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アメリカの貧しい若者の犠牲の上に平和を享受している日本
米国ルート66 爆走11000キロ 第2回
2017/03/20
高野凌 (定年バックパッカー)
(2016.4.6.〜5.21 45日間 総費用47万円〈航空券含む〉)
小さな町の郷土資料館的ミュージアム
Jolietのミュージアムに展示された化学消防車。その後ろに出征兵士の写真が並んでいる
シカゴの市街地から南下して30分も走ると周囲は地平線までトウモロコシ畑一色となる。高校地理の時間に習ったコーンベルト、グレートプレーン(大平原)などという言葉を思い出す。
昼前にJolietという中西部の典型的な田舎町に到着。『ルート66ミュージアム』を見学。1920年築の立派な石造りの二階建ての元雑貨屋(grocery store)を改装したものである。一階のメインの展示物は1930年代の化学消防車だ。手押しポンプで消化液を放射したと説明がある。
一階の四面の白壁には一面に男性の顔写真が飾ってあることに気づいた。すべてJolietから戦場に出征した地元の男たちであった。職業は農業・学生が多いが運転手、修理工、大工、コックなど様々である。戦死した兵士も多い。第二次世界大戦、朝鮮争、ベトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、砂漠の砂嵐作戦と順番に並んでいる。第二次大戦以降もイリノイ州の片田舎の町から戦争のたびに若者が出征して何人も戦死しているという厳粛な事実に圧倒された。
日本が日米安保条約のお陰で平和を享受していた70年のあいだ米国では何度も普通の若者が出征して戦死していたのだ。しかも現在進行形だ。米軍というと原子力空母や大陸間弾道ミサイルなど圧倒的軍事力や巨大組織をイメージするが実際には“ふつう”の生身の若者が米軍を支えている。
米国の“ふつうの若者”の犠牲の上に平和を享受してきたことを日本人はどう考えるべきなのだろうか。
静謐のなかに翻る7本の旗
4月16日。オクラホマ州のWhetherfordという町は中西部の静かな町である。ルート66旧道に沿って州立大学を過ぎて町の西はずれに至ると美しい芝生に覆われた小高い丘が現れた。
中心の丘の頂上は公園のように整備されて七本の旗が風に翻っていた。フラッグポールの礎石にはそれぞれ星条旗、オクラホマ州旗、陸軍、海軍、海兵隊、空軍、州兵と記されていた。公園のような空間は戦没者慰霊碑だった。献花におおわれ真新しい。戦役、氏名、階級、享年、生年月日などが御影石に刻まれている。21世紀になっても何人もの戦死者が刻まれている。
オクラホマ州のWhwtherfordの戦没者慰霊碑
日本の戦没者慰霊碑
日本でも各市町村には戦没者慰霊碑があり慰霊碑の後ろには出身部落・氏名・階級などが記載されている。私の住んでいる町は戦前には人口2000人程度の村であったが神社の慰霊碑によると日露戦争で十数名、太平洋戦争では30人以上が戦死している。
しかし戦後日本では日米安保条約のお陰で70年間も戦死者はゼロであり国民意識から“戦死”という概念は死語となっているように思われる。そのせいか戦没者慰霊碑は全国どこでもひっそりと木陰に佇んでおり目立つことはない。“お国のために戦い亡くなった幾多の英霊”に対する畏敬の念そのものが風化しているように思われる。
日本は米国の貧困層の若者が払っている血税の実態を認識しているのか
ベトナム戦争後ドラフト制度(徴兵制度)は廃止された。職業軍人である士官以外の一般兵士は志願兵である。湾岸戦争で捕虜となった女性兵士が奨学金を得て大学進学するために志願したという話は当時有名になった。現在の志願兵制度下では下層階級出身の若者が奨学金目的で兵役を志願するという傾向がより顕著になっていると聞く。
米国は世界で最も貧富の差が大きい格差社会だ。有名大学の学費は高く、しかも有名大学においては有力者の子弟は推薦制度により選抜試験でも有利である。このような社会では一発逆転を狙う下層階級の若者は兵役を志願せざるを得ない。
米軍に安全保障を“お任せ”しているのに“集団的自衛権に関する法律”に反対して“戦争法廃止”と叫んでいる日本のリベラルと称する人たちは米国の貧しい若者の犠牲をどのように考えているのであろうか。
日本陸軍、軍医の軍用行李
カンザス州のBaxtar Springsの郷土資料館に展示されている南北戦争時代の大砲
4月12日(火)カンサス州のBaxtar Springsという田舎町の郷土資料館(Heritage & Museum)に立ち寄った。ボランティアのお年寄りが何か聞くと丁寧に説明してくれる。
そして展示品で最も多いのが例により南北戦争からベトナム戦争まで従軍した郷土出身将兵の遺品・記念品の類である。出征、従軍はいつの時代でも田舎町の青年にとっては一世一代の出来事である。軍服、軍帽、勲章、徽章、階級章、感状など大事に保管されてきた遺品が並ぶ。
第二次大戦の太平洋戦争のコーナーでは毛筆で多数の人間が署名した“日の丸”があった。出征兵士の武運長久を祈ったものだ。当人の氏名、出身地や百名近い人々の名前が明瞭に読み取れる。そして“千人針”と思しき布も。説明によると制圧した塹壕や洞窟から見つかった日本軍の遺品だ。
飯盒、手帳、腕時計、軍刀、拳銃などおびただしい数である。医薬品や手術道具の入った軍用行李があった。所属階級氏名も読み取れた。持ち主は戦死した陸軍軍医大尉だった。静かなカンザスの田舎町の歴史の記録として日本の無名戦士の遺品が大切に展示されていた。
アリゾナ州のスーパーハイウェイ
アリゾナ州のバターン・メモリアル・ハイウェイ。ホワイトサンド国立公園へ向かう途上にて
4月22日 アリゾナ州のホワイト・サンド国立公園に向かっていた。このあたりは砂漠地帯であり軍事基地が多い。White Sands Missile Range(ホワイト・サンド ミサイル演習場)という看板が見えてきた。
砂漠地帯であり交通量は少ないが片道二車線の快適なハイウェイが地平線まで続いている。整備も行き届いているところを見ると軍用道路なのであろう。ふとハイウェイ脇の標識を見ると『Bataan Memorial Highway』とある。“バターン(Battan)死の行進”を忘れないという意味でこのハイウェイの名称としたのであろう。
太平洋戦争中の1942年にフィリピンのコレヒドール要塞を攻略した際にバターンで降伏した米軍・比軍捕虜を炎天下徒歩移動させる途中で米兵捕虜1000人以上、並びに相当数のフィリピン人が死亡したという事件である。日本人は忘れても米国ではハイウェイの名前として残されている。
小さな博物館のヒロシマ・ナガサキ
エノラ・ゲイ号と機長のポール・ティベッツ。原爆投下当時30歳で2007年に92才で死去。
5月6日(金)。アリゾナのルート66旧道沿いの田舎町Kingmanの町営博物館で大恐慌から第二次大戦のコーナーの展示物でエノラ・ゲイ号の写真が目を引いた。広島へ原爆投下した“空の要塞”と言われたB29爆撃機だ。原爆投下命令書のコピーも展示されていた。当時Kingmanの郊外にエノラ・ゲイ号を含む米国陸軍戦略空軍の爆撃機が駐機していたのだ。
原爆投下命令書。1945年7月25日に発令。8月3日以降に天候次第で投下目標を広島、小倉、新潟、長崎 から選択して目視爆撃を命じている。そして原爆の効果を観察・記録するために軍・民間の科学者を搭乗させることも指示
戦勝国アメリカでは今日でも原爆投下を正当化する世論が支配的だ。戦勝国は戦争に関しては永遠に彼らに都合の良い解釈をするのは古今東西変わらない。Kingmanの人々は町の郊外から太平洋に移送された爆撃機が太平洋戦争終結の決定的使命を果たしたことを素朴に誇りに思っているのであろう。
Kingmanの町の郊外に並ぶ陸軍戦略空軍の爆撃機。すざましい工業力、物量に圧倒される
フォート・リーの退役将兵のパレード
35年前のニューヨーク駐在時代に住んでいたフォート・リーという町では毎年ベテランズ・デー(退役軍人の日)になると百人くらいの従軍経験の或る中高年の男性が勲章を付けて正装して高校生のブラスバンドに先導されて町の目抜き通りをパレードしていた。現在でもベテランズ・デーには各地で同様のパレードや記念行事が開催されている。
サンディエゴ軍港で修理中の空母。浮きドックを使用して作業。残念ながら一帯は立ち入り禁止地区であり遠景しか撮影できず
2016年12月に安倍首相は当時のオバマ大統領と真珠湾を訪問して両国の和解と同盟関係を世界中に宣言したが、米国市民が太平洋戦争を忘れるということはないだろう。現在でも普通の若者が世界中で命を懸けて戦っている米国では過去の戦争の記憶や戦没者の功績は風化することはないだろう。
⇒第3回に続く
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/9096
巨万の富「アホウドリ」で拡大した日本領土
2016/10/17
平岡昭利 (下関市立大学名誉教授)
iStock
地図を広げて、わが国の領域を眺めると、最東端の南鳥島から西へ、小笠原諸島、大東諸島、尖閣諸島などが点在しているが、これらの島々のおかげで、経済的主権のおよぶ排他的経済水域は大きく広がっている。領海と排他的経済水域を併せた面積は世界第6位である。
一体、これらの島々は、いつから、どのような背景で、わが国に編入されたのだろうか。
実は、筆者は今から40年以上前、沖縄本島の東に位置する大東諸島に滞在し、地理学のフィールドワークを行ったことがある。台風情報でおなじみの南大東島を主な研究対象とした。3カ月間、聞き取り調査を行ったが、訪ねた農家の方々の名字が「菊池さん」や「細田さん」など、沖縄姓とは異なる本土姓の方がおられるのに気づいた。沖縄県の離島になぜ本土姓が存在するのか。これらの人々は、明治後期に八丈島から2000キロメートル余りの航海を経て、南大東島に上陸した人々の子孫であった。
伊豆諸島の八丈島から、はるか遠い沖縄の島になぜ上陸したのか。私の質問に、彼らは口を揃えて「農業をやるため」と答えた。農業のために長い航海をして、絶海の無人島の断崖絶壁を登り、上陸する必要があったのだろうか。何か釈然としないものが残った。
その後、調査を進めると、鎖国から解放された明治以降、小さな船を操り、数々の危険を冒して、日本周辺の無人島に漕ぎ出した人々がいたということがわかってきた。彼らは大海原を越えて、大東諸島のみならず、広く太平洋の島々にまで進出していた。
彼らを大海原に駆り立てた原動力は何だったのか。この謎を解くため、八丈島や沖縄の島々でフィールドワークを行う一方、公文書館などで長年にわたり資料収集を続けた。
その結果、意外な結論に辿り着いた。太平洋に漕ぎ出した日本人の原動力となったのは、巨額の富をもたらす「アホウドリ」だったのである。
明治以降、多くの日本人が追い求めたアホウドリ
(写真・TOKYO METROPOLITAN GOVERNMENT/JIJI)
富豪への近道「無人島探検」の広がり
明治初期まで、秋になると日本周辺の無人島には、数多くのアホウドリが飛来していた。この鳥は両翼の長さがおよそ2・4メートルという太平洋で最大級の海鳥で、人間を恐れないことや、飛び立つ際に助走が必要なこともあり、簡単に捕獲された。
1876年(明治9年)に、わが国の領土になった小笠原諸島でも、多くのアホウドリが生息していた。しかし、移住者の急増とともにその多くは捕獲され、羽毛は横浜の商人に売られ、卵は本土に移出された。
当時、小笠原開拓に従事していた八丈島の大工、玉置半右衛門は、いち早く、このアホウドリの価値に注目した。1887年(明治20年)、島が真っ白になるほどアホウドリが飛来する伊豆諸島南端の鳥島に進出し、組織的なアホウドリの捕獲事業を開始している。
その捕獲方法は、棒を使った撲殺で、1日に一人当たり100羽、200羽は容易に捕獲でき、1902年(明治35年)の鳥島大噴火までの15年間で、およそ600万羽を捕獲した。その羽毛量は1200トン、売上金額は約100万円で、年平均にすると約6・7万円であった。当時の総理大臣の年俸が1万円の時代にである。玉置の年収は4万円程度であったと推測されるが、これを現在価値に換算すると10億円である。アホウドリを撲殺して羽毛をむしり取るだけの玉置の事業は、莫大な利益をもたらしたのである。
大富豪になった玉置は、『実業家百傑伝』(1892〜93年)などの立志伝に名前が挙げられるなど、実業家として、一躍、時の人になった。さらに、著名なジャーナリストの横山源之助は、1910年(明治43年)刊行の『明治富豪史』の中で、富豪になる方法として、御用商人、土地成金などとともに「無人島探検」を挙げている。当時、アホウドリの捕獲は、富豪になる方法の一つであった。
危険を顧みず我先にと進出
東はハワイへ、西は南シナ海へ
1891年(明治24年)5月30日付の読売新聞は、「南洋に豊土ありとは、近頃の流行語にて……」と南洋探検ブームを報じた。豊土とは、小笠原諸島の南東に存在するというグランパス島のことである。当時の地図には、このグランパス島のように存在が疑わしい島(疑存島)が多数描かれていた。玉置の成功に刺激された人々は、鳥島にあれだけのアホウドリがいるならば、地図に記載されている太平洋上の島々には、さらに無数のアホウドリがいるのでは、と考えたのである。
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その結果、富豪になる千載一遇のチャンスを逃すまいと、アホウドリなどの鳥類を求めて、東は北西ハワイ諸島へ、西は南シナ海の島々へ我先にと危険を顧みずに進出した。「バード・ラッシュ」とも呼ぶべき「無人島獲得競争」が繰り広げられることになる。
1899年(明治32年)には、ある民間人からミッドウェー島の借地願いが出され、2年後の1901年(明治34年)には、後に軽井沢の別荘地開発を手がける野澤源次郎も、日本政府にこの島の借地願いを提出している。日本から、はるか東、およそ4500キロメートルも離れている太平洋のど真ん中のミッドウェー島で、この時、彼らは既にアホウドリの捕獲事業を行っており、さらに捕獲の独占を狙って借地願いを出していたとは、驚くような話である。
尖閣諸島も「アホウドリ」
止まらない帝国「日本」の拡大
この「バード・ラッシュ」の結果、日本周辺の無人島は次々に帝国「日本」に編入され、わが国の領土は拡大した。
日本最東端となる南鳥島は、グランパス島を探し回っていた水谷新六によって、1896年(明治29年)に発見された。彼はその後すぐにアホウドリの捕獲を開始し、南鳥島は1898年にわが国の領土となった。
また、尖閣諸島は、1885年(明治18年)に沖縄県が調査し、その回航報告書にアホウドリの大群の様子が詳しく記されているが、明治20年代には、多くの日本人がアホウドリの捕獲のために進出した。1895年(明治28年)になって、寄留商人の古賀辰四郎が島の借地権を申請し、翌96年、政府は古賀に尖閣四島を貸与した。
このように、鳥類がもたらす富を認識した日本人の海洋進出は早く、中国政府の主張する「尖閣諸島は、日清戦争時に日本にかすめ取られた」という時期以前に、多くの日本人が、既に同諸島に進出していたのである。
なお、「バード・ラッシュ」によって、アホウドリばかりか、国内外の鳥類も捕獲され、わが国から輸出される鳥類は、明治後期には、年間数百万羽にのぼった。大蔵省も250万〜950万羽としている。並外れた数量である。
その多くがヨーロッパ、とりわけフランスに輸出された。高級婦人帽や頭飾りの原料として使用され、その製品はパリの品のファッションとして大流行した。1880年(明治13年)〜1920年(大正9年)頃、わが国は世界屈指の鳥類輸出大国であった。
だが、こうした大規模な捕獲によって、アホウドリなどの多くの鳥類が枯渇へと向かう。このため「無人島獲得競争」は、ますます激化した。玉置半右衛門の鳥島も例外ではなく、アホウドリは激減し、玉置は新たな無人島を探していたが、そのなかで大東諸島の情報を得た。1899年(明治32年)、八丈島から南大東島に開拓船を派遣し、翌1900年、八丈島の人々は、絶壁を登り上陸に成功したのである。
アホウドリを追い求め、八丈島の人々は南大東島の絶壁を登り上陸した
(写真・JYO ISHIKAWA/AFLO)
こうした状況のもと、1905年(明治38年)前後から、無人島への進出目的に鳥類のほか、鳥糞やリン鉱が加わる。羽毛は軽量のため運搬に小さな船が使用されたが、重い鳥糞やリン鉱は多くの労働者や重機、汽船を必要とした。結果、進出の主体が山師的な商人から独占資本に移行し、その活動は太平洋へと一層活発化していった。
以上のように、日本の広大な排他的経済水域の形成を主導したのは、アホウドリであった。この鳥は一攫千金になるという認識と、その捕獲という欲求が「バード・ラッシュ」とも言うべき「無人島獲得競争」を引き起こし、はからずも、わが国の領土拡大という副産物をもたらしたのである。
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・南シナ海問題が発端の尖閣騒動 余波を受ける沖ノ鳥島、南鳥島
・尖閣周辺海域に現れた中国漁民の正体
・ガス田に東シナ海の目≠設置した中国
・海上保安庁だけでは尖閣を守れない 待たれる「離島警備のプロ」創設
・図解 海に囲まれた日本 国境付近で絶えぬ争い
・現地ルポ 自衛隊基地配備に揺れた与那国島 次なる「震源地」石垣島の騒乱
・「アホウドリ」が広げた日本の領土 巨万の富を巡る無人島獲得合戦
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7780
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