岩本沙弓 現場主義の経済学 アメリカの「国境調整税」導入見送りから日本が学ぶこと 2017年08月04日(金)17時00分
45 1 アメリカの「国境調整税」導入見送りから日本が学ぶこと アメリカには付加価値税・消費税がないため国内企業が不利益を被っているという議論があった Jorge Duenes-REUTERS <アメリカ企業が不利益を被っているという理由からトランプ政権で導入が検討されてきた「国境調整税」だが、実質的な消費税としての機能が公平な税制への、そして国内消費減退を招くという懸念から今回の導入は見送られた> 大統領選挙期間中から提案され、トランプ政権発足直後からもめにもめてきた税制改革、中でも下院共和党案として出された国境調整税(Border Adjustment Tax, 通称BAT)の扱いが米国内ではこれまでかなり紛糾してきました。以前の寄稿で、このBATがあっさり立案、可決されると決め打ちするのは危ういと指摘いたしましたが、予想通り7月27日(現地時間)に導入却下が決定的となりました。 背景として、トランプ大統領、ムニューチン財務長官を筆頭にトランプ政権自体がBATに反対していたことはもちろんですが、この約半年間、米小売業界を中心に、実体経済目線のFACT(事実)を基にしたBAT反対の真摯なロビー活動が行われたことも大きかったと言えるでしょう。 この間の議論の推移を日本の主要メディアさんが少しでも伝えてくれれば......加計や森友問題、政治家のスキャンダル報道に費やす時間の百分の1、いや千分の1でも割いてくれれば日本の消費税議論にも深みが増すのにと思っていたのですが、やはり完全無視となりました。残念なことです。 BAT見送りが大々的に発表されたホワイトハウスの共同声明で注視するのは下記の部分でしょう。 「新しい国内消費に基づく税制に移行することなしで、アメリカの雇用と課税ベースを保護しながらアメリカ企業、外国企業、労働者との間の公平を確保する実行可能な方法があると我々は今、自信を持っている。これまで国境調整による成長押し上げ効果について討議してきたが、国境調整には多くの未知数が存在することがわかり、税制改革を進展させるためにもこの税制導入を棚上げする決定に至った。」 【参考記事】迷走するオバマケア代替法案のあまりに不都合な真実 http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/post-7899_3.php 消費税肯定派には耳の痛い部分かとは思いますが、公平さを維持するためには国内消費に基づく税制は必要ないと米国はこの度、あらためて表明したことになります。同盟国の決定については消費税増税派・反対派を問わず、10%へ消費税増税が規定路線となっている現在だからこそ日本の税制が根本的にどうあるべきなのか、あらためて立ち止まって考えるきっかけとすべきなのではないでしょうか。 BATとは何か。税制の専門的なことを言い出すとキリがありませんが、極めて端的に言うと日本の消費税と同じ機能をもたせる税制です。具体的には法人税の課税対象から、輸入に課税・輸出に免税するものです。
消費税は国内消費にかかわる税制であるはずなのに、輸出入といったい何の関係があるのか?と思われるかもしれませんが、日本の消費税(海外ではこのタイプの税制は付加価値税と呼ばれるのが一般的)にも関税(=国境で調整される税)の機能が存在し、輸入品には課税、輸出品には還付(=米公文書は還付とは言わず「リベート」としています)措置があります。 次のページ 行き着くところは消費税 米国は連邦国家として付加価値税・消費税を採用してないため、こうした国境で調整できる制度がなく米国企業が不利を被っている、というのが共和党のライアン下院議長、下院歳入委員会のブラディ議長などの主張であり、その機能を持つBAT導入を目指していたわけです。ただし、法人税として輸出を免税・輸入に課税で調整することがことのほか不評を買い、国内からの強烈なロビー活動もあってBATに著しい修正を加えた代替案を迫られ、最終的には下院共和党案として付加価値税・消費税そのものの導入まで匂わせていました。 今回の共同声明発表と同時に下院歳入委員会のサイトにあったBAT推奨の特設ページが全て削除されましたが、削除以前のQ&Aの中にBAT実現の具体的手段として「米国は現在世界160カ国余りが採用しているのと同じような税制を採用することになる」としていました。そのpdfだけはネット上で今のところ確認できますので添付(最終ページに記載アリ)しておきます。 https://waysandmeans.house.gov/wp-content/uploads/2017/03/MadeinAmericaTax_FAQ3.pdf ここでは付加価値税・消費税という名称は出していませんが、BATの行きつくところはつまり消費税・付加価値税の機能を求めて、消費税・付加価値税の導入までをも視野に入れていた、というのがおわかりいただけるのではないでしょうか。 BAT導入に反対する米国内ロビー活動を積極的に展開してきた米国際自動車ディーラー協会(American International Automobile Dealers Association, 略名AIADA)はBATが実際には消費税と同じような機能を持つため、国内経済へ悪影響を及ぼすことは当然のことながら承知しています。 https://www.aiada.org/policy/border-adjustment-tax-bat 「国境調整税はすべての商品やサービスへの新しい消費税です」との認識を示した上で、具体的事例として、仮にBATが導入されれば輸入に依存している自動車部品は全て課税対象となるため、米国内で販売される乗用車は直ちに一律5.6%の値段の引き上げ、平均的に購入されている車一台に換算すると約2000ドル(1ドル110円換算で22万円)が値段に上乗せされるという試算を出しています。 【参考記事】トランプ税制改革案、まったく無駄だった100日間の財源論議 http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/04/post-7511.php となれば米国人の車の購入意欲は減退、自動車需要が落ち込む結果「米自動車製造工場も小売業も、消費者と同じように痛みを感じ、雇用を削減せざるをえなくなる」、自動車ディーラーにとっても消費者にとっても「破滅的(devastating)」という言葉まで使っています。増税分は物価が短期的に上昇し、その後に急速な需要減退を伴い実体経済が落ち込むことは、日本で生活していれば皮膚感覚で実感してきたことでもあります。 AIADAの代表であるPaul Richie氏は「この税制計画が大幅な法人税減税をまかなうべく、消費者に負担を求めていることに気付いてからというもの、行動を起こさねばと思った。」とコメントしています。GDPの約7割を国内消費に依存している米国経済にとって消費減退は経済成長の根幹を揺るがす大問題であり、財界人であれば何としても避けたいとの発想に至るのはごくごく当然のことでしょう。それはGDPの約6割が国内消費で占めている日本とて同じはず。 AIADAは米国に進出している各国の自動車メーカーの団体ですが、米自動車業界誌『オートモーティブ・ニュース』はBATに反対するようメーカー各社がディーラーに要請、BATの「本質は隠れた消費税だ」との日本の自動車メーカーの談話を象徴的に紹介しています。 また、AIADAには日本の自動車メーカー14社で構成される日本自動車工業会も関連団体として名を連ねています。その自工会ですが、日本の消費税についてはかねてから引き上げに賛同を表明しつつ、消費税10%引き上げ時には消費者負担を軽減すべく自動車取得税・重量税などの撤廃を訴えていました。 次のページ 予想される陳情合戦 実は消費税制度の大きな問題として、一度導入されると、上記のような特定税制撤廃の他にも、通常の税率よりも低く設定することで対象業界が有利となる軽減税率を要求するなど陳情合戦に陥ることが、既に40年以上前のニクソン政権下での税制改革の際に取り沙汰されていました。だから企業はけしからんといった稚拙で短絡的な企業バッシングをここでするつもりは全くありません。 企業は営利目的で活動している以上、税制であれ他の規制であれ、少しでも優位にとの食指が伸びるのは当然です。だからこそ税制などの制度設計をする場合には公平で自由な競争を阻害しないことが非常に重要で、行政側はそこに留意すべしというのが米国のスタンスでもあります。今回もそうですが、先進各国が全て消費税・付加価値税を採用してもなお、連邦国家として米国だけは頑として導入に踏み切らなかった理由の1つはそこにあります。 【参考記事】大胆不敵なトランプ税制改革案、成否を分ける6つのファクター http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2017/04/6.php 増税による国内需要の減退、国内市場・消費者への破滅的な影響があると実体経済への悪影響に深い理解を示し、公正な競争の観点から各社・ディーラーが米国での消費税導入反対の強烈なロビー活動に尽力されたのであれば、特定税制撤廃や軽減税率などの対症療法ではなく、日本の消費税についても同じように、消費税制度そのものへ根本的な問題提起をしていただけないだろうかと切に願うわけです。 そして、世界最大の債務国(世界最大の債権国は日本)である米国ではありますが、この度、共和党にBATを諦めさせ、国内経済と税の公平性の観点からトランプ政権が下した今回の判断について、消費税増税ありきで拳を振り上げている日本の政治家の方にも是非、これを機にいったんニュートラルな立場に立ち返って、米国内で取り沙汰された論点などを参考にお考えをいただきたいと思う次第です。 トランプ政権下でのBATあるいは消費税・付加価値税導入はこれで見送りが決定的となりましたが、トランプ政権としてはBATや消費税・付加価値税とはまた別の独自の国境税案を持っています。それをいよいよ持ち出すのか、腰砕けとなるのか。引き続きフォローしたいと思います。 前のページ 1 2 3 この筆者のコラム アメリカの「国境調整税」導入見送りから日本が学ぶこと 2017.08.04 加計学園問題は、学部新設の是非を問う本質的議論を 2017.06.19 極右政党を右派ポピュリズムへと転換させたルペンの本気度(後編) 2017.04.13 極右政党を右派ポピュリズムへと転換させたルペンの本気度(前編) 2017.04.12 トランプ政権が掲げる「国境税」とは何か(後編) 2017.03.07 トランプ政権が掲げる「国境税」とは何か(前編) 2017.03.06 ブレグジット後の「揺れ戻し」を促す、英メイ首相のしなやかな政治手腕 2016.12.26 記事一覧へ プロフィール 岩本沙弓 経済評論家。大阪経済大学経営学部客員教授。 為替・国際金融関連の執筆・講演活動の他、国内外の金融機関勤務の経験を生かし、参議院、学術講演会、政党関連の勉強会、新聞社主催の講演会等にて、国際金融市場における日本の立場を中心に解説。 主な著作に『新・マネー敗戦』(文春新書)他。 あわせて読みたい 「エアコン中毒」の日本を救え 「イタリア化」する日本 イギリス空軍、日本派遣の戦闘機を南シナ海へ 20年には空母も 韓国人が「嫌いな国」、中国が日本を抜いて第2位に浮上 「日本に移民は不要、人口減少を恐れるな」水野和夫教授 このままでは日本の長時間労働はなくならない http://www.newsweekjapan.jp/iwamoto/2017/08/post-31_3.php
迷走するオバマケア代替法案のあまりに不都合な真実 2017年7月3日(月)16時00分 安井明彦(みずほ総合研究所欧米調査部長) 147 11 オバマケア代替法案の採決延期を発表する米共和上院トップのミッチ・マコネル院内総務(6月27日) Aaron P. Bernstein-REUTERS <規制が多く保険料が高くなりがちなオバマケアに代えて、市場原理を取り入れた代替法案を通したい米共和党だが、代替のデメリットばかりが目立って法案への国民の支持率は20%を割り込んだ> オバマケア代替法案の審議が難航している。6月27日には、月内に予定されていた上院での共和党案の採決が、7月10日以降に延期された。決定的な問題は、国民にとっては改悪と感じられる内容となってしまった点にある。 オバマケア代替は共和党の宿願 米国で論争となっているオバマケアの代替法案は、ドナルド・トランプ大統領の重要な公約である以前に、議会における共和党の宿願だった。 オバマケアは、2010年にバラク・オバマ大統領のもとで成立した医療制度改革を指す。補助金などによって個人による保険の購入を支援すると同時に、メディケイド(低所得者医療保険制度)を拡充するなどの措置を講じ、無保険者を減らすことを目指した改革である。 米国は国民皆保険制度を採用していない。公的保険は高齢者と低所得者のみにしか用意されておらず、現役世代は勤務先を通じて民間保険に加入する場合が多い。しかし、こうした手段を利用できない場合には、個人で保険料が年間数十万円もする高価な保険を購入せざるを得ず、医療保険に加入できない「無保険者」が存在してきた。米議会予算局(CBO)の試算によると、その数は全米で2600万人に上るという。 かねてから共和党は、オバマケアを目の敵にしてきた。伝統的に共和党は「小さな政府」を志向してきたが、オバマケアによって政府の役割は格段に大きくなった。医療保険への政府の関与を減らし、市場の競争を促進すべきだというのが共和党の主張だった。実際に共和党は、オバマ前政権の時代から、議会でオバマケアの廃止を何度も議論してきた。 得られない国民の支持 トランプ政権の誕生によって、共和党は宿願をかなえる絶好のチャンスを手に入れた。 成立から7年が経過したオバマケアには、対処すべきいくつかの問題点が浮上していた。力を入れてきた個人保険においては、保険料の高騰が伝えられる。地域によっては、採算が取れなくなった保険会社が撤退してしまい、個人による保険の購入が難しくなるところも出てきた。連邦政府の財政負担が増え続けている点も、大きな問題である。 ところが、いざ議会での審議が始まってみると、共和党による代替案は国民の支持を得られていない。各種の世論調査では、共和党の代替案を支持する割合は20%を割り込んでいる。国民にとっては、改悪と思えるような提案だからである。 次のページ 問題が多い代替案 確かに共和党の代替案では、医療保険に対する政府の関与は小さくなる。オバマケアでは、保障しなければいけない医療サービスの内容や、保険料の設定について、さまざまな規制が設けられていた。共和党は、こうした各種の規制を緩和して、保険会社の競争を促進しようとしている。保障しなければいけない医療サービスの範囲が狭くなったり、リスクに応じて保険料を柔軟に設定できるようになれば、保険会社は採算が取りやすくなる。市場からの撤退は少なくなり、競争によって保険料の低下も期待できる、というのが共和党の目算だ。また、連邦政府による財政負担も、向こう10年間で約3,200億ドル減少するという。 三つの不都合な真実 しかし、国民の観点からは、三つの問題点がある。 第一に、無保険者が増える。CBOによれば、2022年時点の無保険者数は、オバマケアが維持された場合と比較して、2,000万人以上増加する(図1)。共和党の代替案では、オバマケアで実施されたメディケイドの拡充策が見直され、所得などの点で加入条件が厳しくなる。個人保険においても、保険料を補助する税制が縮小されることなどから、保険の購入をあきらめる人が増えそうだ。 yasuda20170630115202.jpg 第二に、個人で保険を購入する国民の負担が増加する。前述のように、共和党の代替案では、保険料を補助している税制などが縮小されるからだ。規制緩和によって競争が活性化するというが、それだけで補助の縮小を補えるほど保険料が下がるわけではない 保険料に限定すれば、オバマケアの時代と同じ程度の自己負担で医療保険に加入できないわけではない。ただし、保険の内容は貧弱になる。規制緩和によって、民間保険が保障しなければならない医療サービスの範囲は狭まる。既往症を理由に保険加入を断れない点は変わらなさそうだが、精神科やリハビリ治療などは保険の対象外となりかねない。また、保険料が低い保険では、保険を利用する時に自己負担する免責額が高くなってしまう。 第三に、負担は高齢者と貧しい層に集中する。 高齢者の負担が大きくなるのは、個人保険の分野だ。医療のリスクが高い高齢者は、ただでさえ若年層と比べて保険料が高くなりがちである。そこでオバマケアのもとでは、64歳の加入者に課せられる保険料は、21歳の加入者の3倍までに制限されていた。共和党の代替案では、この差が5倍にまで引き上げられる。保険会社とすれば、リスクに見合った保険料の設定が可能になるわけだが、結果的に、オバマケアの規制で抑えられていた高齢者の保険料は上昇しやすくなる。そのため、オバマケア時代と同程度の内容の保険に加入しようとした場合には、高齢者ほど保険料の自己負担額は増加する(図2)。 yasuda20170630115201.jpg 年齢による保険料の格差拡大を容認する背景には、リスクの低い若年層の保険加入を促す狙いもある。個人保険の市場を安定させ、保険会社による撤退の動きを抑制するためだ。しかし代替案には、保険料に対する補助金カットが盛り込まれている。これは個人保険市場への強い逆風になる。CBOでは、共和党の代替案のもとでも、やはり保険会社の参入が見込めない地域は残ると予測している。 次のページ 保険料は下がらず無保険者は増加 貧しい層は、メディケイドの見直しに直撃される。2022年時点の代替案によるメディケイド加入者の減少数は、個人保険加入者の減少数の2倍以上に達する見込みである。 連邦政府による財政負担の減少に伴って、メディケイドがカバーする医療サービスが縮小されるリスクも見逃せない。とくに米国では、大きな社会問題となっている薬物中毒について、その治療がメディケイドから外れる可能性が問題視されている。 それだけではない。審議が見送られた共和党のオバマケア代替案には、富裕層に有利な減税が含まれていた。共和党の代替案では、オバマケアの財源として盛り込まれていた投資収益に対する追加税などが廃止されることになっていた。減税総額は10年間で約5,000億ドルを超えており、その7割近くが所得の高い上位20%の富裕層の懐に入る計算だった。 財政赤字の観点では、減税さえなければ、ここまで補助金などを減らす必要はなかった。何しろ、減税を除けば、代替案による財政赤字の減少は、8,000億ドルを超えていた。貧しい層は、割を食った格好だ。 課題に答えられない共和党 結局のところ、共和党のオバマケア代替案は、オバマケアの問題点に正面から答えていない。保険料は下がらず、保険が提供されない地域も残る。財政赤字こそ減るものの、その一方では、財政を悪化させる富裕層向けの減税が盛り込まれていた。それだけでなく、無保険者が増加する等、新たな問題を生み出してしまう。 オバマ前政権時代の共和党は、議会でオバマケアへの反対を論じてさえいれば良かった。たとえ廃止案が議会で可決されたとしても、オバマ前大統領が拒否権を発動するのは確実であり、共和党が代替案に責任を負う必要はなかった。 トランプ大統領自身は医療保険制度に詳しいわけではなく、さほど代替案の内容にもこだわりはないと伝えられる。政権政党となった今、共和党は責任ある対応を迫られている。 yasui-profile.jpg安井明彦 1991年富士総合研究所(現みずほ総合研究所)入社、在米日本大使館専門調査員、みずほ総合研究所ニューヨーク事務所長、同政策調査部長等を経て、2014年より現職。政策・政治を中心に、一貫して米国を担当。著書に『アメリカ選択肢なき選択』などがある。
貧しい層は、メディケイドの見直しに直撃される。2022年時点の代替案によるメディケイド加入者の減少数は、個人保険加入者の減少数の2倍以上に達する見込みである。 連邦政府による財政負担の減少に伴って、メディケイドがカバーする医療サービスが縮小されるリスクも見逃せない。とくに米国では、大きな社会問題となっている薬物中毒について、その治療がメディケイドから外れる可能性が問題視されている。 それだけではない。審議が見送られた共和党のオバマケア代替案には、富裕層に有利な減税が含まれていた。共和党の代替案では、オバマケアの財源として盛り込まれていた投資収益に対する追加税などが廃止されることになっていた。減税総額は10年間で約5,000億ドルを超えており、その7割近くが所得の高い上位20%の富裕層の懐に入る計算だった。 財政赤字の観点では、減税さえなければ、ここまで補助金などを減らす必要はなかった。何しろ、減税を除けば、代替案による財政赤字の減少は、8,000億ドルを超えていた。貧しい層は、割を食った格好だ。 課題に答えられない共和党 結局のところ、共和党のオバマケア代替案は、オバマケアの問題点に正面から答えていない。保険料は下がらず、保険が提供されない地域も残る。財政赤字こそ減るものの、その一方では、財政を悪化させる富裕層向けの減税が盛り込まれていた。それだけでなく、無保険者が増加する等、新たな問題を生み出してしまう。 オバマ前政権時代の共和党は、議会でオバマケアへの反対を論じてさえいれば良かった。たとえ廃止案が議会で可決されたとしても、オバマ前大統領が拒否権を発動するのは確実であり、共和党が代替案に責任を負う必要はなかった。 トランプ大統領自身は医療保険制度に詳しいわけではなく、さほど代替案の内容にもこだわりはないと伝えられる。政権政党となった今、共和党は責任ある対応を迫られている。 yasui-profile.jpg安井明彦 1991年富士総合研究所(現みずほ総合研究所)入社、在米日本大使館専門調査員、みずほ総合研究所ニューヨーク事務所長、同政策調査部長等を経て、2014年より現職。政策・政治を中心に、一貫して米国を担当。著書に『アメリカ選択肢なき選択』などがある。 http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/07/post-7899_3.php
世界潮流を読む 岡崎研究所論評集 欧州における「トランプの意外な効用」?岡崎研究所 2017/08/08 米ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が、Project Syndicateのサイトに7月6日付けで掲載された論説において、「トランプにも効用あり」という逆説を欧州に適用して分析しています。論説の要旨は次の通りです。 (iStock.com/leremy/ATINAT_FEI/jericho667) 最近フランスのある会議で何人もの欧州人が、トランプは結局のところ欧州にとって悪くないかもしれないと言って、米国の参加者を驚かせた。彼らの言い分が正しいかどうかチェックしてみよう。
ほとんどの点において、トランプ大統領は欧州にとってひどいことになっている。トランプは、EUを嫌っているようであり、メルケル首相よりエルドアン大統領、プーチン大統領との方が馬が合うようであるし、英国のEU離脱を歓迎している。NATOの第5条(集団防衛の義務)についても、なかなか再確認しようとしなかった。欧州では支持する者の多い気候変動に関するパリ協定からは離脱し、いくつかの国連機関への拠出も削減した。トランプ大統領は個人的にも、欧州での支持率が低い。 しかし、この不人気――反米ではなく反トランプ――が、欧州の価値観に梃入れをする効果を生んでいる。ナショナリズムとポピュリズムの合わさった最近の風潮は、トランプが選ばれた時が最高潮で、以後ポピュリスト政治家はオーストリア、オランダ、フランスで敗退している。EUからの脱退を強硬に主張したメイ首相も、総選挙で多数派を失った。 欧州の経済成長は未だ弱く、失業率も高く、2008年金融危機以来激化した国内の政治的対立も続いている。それでも、9月のドイツ総選挙で極端なナショナリストが首相になることはないだろう。 Brexitの交渉は厳しいものになろう。しかし、英国民はEUそのものに反対したのではなく、移民の多さに反対しただけであることに着目するべきだろう。英国がEUに入ったまま移民だけ制限しようとしても、EU側が許さない構えだが、ここには妥協の余地があろう。EUの核となる諸国と英国との間では移民の自由を認め、その外側にある諸国との間では制限するというやり方である。つまりEUを「重層的」なものにするのである。EUは既に、関税同盟、ユーロ(通貨同盟)、シェンゲン協定(域内移動の自由)という、重層的な構造になっている。 トランプが米国の信頼性を疑わしいものにしていることで、防衛面での欧州独自の協力が脚光を浴びるようになっている。欧州の共同防衛体制を築く努力が開始されているが、その動きは遅い。もともと、英国の他にはフランス程度しか、まともに国外派遣できる兵力を有していない。しかし、ここでも重層的なアプローチができる。ロシアの脅威にはNATOを強化することで対応し、バルカンで武力紛争(最近マケドニアは内戦の瀬戸際にあった)が起きるのを防ぐには欧州諸国がPKOを派遣できる。そして混乱するリビアの安定化、地中海を渡海する難民の救出、北アフリカ及び中東での欧州人人質の救出等においては、フランス、英国、ドイツ等の兵力を用いることができよう。欧州は、簡単には共同防衛体制を構築できないだろう。しかし、その必要性は高まっており、皮肉にも不人気なトランプがそれを促進するかもしれないのである。 出典:Joseph S. Nye Jr.,‘Trump’s Gift to Europe’(Project Syndicate, July 6, 2017) https://www.project-syndicate.org/commentary/trump-spurs-european-defense-integration-by-joseph-s--nye-2017-07 ナイ教授はこれまで「ソフト・パワー」などの言葉を駆使して、世界を主導する米国のイデオローグ的存在として振る舞ってきました。同氏は「ソフト・パワー」とは正反対のトランプの登場で意気消沈しているというわけでもないようで、ここでは「トランプという毒の効用」という逆説的アプローチを編み出し、それを欧州に適用しています。「重層的協力」が彼の新たな標語となりました。これは、緊密度の異なる組織が重層的に存在、活動して、全体的には西側の価値観、利益を実現する体制とでも言えるでしょう。一つのヒントにはなる考え方です。 ナイ教授は、米欧における国家主義的ポピュリズムが引き潮にあり、EU解体の勢いも止まったと述べています。ポピュリズムのマグマは今でもありますが、EU解体の勢いが止まったことは事実であり、投資家のジョージ・ソロスなどは英国で再選挙が行われて、Brexitが否定される可能性すら指摘しています。イタリアの銀行危機は解決され、ECB(欧州中央銀行)は金融緩和からの出口を探る状況で、EU経済は上げ潮にあるとも言えるでしょう。 欧州独自の防衛体制構築には時間がかかるという点は、その通りでしょう。そのような体制は既に長年存在していますが、各国ともNATOとの二重投資を嫌がって、名ばかりの存在にとどまっています。ナイ教授が指摘している「フランス軍の域外行動」などは、既に何度も行われていることです。そして、トランプは、欧州にもっと軍事的負担を負わせたいと考えているだけで、欧州からの軍事的な撤退を考えているわけではないでしょう。欧州から撤退した米国は「偉大」ではあり得ないでしょう。その点をトランプが理解していることは、今回G20の直前にポーランドを訪問して、NATO第5条にも言及した上で、米国のコミットメントを強調して喝采を得た点を見ても明らかです。 なお、トランプ政権から「ネオコン」的な発想が消えていることは、歓迎すべきことかと思われます。民主主義を広めるのはいいことですが、それを反政府活動支援や武力介入によって実現しようとすると無用の混乱と人道的悲劇ばかり呼ぶことになります。トランプ政権は麗しいイデオロギーを掲げませんが、逆に、キッシンジャー的な冷徹な利益と力の計算に基づいた取引ができる可能性のある政権であるとも言えます。これもまた「トランプの効用」と言ってよいのでしょう。 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10285
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