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「教育勅語」を愛する人々
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031600086/p1.jpg
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
2017年3月17日(金)
小田嶋 隆
3月14日、ということは、いまこの原稿を書いている現時点から数えて2日前に相当するのだが、その3月14日に開かれた会見の中で、文部科学大臣の松野博一氏が、不可思議な見解を漏らしている。
松野大臣は、教育勅語について、憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば「教材として用いることは問題としない」と表明したのだ(こちら)。
なんとまあ不用意な発言ではあるまいか。
念のために解説すればだが、教育勅語は、既に効力を失った教材だ。
というよりも、教育勅語は、単に効力を失ったのではなくて、より積極的に、教育現場から「排除」され、「追放」された過去の亡霊だ。歴史上の悪夢と申し上げて良い。
事実、この勅語に関しては、「憲法の理念に反する」として1948年に衆議院で「排除決議」が採択され、あわせて参議院でも「失効決議」が採択されている。
してみると、このたびの松野大臣の発言は、一旦国会の場で、「憲法の理念に反する」として「排除」され「失効」した歴史的な教材を、文部科学大臣の名において「憲法や教育基本法の理念に反しないような配慮」を条件にしているとはいえ、「有効」であるとして再び召喚しようとした措置に見える。
こういうことをポロッと言ってしまって、果たして文部科学行政の一貫性は保持できるものなのだろうか。
たとえばの話、腐っていることが認定されて、食べてはいけないことになった食品について、「腐敗に気をつける配慮」があれば、「食材として用いることは問題としない」てなことを保健所の所長がドヤ顔で言ってのけるような世界で、果たして食卓の衛生は防衛できるものなのだろうか。私はそうは思わない。こういうことが起こったら、その世界に住む人間は、腐った食べ物を再び食べさせようとしている人々の意図と狙いについて、あらゆる方向から考え直す努力を怠ってはならない。でないと、早晩食中毒で死ぬことになる。
どうして、一部の人々は腐ったリンゴに執着するのか。
腐ったリンゴからでなければ摂取できない栄養素が存在するということなのか。それとも、リンゴを腐っていると認定した体制自体を転覆せんとする運動が、いまわれわれの周囲で起こりつつあるということなのか。
真相はいずれにあるのだろうか。
今回は、教育勅語について考えてみるつもりでいる。
思うに、教育勅語は、昨今話題の森友学園騒動を解読するためのキーのひとつだ。
疑惑の核心はカネの動きと職務権限にある。政治家の関与と官僚の忖度がどのような経路で発生し、誰と誰がどんな決断に影響力を行使し、誰が利益にあずかり、誰が便宜を供与し、どんな機関が背後で動いていたのか、ジャーナリストや運動家が究明せねばならないのは、そのあたりの行ったり来たりなのだろうし、国会や捜査機関を動かすべくメディアが焦点を当てるべきポイントもその界隈に散在しているのだと思う。
が、一歩引いた場所から観察すれば、森友学園問題の背後には、常に「教育勅語への賛意」という不可思議な感情が底流している。というよりも、カネや利権に直接のかかわりを持たなかったより多くの人々も、森友学園がその中心的な理念として強調していた教育勅語の扱いに関しては不用意かつ積極的に関与していたわけで、とすれば、森友学園の問題をより深く理解するためには、教育勅語が現代に突きつけようとしている問題について問い直さなければならないはずなのだ。
普通に考えて、自分が現場を見ていない問題はよくわからないし、よくわからない問題についてあれこれ憶測を語るのは、愚かな態度なんではなかろうかと、毎度のことながら、実はそこのところを恐れてもいる。
文章を書くのにいちいち書き手の資格をでんでん、じゃなかった云々するみたいな硬直的なツッコミは、この際無視するのだとしても、この種の疑獄事件に関して、自分の足で取材しない人間が関与する余地をあまり多く持っていないことは、いかんともしがたい事実ではあるわけで、とすれば、私のような書き手は、事件そのものや事実関係についてではなく、事件に関与していた人間たちが共通して抱いている思い込みみたいなものに話の焦点を持っていかざるを得ない。で、それが今回の場合は、教育勅語だということになるわけだ。
わたくしども日本人は、教育勅語について、それぞれに大量の硬軟取り混ぜた思い込みを抱いている。
その陳腐でありながら多様な思い込みを解明しないと、この問題は先に進まない。
さて、発言の内容自体もさることながら、私は、松野大臣が、あえてこの時期によりにもよって教育勅語についてコメントしたという事実に、なによりもまず驚かされている。あまりにも軽率だからだ。
ヤブヘビというのか、火中の栗を拾いに行ったようにしか見えない。
教育勅語が、ホットな話題になっている背景には、現在進行中のスキャンダルがある。
後日読み直す読者のためにあえて具体的に説明すると、教育勅語に注目が集中しているのは、経営する幼稚園の園児に教育勅語を朗唱させていることで注目を集めた森友学園という学校法人に関連する一連の疑惑報道が、いままさに進行中だからだ。
その延焼中のスキャンダルのさなかで、文部科学大臣という容易ならざる立場にある人間が、わざわざ教育勅語の意義についてコメントする狙いが那辺にあるのか、そのあたりの裏事情を考えると、私は、自分のアタマが混乱して堂々巡りをはじめるのを止めることができない。大臣はいったいなんでまたこんな問題にクビを突っ込んだのであろうか。彼は誰に対して何をアピールしたかったのだろう。
つい1週間ほど前の3月8日には、稲田朋美防衛大臣が、参院予算委員会で社民党の福島みずほ議員の質問に答える中で
「教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません」
「私は教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行とか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持している」
「教育勅語に流れている核の部分、そこは取り戻すべきだと考えている」
という主旨の発言をしている。
これまた驚愕すべき答弁だ。
いったいアタマの中にどんな味噌が入っていれば、こんな言葉を考えつくことができるのだろうか。
私の耳には、稲田大臣のこの応答は、ご自身のクビを絞める発言にしか聞こえない。
というよりも、ただでさえ窮地に追い詰められつつある状況下で、問題の発端である教育勅語を擁護しにかかるみたいな発言をすれば、ますます苦しい立場に追い込まれることが自明であるにもかかわらず、それでも、稲田大臣が教育勅語への愛と信頼を表明した理由を解明することは、現状の私には不可能だ。自分のアタマの中にある味噌を入れ替えてからでないと、到底理解できない。
そんなわけなので、ここで、一旦、自分の思い込みをリセットしてみることにする。
でないと、この謎にはアクセスできないだろうからだ。
私の思い込みというのは、すなわち教育勅語が邪悪な思想だという決めつけのことだ。
その私の思い込みからすると、教育勅語のようなあからさまに邪悪な愚民教導ツールを積極評価するのは権力志向のファシストに決まっているのであって、そのファシストが公の場で教育勅語への賞賛と支持の気持ちを表明するのは、彼らが、そうすることで何らかの利益にあずかろうとしているからだ、という理屈になる。
稲田防衛大臣や松野文部科学大臣が、この困難な時期にあえて教育勅語へのゆるぎない愛情と信頼を吐露したのは、彼らがそうすることで、政権の中枢を担う勢力への忠誠を明らかにしたからなのだと、そういうふうに邪推してかからないと、事態を飲み込むことができないということでもある。
しかし、おそらく、真相はそんなに見え透いたお話ではない。
もっと見え透いている。
つまり、稲田防衛大臣は、野党側の質問にさらされて、うっかり自分の本心を表明しただけだということだ。
それも、彼女は、どちらかといえば、誇らしいというのか晴れがましい気持ちで自分の道徳観を開陳していのだと思う。ご本人の自覚としては、断じて誰かに媚びるために過去の禁じられた徳目を称揚してみせたのではないのだろう。
松野文科相にしてもおおむね同様だ。政権の中枢への目配りがなかったとは言えないものの、彼自身、教育勅語が道徳的に優れた文書である点は疑っていない。
私が当初から感じている薄気味の悪さは、実にここのところにある。
この物語に登場する人物は、誰もがテンから教育勅語を「良いもの」だと信じ切っているのだ。
それだけではない。
観察するところでは、現状の日本人の多数派は、どうやら、教育勅語を悪いものだとは思っていない。
これは、私には受け容れにくい状況だが、事実なのだから仕方がない。
多くの日本人は、教育勅語について、多少古くさいところはあっても、基本的には昔ながらの古き良き日本人のつつましやかな奥ゆかしさを体現した、素晴らしい遺産だぐらいに評価している。
おばあちゃんの知恵袋が、いくつか時代にそぐわなくなってしまった迷信(風邪をひいたら喉にネギを巻いて寝るんだよ、みたいな)を含んではいても、総体としては輝かしい先人の知恵であるのと同じように、教育勅語も、天皇に関する部分だけを取り除けば、十分現代にも通用する好ましい徳目だと、そう思っている日本人は少なくない。というよりも、日本人の多数派がそう思っているからこそ、文部科学大臣や防衛大臣が、公然と支持を表明したのであって、赤旗がどう言おうが、朝日新聞があきれてみせようが、実に世の趨勢は既に、教育勅語復活に傾いているのである。
われわれは、既に戦前の世界で暮らしているのだ。
なんということだろう。
松野文科相が教育勅語擁護発言をした3月14日の夜、私は、以下のようなツイートを連投した。
《教育勅語が若い世代を含む多くの日本人をいまだに魅了してやまないのは、並列された文言の背景に一貫している「個々の人間の個別の価値よりもひとまとまりの日本人という集団としての公の価値や伝統に根ざした心情の方がずっと大切だぞ」という思想が、根本的にヤンキーの美学だからだよ。》(こちら)
《より大きな集合の一員であることの陶酔に挺身するのがヤンキーの集団主義道徳で、その彼らを結びつけている文化が友情・努力・勝利の少年ジャンプ的なホモソーシャルである以上、教育勅語はど真ん中の思想ですよ。》(こちら)
これらのツイートに寄せられた反響を眺めるにつけ、私の確信はいよいよ深まりつつある。
森友学園が小学校建設のために購入した土地の譲渡の経緯やその地価の算定のいきさつに何があったのか、私は詳しい事情を知らない。
ただ、私が興味をひかれている点は、そこではない。
私は、森友学園が推進する教育勅語を中心とした戦前ライクな道徳教育に賛同し、その理念を実現する小学校の設立のためにひと肌脱ごうとした人たちが、彼らを通じて作り上げようとしていた世界を知りたいと思っている。
彼らが必ずしももう一度戦争をしようとしているのだとは思わない。
ただ、彼らが、占領軍によって全否定された(と彼らが考えている)戦前的な美しい日本を「取り戻そう」としていることはどうやら間違いのないところで、その「美しい日本」の価値を根本のところで支えているのが教育勅語であることも動かしがたいポイントではある。先に挙げた国会における排除も、それが行われたのが占領下であったことを、得々として指摘することだろう。
その「教育勅語」のキモというのか、核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、「私」よりも「公」に高い価値を置き、個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、これは、実は、任侠でも暴走族でも体育会の野球部でもブラック企業でもお役所でも同じことなのだが、要するにわれらが日本の「強いチーム」の鉄則そのものだったりする。
うちの国で組織が強いチームとして機能するためには、個よりも集団が優先されなければならず、自由を秩序が圧迫していなければならず、私心が公益によって滅殺されていなければならない。で、そういうチームの中で何より美しいとされるのは、自分以外の何かや誰かのために自分の命を捨てる人間の姿だってなことになっている。これは神風特攻の昔から、ワンピースの漫画に至るまで、まったく変わっていない美学で、さらにそのルーツをさぐれば、たぶん白虎隊や忠臣蔵の時代まで遡ることができる。
戦前の日本の子供たちを皇軍の兵士に仕立て上げるにあたって大きな役割を果たし、そのことで一度は教育現場から追放された教育勅語が、いままた復活への道を歩みはじめている現今の状況は、私の思うに、大げさに言えば、戦後の平和教育ならびに戦後民主主義の敗北ないしは解体を意味している。
実際、教育勅語の復活を主張している人々は、そのまま日本国憲法の経年劣化と無効化を言い募る人々でもある。
で、われわれはまたしても、八紘一宇の理想に舞い戻るわけだ。
自民党の憲法改正案をめぐる議論を読み返していると、あらゆる場面で「行き過ぎた個人主義」という言葉が、実に数多くの議員の口から、何度も何度も繰り返されていることに驚かされる。
それほどに、彼らは、個人主義を憎んでいる。
このことは 自民党の憲法草案の中で、日本国憲法の中の「個人」という言葉が、すべて「人」に置き換えられていることを見ても明らかなことだ。
ちなみに、「公共の福祉」というフレーズは、一つ残らず「公益及び公の秩序」という文言に改められている。
さらに私を憂鬱な気持ちにさせるのは、自民党の議員の間に広がっている個人主義嫌いが、決して彼らにだけ共有されている特殊な思い込みではなくて、現代の若い世代をも含めた平均的な日本人のごく当たり前な多数派の思想でもあるという点だ。
われわれは、ひとつになることが大好きで、寄り添うことが大好きで、自分たちがひとかたまりの自分たちである状況に強い愛着を抱いている。
戦前の常識では、教育勅語が体現する思想を貫徹するためには、中心に天皇を持ってこないと話のスジが通らなかったものなのだが、21世紀に教育勅語を召喚しようとしている人々は、あるいは、天皇抜きでも中央集権が可能だと考えているのかもしれない。
まあ、真ん中が空洞でもドーナツは丸いわけだし、不可能ではないのだろうし、この様子だと、その彼らの理想が実現する時代は、そんなに遠い未来ではないのかもしれない。
その世界の中で、ドーナツの一部になる事態を、私はできれば回避したいと願っている。
一片のパン屑として生涯を閉じることができるのであれば、それで不満はない。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
「世界はひとつになれない そのままどこかにいこう」by 星野 源
そして生活は続くのです。そうあってほしい。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031600086/
韓国の禁輸が解けねば、今年もホヤが大量廃棄に
証言
阿部 誠氏[宮城県漁業協同組合理事]
2017年3月17日(金)
震災による津波で壊滅的な被害を受けた宮城県の水産業。名産品の養殖ホヤもその一つだった。 復活に向け努力を続けてきたが2013年、韓国の禁輸措置が実施され苦境に。 新商品の開発などで国内販売は伸ばしたが、最終的に7600トンが販売できず処分する事態に陥った。
[宮城県漁業協同組合理事]阿部 誠氏
1956年生まれ。千葉県にある全国漁業協同組合学校を卒業後、76年、宮城県信用漁業協同組合連合会(2007年、宮城県漁業協同組合に吸収合併)に入社。2013年から経済事業本部長、2014年7月から現職。
宮城県産ホヤ、大量処分の概要
宮城県は全国有数の養殖ホヤの産地。キムチの具材として人気があり、生産量の7〜8割が韓国に輸出されていた。だが2013年9月、東京電力福島第1原発事故による汚染水流出問題を受けて、韓国が宮城や岩手、福島、茨城など8県の水産物に対して輸入を全面的に禁止した。その影響から生産過剰となり、7600トンのホヤの廃棄を余儀なくされた。
昨年6月から、生産過剰となった宮城県産のホヤの処分が産地の女川町などで始まった。漁業者が水揚げしたホヤは冷凍保管されたのち県外に運ばれ焼却処分された(写真=読売新聞/アフロ)
東日本大震災から間もなく6年になろうとしています。津波によって宮城県の漁業は壊滅的な被害を受けました。ですが、漁業者をはじめ関係者の方々と復興に努めてきました。ホヤの養殖はその象徴的存在でもありました。
宮城県は全国有数のホヤの産地です。石巻市の牡鹿半島や女川町、南三陸町などで養殖され、国や県の復興補助事業などを活用しながら再度、量産に努めてきました。その結果、年間1万トンを生産できるレベルにまで復活することができました。
ところが昨年、そのホヤを大量に廃棄しなければならない事態に追い込まれました。震災の大きな被害から立ち直り、漁業者がホヤ養殖の復興のために努力をしてきた。手塩にかけてここまで育ててきた名産品を捨てなければいけない。本当に苦渋の決断でした。
輸出再開のめど立たず
廃棄したのは7600トンと大量でした。なぜ、こんな事態になってしまったのか。それは、2013年9月、宮城県産ホヤの最大の売り先である韓国が宮城や岩手、福島、茨城など8県の水産物に対して輸入を全面的に禁止したことが原因でした。
東京電力福島第1原子力発電所事故による汚染水流出問題に対する措置で現在も禁輸は解かれていません。韓国への輸出は宮城県産ホヤ全体の水揚げ量の7〜8割を占めます。それが全面的に販売できなくなってしまったのですから、生産過剰となり処分するしかなかったのです。
ホヤは養殖を始めて3年目に水揚げをするのが基本です。震災後に養殖を再開したホヤは2015年に3年目を迎えました。しかし、韓国へ輸出できないことから多くは水揚げをせず、2016年に繰り越し4年目を迎えました。また、2016年に3年目となるホヤもあります。こうして昨年、約1万3000トン分のホヤが水揚げを待つ状態になりました。
一方、韓国側が禁輸措置を解くかどうかについては水産庁、外務省、韓国領事館など関連機関に働きかけ、情報を集めていますが状況は芳しくない。2015年、日本政府は輸入禁止を見直すよう世界貿易機関(WTO)に提訴していますが、規制は解かれていません。
ホヤの輸出を手掛ける仲介業者の中には「少なくとも韓国の政権が変わるまでは禁輸は続くだろう」と見る人もいます。いずれにしろ、これ以上、ホヤの水揚げを繰り越すことはできませんでした。
ホヤは4年以上、成長すると重さでほとんどが養殖場から海中へ落ちてしまいます。そうなると漁業環境が汚染されることになりますし、網を破るなど他の漁業にも悪影響を及ぼす可能性もあります。水揚げをしないと新たにホヤの種付けをすることもできません。どうしても陸上に揚げて廃棄処理する必要がありました。
ホヤの養殖は宮城県全体で漁業者400人程度が関わり、合計で年間10億〜15億円程度を売り上げる産業だけに、補償がなければ廃棄できません。
東京電力に補償求める
廃棄については2015年から検討を始めました。同時に、韓国の禁輸措置の要因となった原発からの汚染水流出問題を起こした東京電力とも補償について話を始めました。
補償額を決める上で過去の販売データは欠かせません。ですが、そのデータの多くが震災で失われ残っていませんでした。また震災前は漁業者個人が輸出仲介業者と直接取引をすることが多く、宮城県漁協としてまとまったデータを持っていません。そのため協議が進みませんでした。
いろいろと手を尽くして、最終的に仲介業者の協力を得て、韓国への販売データを提供してもらい、販売価格の基準値を決めることができました。話し合いを始めて既に数カ月が過ぎていました。
ホヤは年中、水揚げが可能ですが、ピークは毎年6月です。そこに向けて東電との協議を続け、補償の見通しがなんとか立ったことから昨年6月、その年に水揚げするホヤの内、過剰分を廃棄する決定を漁協としてしました。
1万3000トンの内、例年、国内には約4000トンが出荷されるので、廃棄対象は約9000トンと試算しました。これだけの量のホヤを廃棄するのは一筋縄ではいきません。かなりの苦労がありました。最初は肥料にしたり、畜産や養殖の餌にしたりできないか方法を検討しました。そのまま捨てるより何か活用できないかと考えたからです。
受け入れてもらえる業者を探し話し合いをしました。ところが、処理の方法や採算性の問題で実現は難しいことが分かりました。そうなると焼却処分するしかありませんが、塩分が強いことなどから一般の焼却施設では処理できないことが判明しました。対応できる業者を探し、昨年8月、宮城県外でようやく焼却可能な場所を見つけました。場所が限られることから大量には焼却ができず、処分し終わるまで今年1月までかかってしまいました。
禁輸が解けなければ今年も大量廃棄に
廃棄には数億円の費用がかかりました。焼却費用だけでなく、焼却を待っている間の冷凍保管費用や運搬費なども必要になりますから。
ホヤは韓国で刺し身やキムチの具材として人気があります。震災前は韓国での需要が拡大しているため販売業者から増産の依頼を受けていたほどです。その韓国向けの販売が止まったため、今は国内向けの販売に力を入れています。薫製や酒蒸しなど新たな加工食品のアイデアを出し合って商品を開発し、販売量や販路の拡大に努めました。
その結果、昨年は5500トンまで国内販売を伸ばすことができ、処理した過剰分を7600トンまで抑えられました。ですが、韓国への輸出分をさらに国内向けに切り替えて販売することは、とても困難で限界があります。
一方、カキやホタテなど別の種類の養殖に転換するのは漁業者にとっては難しく、換えるにしても時間と費用がかかります。補償があるとはいえ漁業者の生活にも影響が出始めています。
今年もホヤの水揚げがあります。韓国の禁輸が続けば再度、大量に廃棄せざるを得ません。高齢の漁業者はこれを機に廃業する可能性もあります。引き続き、打開策を模索していかなければなりません。
このコラムについて
証言
時代を切り拓き、その先に見えるものを。誰もが忘れ去ろうとしているものを、今なお思い起こしつつ。あるいは、わずかな人だけが見ることのできる地平に立ち、その眼に映るものを。語り得る人たちのその言葉を、問わず語りで、ありのままにお伝えします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/279177/031600017/
「新生東芝」を信じるほかない銀行団
ニュースを斬る
財務制限条項に抵触していても支えきれるのか
2017年3月17日(金)
田村 賢司
東芝の綱川智社長は苦しい立場に追い込まれている(写真:竹井 俊晴、以下同)
何が語られたのか──。
東芝は3月15日、取引銀行向けの説明会を開いた。米原子力子会社、ウエスチングハウス(WH)の内部統制問題で監査法人から2016年4〜12月期決算の承認が得られず、前日の予定だった発表を再延期したのを受け、資金繰りに協力を求めるためだ。
15日には東京証券取引所が、東芝株を内部管理体制の改善が必要として指定していた「特設注意市場銘柄」から、上場廃止の恐れがある「監理銘柄(審査中)」へ指定替えも実施。説明会の内容は開示されていないが、みずほ銀行、三井住友銀行、三菱東京UFJ銀行、三井住友信託銀行など主力行の動きに市場は強い関心を寄せている。
半導体分社化で危機を回避するというが・・・
市場が動向を注視するのは、銀行団が4月以降も協調融資を継続するかどうか。だが、結論から言えば、銀行団には東芝を救う以外の考え方はないように見える。
例えば、銀行の東芝への融資の一部には財務制限条項がつけられている。財務制限条項とは、銀行など金融機関が貸し付けを行う際に、借り手(債務者)に対して付ける条件である。金融機関が借り手の財政に条件をつけ、借り手側が業績悪化などによって、それを下回る状況になると、即座に返済を迫られる。
財務制限条項の内容自体は公表されていないが、東芝の有価証券報告書を点検すると、「連結純資産」「連結営業損益」「格付」か、その比率などと見られる。となれば、昨年後半以降、格付け機関から数度にわたって格下げを受け、既に約1500億円の債務超過になっている東芝は、明らかに「即座に負債を返済」の対象になるはず。
ところが、銀行団がそれを求めた形跡はない。あるメガバンク関係者は「財務制限条項に抵触するのは確かだが、今、それを執行する気はない」と漏らす。「債務超過になったとしても、資産売却による利益などで早期に回復できるといったメドがあれば、いったん猶予してもおかしくない」。ある銀行アナリストはこう読む。
東芝は、4月1日付けで半導体メモリー部門を分社化し、全株放出も視野に入れて株式の売却を進めるという。すべて売れば、1兆5000億円に達すると見られる。半導体新社の純資産は約5000億円だから、売却に伴う利益は約1兆円。これを使えば、債務超過を一気にクリアできる計算になる。その辺りを睨んでのことだろう。
一方で銀行団には、融資の継続に大きく関わる債務者区分は引き下げる方向で動いている。債務者区分は、融資相手を信用状況によって分類するもの。上から(1)正常先、(2)要注意先、(3)破綻懸念先、(4)実質破綻先、(5)破綻先となっている。要注意先の中に「要管理先」があり、これ以下が「不良債権」とされる。
下に行くほど信用力が低いわけで、当然、貸出金利は高くなる。だが、銀行自身にとっても、貸し倒れに備える引当金計上を迫られ、負担は重くなる。東芝に対する主力行の融資額は、昨年3月末時点では、みずほ銀行が1834億円、三井住友銀行が1768億円、三井住友信託銀行が1310億円、三菱東京UFJ銀行が1112億円に上っており、地方銀行の一部や日本政策投資銀行、農林中金なども融資している。
このうち、既に「みずほ銀行が今年1月、東芝を正常先から一段階下げて要注意先に替え、他の主力行も引き下げを検討しているようだ」(ある銀行関係者)と言われる。だが、本来、債務超過になれば破綻懸念先になるのが普通だ。
それでも、みずほが要注意先にとどめ、「他行も大きくは下げないだろう」(ある銀行アナリスト)と言われる。その理由は、1つには仮に破綻懸念先となると、融資額から担保額を引いた金額の50%以上の引当金を積む必要に迫られる。銀行にとっては、100億円単位の負担増になる。
そして何より、破綻懸念先となると融資の継続ができなくなるという大きな問題がある。だから、東芝の危機を拡大させないよう、“寸止め”にしているのだろう。
東芝融資を不良債権には認定できない理由
CFO(最高財務責任者)を務める平田政善専務
この2つの動きから読み取れるのは、「銀行としては東芝を支えるほかないという判断だ」(ある銀行アナリスト)。
東芝の危機がここまで深刻になると、一定の負担増は覚悟しても債務者区分を引き下げざるを得ない。ただし、不良債権に認定するところまでは踏み切れない。不良債権認定をして追加融資ができなくなれば、東芝は本当の危機を迎えかねない。
そうなれば、これまでの融資自体も回収が容易ではなくなる。当面、東芝の再生計画を信頼すればその理屈はつけられる、といったところではないか。
東芝は14日、半導体新社の株式売却のほか、「WHの過半の株を売却して非連結化し、海外原子力事業のリスク遮断」「その後、社会インフラ部門を軸にした新生東芝として再生する」というプランを発表した。これによって2019年度には売上高4兆2000億円、営業利益2100億円の「健全企業」に戻るとしている。
銀行団が頼る前提は大幅に変わることになる
だが、15日付けの本欄(「ひねりだした『新生東芝』という絵空事」参照)でも指摘したとおり、WHの売却は極めて難しい上に、数千億円規模で追加損失が発生する可能性もある。
虎の子の半導体新社を売却して得られる資金も、今後、生き残るために社会インフラなどの事業の設備投資に使い、自己資本も充実する必要があることを考えると、追加損失の規模によっては、再生計画の見直しも必要になるかもしれない。そうなると、銀行団が頼る前提は大幅に変わることになる。
「次は、融資額の下位行から融資引き上げの動きが起きるかもしれない。その際は、みずほ銀行や三井住友銀行など主力行にその分の引き受けを求めることになる」。ある銀行関係者はこう指摘する。
過去、大企業の経営危機の際にしばしば見られた「メイン寄せ」と呼ばれる動きである。しかし、東芝の危機が去らない限り、みずほ銀行や三井住友銀行にしても、そのリスクは避けたいはず。「新生東芝」計画は銀行にとっても、本当は不安のかたまりのはずだ。
このコラムについて
ニュースを斬る
日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/031600627/
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