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(回答先: スー・チー氏 軍の影響力強い政治制度に苦慮:米仏、伊蘭 国連に行動を要求 投稿者 手紙 日時 2017 年 9 月 22 日 01:17:36)
上智大学・根本敬教授に聞くロヒンギャ問題
ミャンマー(ビルマ)のラカイン州に暮らす少数民族ロヒンギャ。2017年8月下旬より衝突が激化し、10日余りで約12万5,000人が隣国バングラデシュへ避難する事態に発展。沈黙を続けるアウンサンスーチー氏国家顧問兼外相に対し、世界から圧力が高まっています。ロヒンギャ問題とは何か?ビルマ近現代史を専門とする上智大学総合グローバル学部の根本敬教授に伺いました。昨年掲載した記事ですが、ロヒンギャ問題とアウンサンスーチー氏が置かれた立場について理解することができます。
――ミャンマーは多民族国家ですが、なぜ特にロヒンギャ民族は深刻な人権侵害の状況に置かれているのでしょうか。
二つ理由があります。一つは誰を公認の民族とするかです。ビルマでは135の民族が国家によって公認されています。その基準はイギリスの侵略戦争が始まる 1年前の1823年以前から住んでいる、というものです。その段階で住んでいた民族は土着民族として理解されています。しかし、国はロヒンギャを、イギリスが植民地化した過程、もしくはその後に入ってきた人とみなし、国民として認めないという法解釈を持っています。
もう一つは国民の一般的な差別感情です。ロヒンギャは他の民族と比べて顔の彫りが深く、肌の色が黒い人が多い、いわゆるベンガルに住んでいる人たちや中東からきた人のような雰囲気をビルマの人は感じ取るわけですね。さらに宗教は仏教ではなくイスラームであると。そういう人たちにビルマにいてほしくない、少なくとも国民ではない、という差別意識があります。その二つが複合して、少数民族として扱われない厳しい状況になっています。
――1823年以前から住んでいたという解釈はありますか?
例えば、パレスチナ人は「世界公認」の民族ですね。しかし、おそらく1960年代までパレスチナ人という言葉はなかったと思います。イスラエルによる厳しい抑圧を受けて、我々はパレスチナ人であると名乗りをあげ、国際社会もまた認める。そういうなかでパレスチナ人という一つの民族が公認されたわけです。ロヒンギャが名乗りをあげたのは、おそらく1950年代前後ですが、それを認めないビルマ政府・国民との闘いが今日まで至っています。ある集団がいきなり現れることは考えにくいので、それまでの長い歴史のなかで、ある種のアイデンティティを感じ取った人たちが、「我々はロヒンギャだ」と公に宣言したのが 1950年だと私は考えています。
具体的には、三つの層が堆積したと考えるのが合理的です。一層目は、15〜18世紀に現在のラカイン州にあたる地域に栄えたアラカン王国にいたムスリムです。アラカン民族の王朝ですが、王宮には役職を持っていたムスリムがいたことが記録に残っています。さらに驚くべきことに、この王国の王は仏教徒ですが、11代目まで対外的にイスラームの王を名乗り、名前を二つ有していました。国内向けの仏教徒の名前と、貿易のためのイスラームの名前を持っていましたから、2つの宗教を状況に合わせて使い分けていたと言えます。今のように仏教徒、イスラームということで対立する雰囲気はなかったと考えられます。その後、アラカン地方がイギリスに植民地化された1826年に国境が開き、ベンガルから大量に移民が入ってきます。そのグループが第二層を形成します。
そして最後の層が、第二次世界大戦後の混乱期にベンガルから入ってきた人たちです。ロヒンギャ民族とは、この三つの堆積したグループの一部が混ざり合ったと考えるのが自然です。イギリス側の資料は第二層から残っています。ロヒンギャという名前ではなくチッタゴニアンズ、つまりチッタゴンからきた人たち、と書かれています。ビルマ国家や国民は、この資料を有利な証拠として使い、「イギリスですら、ロヒンギャという言葉は使っていない。イギリスがベンガルから連れ込んだんだ。土着の民ではない」と言っています。
ロヒンギャを取り巻く状況は、1962年に軍の独裁体制が始まってから急激に悪化しました。それ以前は、ロヒンギャという名前の使用も認められていましたし、国会議員が2人いたほどです。しかし、軍が中央集権的な支配をするために誰が国民かをはっきりと分けて、国籍法も新たに整えるなかで、ロヒンギャという人たちはいない、第二次世界大戦後の混乱期に入ってきて住み着いた「不法移民」なんだと国家は理解し、ロヒンギャを周縁に追いやり、出て行ってもらうという態度をとり始めました。国籍調査と称してロヒンギャが多く住む地域にやってきては住む権利がないと脅して嫌がらせをしました。それを恐れて、1970 年代の後半と1992年の2回にわたって20万人規模の脱出、難民流出が起きました。
写真:多くが行き着いたバングラデシュにあるロヒンギャ難民のキャンプ。撮影:中村安希
――現在、ビルマ国内に残っているロヒンギャの多くはラカイン州のシットウェーに押し込められ、移動の自由がありません。なぜ、そうなったのですか?
それはテイン・セイン政権時代、つまり、つい最近のことです。2012年にラカイン州北部で反ロヒンギャ暴動が起きました。詳細は実に曖昧ですが、ロヒンギャが仏教徒の女性を襲ったという事件が起き、地元の仏教徒がロヒンギャを襲い始めました。ロヒンギャは抵抗しますが、圧倒的に不利ですから、家を焼かれ、追い出されています。テイン・セイン政権は抑圧されたロヒンギャを「守る」という名目で現在のようなゲットーに入れました。政府としては良いことをしているという認識なんです。
――しかし、さまざまな人権侵害が報告されています。最も深刻な問題は何ですか?
rohingya_nakamura_web.jpg保健衛生状態の悪さに尽きます。薬、医療体制がすべて外部の支援団体頼りです。支援団体に対しては、中央政府や地元の政府が色々な規制をし、地元のアラカン人が外国NGOの排斥運動をすることもあり、ゲットーに入れないときもあります。そのため治療ができない、生まれた子どもが死んでいく、死産するといった大変深刻な状況が起きています。居住地区のなかではそれなりに普通に生きてはいますが、病院や教育に関しては非常に問題が多いです。
写真:バングラデシュにあるロヒンギャ難民のキャンプ(ラカイン州ではありません)。撮影:中村安希
――そうした状況に耐えかねて国外に逃れるロヒンギャは常にいますが、昨年5月、数千人が海上で漂流し、特にその姿が顕在化された背景には何があったのでしょうか。
1992年の大規模な流出の後、ビルマ政府とバングラデシュ政府で話し合い、国境沿いの川岸に長いフェンスを作って警備を強化し、バングラデシュへ簡単に逃げることはできなくなりました。そこで、インド・バングラデシュに拠点がある人身売買業者が、山の奥地を通ってバングラデシュ経由でインドに導くというのが90年代の終わりに始まりました。しかし、インド政府が暗躍する人身売買業者を取り締まり、これも警備が厳しくなりました。
2000年代に入り、タイに拠点を持つ海のルートを使った業者が参入し、出たい人を誘うわけですね。なんとか我慢して住めるという人に対しても、脱出してあちらに行けば周りがみんなムスリムだよ、インドネシアやマレーシアで働けるよと持ちかけて船に乗せます。さらに業者は、人口過剰で失業者が多いバングラデシュにまで手を伸ばして、マレーシアで働きたいベンガル人も誘い込みました。そして満員になった船が、海を南下し、タイに非合法に上陸し、そこからさらにマレーシア、インドネシアに移動したわけです。バングラデシュ国籍の人も含めて、毎年おそらく数千人から1万人が、このルートで脱出していました。去年、タイ政府が業者の摘発に乗り出したため、ロヒンギャが船でやってきても上陸できなくなり、大問題になりました。どの国も上陸許可を与えないまま、何隻かが漂流してしまい、放っておけば餓死するという状況に陥ったのです。ビルマ政府はロヒンギャの「ロ」の字も使わないという条件で国際会議に参加しましたが、ベンガル人がほとんどで我が国に責任はないと最後まで言い張りました。マレーシアとインドネシアは渋々、1年限定で施設をつくるということで受け入れて、1年が経ってしまいました。今後の方針はまだ示されていません。延長するのか、冷たく放り出すのか―。冷たく放り出すのは非常に難しい現実がありますので、3ヶ月とか半年と延長していくのかもしれません。
――ボートで逃れることを選ぶ人々はどのような人が多いでしょうか。
ロヒンギャのなかでも最下層ですね。タイなどを経由して飛行機で日本へというのは恵まれた階層です。館林(※)に住むロヒンギャの人々もそうですが、彼らのご両親はほとんどの場合、ラカイン州北部で商売をしていた人たちです。インドやバングラデシュ相手に貿易をしたり、自分たちの地域のなかでお店をやっていたりと、現金収入と経営感覚がありますので、ロヒンギャのなかでは比較的裕福だったと思います。そうした人たちは日本のみならず、アメリカ、カナダ、イギリス、北欧など世界中に逃れています。英語ができる人が多く、行った先の政治家や有力者にロヒンギャ問題に関心を持ってもらうよう活動している人もいます。ロヒンギャは保守的なイスラームを信仰してるので、一時期はリビアやサウジアラビアに行く人も多かったです。他方、大多数は農民や漁業、工場労働、あるいは農業の繁忙期に手伝うような仕事に就いており、財力がありません。そういう人たちが、ビルマに住み続けることに未来を感じることができなくなって、ボートを選ぶのだといえます。
※群馬県館林市。在日ロヒンギャの多くが集住する地域。
――アウンサンスーチー氏もロヒンギャについてはコメントを控えています。状況の改善は新政権にも期待できないのでしょうか。
本当にセンシティブな問題なんですよね。NLD政権になれば、ロヒンギャの問題は解決に向かうという人もいますが、私はそこまで楽天的になれません。これまで野党の指導者だったアウンサンスーチーは、責任は政府の側にあると言えました。しかし、国家顧問に2つの大臣、さらには大統領報道官までやっている彼女は今、その責任ある立場にいます。発言は本当に慎重にしないと、自分の支持層から反発を買うのみならず、ただでさえ関係が微妙な軍も怒らせてしまいかねない。しかし、彼女の立場ははっきりしています。人種間、民族間、宗教間の暴動は絶対に許されない。そして、ロヒンギャ問題の根源は、国籍法にあるから、これを改正する必要があるという2つです。まずは軍との微妙な関係をどう乗り越えていくかが最大の課題で、同時並行は憲法改正ですね。憲法によって軍の権限が保証されていますから、憲法を変えない限り、軍の政治への介入はなくせない。当面続く微妙な時期にロヒンギャ問題がこじれたら、国全体が不安定になる心配があるので、安易に触れることができず、かといって無視はできないので水面下でやりたいということだと思います。
――日本にできること、求められることは何でしょうか。
たくさんあると思います。外務省の担当者からは、お金は出していますと言われます。もちろん出さないよりは出した方がいいとはいえ、それだけで日本がロヒンギャ問題に前向きに関わっているとは国際社会は受け止めないでしょう。ビルマの政権が変わったこの機会を生かして、ロヒンギャ問題を憂慮してるというメッセージを継続して強く伝えるべきです。そして、政府はお金を出すだけでなく、人も派遣すべきです。人材と資金を使って、あるいはNGOともっと組んで、隔離されたロヒンギャの生活が改善されるように粘り強く働きかけるべきだと思います。
根本敬氏 プロフィール
1957年生まれ。ビルマ近現代史を専門とし、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授などを経て、上智大学総合グローバル学部教授。著書に「抵抗と協力のはざま――近代ビルマ史のなかのイギリスと日本」(岩波書店 2010年)、「物語 ビルマの歴史−王朝時代から現代まで」(中公新書 2014年)、「アウンサンスーチーのビルマ―民主化と国民和解への道」(岩波書店 2015年)など多数。
- 闘いの半生−できることをやり続ける(活動レポート:認定NPO法人 難民支援協会) HIMAZIN 2017/9/22 21:32:31
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