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「定年後いくら必要なのか」 考えてもムダだった
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171127-00000023-zdn_mkt-bus_all
ITmedia ビジネスオンライン 11/27(月) 7:43配信
「定年後は何かしなきゃ病」の呪縛をとく『定年バカ』
ある調査によると、ゆとりのある定年後の生活をするには「月額35万円」必要だという(これも怪しい平均額)。しかし、『定年男子定年女子』の共著者である大江英樹氏によると、現役時代には夫婦で月34万円かかっていたのが、定年後は22万円に減ったという。そう。結局問題なのは、自分の暮らし方である。定年後に1億円必要といわれようが、月に35万円必要といわれようが、そんな額まで他人に決められることはない。そんなものは各人の生活次第である。
ただし、自分で生活をコントロールするといっても、そのためにはひとつ条件がある。定年後に住宅費がかからないことである。この小さくない固定費が定年後まであるようなら、さすがに年金だけでは苦しいだろうと思う。
私の退職金が少なかったのは、なんの裏もない。そのままの事実である。大江氏も正直にこんなことをいっている。「私は定年退職時に預貯金がたったの150万円しかありませんでした」。おお、親近感がわくねえ、と私は思ったのである。彼は大手証券会社に38年間勤務した人だが、ふたりの娘を「中学校から大学まで私立に通わせ(エスカレーター式の名門校か……引用者注)、高校時代はそれぞれアメリカとオーストラリアに留学した」。商売に失敗した父親の「借金の肩代わりもしたため、お金は本当になかった」
ところがそのすぐあとに、「もちろん、退職金や企業年金、公的年金がでるということが大前提として」あったから「老後についてさほど心配はしていませんでした」。なんじゃそれ。おそらく定年後の生活はそれらを全部合わせれば十分暮らせて、お釣りがくるくらいの額があったのではないか。あまり「150万円」を強調しないでもらいたい。仲間かな、と共感した親近感を返してくれ。
ただ大江英樹氏の次の言葉は本当である。「持ち家があり、住宅ローンの返済が終わっている会社員の家計がそう簡単に破たんすることなどないと分かっていました。ぜいたくはできないけれど、食べていくくらいならなんとかなる」。つまり住宅費という固定費の問題である。この点に関しては、多くの専門家が、定年前にやっておくべきこととして「住宅ローンの繰り上げ返済」を挙げている。
私は定年後の準備というつもりではまったくなかったが、幸いなことに、定年前に住宅ローンを完済することができた。在職中、このことを私はまったく軽視していたが、定年後、そのことがどれだけ助けになったかが分かった。
●預貯金がもつところまでいく、という「やぶれかぶれ型」だって別にいい
定年後のお金の問題は、実は分かりやすい。あるかないか、だけが問題で、資産ン千万円、年金の月額が夫婦で30万円以上あるなら、ほぼなんの問題もない。住宅ローンが残っていたが、退職金で一括残額返済した、という人も一安心であろう。月に5万円足りなければ、働くしかない。
働きたくもなく、預貯金を切り崩すのも嫌なら、生活を切り詰めるしかない。投資は考えない。素人が手を出すにはリスクが大きすぎる。
資産家は別として、「お金の不安を解決」するには、これらのどれかしかないのではないか。いや、お金はないがどれも嫌なんだけど、という人には、つける薬はない、といいたいが、ないわけではない。稼ぎもせず、生活も切り詰めず(野放図なぜいたくをするのではない)、普通に生活して、預貯金がもつところまでいく、というやぶれかぶれ型である(預貯金がなければ、さすがにつける薬はない)。私は、そこまで思い切る度胸はないが、気分としてはそれに近いものがある。
私はそれを、なるようになる派といいたい。しかし実体は、破滅型だろう。それでも、そんな考えが好きなのは、お金のない不安やストレスとほとんど無縁でいられるからである。
どうせお金がないのなら、焦ったところでなんにもならない。なるようになる、なんとかなる、と気楽に考えたほうがよほどいい。お金の多寡は、自分の意志ではどうにもならないが(多少はなんとかなる)、気持ちは自分の考え方次第でどうにでもなるからである(相手がいる場合は、どうにもならないこともあるが)。
定年時に、退職者によって資金状況に格差があるのはしかたない。定年者ともなれば現実的だから、そのことを嫉妬したり嘆いたりする人は少ないと思う。満足はしていないにしても、ほとんどの人が自分の状況のなかでじっと生きているのではないだろうか。けっこう楽しく生きている人だって少なくないはずだ。お金はいうまでもなく生活の基礎だが、それだけで定年後の生活のすべてが決まるわけではない。生活はもっと総合的なものである。
●上流でも下流でもない間で生きるということ
「個人の年収と幸福度の相関」において、「年収が高くなるほど幸福度が上がる。ただし600万円を超えると幸福度は伸び悩む」という調査結果がある。調査対象はほぼ団塊の世代である。「『とても幸せ』に限れば、1200万円以上で15%と増えるが、『幸せである』と合計すると78%であり、800万円〜1200万円未満のシニアの82%よりも少ない。600万円以上収入があることは、幸福度にとってはあまり意味のないお金であり、1200万円以上あってもますます意味がないらしい」(三浦展『下流老人と幸福老人 資産がなくても幸福な人 資産があっても不幸な人』光文社新書、2016)
なるほどね、やはりそういうものか。私は1200万円の年収など一度としてあった試しはないが、それが「幸福度」にとっては「ますます意味がないらしい」というのは分かるような気がする。ただの安心料だろう。外車を5台持っていても、本当はそれほどうれしいはずがない。夫婦でお金を貯めて買った軽自動車のほうがよっぽどうれしいはずである。
にもかかわらず、金持ちはもっとお金が欲しくなるものらしい。それで投資詐欺にあったりしている。あれは、ただむやみにお金を増やしたいのだろう。
「1人暮らし世帯」においてもこんな調査結果がある。「子供のいる男性で『幸せである』は39%だが、女性は71%である」「孫がいる男性は『幸せである』が37%だが、女性は73%である」。この男女差の開きは意外である。「このように、男性は子供や孫がいても必ずしも幸せではない。むしろ、子供がいない人のほうが『幸せである』が40%と少し多い。孫がいない男性は『幸せである』が43%と明らかに多い。これは、現在のシニアでは、経済力が男性の幸福度を測る基準として重視されたからであろうか」
なるほど、子どもや孫よりも「お金」か。いかにも現実的である。しかし、そのお金にしても使いきれないほどはいらない、ということだ。歳をとればもう欲しいものなど、そんなにあるわけではない。巻末の藤野英人氏(投資ファンド会社社長)との対談で、三浦展氏は「結論は、『下流幸福老人』は、自分だけでなく他人の幸福を考える人、『下流不幸老人』は、お金が欲しいと言い続ける人、『上流不幸老人』は、夫婦や子供との関係が悪い人、でした」といっている。
うなづける指摘である。ただし、これもアンケート結果による比率である。あなたも私も入ってはいない。自分について知っているのは、私たち自身である。
定年や老後にかぎった話ではないが、メディアに取り上げられる例は、目立つ人か目立つことばかりである。定年の話でいえば、上は充実した生活を送っている人、下は公園や図書館で時間を持て余している人である。老後では、上は高級介護マンションでゆとりある老後を楽しんでいる人、下はその日暮らしの先に希望のない人。
いずれにしても取材に値し、世に報じる価値がある人でなければならない。三浦展氏のこの本でいえば「下流老人」と「幸福老人」である。大半ののっぺらぼうの中間は、面白みがないのだ。しかし統計にもアンケートにも登場しない現実の私たちは、「上流」でも「下流」でもなく、「幸福」でも「不幸」でもない間で、生きている。
(勢古浩爾)
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