http://www.asyura2.com/17/kokusai21/msg/436.html
Tweet |
リスボン地震 (1755年)は、この記事の最後にあるリンク先記事の引用にある様に、1755年に起こったM8地震。この影響は大きく、ヨーロッパはいろいろな影響を受けた。
超巨大地震
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87
によると、リスボン沖地震はM8からM9地震が1687年から連続して8回発生したものの最終の大地震だった。
ペルー・カヤオ地震 1687年10月20日
5時30分頃 〜Mw8.9 M8.2 M0=2-3×1022N・m程度の地震モーメントが見積もられている[49]。『貞山公洞村岩家記録目録』によれば陸前塩釜の市中に50p程度潮が溢れ、琉球与那城郡にも津波到来。
カスケード地震 1700年1月26日
21時頃 Mw8.7 - 9.2[50] 地質調査から発見された巨大地震であり、アメリカにおける歴史記録は現存しないが、原因不明とされていた『大槌古今代伝記』、『田辺町大帳』などに記された日本各地の津波記録と地質調査との整合性から日本に津波が到達したものと推定され日時が判明した地震。震源域の長さはカスケード沈み込み帯のほぼ全域に亘る約1100kmに及ぶ。
宝永地震 1707年10月28日
13時45分頃 Mw8.7 - 9.3[51] M8.4 - 8.6 日本の歴史上最大級の地震。東海地震と南海地震の二元地震と考えられたこともあり、推定された津波波高等からMw8.7程度の断層モデルが考えられていたが[52][53]、これでは済州島に達した津波が説明できず、震度分布や余震分布による東北地方太平洋沖地震との比較からMw9.1 - 9.3程度との推定もある[54]。震源域の長さは南海トラフのほぼ全域に亘る約700kmに及ぶ。
チリ・バルパライソ地震 1730年7月8日
3時45分頃 M8.7 約1000kmの海岸に津波が襲来し、バルパライソは港が破壊され、コンセプシオンは全滅した[55]。『東藩史稿』には陸前牡鹿に津波が到来し田畑を損したとある。
カムチャツカ地震 1737年10月18日
0時30分 Mw9.0 - 9.3 M8.3 震源域の長さは約700kmに及ぶ。1952年カムチャツカ地震と同等規模との説もある[56]。
ペルー・リマ地震[57] 1746年10月28日
22時30分頃 Mw8.9[49] - 9.0[58] M8.3 リマではほとんどの家屋が倒壊。
チリ・コンセプシオン地震 1751年5月25日
0時頃 M8.5 コンセプシオンは全滅し、ファン・フェルナンデス諸島は町が洗われ船が沈没した[55]。『大槌官職記』には陸中大槌で浦々民家の敷板や田畑が浸水したと記される。
リスボン地震 1755年11月1日
9時40分 Mw8.5 - 9.0[59] M8.5 ヨーロッパの歴史上最大級の地震。大津波発生の比較的稀な大西洋全域に津波が波及。
興味深いことに、リスボン沖を除いて、環太平洋火山帯で起こっている。それも、最初から6件目までは、北半球の次は南半球、その反対と、そして、太平洋の東側から西側とその反対というように互いに離れたところで交互にM9地震が起こって来ている。
更に、1755年リスボン地震の前後は、イタリアからギリシャあたりで地震が頻発していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8#%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91
17世紀
1639年10月7日 イタリア、アマトリーチェ地震 - M6.2、死者500人。
1659年11月5日 イタリア南部で地震 - M 6.4、死者2,000人。
1667年4月6日 クロアチア南部、ドゥブロヴニク地震 - 死者5,000人以上?[48]
1688年6月5日 イタリア、カンパニア州で地震 - M 6.6、死者3,000 - 1万人?。
1693年1月11日 イタリアのシチリア島で地震 - M 7.4、死者8万人。
1694年9月8日 イタリア南部で地震 - M 6.4 - 6.8、死者4,000 - 1万5,000人?。
18世紀
1701年3月19日 アルバニア、テペレナ県で地震 - M 6.4、死者300人。
1702年3月14日 イタリア、ベネヴェントで地震 - M 6.3、死者150人。
1703年1月14日 イタリア中部で地震 - M 6.7、ノルチャやラクイラで死者9,800人。
1706年11月2日 イタリア、マエーリャで地震 - M 6.7、死者2,400人。
1726年9月1日 イタリア、パレルモで地震 - M 5.7、死者250人。
1730年5月12日 イタリア、ノルチャで地震 - M 6、死者500人。
1731年3月20日 イタリア、フォッジャで地震 - M 6.6、死者500人。
1732年11月29日 イタリア、アヴェッリーノで地震 - M 6.6、死者約2,000人。
1735年12月 キプロス、ファマグスタで地震 - M 6.5、死者200人。
1742年2月14日 ギリシャ、ザキントスで地震 - M 6.5、死者120人。
1743年2月20日 イオニア海で地震 - M 6.9 - 7.3、イタリアで180人死亡。
1750年6月7日 ギリシャ、ペロポネソス半島・キティラ島で地震 - M 7、死者2,000人。
1755年11月1日 ポルトガル、リスボン地震 - Mw 8.5 - 9.0[49][50]、津波により死者1万人、地震で数万人。
1767年7月11日 ギリシャ、ケファロニアで地震 - M 7.2、死者253人。
1780年10月 ギリシャ、クレタ島で地震 - M 7、死者100人。
1781年6月3日 イタリア、カーリで地震 - M 6.2、死者300人。
1783年2月4日 イタリアのカラブリアで地震 - M 6.9、火災などにより死者3 - 5万人、余震で2,500人死亡。
1786年2月6日 ギリシャ、ケルキラ島で地震 - M 6.6、死者126人。
1789年9月30日 イタリア中部で地震 - M 5.8、死者500人。
1799年7月28日 イタリア、カメリーノで地震 - M 5.8、死者104人。
17世紀に比べて18世紀の地震の多さに注目。
更に、同じことがイランからトルコでも言える。
17世紀
1667年12月17日 アゼルバイジャンのシェマッカで地震 - M 7.7、死者8万人。
1668年8月17日 トルコ北部で地震 - M 8.0、死者8,000人。
1673年7月30日 イランで地震 - M 7.4、死者6,000人。
1679年6月4日 アルメニアで地震 - M 6.5、死者8,000人。
1688年7月10日 トルコ、イズミルで地震 - M 7、死者1万7,600人。
18世紀
1717年3月12日 イラン、タブリーズで地震 - M 5.9、死者700人。
1719年5月25日 トルコ、イズミット・イスタンブールで地震 - M 7.4、死者1,000人。
1721年4月26日 イラン、タブリーズで地震 - M 7.4、死者4万人(1727年の地震と同一の可能性)。
1727年11月18日 イラン、タブリーズで地震 - M 7.2、死者8万人(1721年の地震と同一の可能性)。
1737年10月12日 インド、カルカッタで地震、死者30万人(同じ月にサイクロンに伴う高潮が起きており、これによる死者も含めた数字と思われる)。
1752年7月21日 シリア西部・レバノンで地震 - M 7、死者2万人。
1755年6月7日 イラン北西部で地震 - M 5.9、死者1,200人。
1759年
10月30日 シリア西部、イスラエルで地震 - M 6.6、死者2,000人。
11月25日 シリア西部、レバノン、イスラエルで地震 - M 7.4、死者3万人。
1778年12月25日 イラン北西部で地震 - M 6.2、死者8,000人。
1780年1月8日 イラン北西部で地震 - M 7.4、死者5万人(10万、20万との説もある)。
1784年7月18日 トルコ、エルズィンジャンで地震 - M 7.6、死者5,000人。
1789年5月29日 トルコ東部で地震 - M 7、死者5万人。
1796年4月26日 シリア北西部で地震 - M 6.6、死者1,500人。
なお、上のリストには載っていないが、
1756 Düren earthquake[edit]
というドイツでのM6を超える地震が1755年リスボン沖地震に後続している。
今の時期は、この18世紀よりも深刻なはずであり、リスボンとドイツに挟まれたフランスでもM6規模の地震発生は十分にあり得るはず。
なぜ、今の時期が18世紀よりも大規模な地殻変動期かと言えば、2004年のスマトラ島沖と2011年の東北地方の地震が太平洋プレートの西向きへの動きだけでなく、インド・オーストラリアプレートの大規模な北進を示唆しているから。
問題は、ヨーロッパに数多く立地している原発であり、多くの原発は海岸や大河川のそばに造られている。
また、リビアもM7規模の地震が起こった記録
the 19 April 1935 earthquake (Mw = 7.1)
http://www.annalsofgeophysics.eu/index.php/annals/article/view/3320
があり、地中海沿岸部でかなり大きな地震が連続することになるのはほぼ確実だ。
よって、仮にリスボン沖地震が起これば、原発の急激な廃炉が即時に実施されるはずであり、それは確実に化石燃料の高騰をもたらす。
リスボン沖地震発生はかなり確実であり、そのため、今後、かなり早い時期にヨーロッパでは原発廃炉が進むはず。そのため、化石燃料のヨーロッパ諸国による買い占めというか、独占の試みがいろいろな形で進むはず。アメリカもその動きの中にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87_(1755%E5%B9%B4)
リスボン地震 (1755年)
1755年リスボン地震
1755 Lisbon Earthquake Location.png
リスボン地震の推定震源地(★)
本震
発生日 1755年11月1日
発生時刻 9時40分ごろ(現地時間)
震央 ポルトガル王国の旗 ポルトガル王国 サン・ヴィセンテ岬の西南西約200km
北緯36度
西経11度(地図)
規模 モーメントマグニチュード(Mw)8.5-9.0
最大震度 改正メルカリ震度XI:
津波 あり
地震の種類 海溝型地震(アゾレス・ジブラルタル断層帯を震源とする)
被害
死傷者数 5万5000人から6万2000人
被害地域 ポルトガル王国の旗 ポルトガル王国
スペイン スペイン王国
モロッコの旗 モロッコ
プロジェクト:地球科学、プロジェクト:災害
テンプレートを表示
リスボン地震での津波の到達時間 (計算による推定値)
リスボン地震による火災と津波によって破壊されたリスボンの市街
1755年のリスボン地震(リスボンじしん)は、同年11月1日に発生した地震で、リスボン大震災(リスボンだいしんさい)とも言う。 9時40分に[1] 西ヨーロッパの広い範囲で強い揺れが起こり、ポルトガルのリスボンを中心に大きな被害を出した。津波による死者1万人を含む、5万5000人から6万2000人が死亡した。推定されるマグニチュードはMw8.5 - 9.0。震源はサン・ヴィセンテ岬の西南西約200kmと推定されている[2]。
目次 [非表示]
1 概要
2 地震当日
3 震災後
4 政治への影響
5 社会的・哲学的影響
6 地震学の誕生
7 参考文献
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
概要[編集]
Gutscherがサイエンスに投稿した論文での、
An active subduction zone off southern Iberia poses a long-term seismic risk and is a likely candidate for having produced the Great Lisbon earthquake in 1755.
という記述から、「イベリア半島南西沖の寄生マイクロプレートにおける弓状の沈み込み帯で発生した地震である」と考える説もある。
リスボンでは地震の後に起きた津波と火災により、ほとんどの建物が廃墟と化した。震災によりポルトガル経済は打撃を受け、海外植民地への依存度を増した。ポルトガルでは国内の政治的緊張が高まるとともに、それまでの海外植民地拡大の勢いは削がれることとなった。
また震災の悲報は、18世紀半ばの啓蒙時代にあった西ヨーロッパに思想的な影響を与え、啓蒙思想における理神論と崇高論の展開を強く促した。リスボン地震によって思想的に大きな変化を蒙った思想家には、後述のようにヴォルテールがいる(『カンディード』を参照)。
当時、ポルトガル王ジョゼ1世の下で宰相の地位にあったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は、リスボンの再建を積極的に推進した。
地震当日
11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日(万聖節))であった。当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある[3]。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。即死した市民は2万人といわれる。生き残ったリスボン市民は河川敷や港のドックなどの空き地に殺到した(狭い土地で無計画に都市開発が行われた為、建物が密集し、市街には広場が無く狭い路地が入り組んでいた為)が、やがて海水が引いてゆき(引き波)、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った[4]。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた市民(約1万人)を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、火災旋風となって、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。
ポルトガルの他の町でもリスボンのような惨禍に見舞われた。国土の南半分、特にアルガルヴェ地方の被害は大きかった。南西端のサグレスでは30mの津波に襲われている。地震の揺れは遠くフィンランドからアフリカ北部まで感じられた。グリーンランド[5]やカリブ海[6]にまで揺れが及んだという記録もある。モロッコなど北アフリカの沿岸は高さ最大20mの津波に襲われ、イングランド南部やアイルランド西部にも3mの高さの津波が押し寄せて建物などを破壊した(ゴールウェイのスパニッシュ・アーチには津波で破壊された跡が残っている)。さらに大西洋を越えたバルバドスやマルティニークにも津波が到達した。
カルモ修道院の廃墟
当時リスボンは27万5000人の人口を数えたが、最大で9万人が死亡した。モロッコでも津波などで1万人が死亡したとされるが、記録がはっきりしておらず、続く11月18日から19日に起こった一連の地震の被害も合わさっている可能性もある[7]。
リスボンの建物の85%は破壊され、宮殿や図書館、16世紀の独特のマヌエル様式の建築も失われた。地震の揺れで壊れなかった建物や被害が少なかった建物も、教会の蝋燭などが火元の火災で焼失した。わずか6か月前にこけら落としを祝ったばかりの歌劇場も火災で焼け落ちた。テージョ川沿いに建っていたリベイラ宮殿(現在のコメルシオ広場の位置にあった)も地震と津波で崩れ、7万巻の書物やティツィアーノ、ルーベンス、コレッジョらの絵画も失われた。ヴァスコ・ダ・ガマら大航海時代初期の航海者たちが残した詳細な記録も、王立文書館の建物と共に失われた。作曲家カルロス・セイシャスの作品の楽譜も、そのほとんどが失われた。リスボン大聖堂、サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院などの大きな教会や修道院も破壊された。ロシオ広場には当時最大の公立病院だったレアル・デ・トードス・オス・サントス病院があったが、数百人の患者もろとも火災にのまれた。ポルトガルの独立の英雄ヌーノ・アルバレス・ペレイラ(英語版)の墓所も破壊された。カルモ修道院は今も廃墟のまま地震の爪痕を残している。
津波が押し寄せる前、動物たちが高い土地へ逃げたという言い伝えがある。これは震災に伴う動物の異常行動がヨーロッパで最初に記録されたものである。
震災後
国王一家は、運の強いことに震災において怪我ひとつしなかった。国王ジョゼ1世らは、当日未明にリスボンを出て日の出の時刻にミサに出席した後、王女の願いを聞いて街から離れ、祭日を過ごそうとしていたのである。ただ地震の後、ジョゼ1世は壁に囲まれた空間に対する恐怖症となり、破壊された宮殿には戻らず、宮廷を郊外のアジュダの丘に立てた大きなテント群に移した。ジョゼ1世の閉所恐怖症は死ぬまで治らず、娘のマリア1世の時代に木造幕舎が火災に遭うまで宮殿は造られなかった(テント宮殿の焼け跡にマリア1世はアジュダ宮殿を建て、今日まで残っている)。
震災後、廃墟と化したリスボン市街と、郊外のテントで暮らす市民たち。中央には略奪者に対する見せしめとして立てられた絞首台が見える
宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(後のポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる[8]。彼は、後年ポルトガルに君臨した時と同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理せよと軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序が広がるのを防ぐため、特に略奪を防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された[9]。軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。震災直後は物資不足が問題となったが、間も無くリスボンに在住していた貿易商などの外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告された為、彼らを支援する為の物資がリスボンに集まり、復興物資を確保する事が出来た。
震災から間もなく、宰相と王は建築家や技師を雇い、1年以内にリスボンから廃墟は消え、至るところが建築現場になった。王は新しいリスボンを、完璧に秩序だった街にすることにこだわった。大きな広場と直線状の広い街路が新しいリスボンのモットーとなった。今では「麗しのリスボン」という[10]。当時、こんな広い通りが本当に必要なのかと宰相に尋ねた者もいたが、宰相は「いずれこれでも狭くなる」と答えた(現在のリスボンの交通混雑は、彼の先見性を示している)。
当時、宰相の指揮下で建てられたポンバル様式建築は、ヨーロッパ初の耐震建築でもある。まず小さな木製模型が作られ、その周りを兵士が行進して人工的な揺れを起こし、耐震性が確かめられた。こうしてリスボンの新しいダウンタウン、通称「バイシャ・ポンバリーナ」(ポンバルの下町)が作られ、新興階級であるブルジョアジーが都市中心部に進出していった。アルガルヴェ地方のスペイン国境付近にあるヴィラ・レアル・デ・サント・アントニオなど、ポンバル侯爵のリスボン都市計画を応用して再建された都市はポルトガル各地にある。
政治への影響
ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ
ポルトガルの内政における地震の衝撃は非常に大きかった。地震以前、宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョは王の寵臣であったが、貴族たちは彼を郷士の息子からの成り上がりとして軽蔑した(彼は今日ではポンバル侯爵と呼ばれるが、この爵位は地震の15年後の1770年に得たものである)。一方で宰相の方は古い貴族たちを、腐敗しており実際的な行動ができない無能な集団として嫌った。
両者の間には権力と王の寵愛を巡る絶えざる衝突があったが、この地震を境に、有能な対応を示した宰相が古い貴族層の権力を上回った。貴族層は宰相を重用する王ジョゼ1世に対する反感と恨みを募らせ、1758年には王の暗殺未遂事件が起きた。これを機に宰相は貴族の一掃に乗り出し、陰謀を裏で巡らせていたとされたポルトガル最大の貴族アヴェイロ公爵 (pt) は処刑され、その一族は勢力を奪われた。震災の原因をリスボンの人々の「罪」にあるとしたイエズス会もポルトガルの領土から追放され、財産を国庫に没収された。以後、敵のいなくなった宰相は啓蒙主義的専制政治を行い、ポルトガルを独裁支配する。
社会的・哲学的影響
地震が与えた衝撃はヨーロッパの精神にも及んだ。当時の通俗的な理解では、地震とは自然現象というより神罰である。しかし、多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、なぜ神罰を受けねばならなかったのか、なぜ祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも町が破壊され、善人も悪人も罪のない子供たちも等しく死ななければならなかったのかについては、18世紀の神学・哲学では説明の難しいものであった。
ヴォルテール
地震はヨーロッパの啓蒙思想家たちに強い影響を与えた。当時の哲学者の多くがリスボン地震に言及しているが、ヴォルテールの『カンディード』や『リスボンの災害についての詩』(Poème sur le désastre de Lisbonne)は特に有名である。『カンディード』は、《慈悲深い神が監督する我々の「最善の可能世界」(le meilleur des mondes possibles)では、「すべての出来事は最善」である》という楽天主義を痛烈に攻撃し、『リスボンの災害についての詩』でも「すべては善である」というライプニッツ派の観念や、リスボンには天罰が下ったという意見に対して激しく反論する。
リスボンの悲劇は、ヴォルテールに楽観論への反証を与えるものだった。テオドール・アドルノは「リスボン地震はライプニッツの弁神論(慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない、という議論)からヴォルテールを救いだした」と述べている。ヴォルテールは、災害によってリスボンが破壊され、10万もの人命が奪われたのだから、神(創造主)が慈悲深いわけがないと主張した。当時のヨーロッパの知識人にとり、リスボン地震の衝撃による文化的・哲学的転換は、20世紀後半におけるホロコーストの衝撃に比べられるほど大きかった。
ジャン=ジャック・ルソーもこの地震による被害から衝撃を受けた一人であり、被害の深刻さはあまりにも多くの人々が都市の小さな一角に住んでいることから起こったものだとした。ルソーはこの地震は神罰ではなく文明のおごりが起こした人災と考え、都市に反対し、より素朴で自然な生活様式を求める議論に引用した。また神の善意を疑問視するヴォルテールの論に対して神の摂理を弁護し、この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきであり、「すべては善」ではなくても、「全体にとっては善」とは言えると反論している。
人間の力の及ばない自然の巨大さなどへ対する感情である「崇高」という概念は、1755年以前から存在したものの、それを哲学の中で発展させて非常に重要な概念としたのはイマヌエル・カントであった。カントは崇高の概念を、リスボン地震と津波の甚大さを理解しようとする試みの中から発展させた。カントはこの地震について3つの薄い書物を出版している。若い日のカントは地震に魅せられ、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、これらを使って地震の起こる原因に関する理論を構築した。彼は熱いガスに満たされた地底の巨大空洞が震動して地震が起こると考えた。これは、誤りであることが後に分かったが、地震は神罰のような超自然的な原因ではなく自然の原因から起こる、という仮定によって地震のメカニズムを説明しようとした、近代のもっとも初期の試みと言える。
ヴァルター・ベンヤミンによれば、カントが出版した地震についての書物は、「おそらくドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである」[11]。
ドイツの哲学者ヴェルナー・ハーマッハーによれば、地震の結果は哲学用語にも及び、硬い根拠を大地に例えて「ground」と呼ぶ比喩がぐらつき、不安定なものとなったという。「リスボン地震により起こされた印象は、ヨーロッパの最も神経質な時代の精神に触れたため、「大地」や「震動」の比喩はその明らかな無垢さを失い、もはや単なる修辞には過ぎなくなってしまった」[12]。ハーマッハーはルネ・デカルトの哲学のうち「確実性」に関する部分がリスボン地震後の時代に揺らぎ始めたという。
地震学の誕生
ポンバリーナ様式の耐震構造
宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョの震災に対する対応は、都市の再建にとどまらなかった。宰相は国中の全ての教区に質問状を送り、地震とその影響を回答させた。この質問には以下のようなものがあった。
地震はどのくらい続いたか。
例えば南北方向に強く揺れたというふうに、地震の揺れに特定の方向はあったか。建物の崩壊でも、特に一方向に崩れるということはあったか。
余震は何回感じられたか。
死者の数など、どのような被害があったか。
海水位は引くのが早かったか、それとも上昇が早かったか。海は普段の水位からどれだけ上昇したか。
動物が不審な振る舞いをしなかったか。
井戸や水穴には何が起こったか[13]。
これらの質問へ寄せられた回答は、現在も国立公文書館トーレ・ド・トンボ(サン・ジョルジェ城)に保存されている。現代の研究者たちは教職者たちの回答を研究し、相互に参照して、大地震を科学的な見地から再現することができる。宰相が考えた質問がなければ、これは不可能であった。客観的かつ科学的に地震の原因と結果を調べようとしたポンバル侯爵は、近代地震学の先駆者と評価されている。
この地震の原因などについては、残された資料や地質調査などを基に、今日も研究者により研究と議論が続いている。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。