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先日(2017年6月26日)に行いました「安倍政権による強権的な国会運営と説明責任の放棄に対する声明」発表記者会見のやりとりの模様を以下に掲載します。(2017年7月12日)
※出席者のチェックを経た上での掲載となっております。
日時:2017年6月26日(月)15時30分〜16時30分
会場:参議院議員会館B101会議室
出席者:山口二郎(法政大学・政治学)、石川健治(東京大学・憲法学)、西谷修(立教大学・哲学)
山口二郎(法政大学・政治学)
それでは、時間になりましたので、記者発表を始めたいと思います。本日は、お忙しいなかを集まっていただきまして有難うございます。私はこの会の共同代表をしております、法政大学、政治学の山口です。通常国会が閉幕しましたが、いろんな意味で、議会政治、民主政治を破壊するような出来事が次々と起こりまして、わたくしたち立憲デモクラシーの会としても、何等かの見解を出さなければならないという共通了解を持ちました。メンバーのなかでメールを通していろんな議論をしまして、今、お配りしたような声明をまとめました。今日は、その発表であります。それでは、この声明を読み上げたいと思います。
『安倍政権による強権的な国会運営と説明責任の放棄に対する声明』 2017年6月26日
2017年6月18日、数多くの深刻な問題や疑念を残したまま、通常国会が閉じられた。立憲デモクラシーの会は、「共謀罪」法案(組織的犯罪処罰法改正案)の審議入りに先立つ3月15日に同法案への反対を表明し、「立法の合理性・必要性に深い疑念の残る法案を十分な説明もないまま、数の力で無理やり押し通せば、日本の議会制民主主義に対する国民の信頼をますます損なう」と警鐘を鳴らしたが、この懸念が現実のものとなってしまった。
形式的に審議時間を消化すれば足りるという態度で、法務省刑事局長を政府参考人として常時出席させて金田勝年法務大臣の代わりに答弁をさせ、最後は参議院法務委員会の審議を一方的に打ち切り、委員会採決を省略し、数の力に任せて本会議で可決させる暴挙に至ったことは、共謀罪法が、政府さえその合理性や必要性をまともに説明することができない悪法であることを明らかにした。立憲デモクラシーの会はひきつづき、このように正当性を欠いた共謀罪法が悪用されないよう注視し、その廃止を求めていく。
政府与党が、両院における圧倒的な議席数を恃みに説明や説得への努力を放棄したことがもたらした議会政治の劣化は、今般の通常国会でついに「国会崩壊」と言わざるを得ないレベルまで進んだ。資質や能力において不適格というほかないのは、共謀罪法案審議に際しての金田法務大臣だけではない。稲田朋美防衛大臣、松野博一文科大臣、山本幸三内閣府特命担当大臣らも、南スーダンPKO活動「日報」問題や森友学園・加計学園問題などに関して、何の論理も誠意も見受けられない答弁、さらには明白な虚偽答弁を繰り返してきた。そして、これら適格性を欠いた大臣の任命責任と内閣全体の説明責任の放棄は、いずれも安倍晋三首相が直接その責めを負うべきものである。
さらに今国会、目に余ったのは、不都合な事実の説明を免れようと、公文書、公的意味を持つ文書の隠蔽や廃棄が横行したことである。このことは安倍政権の下、議会制民主主義のみならず、法の支配や行政の透明性・公平性の原則が大きく歪められていることを示しており、まさに森友学園・加計学園問題において、首相とその側近や夫人による公権力や国有財産の私物化が疑われていることにも通底する、安倍政権の体質そのものに関わる問題である。
国会、ひいては国民に対して説明責任を果たそうとしない安倍政権のふるまいは、公権力が私的な人間関係により簒奪されているとの疑惑を深めている。新たな文書の存在が明らかとなったにもかかわらず、閉会中審査や関係者の証人喚問を拒絶しとおして「疑惑隠し」をもくろむなど、国民主権を無視した暴挙である。すでに野党議員が憲法53条の定めに従って臨時国会の召集を求めた以上、内閣は速やかに臨時国会を開き、説明責任を果たさなければならない。
山口
では、今日出席のメンバー、まず西谷さんからコメントをお願いしたいと思います。
西谷修(立教大学・哲学)
ちょっと今日はメンバーが少ないんですけれども、この声明そのものは、いろんな人たちの意見を加味して、ここには名簿がありませんが、呼びかけ人60数人が加わるかたちで作成しております。ということで、とても私などではその皆さんを代表するには心もとないんですが、私のつけ加えるべきことを少し述べさせていただきます。
実は、共謀罪の法律そのものについては、これが民主政治にとっていかに危険な法律であるかということとか、すでに三回も廃案になったうえで、また出てきたとか、国際社会からも危惧が示されているといったこと等については、もう批判は十分出ています。それが最後に強行採決されたということについても各所から抗議声明が出ています。それにさらに重ねて、われわれが今日、国会が閉じたこの時期に声明を出そうとしたのには、二つ意図があります。一つは、やはりこの事態を立憲デモクラシーの会として座視してすますことはできないだろうということ。われわれの会は、立憲主義、つまり憲法を立て、それに準拠して作られた法体系のもとに社会が運営されるという考え方ですね、それと、それを民意によって、政治のなかに実現していく、これが、デモクラシーですけども、そういうものを軸にして考えようというこの会が、今回の声明のなかにもあったような、「国会崩壊」とも言うべき事態を、やはり座視することはできないということです。もはや国会が議論の場としての体をなさず、政府は説明責任を負おうとしない、そんな状態の中で共謀罪を通してしまう。そして、次々と浮上する疑惑の追及も切り捨てるようにして国会を閉め、かつ国民の耳目をつぎに移そうとして改憲アジェンダをまで設定してくる。そういうことが、この日本の社会で実際に起こっているわけです。そのこと自体が、実はとんでもないことだということを、はっきりわれわれは打ち出して、そのことに関して警鐘を鳴らしていかないといけない、そう考えたからです。
それともう一つは、とりわけこういう会を設けて、例えば、立憲デモクラシーの会がここで意見を公表するということは、メディアの皆さん方を通して、この危機感を社会化していく、こういう見方を社会化していきたいという試みなわけです。だから、メディアの皆さん方がいなければ、われわれのこのような働きかけ、呼びかけというのは一切意味がないわけです。にもかかわらず、そのメディアの方がたに、私たちは多くの語りたいことがある。
メディアというのは媒介です。たとえば、われわれと社会一般との媒介ということですけれども、その媒介を担う人たちに、むしろ語りかけたい。というのは、最近の一番のトピックと言いますか、それは市川海老蔵さんのご夫人が亡くなって、海老蔵さんが会見をしたことではなくて、前文部次官の前川喜平さんが、あらゆる障害を押して、公務員の鏡とも言うべき責任感と勇気をもって、この間の文科省が関わった事態について会見を行われたわけです。その前川さんの会見のなかで、前川さんがとくに強調されたのは、現代の日本の社会の「メディアと権力」との関係ということでした。メディアはいま権力の言うことをそのまま伝えたり、あるいは今の権力のふるまいを論評なしに伝えている。そして権力がいろんなかたちでメディアに圧力をかけ、メディアをコントロールしている。そういうなかで、発言していくということの困難さと危険のようなものを前川さんは強調しておられた。
私なども常々思っていることですが、この間に何か起こったかというと、声明の3節目あたりでふれていますが、まず自衛隊の日報をめぐる問題が起きます。それを稲田防衛大臣がきちっと把握していなかったとか。そして、軍事を預かる政治家としての資質、あるいは大臣としての資質が問題になる。これは大問題なんですけれども、ともかく官邸は「問題ない」として逃げ切り答弁でごまかし、稲田大臣は責任もとらずにそのまま職にとどまるわけですね。そこに森友学園問題が出てくる。それによって、今の政権が行っている政治の実態の一端が露見してくる。お仲間優遇の権力私物化、それも安倍晋三記念小学院というわけですが、知らぬ存ぜぬ、書類はなし、でそのこと自体が問題になってくると、今度は、わざわざ今やらなくてもいい、そしてとてつもない悪法と言われる共謀罪というのを国会に出してくるわけです。もっと大きな土石流を作って状況を押し流すというやり方です。そうすると、世間の目がそちらに移ります。そしてその共謀罪のまったく不誠実な審議を通そうとしているときに、加計問題が出てきて、さらに混乱してくる。
すると政権は横合いからさらに大きな決壊を引き起こしてきます。それが新手の改憲の具体的テーマと日程です。そしてその大きな決壊が、いままでの土石流を飲み込むようにして、これもはっきり言っていいと思いますが、国会で言ったことでも何でもなく、わざわざ読売新聞を通して発表したそれが、今の日本の政治のアジェンダになってしまうのです。そうすると、2020年のオリンピックまでに憲法改正をやるということは既成事実であるかのように扱われ始めます。こういうふうにして、毒に対してさらに大きな毒を、あるいは事故に対してさらに大きな事故をかぶせ、大きな濁流を作ってしまう。これが「戦後レジームからの脱却」というか、「戦後レジーム撤去」という例の路線の貫徹ですよね。こういうことが起こっているのに、そんなふうには報道されない。一つ一つ微視的に、「ここにがけ崩れ何トン、今度はこちらに」とか、そんなことだけしか報道されないわけです。
だから、メディアは一体何をしているのかというふうに、われわれは思わざるを得ない。そういうことを、今の政権はなんと言うかというと、「岩盤規制の突破」と言うわけです。つまり「戦後レジーム」というのは彼らにとって、壊せない岩盤だったんですね。それを次から次へと大きなドリルの歯を持ってきて、次々に崩しながら突破する。これがアベノミクスの新兵器、これで経済を活性化するんだというかたちでやるわけです。そして、国会に関しても、何時間審議したから「これはもう決めていいんだ」「これが決められる政治」とか言って「決断力」を売りにする。こういうのをまさに「ポスト・トゥルース」の時代というんですけれども。
民主主義社会で、メディアの最大の役割は何かというと、権力の振舞いを見えるようにすることです。ただ伝えるのではなく、批判的に事実を評価しながら語り下ろしてみんなに見せる、それがメディアの役割のはずです。選挙で議席は決まります。議席が決まって、委託を受けたとされる権力ができる。そうしたらその権力のやることは常に監視しなきゃいけない。そして、ひどいことをしたら規制もしなきゃいけない。その規制のためには、警察があり、司法があります。ところが、この警察・司法も今の政権下ではどうなっているか。皆さんご存知ですよね。とりわけ一番ひどいのは、官邸に近い記者が、とんでもない犯罪を犯しても、警察の上層部を使って不起訴にしているわけです。このことは、大メディアは報道したがりませんね。誰でも知っている大問題なのに。でも、それが素通りされてしまうというのが日本の今のメディア状況です。
だから、こういう事態の下で、メディアの役割というものをしっかり考えてほしい。今メディアが動かなかったら、日本の状況は変わらないでしょう。国会を吹っ飛ばして、国会を空洞化して、次から次へとさきほど言ったような「岩盤突破」が行われていく。それが何事でもないかのように扱われて、おそらく10年後に「あのとき、私たちがこうしていれば」とは言ってほしくない。10年後に反省してもらっても遅いんです。ということで、こういう機会を作ることで、メディアの方がたにも考えていただきたい。そして、なかなか表に出にくい、あるいは大きな声になりにくい声の媒介を、メディアの方がたにお願いしたい、そういう思いもあって、小さい形ですけれどもあえて会見を設定したということです。
石川健治(東京大学・憲法学)
現状における国会運営についてさまざまな見方が可能だと思いますけれども、立憲デモクラシーの会として発信しなければならない問題というのは、例えば共謀罪なら共謀罪、その他個別の論点についての賛否を越えて、立憲デモクラシーがすでに破壊されているという事態に、警鐘を発することなのではないかと。これが少なくとも最低限の要請だろうと、わたくしは受け止めてここにおります。
立憲主義というものの定義はなかなか難しいのですけれども、例えば、戦前の標準解答は何だったのかというと、自由主義と、民主主義と、そして責任主義の三点から構成される考え方、という定義でした。人によって力点は違いますけれども、一番大事なことはこのうち責任主義だったんですね。立憲主義が自由主義であるということは自明のことなんですが、しかしこの立憲主義と民主主義というものを、どう向き合わせるかというのはなかなか難問で、大正政変以降、日本の憲法学はこの問題に取り組むことになったわけですが、そのなかで出した答えは、責任主義というものを梃子にして、自由主義と民主主義をつなぐ、言い換えれば、立憲主義とデモクラシーをつなぐと、こういう発想だったわけです。立憲デモクラシーは、つまるところ、責任政治なのです。
この「責任」政治という場合の責任は、まず何よりも、国会を媒介とする「政治(的)責任」です。それに加えて、先ほど西谷さんがメディアの話をしていましたけれども、メディアが発達するなかで、メディアを媒介とする「社会的責任」というものも発生すると観念されていました。これは直接には、当時の日本の憲法学者が参照した、ドイツの議論がそう言っていたわけなんです。国会という媒介(メディア)を通じて現れる政治責任とは別に、当時は新聞紙でしたけれども、新聞紙をはじめとするメディアを通じて発生する社会的責任というのがあるんだ。そして、政府は、国民に対して、政治的責任だけでなく、社会的責任を負っている。そういうことを言っていました。それらを視野に入れたうえで、広い意味で責任主義ということを戦前日本の憲法学者は語っていて、これが立憲主義の、現在でも最低限の要請なんだろうと思います。
この責任主義の第一歩というのは、問責方法としての「質問」と、それに対する「説明」責任です。この責任主義のいわばアルファは、この質問とそれに対する説明なんですね。これに対して、オメガとなるのは、最終的には問責方法としての不信任決議と、それに対して連帯しての総辞職という対応になるわけですが、そういう広いスペクトラムのなかで責任というものが発生していると。その責任主義を梃子にして初めて、立憲主義とデモクラシーを結びつけるというのが、戦前の標準回答だったと、こういうことなんです。
この物差しを今あてはめてみると、何が起こっているかというと、まさに責任主義の消失ということなのではないかと思うわけなんですね。責任の、とりわけ政治責任の第一歩は説明責任であるわけですけれども、質問に対して説明をしない。そもそも、「国会を開いているとろくなことがないので、早めに閉じてしまおう」と。これはまさに、説明責任の放棄であるわけですが、この説明責任の放棄ということは責任主義の放棄であり、結局、立憲主義の放棄につながっている。この問題はやはり、ここで強調していく必要があると思うんですね。
ですから、それぞれの法案に対する個別の立場はあるでしょうけれども、こうやって、本来国会で説明しなければならないのを、読売新聞へのインタビュー記事で済ませるとか、あるいは十分な審議が尽くされていないにも関わらず、説明しないまま先へ進めてしまう、という顕著な現象が現れているわけで、これは説明責任の否定であり放棄であって、結局これは責任主義の放棄であり、立憲主義の放棄につながっている。こういうつながりでぜひ捉えていただきたいというのが、第一にここで申し上げたいことです。
そうなると、立憲主義の危機そのものであるということがご理解いただけると思いますが、先ほどのいわば戦前の説明をここで当てはめますと、現在は国会が閉じてしまいましたので、改めて臨時国会が始まれば政治責任の世界になりますが、政治責任の世界から社会的責任の世界へと、アリーナが移行しつつあるという状況なんだと思います。そこで、先ほどの西谷さんのご発言が生きるんだと思いますが、ここからはやはりメディアが勝負というところになるんじゃないかと思うんですね。
十分に社会的責任を、とりわけ説明責任をメディアに向けて果たしているかどうかということを、ぜひ質問していただきたい。国会における質問に対する説明という政治的責任のアリーナから、これからはメディアを通じた社会的責任のアリーナに移っていこうとしているのではないかということで、とりわけその点は皆様方にお願いをしておきたいというのがございます。これが二点目に申し上げたいことであります。そういう社会的責任のアリーナであり、国会とは違うもう一つの媒体として、これからはぜひ、メディアの皆様に期待するところが大きいと。そして、そこも突き破られてしまうということになりますと、まさに立憲主義の土俵際ということになってしまいますので、ぜひその点は、そういう社会的責任のアリーナとして報道していただきたいということを、お願い申し上げておきたいと思います。
三つ目ですけれども、「民意」というもののあり方について、一言申し上げておきたいと思います。国会というのは、確かに民意の媒体、しかも公式の媒体ではあるわけですが、しかしそれが正しい意味で民意なのか。あるいは、正しい意味で国民代表になっているのかという、その論じ方については熟考を要するのではないかと思います。この点は、あえて戦前でもそうだったという話をさせていただきますが、1934年に宮澤俊義という憲法学者が出した論文のなかで、国民代表の概念を扱ったものがあります。
当時、宮澤先生の師匠の美濃部達吉は、帝国議会を代表機関であるというふうに言いまして、帝国議会を通じて民意が現れる、言いかえれば、帝国議会の外にいる群衆というのは民意ではないのだ、という議論をしていたんですね。帝国議会は何のためにあるのかというと、民意をつくるためにあるんだと。代表機関であると。こういうふうに説明をしていたわけです。
しかし、これに対して弟子の宮澤先生は批判をいたしまして、それは現実には民意でもなんでもないものを民意であると呼ぶことによって、支配者に奉仕をする議論になっているということを言って、師匠の美濃部達吉を批判したわけです。
この際に参照していたのは、カール・マンハイムという社会学者の議論なんですね。『イデオロギーとユートピア』という本の名前をどこかで聞いたことがあるのではないかと思いますが、それを宮澤先生はよく読んでおられまして、現に帝国議会が国民代表だと言ってしまうと、これは支配者の利益になる。ごく限られた少数の支配者の支配に過ぎないものを覆い隠す、イデオロギーになってしまうだろうということを述べたわけですね。しかし、これがイデオロギーにしか過ぎないのだということを明らかにし、それをこれから目指すべき理想に転化をすれば、それは被支配者、民衆の利益になるんだということをおっしゃった。
これは現在でも有効な議論だと思うんです。現に国会が民意そのものだということはあり得ない。近似的に民意だということはありますが、民意そのものであるということはあり得ないわけで、それを現に民意そのものだと言ってしまえば、現に権力を握っている人間の利益になる。しかし、これから目指すべき民意というのが、まだこの先にあるのだということになれば、「民意」は民衆の利益になる、被支配者の利益になるという議論をなさっていたわけです。
どうも最近気になりますのは、「国会で与党が多数をとっているのは民意なんだから」という論調です。確かに、美濃部ふうに、公式の民意であると言ってもいいんですけれども、ことさらに「民意なんだから、民意なんだから」ということによって、誰の利益になっているのか。端的に言うと、現に権力を握っている官邸の利益になっているということなんですね。ここは、とりわけ民意のもう一つの媒体としてのメディアの皆さんには、よくよく考えていただきたいと思います。
現にそこに民意があると言ってしまえば、それは官邸の利益になるイデオロギーです。ただでさえ強い官邸を、これ以上強くすることはないでしょう。そうではなくて、「民意」をここから目指すべき理想に転化するような、そんな議論の仕方。国会とは違う、もう一つの民意の媒体を握っておられる皆さん方であるだけに、それを追求していただきたい。「民意」はこれから接近すべき理想だというイメージで、この先にある「民意」を、ぜひ報道していただきたい。民意が現にこうだからと決めつけると、結局は官邸の利益になる、そういう議論をしていることになるのだということを、この宮澤先生の着想からぜひ汲み取っていただきたいというふうに申し上げて、さしあたりわたくしの話は終わらせていただきたいと思います。
山口二郎(法政大学・政治学)
わたくしからも一言。今、思っていることは、近代的国家から家産制国家への逆行であると、私はあちこちで書いています。家産制というのは、家の財産と書きます。要するに、法の支配が確立する前、家産制の国家というのは、要するに国家において公と私の区別がない。国は権力者の私物である。権力も、権力者の私物である。だから、私的な利益のために使うのは当たり前。これが家産制国家なんですね。もう一つ、家産制国家における官僚、家産官僚というのは身分的な従属関係。だから為政者、権力者が黒を白と言ったら、官僚も黒を白と言わなきゃいけない。これが家産制です。マックス・ウェーバー等、いろんな学者が説明していますけれども、近代国家というのは権力を持つ人の個人的な意図とか恣意とか利害というものと公の権力の運用、公の財産の処分の仕方などをはっきり区別する。それから役人、官僚は、法に従って仕事をする。身分的な従属関係ではない。法に従う限りにおいて上司の命令を受ける。こういう概念で近代国家というのを説明したわけですけれども、安倍政権はいわば家産制国家に逆行を起こしている。森友、加計問題というのは、要するに財産や権限を私的な目的のために、えこひいきのために使う。さらに役人は為政者の指示ないし忖度によって、公文書を廃棄し、あったことをなかったことにする。こういう現象ですね。そのなかで前川さんたちがやったことは、自分たちは近代官僚であって法に従って仕事をしている。為政者に身分的に服従する存在ではないということを言いたかったわけだろうと思います。だからこれはもう本当に、深刻な病理であるということです。
もう一つ。やはり、議論に対するニヒリズムというのがここまでひどくなると、これはもう議会政治の否定である。つまり、国会の質問というのは、何の意味があるのかと言ったらやっぱり意味があるんです。国会で法律を所管する担当官庁の責任者が、さまざまな答弁をするということは、その法の運用について非常に大きな影響を残すわけですから、とりわけ委員会審議って大事ですよね。ところが中間報告という手法で、参議院の委員会審議を途中で打ち切り、採決もせず、本会議で可決をするというのは、国会自身が国会における議論の意味を否定したということです。これは国会の自殺としか言いようがない現象だと思います。ということで、ちょっと何とも形容のしがたい議会政治、立憲主義の崩壊現象を目の当たりにして、大変な危機感を持っているということであります。
山口:石川さん、53条にもとづく臨時国会の開会の要求について、政府は応えなくてもいいのかという憲法上の論点について、まず解説をお願いできますか。
石川:これは2015年の秋にも起こったことですので、釈迦に説法の話になってしまうかもしれませんけれども、一応お話させていただきます。
まず内閣が、臨時会の召集決定権を持っているということ。これは、53条に書いてあるわけです。ただ、前段は「決定することができる」というかたちで書いてありますので、臨時会を開くこともできるし、開かないこともできるということなのです。けれども後段に、今、山口さんがご指摘のように、「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」、という義務づけの規定になっているということです。義務づけがあるということ、ここが非常に大事なわけですね。
これが何を意味しているかというと、もし国会の召集決定権を内閣に完全に委ねてしまうと、結局、国会の活動能力が内閣によって左右されることになってしまいますので、そこで、国会が自ら立ちあがれるようにしておこうということです。いわゆる他律型ではなく自律型を加味した国会をつくろうということです。さらに加えて、要件が4分の1ということ、これがポイントなんですね。
法律で4分の1の要件を書くことって、非常に珍しいんです。例えば、会社法関係だと大抵3分の1なんです。わたくしの親しい友人で、あえて名前は伏せておきますが、いわゆる4大事務所の1つにお勤めの大弁護士がおられまして。その方のお嬢さんがパパに「臨時会というのは、それぞれの議院の総議員の何分の1の要求で、内閣が召集しないといけなくなるんでしたっけ」ときいたら、パパは自信を持って「3分の1」と答えてしまって権威を失ったと。それから、娘は二度と憲法や法律のことをきいてくれなくなったと、大弁護士は言っていましたけれども。
ことほど左様に3分の1が多くて、4分の1は珍しい。4分の1というのはどういうことかというと、マイノリティにイニシアティヴがあるということなんです。少数派の会派であっても、国会の召集を要求できるんだ、というのがポイントなんですね。普通の要件よりもハードルを下げてある。しかも、衆参どちらかの少数派の会派の要求がありさえすれば、充分なのであって、それで内閣は国会の召集を決定することを義務づけられる。これが憲法の意図であるわけですね。
ですから、この義務づけは、非常に重大な意味を持っている。それにもかかわらず、安倍内閣は、あの安保法制の2015年に、義務づけられているにも関わらず、とうとう召集しなかったというかたちで、憲法を破った実績を持っている内閣であるということですね。ですから、お二方がおっしゃっていますように、立憲主義や議会主義の崩壊のプロセスは、確実に着実に進んでいて、今日さらに進行しているという様がよくわかると思うんです。それだけに今回は、何が何でも要求をして、要求に従って臨時会を開いてもらわなければいけないと、こういう理屈になるというわけです。
【質疑応答】
質問1:今日の声明は国会に関するものですが、国会の外では安倍さんやその周りの人たちが憲法改正に向かってアクセルをふかしているという状況だと思います。他方でこの件については、それほど物事を考え詰めて発言されているとも思えない面があり、関係者のなかからも「今、想定されている改憲には緊急性もなければ、大きな必要性もない」という声が聴こえてきて、何を考えているのかがわからないところがあります。他方で首相は読売新聞の最初のインタビューで、自衛隊について「合憲化」という言葉を使っており、それはつまり「違憲」の存在だと考えているという節があります。そのあたり、議論の仕方が乱暴だと思われるのですが、石川先生はそのあたりをどのようにお考えでしょうか。
石川:まず迂遠なようですけど、先程の補足でもありお答えの前提にもなる話を二、三させていただいた上で、ご質問にお答えしたいと思います。
まず、第1は、これは先ほど申し上げたことの繰り返しですけれども、さまざまな見解が対立するなかで、すべての立場にとって共通の前提条件が損なわれようとしている、ということを、ここでも強調したい。
例えば加計問題は、ともすれば、岩盤規制や特区制度の是非に関する話に、論点をずらされてしまっているわけですが、是か非かどちらの立場に立つにしても、これでいいはずがないというところの仕組みが壊されているし、前川さんもその部分を訴えようとして出てきているんだと思います。
彼も、もちろん私的な利害をお持ちですから、ご自身の個人的利害や古巣の文部省の省益も関係があるのでしょうけれども、しかし、そのご自身や文科省の利害を越えたところで問題を出しておられるように、思われます。われわれも岩盤規制がいいんだとか、あるいは特区制度がけしからんのだということを、ここで言っているわけではなくて、それらに対する賛否を越えたところで、問題が起こっていると考えていただく必要がある、ということです。
ですから、ご質問についても、個別問題の賛否の論点に矮小化しないように議論をしていきたい、ということを、まず申し上げておきたいと思います。そうでないと、論点がずらされてしまいます。
それから、第2の問題として、改憲提案の性急さにも現れているように、決定にかかる時間的コストの問題を、関係者が真面目に考えていないということの問題性を、指摘しておく必要があると思います。
多数決でいいのであれば、これは頭数を数えれば、時間をかけずにたちどころに問題は決するわけですよ。ですから、審議時間を問題にするというのは、別のところに本来のねらいがあったはずです。それは結局、コンセンサスとか合意であるわけで、多数派と少数派が歩み寄って合意を目指すというデモクラシーが、本来、日本のデモクラシーだったわけですね。
そして、合意を目指すためには、時間的コストがかかる。だからこそ、審議時間が問題になっていったというのが、本来だったと思うんです。けれども、現在、その審議時間に関する問題意識が完全に形骸化、形式化していて、ただ単に時間をかければいいという話になっている。最初から歩み寄るつもりがない。だからもう、共謀罪についても、待ちきれずに多数決ということになるわけで、あえて時間的コストをかけることの意義に対する思いというのが薄い国会になったな、という印象があります。ここにもやはり、これまでの議会制の変質というのを、見てとれるのではないかということを申し上げておきたいと思います。
そして、第3に、ご質問の前半に緊急性の有無に言及されたことに関連して、今後の憲法改正論議のなかで、緊急事態条項の話が蒸し返しになる可能性がないとは言えませんので、これについても一言申し上げておきたいのです。かねてわれわれが緊急事態条項を批判してきたのは、「緊急事態が起こらない」ということを主張しようとしていたからではなくて、客観的に言って緊急事態というのは起こりうるけれども、問題はそれを誰が判断するかであり、ここで緊急事態を主観的に判断する資格を内閣総理大臣に与えることの是非でした。
今回の国会で一つ明らかになったのは、やはりこういうかたちで緊急事態の判断を主観化するということについて、危機感を持たなければいけないな、という問題です。本日の声明のなかでも問題にしていますけれども、委員会採決を省略して、中間報告をさせて一気に本会議で可決という、この手続きを採るためには緊急事態があることが前提なわけですね。いまそこに危機があるという判断を、官邸が主観的にしたからこそ、政権与党が牛耳る議院が委員長に中間報告だけさせて委員会への付託を打ち切ったわけですが、果たしてこの共謀罪の制定の、どこに緊急性があったのか。少なくとも、今日の明日にも何か起こるという状況には、まったくないことが明らかで、緊急性があったとすれば、加計問題を抱える官邸が緊急事態だったという、自己都合だけですね。
こういうことになるのであれば、なおさら憲法に緊急事態条項をつくって、緊急性の判断を委ねるわけにいかない、ということになりはしないか。これぞまさしく、「立憲デモクラシーの会」的な危惧を抱かされる、そういう事態を目の当たりにしました。そのことも考慮に入れて、ご質問の9条をめぐる憲法改正について、お答えしたいと思います。この論点は、今日の声明の本題とは違いますし、すでに前回の記者会見で取り上げたばかりですので、あまり重複感がないように話したいですから。
で、その折に、「なぜ今、憲法改正をしなければいけないのか、それは必要不可欠なのか」、ということを厳しく衝いてゆけば、改憲の本当の動機は、ほかのところにあることが、あぶり出されてくる、という話をいたしましたね。実際、「いま本当に必要なのか」というふうに執拗に問い詰めれば、本当に今すぐやらなければいけないというわけでもない、ということが明らかになるはずなんですよね。現状と何も変わらないと、安倍さんご自身がおっしゃっているわけですから。すぐにでも改憲しなければいけないという緊急性はないと、自白しておられるわけです。
先程は、共謀罪に関する委員会審議の省略に関連して、本当は緊急事態がないにもかかわらず、緊急性があるかのようなふりをして、加計問題に幕を引くという隠された動機を実現しようとしている、という主観性の問題に言及いたしましたが、それは、まさに同じ構造の問題が今回の9条の改正提案にもあることを、申し上げたかったからです。
そこで、ご質問の1番の中心である、改憲による自衛隊の合憲化という主張について、です。政府解釈による限り、すでに自衛隊に正統性を付与できているはずで、9条を改正する必要は存在しないはずなのに、変ですよね。語るに落ちているという感じがないことはない。「ほんとうは、政府解釈は間違っていると、自分も思っている」というやましさがあるのではないでしょうか。
しかし、安倍さんは、建前上はこれまでの政府見解に則って、自衛隊は当然に合憲だということを言ってきたし、その解釈を拡大して、あれだけの反対を押し切って安保法制を実現した。その手前、憲法学者に責任を転嫁するわけです。改憲をしなくてはならなくなったのは、自分ではなく、憲法学者が悪いんだと。依然として自衛隊から正統性を剥奪し続ける、憲法学者の違憲説を封じ込める必要があるから、9条の加憲を求めている、ということですね。
本音の部分では、自衛隊を合憲化し、強引に安保法制まで実現した政府の9条解釈について、誰よりも安倍さんご本人にやましいところがあるので、その責任を憲法学者に転嫁をして、自己を防衛する心理が働いているのではないか。そう受け止めるのが一番的確なのではないかというふうにわたくしは考えています。
けれども、その結果として、現在9条から発生している、正統性の剥奪によるコントロールのメカニズムを取り去ってしまうことになり、自衛隊を憲法上無統制状態におく、最も危険な提案になってしまっている。そういう説明を、前回の記者会見ではさせていただきましたが、ここで詳細を繰り返すのは控えます。以上で、さしあたりのご説明に代えさせていただきます。
西谷:一言いいですか。私は憲法学者ではないので、立ち入った議論には踏み込みませんが、ごく普通にこの憲法を受け止めて多少考えている立場から言いますと、安倍首相が今回、自衛隊の違憲性を払拭すると言ったのは、「では、今、違憲だというのなら安保法制どうなるんですか」という質疑がすぐ来ないとおかしい。それだから異論のない読売新聞で発表したということでしょうが、まともな記者会見とか、ほかの議論の場所なら、そういう突っ込みがまず来ないとおかしいでしょう。アメリカやフランスならすぐにそうなります。これも、メディアの姿勢の問題です。
自衛隊の違憲性を云々するのであれば、集団的自衛権の行使が可能だとした、あの閣議決定は何なのか、という話にすぐに戻らなくちゃいけない。南スーダンの派遣もそうです。
もちろん、今の憲法が、国際状況の現実に照らして法理としてすべて対応できるようになっているかと言ったら、そんなことはないでしょう。けれども憲法は、現実をすべて律するべく項目を尽くしている必要もない。だから、多くの人たちが、憲法の手直しについていろんな意見を出しています。けれども、だから「変える」ということだけを先行させてそのような多様な意見を一気に巻き込もうとするというのは、憲法を扱ううえでは乱暴すぎるでしょう。
自分たちがこの数年間、秘密保護法以来やってきた違憲状態とも言いうるプロセスに一切蓋をして、むしろそれをこの改憲に利用してくるというのは、あまりに無体です。改憲を語るより、まずこの政権の政治姿勢そのものが問われないといけない。それを吹き飛ばすような報道もおかしいということです。
質問2:山口先生におうかがいしたいんですが、6月24日に神戸で安倍首相の講演があり、秋の臨時国会での衆参の憲法審査会で「とにかく改憲を出す」という発言をしたのですが、これに関してはどういうふうにお考えでしょうか。
山口:5月3日の読売新聞インタビューで、今度は『正論』主催の講演会での発言ということで、専ら身内、仲間に対して改憲のメッセージを出していて、一つの政治的流れをつくるという手法は共通しているわけですよね。そこまで憲法という重要な問題についていろんなことを考えているんだったら、まさに国会を召集して、国会議員に対して、国民に対して、おのれの理念、所信を述べるべきではないか。ますます国会を開かない理由がなくなったというのが、私の最初の感想でした。
それから中身について、皆さんが自民党の案を作るということであれば、外部から批判をするというのは筋違いなのかもしれませんけれども、それにしてもやはり、この間何年もかけて自民党の憲法改正案を議論してきた作業と、これから秋の臨時国会まで3か月でなにか正案をまとめようという話と一体どう整合をつけるのか、まったくわからない。本当に真面目な改憲論議ではないと言わざるを得ない。ついでに言うと、獣医学部を全国展開するというのもちょっと呆れましたよね。如何に自分がやましいことをしていたかということを自白したようなものですね、あれは。
質問3:5月3日の憲法改正発言でもそうでしたが、最近の政府の姿勢で目立つのが、自民党総裁としての立場と総理大臣の立場の使い分けのようなことが見られるのですが、そういうことについて憲法学上あるいは政治学上の見解はどうなのでしょうか。
石川:まず、その自民党総裁という立場と内閣総理大臣の立場を仕分けしにくいのが議院内閣制である、ということを申し上げておく必要があると思うんですね。例えば、9時5時のサラリーマンであれば、5時から後はプライベートだと言えるわけですけれど、議院内閣制の場合には、公私を論理的には切り分けられるけれども、実際上はきわめて切り分けが困難である。しかも、同じ内閣の構成員であっても、国務大臣に比べて内閣総理大臣のほうが、より困難だということです。さらに、総理総裁を兼ねている場合は、一層困難であるということが、まずあるわけです。
観念上はもちろん、憲法の名宛人は国家であって、99条の憲法尊重擁護義務が課せられているのは、国家公務員としての立場においてでありますので、内閣総理大臣としての立場では憲法尊重擁護義務を課されていても、自民党総裁としてはフリーであるというのが、まさに日本国憲法のよさではあるわけです。けれども、議院内閣制のもとでの内閣総理大臣というのは、その切り分けが非常に難しいということです。これが、象徴としての天皇ということになりますと、もう論理的に不可能だということになりますが、内閣総理大臣の場合も非常に難しい。
ですから、自民党総裁としてなら改憲提案をしてよいというのは、極めて技巧的な説明で、観念的には成立可能な説明であるけれども、そんなに簡単に容認できる話ではないんですよね。あくまで観念上の技巧的な説明に過ぎないというふうに申し上げておきたいと思います。
山口:政治学のほうからひとこと言うと、議会において、与党、野党あるいは政府と野党との論戦というのがあるわけですけれども、もちろん行政府の長たる内閣総理大臣に対して野党が質問、追及して議論するという関係性が主ですけれども、当然、政党内閣、政党政治ですから、多数党の党首に対して少数党の党首が質問、追及して、その間で論戦するという多数党対少数党という関係性もあるわけですよね。「国会のなかでは、総理大臣対国会という関係性でしか議論しない」と勝手に土俵を狭めるというのは、これは議会政治の意味をはき違えているというか、議会政治をとても狭く設定している勝手な議論だというふうに思います。
質問4:強権的な国会運営に関わることですが、憲法について最近首相の近辺では、憲法審査会は一応多数決で決められるわけで、憲法改正案を多数決で決めてしまおうという議論が出てきています。これについてどう思われるか。もう一つは、その先にある国民投票ですが、これまでのいくつかの世論調査のなかでは6割程度が9条改正に反対であり、否決されるリスクもあります。「自衛隊を明記する」という改正案であれば自衛隊が否定されることになり、日本の安全性にリスクを伴うこともあるのではないかと思われますが、そのあたりのことはどのようにお考えでしょうか。
山口:まず憲法審査会の話で、まあ憲法改正というのはやっぱり、国会の3分の2に加えて、国民投票という非常に高いハードルがあって、かなり大きなコンセンサスが存在しているところで憲法改正をするという前提があると思います。多数決で何か物事を決めるということは、あまり好ましくないと個人的には思いますが、とにかくその多数決でも決めてしまうということを与党がするのであれば、それも含めて与党が進める憲法改正の本質を国民に知らしめるということに、たぶんなっていくんだろうと思います。
国民投票の話なんですが、一つ危惧するのは、安倍さんが言った9条3項について反対をするとすれば、「では自衛隊は違憲と言いたいのか」のような、ちょっと論理をすり替えたキャンペーンを、安倍さんや自民党が仕掛けてくるという可能性は確かに私も危惧しているところなんですね。だから、まずは9条3項という提案自体の非論理性、破たん。さっき西谷さんが言った、じゃあ安保法制、集団的自衛権のあの閣議決定はなんだったのかというような形で、安倍首相の9条3項そのものの杜撰さについて、まず入り口のところでしっかり議論をするということが、まずは私の考える憲法擁護側の課題かなと思いますが。
石川:今回の安倍さんが投げて来られたボールに対して、各方面なかなか苦慮しているという話をうかがうんですけれども、これは前回のこの会の記者会見で申しましたように、やはり「現状から見て、何を加え、何を失おうとしているのか」ということを考えてみるのが大事だということですね。
繰り返しになってしまいますけれども、結局現在、9条が根拠になって発生しているある種の軍事力コントロールのメカニズムが、とりさられてしまうという帰結をもたらすということ。これが現状から失うものであるということは、はっきりしているわけで、その部分の検討なしに突っ走ろうとしていること自体が問題だということを、まずは言っていく必要があるんじゃないかと思います。何となく「現状を追認するだけならいいじゃないか」という議論ではないのだというところを、まずは最初に訴えていくというのが第一段階ではないかと思います。
ですから、今回の安倍さんの投げたボールそれ自体が、厄介なクセ球でもなんでもないことは明らかだと思うのですが、その後の展開が難しいだろうなと思います。たしかに、このままの改憲提案が突っ走って、しかも国民投票で否決されて、自衛隊の立場がなくなるという可能性も、ご指摘の通りにあります。しかし、そういう展開よりも、「9条3項をつけ加えることによって、現に戦後70年機能してきた軍事力コントロールのシステムが、憲法上消えてしまう」とここで強調したのに対して、「なるほど、それはいけない」と、9条に代わる軍事力統制のオルタナティブを出そうという展開になってきた場合にどうするか、ということをわたくしは心配しています。
例えば、実際に2012年の自民党改憲案には、不十分ながら、シビリアン・コントロールによる軍事力統制の考え方が打ち出されています。それを安倍提案につけ加えればいいじゃないかと言ってきた場合に、それでは足りないと打ち返せるだけのものを、こちらで用意しておかなければいけない。わたくしや、あるいは前回の記者会見でお隣に座ってお話をされていた青井さんは、やはり9条方式以上にうまくいっている軍事力コントロールの方式というのは、世界中に存在しないのだ、ということを言っているのですが。
それを議論しようとすると、9条と自衛隊の論理的整合性の問題に、これもしばしば論点をずらされてしまいますので、なかなかややこしいのですけれども、それとは別に、現に日本が戦後70年持ってきた軍事統制のメカニズムというものをどうするか、という論点があって、既存のメカニズムに替わる代案があるのかどうかという問題だ、と考えていただければいいのです。そして、現状は非常にうまくいっているわけですね。なんでうまくいっているのかということを解明しないで、より性能の悪いことがはっきりしているものに取り換えようとしている、というのが、たとえば自民党改憲草案に対するわれわれの批判です。
そうでありますだけに、なぜこれだけうまくいっているのかという説得的な説明を、われわれができるかどうか。他方で、向こうが、よりまともなシビリアン・コントロールの代案を出してこられるかどうか。そういう戦いになってきたときが、厄介なのではないかと思います。9条論の強みというのは、現にうまくいっているという、この現状ですよね。現状における盤石のパフォーマンス、これが頼りになっています。世界的にこれだけうまく軍事力がコントロールされている国はない、と言ってもいいぐらいではないかと思いますけれども、現にうまくいっているという事実が頼りです。
しかし、自衛隊それ自体に対する国民の高い支持を前提として、コントロール方式の勝負になってきたとき、そこでどうやって闘うのかというのは、山口さんもおっしゃったように、そこは厄介な戦場に入っていくことになるのではないか。それにもかかわらず、そこに入る前に、コントロールをすべて取っ払ってしまうという最悪の選択だけは、やはり避けなくてはなりません。その最悪の選択に、うかうかとみんなで一緒に飛び込もうとしているわけですから、それが危険だということは、やはり言わなくてはいけないのではないか、というのが、前回の記者会見だということだったと思います。
山口:では、予定した時間を過ぎましたので、今日の記者会見はこのあたりで終わりにいたします。どうもありがとうございました。
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