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出身校がその人の身分になる _ 偏差値で能力を測る日本人
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/137.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 3 月 16 日 13:56:19: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本の官僚は悪い 投稿者 中川隆 日時 2017 年 12 月 25 日 13:34:34)


「病人」を作っているのか? / 偏差値で能力を測る日本人(後編)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68706134.html

出身校がその人の身分になる

  日本人は無宗教なのか、それとも熱心な信仰を持っているのか、十人十色でどうもはっきりしない。山本書店を経営していた山本七平・元陸軍少尉は、著書の中で日本人を日本教徒である、と述べていた。神や仏を信じていない人でも、「自分自身」だけは信じているので「日本教徒」であるという。「神様なんて人間がでっち上げた空想さ」と吐き捨てる人でも、自分が信じられなくなるとノイローゼになってしまうから面白い。啓蒙思想を叩き込まれた若者の中には、神社仏閣に参拝しないという人がいるけれど、日本には神道という立派な信仰がある。が、神道はイスラム教やユダヤ教と違い、教典に基づく宗教ではないから、外国人には分かりづらい。昭和天皇が崩御されたとき、CNNの特派員が神社の宮司さんに我が国の伝統宗教、つまり神道について尋ねていたが、答えていた宮司さんは説明に困っている様子だった。アメリカ人には日本語の専門用語は理解できないし、歴史にも通じていないから、彼らが納得するような答えは無理だ。

  ところが、「特定の信仰はありません」と答える日本人でも、無意識的に「学歴信仰」だけは持っている。我々は小さい頃から試験によって選別され、得点で順位附けされているので、成績ランキングで人物を判断する傾向が強い。とくに、大学受験を目指す高校生は、入学する大学の「ブランド」で一生評価され、大学名が刺青のように刻印されてしまうのだ。まるで、焼き鏝でお尻に「神戸」とか「松坂」と記された「ブランド(烙印)牛」みたいなものである。西歐だと奴隷や罪人の体に烙印が押されたけど、日本では心に焼き付けられているから目立たないだけ。以前、小室直樹先生は出身校がその人物の「属性(ascription)」になってしまうと喝破した。つまり、東大卒とか京大卒といった学歴が、「国籍」とか「階級」といった身分になってしまうのだ。谷沢永一先生も同様に、ある人物が優秀でも格下の大学しか出ていないと苦労すると述べていた。谷沢先生が例として挙げていたのは有名な小説家の伊藤整である。彼は東京商科大学(現 / 一橋大学)に進学したが中退したので、最終学歴は小樽高等商業学校卒であった。でも、後に伊藤整は東京工業大学の教授になったんだから、筆者は「いいじゃないか」と思うが、谷沢先生によると世間の評価は違うらしい。

小室直樹谷沢永一2小野田寛郎Miyazawa Kiichi


(左: 小室直樹 / 谷沢永一 / 小野田寛郎 / 右: 宮澤喜一 )

  前回のブログで古谷経衡の偏差値発言を取り上げたが、学歴信仰は各界に深く根ざしている。有名なのは、大蔵大臣や総理大臣になった元役人の宮澤喜一だ。この売国奴は爺さんの権力で徴兵逃れをしたので、それを突かれたくないから朝日新聞やNHKにやたらと媚びていた。宮澤が竹村健一の番組で小野田寛郎・陸軍少尉と共演したとき、しきりと小野田少尉のことを「陸軍中野学校(情報将校養成所)を出たかた」と口にしていたから、筆者は「嫌な野郎だなぁ」と思ったものである。つまり、宮澤は「皆さぁ〜ん、小野田少尉は軍国主義者なんですよぉ〜」と言いたいわけだ。その宮澤が最も自慢していたのは、東京帝國大学法学部を卒業したことである。宮澤は他の政治家に会うと、よく「あなた、何期?」と尋ねたそうだ。彼の頭の中では東大以外は大学じゃない。だから、「どこの大学を卒業ですか?」とは訊かないのである。

  もし、質問した相手が東大卒じゃないと、宮澤のアホは露骨に見下したという。これだから、ハマコー(浜田幸一)さんが憤慨したのも当然である。日大卒の暴れん坊であったハマコーさんなんか、インテリを自負する宮澤の眼中には無い。竹下登も早稲田の商学部卒だから、宮澤は「あぁ、専門学校ねぇ」と馬鹿にしていたんじゃないか。早稲田大学の前身は東京専門学校だから、栄光ある帝國大学とは違う種類なんだろう。温厚な竹下もカチンときていたらしい。竹下の親分であった田中角栄はもっと馬鹿にされていた。角栄は旧制中学すら出ておらず、高等小学校卒であったから、宮澤にしたら「教養人」とは程遠い土建屋に過ぎない。しかし、政治家としては角栄の方が遙かに優秀で、人望に関しては比べものにならないから、いくら宮澤が軽蔑しようが世間の評価は別である。もっとも、学歴編重は大蔵・財務官僚の宿痾(しゅくあ)で、東大卒役人の中には、「格下」と見なされる一橋大学卒の同僚を「ワンブリッヂ」と呼んで愚弄しているそうだ。筆者には一橋大学の何が悪いのか分からない。ただし、左巻きの内藤正典(後に同志社大学へ移籍)とか悪質な田中宏(一橋大学名誉教授)のもとで学んだ奴なら用心する。一般的に、社会学部とか経済学部、法学部には、極左教授がたむろしているので、何も知らずに洗脳されてしまう学生がとても多い。

  ついでに東大卒と偏差値について語ると、朝日新聞もかなり酷い。今では久米宏の「ニュース・ステーション」(1985年~2004年放送)を覚えている人は少なくなったが、当時はTBSの「ニュース23」と張り合って報道合戦をしていた。メイン・キャスターの久米宏は受験シーズンになると、受験地獄で高校生が青春を犠牲にしているとか、偏差値重視はよろしくないと歎き、「同情心」を売り物にして視聴者に媚びていた。学歴や試験で苦い経験をした一般人は、単純に「そうそう」とうなづいていたが、斜(はす)に構えてインテリを気取っていた久米宏は、決して朝日新聞の実態を語ることはなかった。裏事情を暴露したのは、産経新聞記者で、フジテレビの報道番組キャスターを務めていた俵孝太郎である。今では信じられないが、当時の朝日新聞は知識人やホワイトカラー層が購読する一流新聞と見なされており、給料や待遇の面でも産経新聞を遙かに凌いでいた。

  戦前の大阪では、給料の高い職場と言えば、住友銀行か朝日新聞、あるいはリストラが無い市役所であった。その朝日新聞が採用したのは東大を始めとする有名大学卒ばかり。俵氏によれば、戦後マスコミが人気を博する職業になるなか、朝日は学生運動で暴れ回った荒くれ者は避ける一方で、幹部要員にはもっぱら東大法学部卒を軸とした有名大学卒の学校秀才を採用していたそうだ。(俵孝太郎 『我、「朝日新聞」と戦えり』 光文社、 1988年、p.169) 表のテレビ番組では柄の悪い左翼分子を称讃しているのに、舞台裏では温厚で毛並みの良い新入社員を揃えていたなんて、本当にズルい。でも、ゲバ棒を振り回していた奴が社員になると、何をしでかすか分からないから、最初から採用しない方が賢明だ。ただ面白いことに、厄介事を嫌う朝日の重役たちは、口で言うほど“進歩的”じゃなく、案外“保守的”なのかも知れないぞ。

  朝日社員には傲慢な奴が多く、彼らの「エリート気質」は上記のような採用基準から由来するのだろう。また、テレ朝もエリート意識が強く、社員の倫理道徳には特にうるさかった。2003年頃だったと思うが、局アナの徳永有美が藝人の内村光良と不倫関係を結び、出演していた「スーパーモーニング」を降板する破目になった。日本には姦通罪が無いのに、徳永氏は涙ながらに不貞行為を謝罪し、レギュラー番組を去って行ったのだ。(表向きは「自主的」な辞職であったが、実際のところは強制的な馘首だろう。) テレ朝は不法入国・不法滞在の外国人に対しては殊のほか“寛大”なのに、自局の社員に対しては殊さら厳しい。たぶん、テレ朝の社員は「一流のエリート」だから、清廉でなければならず、髪の毛ほどの罪も犯してはならないのだろう。一方、水商売に従事するフィリピン人やタイ人などは格下の劣等民族であるから、“一流”企業のテレ朝は彼らに高い倫理観を求めない。賤しいアジア土人とは「対等」じゃないので、多少の罪は大目に見てあげるのだ。

日本の欠点を指摘したイタリア人神父

Joseph Pittau 1(左 / ジョセフ・ピタウ神父)
  筆者が尊敬するイエズス会士の中に、ヨゼフ・ピタウ(Joseph Pittau, S.J.)という神父がいた。上智大学で学長や理事長を務められたピタウ神父は、サルディニア出身のイタリア人司祭で、明治維新の研究を専攻されたくらいだから、日本社会や日本人の行動様式にとても詳しかった。ピタウ神父の生涯は輝かしく、ハーバード大学に留学して政治学を修め、栄光学園や上智大学で教鞭を執ったほか、イエズス会日本管区の区長となり、教皇ヨハネ・パウロ二世に求められ、祖国のローマに赴任するや、グレゴリアン大学の学長やヴァチカン教育省の次官を歴任したそうだ。一般的にイエズス会は派遣された国で一生を過ごすのが普通だから、ローマに召還されるというのは、ピタウ神父が如何に教皇から寵愛され、優秀であったかの証拠である。大司教となったピタウ神父は2004年、懐かしい日本に戻ってきたのだが、2014年、惜しまれながら帰天(逝去)された。

  上智大学教授として日本の大学生に接していたピタウ神父は、大学教育に関して基本的な批判を述べていた。例えば、日本の大学生は感想文は書けても論文作成は苦手なので、作文を必修科目にすべきだ、と提案していたのである。ピタウ師によれば、いくら外国語ができても、自国語がうまく使いこなせないようでは、外国語の力も落ちるそうだ。(ヨゼフ・ピタウ 『ニッポン人への熱い手紙』 日本リクルートセンター、昭和57年、p.130) また、学生の字がたいへん汚かったので、ピタウ神父はきれいな字を書けるよう指導すべきだ、とも述べていた。まるで小学生への訓示みたいだが、実際、多くの学生はミミズのような字を綴っていたのだろう。これは筆者の個人的体験なのだが、アメリカ人の学生も負けず劣らず字が汚い。米国の大学でアメリカ人学生が提出したレポートを覗いたとき、彼らのアルファベットが矢鱈と判読しづらかったのを覚えている。何らかの速記かと思えるものや、子供が書いた丸い文字のように見えたので、「あぁ〜あ、これじゃあ殴り書きに等しい」と溜息が出た。昔のアメリカだと、綺麗な字で手紙を認(したた)めるのかマナーの一つだったから、若い娘たちは美しい文字を心掛けていたものである。ちなみに、憲法を学ぶべくシュタイン博士に師事した陸奥宗光も、講義録を美しい文字で清書していたそうだ。

  カトリック司祭だから仕方ないけど、ピタウ神父は優秀な学生の考え方に幾つかの疑問を持っていた。学長室をいつも開放していたピタウ神父のもとに、ある時、女子学生が就職の相談をすべく訪ねてきたそうだ。そこで、ピタウ神父は彼女に「どうして君はこの会社を選んだのか」と質問した。すると、この女子大生は「この会社は倒産しないと思うから」と答え、「経済的な安定が一番大きな目的です」と語ったそうである。彼女の動機を聞いたピタウ神父はガッカリしたという。彼女の回答が悪いとは思わないが、それだけでは寂しすぎる。神父はその会社に入ることで、社会的に何をしたいのか、彼女の人生において何をしたいのかを聞きたかったのだ。

  また、何年か前、別の女子学生が推薦状を欲しいというので、ピタウ神父の部屋にやって来た。成績を見たところ、非常に優秀で礼儀正しい学生であったという。そこでピタウ神父は彼女に「どうしてS社に入りたいのか」と尋ねたそうだ。すると彼女は、会社の雰囲気がとてもよく、ちょうど美術館もできていて、絵画好きの自分に合っていると答えたらしい。さらに、会社にはテニス・クラブもあるので、好きなテニスを続けられるからいい、とも述べていた。この返事を聞いてピタウ神父はたいそう腹を立てたそうで、「あなたの人生とS社の繋がりは何ですか。あなたはテニスをするために会社へ行くんですか。絵を見るために会社へ行くのですか」と問い詰めたらしい。その女子学生は驚き、何も反論できなかった。ピタウ神父は自分の事だけを考え、他人からもらうことばかりで、人のために尽くそうと考えぬ女子学生に「推薦状を書くわけにはいきません」ときっぱり断ったそうだ。(上掲書 p.174)

  世俗まみれで赤点学生だった筆者からすれば、ピタウ神父の要求は「ちょっと厳しすぎるんじゃないか」と思えてしまう。愛国心を涵養する教育を受けていない一般学生に、社会貢献とか他人への配慮を問うのは、「木に縁りて魚を求むる」如しである。明治維新の頃ならば、立身出世がそのまま「お国の為」に繋がったけど、敗戦で国家意識を粉砕された日本人には、何のことやらさっぱり分からなくても当然だ。いくら優等生だからといって、伊藤博文や中村敬宇(正直 / サミュエル・スマイルズ著『西国立志編』の翻訳者 )になる訳じゃない。「人生をエンジョイする」というのが、一般学生のモットーだ。なかでも、快適な生活を実現し、見栄を張れる職業に就くのが、有名大学のお坊ちゃんお嬢ちゃんの目標である。一旦緩急あらば祖国に殉じ、自分の命を鴻毛よりも軽く考える、なんてのは奇人変人の類いで、日本では右翼ナショナリストに分類されてしまうのだ。古代ローマ人なら自分の才幹(Virtù)を発揮するのは、戦争や政治、つまり共和国に尽くすとき、と考えていたが、現代の日本人だと、全力で努力するのは受験戦争の時だけである。未来を担う若者は合格発表の時になると大騒ぎをするけど、選挙権を得たときに、「やった、これで国政に参加できる !」と喜ぶ成人がどれほどいるのか。せいぜい、選挙事務所でカツ丼をタダ食いできるから嬉しい、と感じる程度だろう。

  こんな日本人に向けて、ピタウ神父は大学教育の目的について述べていた。その中で注目すべきは、教養人(educated person)の育成だろう。これは所謂「インテリ」を製造することではなく、表現能力や数理的能力、論理的思考、および道徳的判断に優れた人物を育てるということだ。ピタウ神父はシカゴ大学の教育に触れていた。同大学の要覧の中に次のような言葉があったという。

  私たちは教養ある人間をつくりだすとは約束しないが、次の一点だけは努力する。すなわち、一人ひとりの学生が、そこから先は自分で自分を教育できるというところまで導いて行くことである。私たちは大学を卒業する時点で、学生が自分で自分を教育できるまで導いて行きたい。

  これに加えて、ピタウ神父は知日派として知られるサセックス大学のロナルド・ドーア(Ronald P. Dore)教授による日本人への批判を紹介していた。具体的に言うと、日本では「東大卒」といえば、ある意味「頭が切れる人」という保証となる。しかし、「紳士である」とは限らない。なるほど、オックスフォード大学やケムブリッヂ大学に入ったからといって「頭」の保証はしないが、紳士的教育を受けられる、ということだけは約束されている。(上掲書 p.204) 確かに、東大卒の官僚は過去の事例を暗記したり、煩雑な資料を調べさせたらピカイチなのだが、素晴らしい人格の持ち主という確証はない。どちらかといえば、「役所の権能をちらつかせて意地悪する人」というイメージがある。それに、天下り先を保持するために無用な大学を増設し、定員割れや底辺校の大学を誕生させる元兇が文部省だったりするから、どこにその頭脳を使っているのか、と怒りが湧いてくる。国民年金や厚生年金の掛け金を流用してグリーンピアを大量に作った厚生官僚も同類だ。

  歐米の大学を知っていたピタウ神父は、画一的な新入生ばかりを集める日本の大学に疑問を抱いていた。彼が留学したハーバード大学では、成績優秀な青年ばかりではなく、別の能力で学生を集めていたから、ピタウ神父は金太郎飴みたいな日本の学生に違和感を持っていたのだろう。彼が東大のような大学を外国人に説明しても、なかなか理解されず、ある外国人は「病院をつくっているんじゃないか」と述べたそうだ。(上掲書 p.215) まぁ、東大法学部を見れば、日本人だって精神異常者を育成しているのかな、と思ってしまうだろう。まともな憲法学を勉強すれば、九割以上の東大生はマッカーサー憲法廃止に傾くはずだが、現状は護憲派が多数を占めている。紳士的な西歐人は日本人の前だと“本音”を吐露しないから、同じ西歐人との会話の中だけで本当の意見を打ち明けたりする。したがって、ピタウ神父の話はとても貴重だ。

  だいたい、日本の文系学部は蛸壺型だから、若手の講師はいくら「おかしい」と思っても、教授会の長老たちに異を唱えることはない。もし、怖い大御所を批判したら出世はできないし、周りの同僚からも疎まれて針の筵だ。それに、日本では一流企業に入社できない者や大学に残るしか能の無い出来損ない、左翼思想に感動したクズが大学院に進んで教授職を目指すから、左巻きの学会が正常に戻ることはない。本当に有能な学生は自分でビジネスを起こし、誰からも指図を受けない「独立」とた地位を楽しむ。丁稚奉公が当り前の専任講師とは大違いだ。理系の学生なら海外の研究機関に飛び出ることも出来ようが、文系だと国内に蟄居するのが大半である。また、これも悲劇の一つだが、学者を目指すと「世間知らず」になってしまう。比較的正常な大学院生だって、数年後にはピンク、朱色、赤、深紅といった具合に変色し、中年を過ぎると「しがらみ」で垢まみれになる。そう言えば、昔に聞いた谷沢永一先生の言葉が印象に残っている。世の中には頭のおかしい人がいるから、その人達が一般社会に迷惑をかけぬよう、彼らを収容するのが大学なんだって。確かに、庶民を不幸にして日本を共産主義国にしようとする連中は異常だ。(幸せな人は共産主義に賛同しないが、失業者とか貧乏人といった不幸な人々は共産党支持者になりやすい。だから、共産党は敗戦を歓迎するのだろう。)

  色々と批判はあるが、日本が学歴社会になったのは、厭なものだけど仕方がないと思っている。何処の国でも何らかの差別はあるものだ。英国では階級差別が著しく、パブ(酒場)にも区別があるそうで、労働者はホワイトカラーが集まるパブには入らない。また、労働者階級の子弟が猛勉強してオックスフォードに入学できても、生まれ育ちや趣味の違いから、上流階級や上層中流階級の学生と親友になることは稀である。しかも、人種・民族の違いも大きいので、テレビ・ドラマのようにジャマイカ系の黒人と北歐系の白人が同じクラブに属して親睦を深めるという事もない。比較的平等と思えるアメリカ社会にも、分厚い人種の「壁」があって、同じ種族同士で固まる傾向が強い。私生活くらいはリラックスしたいと思うのは人情だろう。例えば、勤務を終えた白人警官が、仲間と一緒に酒場に赴き、日常の愚痴をこぼすことは普通である。白人警官同士なら「今日、ブロンクスでラリった黒ん坊を捕まえたけど、暴れて大変だったぜ。だから、思いっきり蹴飛ばしてやったんだ」と言えるが、黒人警官が混じっていたら、こんな風には言えないだろう。

  歐米諸国と違い、日本社会は比較的同質性が高く、外見的にも似たり寄ったりで、人種的区別がつきにくい。せいぜい、親の職業とか住んでいる地区、所得や資産の総額くらいが差別の根拠となる。だから、出身校でランク付けするのもしょうがないんじゃないか。一般的に、初対面の人物を判断する場合、その人の容姿とか服装、方言、職業くらいが基準となる。精神構造や潜在能力は目に見えないから、中々直ぐには判断できない。しかし、大学名を教えてもらえば、一瞬にしてその人が持っている「知能」が判ったように思える。偏差値が高い大学に入学できたのなら、きっと頭が良い“はず”と考えてしまうからだ。全国各地の日本人はほとんとほ同じようなカリキュラムで教育されているので、試験の成績順で序列が附けやすい。ただし、学校秀才は教科書以外の問題が出て来た場合、どうしてよいのか分からなくなるから、先の読めないビジネスとか、テロリストやゲリラを相手にする軍人、オリジナル作品を求められる藝術家には不向きで、前例を調べるのが仕事の役人に適している。

  一般国民は東大法学部卒の財務官僚と聞けば、「超エリートなんだ」と思ってしまうが、実際は凡庸な人が多い。たぶん、一般人は「そんなの嘘だ。お前の僻みだろう」と反論するが、それなら、なぜ高級官僚は役所に天下り先を斡旋してもらうのか? もし、優秀で敏腕と目される官僚なら、退職前から引く手あまたであるはずだ。民間企業が退官した「お役人様」を“引き取る”のは、省庁との繋ぎ役、すなわち有力なブローカーになってもらう為だろう。朝出勤してきてオフィスでお茶を飲むくらいの「相談役」なら、レンタル猫の方がよっぽどマシだ。可愛い猫が仰向けで寝ているだけで、職場のみんなが笑顔になる。キャリア官僚だったことが唯一の自慢である元官僚なんて、傲慢さを絵に描いたような人物であり、職場の鼻つまみ者でしかない。まぁ、出身大学や偏差値で相手を評価したい人は、そうすればいいだけで、真剣に相手を知りたい人は、長い目でその人を観察して判断することだ。警察犬の試験に合格できなかった雑種犬でも、飼い主にとっては長年の相棒で、主人に忠実であるとか、ひょうきんな所があって笑わせてくれる、晩酌の相手をしてくれる、臭い足の裏でも嘗めてくれる、などといった別の長所をもっている。犬でも嗅覚以外の様々な才能を有しているんだから、人間だって色々な特技を持っているはずだ。偏差値は数ある尺度のうちの一つである、と考えた方がいいんじゃないか。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68706134.html  

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コメント
1. 中川隆[-13355] koaQ7Jey 2018年10月24日 05:24:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19486] 報告

身分制度は、頂点にいる人たちには「楽しい制度」であることに気づけ2018.10.24
https://blackasia.net/?p=2062

数年前、「1%の金持ちと99%の貧乏人」の存在が強調されて、世界で経済格差が凄まじく広がっている実態が問題になったことがあった。最近は、もう誰もこの「1%の金持ちと99%の貧乏人」の問題を口にしない。

この問題は解決したのか。

まさか。現在は世界で経済格差がどんどん広がっていて、もう富裕層と低所得層の乖離は埋められないほど大きなものになってしまっている。解決するどころか、問題はどんどん拡大しているのが現状なのである。

さらに、それは「金持ち」と「貧乏人」という身分制度として固定化されつつある。

こういった固定化された身分は是正されなければ社会に柔軟性が生まれない。しかし、実は逆にいったん経済格差や身分制度が生まれると、それを「解決したくない理由」が生まれるようになってくる。

「解決されたら困る」という人が出てくるのである。いったい、それはどういうことなのか?

経済格差が全世界で深刻化していく中で、これは考えなければならない問題だ。(鈴木傾城)

身分制度は、頂点にいる人たちには楽しい制度

経済格差は「1%の金持ちと99%の貧乏人」のピラミッド構造を生み出し、それがそのまま身分制度となる。

そしてピラミッドの頂点にいる階層は、身分制度の枠組みは自分たちにとって非常に有利であると考える。なぜなら、その社会では自分たちが最も有利な立場であり、既得権益になるからだ。

誰もが自分たちを敬ってくれる。誰もが自分たちを特別扱いしてくれる。やりたいことは、ほぼ何でもできる。自分が働かなくてもカネで誰かを働かせられる。カネで何でも解決できる。これほど、楽しいことはない。

身分制度は、そのピラミッドの頂点にいる人たちは「楽しい制度」なのである。

富裕層はその気になれば、一年中ハワイでもグアムでも行って遊んでいても暮らせる。旅行ばかりしていても問題ない。

富裕層の男はどんな美しい女でも金にモノを言わせて手に入れることもできる。富裕層の女も金にモノを言わせて靴でもカバンでもブラジャーでも倉庫いっぱいに買い揃えることができる。

望むのであれば、フィリピンの独裁者だったマルコス大統領の妻イメルダ夫人がそうしたように、宮殿に住んで靴を3000足も集めることも可能だ。そして、宮殿のような家に住み、下の身分の人間をあたかも奴隷のように使うことができる。

自分がそんな立場になれば、このピラミッド構造は「長持ちさせなければならない」と思うはずだ。身分制度が解決されてしまったら困るのである。

グローバル化した社会の中で成功した人たちもまた同じだ。富裕層は自分たちの財力や権力を誇示できる「下の人間」が必要だ。そして、社員を奴隷のようにコキ使うブラック企業の社長は、そのような低所得層がいなくなったら困る。

だから、経済格差や身分差別を解決したいなどとは絶対に思わない。むしろ、極限に達するまで身分が固定化した社会が続けばいいと願う。

身分が固定化したら、それを変革することは不可能

社会で影響力を持っているのは貧困層ではなく、富裕層だ。

彼らは政治家に金で影響力を及ぼし、カネで世論を動かし、カネで自分たちの都合の良い法律を作ることができる。

だから、いったん身分が固定化したら、それを変革することは不可能になる。富裕層の人々は富裕層のまま、貧困層の人々は貧困層のままという社会が続いて行く。

富裕層は、「貧困なのであれば、一生懸命に働いて金持ちになればいい。金持ちを恨むのは筋違いであり、努力が足りないのだ」というのだが、あまりにも格差が広がった場合、それは現実的ではない発言となる。

富裕層は金で金を生み出すことができる。10億円あれば、それを3%の株式に投資しているだけで、年間3000万円の配当が転がり込んで来る。

しかし貧困層が必死で働いても、せいぜい300万円だか400万円程度の年収にしかならない。それが数年続くだけで、ますます格差が広がるというのは、誰が計算しても分かるはずだ。

このような中で、徒手空拳で成り上がれる貧困層はごくわずかであり、低所得層の多くは低所得の人生で終わる。こういった社会の変革は、最後には社会転覆を伴った暴力的な「革命」しかなくなる。

もちろん、富裕層は自分たちが貧困層の上に君臨していたら不満を持たれることは承知している。では、どうするのか。経済格差や身分差別を解決するのか。いや、そうではない。もっと良い方法がある。

どうするのかというと、貧困層よりも、さらに下の貧困層を作るのである。つまり、下には下があるという社会にする。そして、その下の階層の人間には、何をしてもいい、という暗黙の了解を作る。

そうすると、鬱憤はさらに下の階層に向けられる。上に刃向かうより、下をいじめた方が楽だからだ。いったん、そうなると経済格差や身分差別は絶対的固定となる。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

社会システムは、常に不満のはけ口が用意される

人間社会は、それがどんな社会であっても、最後は必ず「身分制度」になるというのは覚えていた方がいいかもしれない。

最初に持てる者と持たざる者が分かれていく。次に、それが自分の子供、孫へと継承される。そうやって身分は固定化してしまう。

そして、身分制度の中では「極限の貧困者」が社会不満や閉塞感の「はけ口」のために作られていき、彼らにはどんな虐待をしても許されるようになる。

学校でも会社でも、まるで決まっているかのように、必ず「とことんいじめられる弱者」が生まれて、本当にみんなからいじめ抜かれる。社会システムは、常に「不満のはけ口」が用意されている。

上に刃向かうのではなく、下をいじめるような仕組みになっているのだ。

経済格差が固定化していくと、極限の貧困者が、はけ口として「わざと作り出される」のである。衝撃的かもしれないが、これが社会の仕組みでもある。

何のために生まれて来たのか分からないような、いじめられるだけの人生を送っている人たちもたくさんいる。

インドでは、カーストにも入れてもらえない「不可触民(ダリット)」という存在があった。不可触民は「サブ・ヒューマン」とも言われている。サブ・ヒューマンは日本語に訳すと「非人」である。

不可触民 = 触ることができないほど穢れた人。
サブ・ヒューマン = 人間になりきれてない人。
非人 = 人に非(あら)ず = 人間ではない。

これらの言葉は、激しく人格否定をしている言葉であることに気付くはずだ。社会が「この人たちは、人間ではない」と宣言して言葉として定着させたのである。

そして、あえて社会が「人間ではない層」を許容して、何かがあったときの「はけ口」に向かうように方向付けしている。

上に這い上がるのは難しく、下に落ちるのは簡単

どこでもそうだが、そういった最下層の身分の女性たちが、レイプされたり、強制結婚されたり、人身売買されたり、性奴隷にされたりしている。最下層は、そのために存在させられていると言ってもいい。

残虐だ。

こういった話は、先進国では「前近代的」「他人事」だと考える人が多いのだが、先進国を覆い尽くす経済格差がさらに極まっていったとき、本当に「前近代的」「他人事」と言っていられるだろうか。

その最下層の人権剥奪は、もしかしたらグローバル経済の最下層にも適応されても不思議ではない。

たとえば、今の日本はホームレスと言えば「個人」である。しかし、家族みんなが路頭に迷うと、いずれそれが「家族」になり「集団」となっていく。

何も持たない貧困層が個人から家族や集団になったとき、彼らはインドで言うところのダリットのような身分になってしまうかもしれない。

途上国ではホームレス家族は珍しいことでも何でもない。タイでも、路上で寝る妻に寄り添ってあげている夫の姿を見ることもあった。

大部分の貧困層が貧困層から抜け出せず、世代を超えてずっと貧困状態になる。大部分がそこから抜け出せなくなったら、それは身分が固定されたも同然なのである。

今のまま放置していると、このグローバル化の最終的な形はそういった「身分制度」になるまで突き進む。

上に這い上がるのは難しく、下に落ちるのは簡単なのだ。いったん経済格差が身分制度になると、本当にきれいなピラミッド型の構造になる。そして、身分が固定化したら、それを変革することは不可能になっていく。

しかし人々は黙っていない。「1%の金持ちと99%の貧乏人」の問題は、再び爆発する。(written by 鈴木傾城)

大部分の貧困層が貧困層から抜け出せず、世代を超えてずっと貧困状態になる。大部分がそこから抜け出せなくなったら、それは身分が固定されたも同然なのである。今のまま放置していると、このグローバル化の最終的な形はそういった「身分制度」になるまで突き進む。

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