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加計学園「重要機関」の顧問に名前を連ねていた、あの大物政治家 シリーズ【加計学園とは何者か】第二部
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52310
2017.07.24 現代ビジネス編集部
安倍総理と加計孝太郎理事長の深い関係が、行政の判断を左右したのではないか――加計学園の獣医学部新設をめぐる「疑惑」は、いまだ晴れない。
視点を変えて、加計学園の歴史を明らかにすることで、問題のありかを浮き彫りにする本レポート。第二部では、いかにして加計学園が初の大学新設に成功し、学校経営を「家業」として確立したかを追う。
(第一部「学園創立者・加計勉という男」はこちらから
→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52291)
■億単位の私財をつぎ込んだ
その日は最高気温34度を超える、うだるような暑さだった。岡山市街地を一望できる小高い丘の上で、加計学園創設者の加計勉氏は蝉の声を聴きながら頭を垂れていた。
1961年8月27日、のちに岡山理科大学とその附属中高、そして加計学園本部が置かれることになる岡山市街地北側の半田山。ここに備中国一宮である吉備津神社から宮司を招き、学校法人加計学園が設立する最初の学校、岡山電機工業高校の地鎮祭と起工式が行われた。
勉氏と岡山県庁私学担当者とのやりとりは第一部にて詳述したが、氏が県に高校設置の申請書を提出したのは同年9月6日、県から認可が下りたのはその2週間後の同20日のことだ。学園による記録や、各種資料の中の関係者証言が正しければ、勉氏は申請書を提出する直前に工事を始めたことになる。
戦前は旧陸軍が所有していた半田山は、まだ草木が鬱蒼と生い茂る山林だった。この時の列席者は勉氏をはじめ、少数の学園関係者に限られ、式はごくひっそりと進んだ。
当時38歳の勉氏は、予備校経営で手にした数億円もの財をなげうってこの山を買った。のちに学園理事長となる長男・孝太郎氏は、このとき小学生。加計家は決して貧しいわけではなく、むしろ予備校事業の大成功によってかなり富裕だった。にもかかわらず、勉氏の事業計画を叶えるため、子供たちのおやつを買うのにも苦労するような耐乏生活を強いられていたという。
目指す開校期日は8ヵ月後の翌1962年4月に迫る。建設用地の造成と校舎建設は急ピッチで進められたが、生徒が集まらなければ話にならない。
勉氏の経営する予備校・広島英数学館から職員が応援に出て、岡山県下のみならず香川県や兵庫県でも説明会に奔走、入学試験は丘のふもとにある市立岡北中学校の校舎を借りて実施するという突貫工事ぶりだった。
■地元ゼネコンとのつながり
明治期から倉敷紡績(現・クラボウ。クラレの母体となった企業)などの繊維産業を中心に発展してきた岡山県南部地域は、戦後は鉄鋼・石油化学などの重工業が急速に盛んになり、人口も急増していた。日本が高度成長期のとば口に立っていた当時、勉氏には「理系の学校は、これから必ず必要とされるようになる」という確信があった。
岡山県倉敷市沿岸部に広がる工業地帯(Photo by gettyimages)
岡山電機工業高校の第1期入学者は247名。受験者数は定員の約7倍だったというから、かなりの高倍率だ。しかし勉氏にとって、工業高校の設立は「通過点」にすぎなかった。氏があらかじめ買い取った土地は約5万平方メートルだが、そのうち高校の用地に使われたのは2万2000平方メートルあまり。残りの土地は、宿願だった岡山理科大学建設のためにとっておいたのだ。
事実、高校の開学式典の席上で、勉氏は「この高校の運営が軌道に乗ったあかつきは、この地に大学設立を実現したい」と話し、列席者を驚かせている。その言葉通り、氏は高校開校の直後から大学設立に向けて動き始める。『加計学園創立二十周年記念誌』(1985年)より、本人の述懐をひこう。
〈高等学校よりもむしろ大学を設立するということが当初からの狙いでした。本来ならば、高等学校が三年生まで在籍するようになってから大学を作るというのが普通のやり方なのですが、今述べた理由により、大学も同時に作りたいと思っておりました。
一言で大学を作ると申しましても、教授陣容を整えないといけませんし、また、ばく大な資産の投下も必要です。その当時、私の所有していた約一万坪の土地全部の他に、いろいろなものを含め、完成までに五億円を要すると言われておりました〉
大学校舎の建設については、1963年9月に地元の建設会社大本組と契約を交わした。この大本組は現在、愛媛県今治市に建設中の岡山理科大学獣医学部の校舎建設も請け負っている、岡山県を代表するゼネコンである。真新しい高校の校舎の横で、トラックと重機が山腹を行き来する中、1期生たちは勉学に励まねばならなかった。
■県知事への「根回し」
岡山理科大学の設立費用5億円を現在の貨幣価値に換算すると、大まかに言って10億円以上になる。だが勉氏の回顧録を見る限り、かなりの部分を私費でまかなったにもかかわらず、金銭面で苦労した形跡はほとんど記されていない。むしろ行政への認可申請、そして教員確保に走り回ったことが強調されている。
〈当時、皆さんから「なぜ理学部を作るのか、金ばかりかかって損益の合わないものをなぜ作るのか」とよく言われました。私自身の出身が(広島)文理科大学の数学科ですので、頭の中ではそういうものをめざしていましたが、 (中略)文部省の方では新しい学部を作るというのは、認可が非常にむずかしいとの話もありました。そこで理学部の中に応用的な学科を作ろうと考えました〉〈当時、皆さんから「なぜ理学部を作るのか、金ばかりかかって損益の合わないものをなぜ作るのか」とよく言われました。私自身の出身が(広島)文理科大学の数学科ですので、頭の中ではそういうものをめざしていましたが、 (中略)文部省の方では新しい学部を作るというのは、認可が非常にむずかしいとの話もありました。そこで理学部の中に応用的な学科を作ろうと考えました〉(『二十周年記念誌』より)
現在の「加計学園問題」にいったん話を戻すと、今治市で新設予定の岡山理科大学獣医学部が、2015年6月に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」にある、いわゆる「石破4条件」を満たしていないのではないか、という指摘が野党などから上がっている。これは、当時の国家戦略特区担当大臣・石破茂氏の下で決められた、「獣医師養成系大学・学部の新設」についての縛りだ。
その中に、「既存の大学・学部では対応困難な場合」という条件がある。要するに、「大学を新設したいなら、今ある大学とは違った新味を出せ」というわけだ。約半世紀前の岡山理科大学開設に際しても、文部省は加計勉氏に、同じような要求をしたといえる。
勉氏は手始めに設置を決めた理学部内に、化学科と「応用数学科」の2学科を設けることで、大学新設のための審査を切り抜けようと考えた。当時の働きぶりは、部下・同僚たちから「昼夜を分かたない阿修羅の如き活動」と評される猛烈なものだったという。
ただ、加計学園のまとめた当時の記録には、大学開設に至る経緯そのものは、さほど詳しく述べられていない。特筆すべきものがあるとすれば、広島大学名誉教授(当時)で、勉氏の広島文理科大学数学科在籍時の恩師だった戸田清氏の回想である。戸田氏は、加計氏の相談に応じ、県知事に話を伝えた――そう明かしているのだ。
〈加計氏から大学創設の考えを耳にした。広島で既設の大学と競合することの不利。京阪神、四国、山陰に近く、水島臨海工業地帯に政治生命をかけている知事のいる岡山。こちらを選ぶべきではないかと述べた記憶がある。加計氏の参考になったかも知れない。(岡山県)知事にも、大学設置の計画のあること(を伝え)、もし、そうときまれば、何分の援助協力を要請した記憶もある〉(『二十周年記念誌』より)
行政に対する勉氏の根回しと、政治的嗅覚の一端が垣間見える記述といえるだろう。
■あの大物議員が顧問に
岡山理科大学は、文部省への申請からわずか1年半後、東京五輪開催を控えた1964年春に開学した。それに伴い、先行して開校していた岡山電機工業高校は「岡山理科大学附属高校」に改称された。岡山理科大学の初年度の入学者は143名と多くはなかったが、翌年以降は新学科を続々と増設し、学生数も右肩上がりに増えていった。
勉氏はのちに、「僕は教育者ではない。教育実業家だ」と述べたという(鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』より)。予備校経営から教育事業に参入し、資金を確保して、ついに学生時代から夢見た大学開設までこぎつけた。重化学工業の発展という時代の要請に応え、学生を確保するために、学部は需要の見込まれる理科系に絞りこんだ。確かに勉氏は、単なる教育者にとどまらない「ビジネスセンス」を持ち合わせていた。
1970年代以降、成長期に入った加計学園・岡山理科大学には、現在の報道でも名前の出てくる人物がちらほらと見え始める。以下は、加計家の人々と学園関係者の「人名録」である。
現在、加計学園理事を務め、2016年まで系列校の千葉科学大学学長を務める赤木靖春氏は、当時は学園の一職員だった。氏は1980年代、岡山県北の蒜山(ひるぜん)高原に開設された附属研究施設「蒜山研究所・学舎」の所長を務めている。
一方、注目したいのは1970年代以降に学園が力を入れ始めた海外交流事業だ。本稿でもたびたび引用している、1985年刊行の『加計学園二十周年記念誌』には、当時の学園本部の陣容が掲載されている。中でもひときわ目を引くのが「国際交流局」。局長は、現在は学園理事長を務める加計孝太郎氏(当時は「晃太郎」と名乗っていた)、そして顧問には、衆院議員の逢沢一郎氏の名前がある。
逢沢氏といえば、従兄が経営する岡山県の建設会社「アイサワ工業」が、今治市の獣医学部建設工事を前出の大本組とともに受注したことが報じられている。1985年当時、逢沢氏は松下政経塾を卒塾したばかりで、衆議院選挙で初当選したのは翌1986年のことだ。逢沢氏と加計孝太郎氏はほぼ同世代。少なくとも30年あまり前には、両者はそれなりの親交を持っていたはずだ。
現理事長・加計孝太郎氏の1990年の寄稿文(『広島加計学園創立十周年記念誌』より)
30代から40歳ごろの孝太郎氏は、国際交流局長と副理事長を兼任していた。学園の公式刊行物には、当時から必ずと言っていいほど寄稿文を寄せ、国際交流事業がいかに大切かを説いている。
〈 (当時の)外務大臣、安倍晋太郎氏も言っておられますが、日本はアメリカの袖の下に隠れていれば、平和と安全と守ることができ、世界の中で発展して行くことができたという受身の形から、言いたいことははっきり言い、世界の中で日本の役割を積極的に果たして行くという形に展開して行かなければと思います。
国際的な舞台で何らかの決定を迫られ、例えば、拒否したい場合、Yes, but……,という表現から、No. Because……, という表現に変えて行くべきであると思います〉
2017年のいま、孝太郎氏の長男・加計役(まもる)氏は加計学園の副理事長や広島加計学園の理事長を務め、次男・加計悟氏は学園系列校の倉敷芸術科学大学副学長と、同大学の獣医学系学科である動物生命科学科の講師を兼任している。
父の孝太郎氏がかつて岡山理科大学などの系列校で教鞭をとっていた形跡はないが、40代にさしかかっていた1992年の時点で、孝太郎氏も加計学園副理事長・国際交流局長のほかに、学校法人広島加計学園理事長、広島英数学館・福山英数学館館長のポストを得ていた。
当時からすでに、加計学園は現在と同じく「家族経営」の様相を呈しつつあったのだ。
(7月27日公開予定の第三部に続く)
参考文献:鶴蒔靖夫『加計学園グループの挑戦』IN通信社、2011年
『加計学園創立二十周年記念誌』加計学園、1985年
『広島加計学園創立十周年記念誌』加計学園、1990年
『加計学園創立30周年記念誌』加計学園、1992年
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