた末亡くなっていったのだ。
原田「この爆弾というのは軍事目的ではなく、一般市民を標的にし、苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないか。そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾はおそらく他にはないんじゃないか」
〔やけどを負った子どもたちも一葉に口にした伝言〕
多くの人が特定の場所に移動した末亡くなっていたことも分かった。最も多い173人が亡くなった場所は臨時の救護所に指定されやけどを負った人々が集まってきた府中国民学校であった。ここでなくなった人の内最も多かったのは14歳と15歳であった。当時12歳で動員をかけられた吉田美江子さん(84)は同年代の子どもたちから家族への伝言を頼まれた。しかしその場しのぎの言葉しか返せなかったことを慟哭しながら語る。「すまなんだな、ごめんね」と。 彼(彼女)らは家族に会えないままここで息を引き取っていった。
即死を免れれ傷つきながらも生きようとした人々を原爆特有のやけどが、家族に再会するという望みさへ奪ったいった実態が浮かび上がってきた。
〔データが明かした”謎の死”〕
原爆投下から2週間経ったころ、人々の死因には変化が現れる。それまで最も多かったのは焼死や圧焼死、やけど等であった。ところが8月21日を境に急性原爆症が上回る。広島市は動態調査で、当時下血や下痢などの症状で1945年末までに亡くなった人を急性原爆症とした。
急性原爆症でなくなった人がどこで被爆したかを可視化すると、爆心地から遠く離れた場所で被爆したにも拘わらす多くの人が亡くなっていた。国は広島の放射線をめぐって爆心地から2.5キロより遠方では、直接的な健康被害はほとんどない、としてきた。
しかし広島市の動態調査のデータでは、2.5キロより遠い場所で被爆しながら急性原爆症で亡くなったと記録された人が500人以上いた。とくに数が多かったのが旧南観音町(44人が犠牲に)である。ここで亡くなった人の遺族を訪ねて聞き取りを行う。亡くなった一人(37)は、南観音町から爆心地へ救護に駆けつけていた。その後、家族が避難していた県北部の村へ向かった。身体に異変が起きたのは帰宅して1週間後のことであった。吐血が始まり頭に障ると髪の毛が抜けるの繰り返しであった。治療に向かう大八車の上でこの人は亡くなった。
星正春(広島大・名誉教授)は、放射能を含んだ粉じんを大量に吸い込み、体内被曝したのではないかと指摘する(カザフスタンでの動物実験結果もある)。
さらにビッグデータからは爆心地に近づいていない人の中にも同じようなケースがあることが分かった。爆心地の西にある旧己斐町である(67人が犠牲に)。山に囲まれたこの町、4人の遺族の証言から4人は4か月以内になくなっていた。遺族の示した写真や証言から、原爆の後に降った放射性物質や煤(すす)などを含む黒い雨があった。
静間潔(広島大・特任教授)に動態調査と取材の結果を見てもらうと、全てがフォールアウトかどうかは分からないがその影響ではないか、と。
爆発直後、大気中に放出された放射性物質が拡散し、その一部が雨などとともに地上に落ちる現象である。原爆投下後2〜30分後、己斐町には雨が降ったとされている。これまでの研究でこの雨には放射性物質が含まれていたことが分かっている(セシューム137を検出)。己斐町は三方を山に囲まれ雨水が集まり易くなっている。静間さんは、放射性物質を含み雨がこの地域で濃縮された可能性を指摘している。
データ解析から見えてきたもの、それは放射線の影響が少ないとされてきた地域に、見過ごされた死が未だ残されているという重い事実であった。
被爆者55万人のビッグデータ、原爆被爆者動態調査、そこから見えてきたのは、一人ひとりの命が無残に奪われていった死の現実であった。原爆が投下された日、生きながら焼かれ命を奪われていった人々、命を取り留めた人々が傷つきながらも、生きようとした痕跡、治療を求めた先で家族に会う希望すら奪われ亡くなっていった。
放射線の影響が及ばないとされた地域では、未だ亡くなった理由が分からない死もあった。被爆者55万人のデータは、核兵器がもたらす余りにも残虐な死の実態を改めて突き付けている。
・Nスペ 原爆死 〜ヒロシマ 72年目の真実〜
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170806
- Re: 中性子線や「閃光やけど」で”瞬殺”されたのは、被爆死亡者の20 - 30%ぐらいと見られる/Nスペ(1998から 仁王像 2017/8/08 06:58:43
(0)
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK230掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。