幕末の若きサムライが見た中国 2016年11月3日 高杉晋作が上海で見て感じた日本人 第1回 樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/8113
明治維新に先立つこと5年。文久2(1862)年もまた、多事多難の年であった。
1月には水戸藩士が老中安藤信正を坂下門外に急襲し、4月には薩摩藩内尊皇派粛清事件とされる所謂「寺田屋騒動」が発生している。生麦事件が起こったのは8月で、9月に行われた朝議は攘夷と決した。翌文久3年早々、京都で新選組が結成されている。
陽暦この年の5月27日に当たる「文久二年壬戌四月二十九日」、徳川幕府が英国から購入し、貿易の可能性を探る目的で上海に派遣した木造船の千歳丸が、長崎港を出港した。咸臨丸の太平洋横断に遅れること2年のことである。因みに、この年は清朝年号の同治元年。富強をめざした洋務運動が緒に就いき、アメリカでは南北戦争が闘われていた。 徳川幕府が第一次鎖国令を発した1633(寛永十)年以来、日米和親条約が結ばれた1854(安政元)年までの間、我が国はわずかにオランダと中国(明朝・清朝)とは通商関係にあったが、それ以外の諸外国との交流を絶った。長崎の出島を拠点にオランダ・中国との交易は継続していたものの、日本人がオランダや中国に出向いたわけではない。いわば一方的な関係だった。その間、日本人が中国の国情を知る手段は漢字で記された文書しかなかった。いわば日本人はバーチャルな中国像を描いていたということになる。 iStock バーチャルな中国像を打ち破る そのバーチャルな中国像を打ち破り、生身の中国と中国人に接し、その姿を日本に伝えたのが千歳丸に乗り組んだ若者たちであった。そのなかの1人が記す『海外日録』の和綴じ本の表紙には「室町以来希有」と記されている。この6文字からは、逼塞する徳川幕藩体制の日本を飛び出し、海外を知ろうという若者の高まる胸の鼓動が聞こえてくるようだ。 千歳丸の上海訪問から現在までの150年ほど、日本も中国も激動に次ぐ激動の歴史を歩み、日中関係もまた激変に次ぐ激変を繰り返してきた。この間、千歳丸で上海に向かった若者をはじめとして数限りない有名無名の日本人が中国各地を歩き、生身の中国人に接し、自らの思いを綴り、紀行文として残してくれている。 それぞれの時代環境、それぞれの社会的背景で、中国と中国人に対する思いは当然のように違っている。時に悪しざまに罵り、懲罰すべしと訴え、侮蔑・嫌悪し、一転して際限なく崇め奉る。先人が綴る紀行文の数々を、年代を追って読み進むうちに何故か不思議な思いに駆られた。はたして先人が語る中国、或いは中国人論は、じつは中国という鏡に映しだされた日本人の自画像ではなかろうか、と。 「嗟日本人因循苟且、乏果斷」
千歳丸に乗り込んだのは幕府勘定方の根立助七郎を筆頭に従僕も合わせて総計で51人。おそらく長い鎖国に慣らされた日本人に外洋での航海はムリだったようで、10数人の英国人が操船を担当している。
51人のうちの1人である高杉晋作は、幕府が上海で貿易を目指すに至った経緯を推測し、「内情探索録」に漢文で書き残している。その部分を現代風に訳してみると、 ――幕府は上海で諸外国との貿易を掲げてはいるが、おそらく長崎の商人どもが長崎鎮台の高橋某を金銭で籠絡し、ボロ儲けしようと企んでいるはずだ。江戸からの幕吏にしても、多くは高橋某の仲間だろうに。海外出張で手にできる高額手当を狙っているのではないか。取引については、幕吏なんぞは商人や長崎の地役人に任せっきりで、何も知らない。ヤツらは商人からの報告を鵜呑みにして記録するだけ。商人は通訳を仲間に引き入れ、通訳は何から何まで「外夷」に相談する。こちらの意図は、相手に全て読み切られてしまう。かくてイギリス人とオランダ人に好き勝手のし放題ということになるわけだ――。 乗船したのが旧暦の4月27日。翌28日は「好晴、船中諸子云、今午後必解纜、而終日匆々、不發船(好天、同乗者は今日の午後には必ず出港するというが、終日、あたふたするばかりで出港しない)」と。そして「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と続けた。 ――「嗟日本人」……嘆かわしいぞ、日本人。どうでもいいような物事に拘泥し、イザという肝心な時に果断に対処できないではないか。これだから外国人にバカにされてしまうのだ。歎ゲク可シ、愧ジル可シ」―― 上海に向う船中での高杉の慨歎は、1世紀半ほどが過ぎた現在の日本人を徹見していたようにも思える。「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」。
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