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死刑判決を2度言い渡された北の元工作員、分断に翻弄され続けた人生
http://www.afpbb.com/articles/-/3144739?cx_position=6
2017年10月1日 9:45 発信地:光州/韓国
【10月1日 AFP】死刑判決を2度言い渡された北朝鮮の元工作員、徐玉烈(Seo Ok-Ryol)受刑者(90)は刑務所の中で30年、その大半を独房で過ごしてきた。死ぬ前に望む唯一の願いは、故郷の北朝鮮に帰ることだ。
現在の韓国で生まれ、その後に北朝鮮の兵士、そして工作員となった徐受刑者の人生は、永続的な分断と、歴史と政治に翻弄されてきた朝鮮半島の人々の生き方を象徴している。
杖をつき、細身で猫背、態度はけんか腰だがいたって明敏だ。「私は何も悪いことはしていない。ただ祖国を愛しただけだ」と話し、自分にとっての祖国とは北と南の両方だと続けた。
2000年に行われた歴史的な南北首脳会談後、韓国は長期囚約60人を北朝鮮に送還した。大半は兵士、特殊部隊兵、工作員だった。だが韓国に忠誠を誓う宣誓書に署名して刑事施設からの釈放を確保し国籍も取得していた徐受刑者は、送還の対象にはならなかった。
韓国南部の島に生まれた徐受刑者は、ソウル(Seoul)のエリート大学である高麗大学(Korea University)在学中に共産主義に傾倒した。朝鮮戦争では北の軍隊に加わったが、米主導の国連軍に押され、北側への撤退を余儀なくされた。
そして北の労働党に入党し、平壌(Pyongyang)で教職に就いていたが、1961年に諜報訓練校への配置が決まった。「妻に別れの挨拶もせずに立ち去らなければならなかった」と当時を振り返った。
徐受刑者はその後、北に亡命した兄弟を持つある上級政府高官を勧誘する任務を負い、川を泳いで国境を越えた。亡命した男性の親兄弟とは無事に会うことができたが、その反応は冷たいものだった。
預かった手紙を渡そうと試みると、「兄弟は…死んだものと思っている。政府当局には戦死したと報告している」とこの政府高官は述べ受け取りを拒否した。
当時も今も、正式な許可なしに北朝鮮側の人物と接触することは固く禁じられており、見つかれば長期の禁錮刑が課される。それでもこの政府高官は告発に踏み切ることはなかったという。
任務は失敗に終わり、徐受刑者はそのままソウルに約1か月間滞在した。その間、暗号を解読するのに必要となる乱数表を見つけられないよう常に神経をとがらせていた。
そしてついに、帰国命令をひそかに伝える乱数放送があった。指定された場所へと向かい同胞との接触を試みたが、時間通りに到着できず、ボートに乗り遅れてしまった。川を泳いで北側へと戻ろうとするも流れが強く、岸辺に戻されてしまう。そうこうしている内に韓国海軍兵士に身柄を拘束されてしまった。
徐受刑者は、敵に身柄を拘束された際には「毒薬カプセルか武器を使って自殺する決まりとなっている」と話したが、その時は「そんな余裕はなかった」と当時の状況を説明した。
■死刑
徐受刑者は数か月にわたって過酷な尋問を受け、殴られたり睡眠や食事を奪われたりすることもあったと話す。そして軍事裁判所から極刑を言い渡されたことを明らかにした。
1963年、任務に失敗した新米工作員だったことを理由に死刑は減刑された。しかし1973年には、別の受刑者をそそのかし、共産主義に転向させようとした行為が罪に問われ、再び死刑を宣告された。
「検察が死刑を求刑し、判事が求刑通りに刑を言い渡した。母はその都度、法廷内で気を失った」と、国際的なメディアとして初めてとなるAFPのインタビューで徐受刑者は語った。
両親は、裁判のための費用を捻出するために自宅を売却し、そして2度目の減刑処分につなげた。しかし、息子の出所を目にすることなくその後に他界してしまったという。
当時の韓国の独裁政権は、刑事施設に収容された北朝鮮工作員らの再教育を試みていた。活動家や元受刑者らの証言によると、そうした動きが最も盛んだった1970年代半ばには、抵抗した者は殴られたり水責めにされたりした他、食事や睡眠時間を与えられず、暗くて狭い「懲罰房」に入れられることも多かったという。
だが徐受刑者はかたくなだった。「転向」すれば炎症を起こした左目の治療を受けさせると当局に言われたにもかかわらず、協力を拒み続け、最終的には左目を失明してしまった。
このことについては、「私の政治的イデオロギーは私の人生よりも大切だ」とぶっきらぼうに言い放った。
■今も消えぬ妻への思い
刑務所で30年を過ごした徐受刑者は、1991年についに歩み寄りの姿勢をみせ、韓国の法に従うことを約束した。
仮釈放された徐受刑者は、きょうだいが今も住む生まれ故郷に近い韓国南部の光州(Gwangju)に移り住んだ。だが今も夢見るのは、南北が統一され、妻と息子たちの元に帰ることだ。
北朝鮮への思いは消えてはおらず、国の助成金で運営されているエリート校、金日成総合大学(Kim Il-Sung University)を自分が卒業できたのは、北朝鮮社会が「平等主義」だからだと称賛する。そして、北朝鮮の核・ミサイル開発は米国から自衛するためには必要だという当局の言い分を繰り返し、ドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領は「とんでもない狂人」だと切り捨てた。
徐受刑者は今年、心臓病の治療のため光州で2か月にわたり治療を受けた。左派的傾向が強いこの地域では、活動家団体が韓国当局に対して、徐受刑者らの誓約が強制されたものだとして、送還を認めるよう求める請願運動を行っている。
仮釈放されてから数年後のある日、平壌を訪れたというドイツ在住の韓国人女性が訪ねて来て徐受刑者にこう言った──あなたの奥さんと息子さんたちは今も生きている。ただ、家族に連絡を取ろうとしない方がいい。息子さんたちの将来に傷が付くことになりかねないから、と助言したという。
北朝鮮を離れて以降、再婚することはなかった。インタビューの間もずっとふてぶてしく冷ややかな態度を取り続けていたが、もし奥さんに再会できたら何と声を掛けますかとの問いには言葉を詰まらせた。
そして、感情を抑えながら「生きていてくれてありがとう、と言いたい」「会えなくてずっと寂しかった。これほど長い間、離れ離れになるとは思ってもみなかった」と答えた。
(c)AFP/Park Chan-Kyong
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