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山一證券を潰した「たった1枚の通達」の威力
http://diamond.jp/articles/-/107726
2016.11.14 和泉虎太郎:ノンフィクションライター ダイヤモンド・オンライン
バブル退治のために平成元年(1989年)末、矢継ぎ早に打たれたさまざまな施策は、いずれも効果は大きかったものの、“やり過ぎた”側面も大きかった。後に「失われた10年(20年)」と呼ばれる大不況につながっていった、平成元年末の国の方針転換を改めて振り返ってみよう。
バブル退治の「バズーカ砲」が
効きすぎた
1989年12月末は、株価が史上最高値となる3万8915円87銭を付けた。バブルのピークとなった月である。社会的な関心ごとは特に、土地を持てるものと持たざるものとの埋めがたい格差に向かうようになった。
平成元年末に相次いで打ち出されたバブルつぶしに向けた政策によって、1990年代に入ると日本は歴史的な不況に突入することとなった。たった1枚の大蔵省(当時)局長名通達が、後になって4大證券の一角である山一證券の自主廃業につながるなど、これらの政策の威力は絶大だった。 Photo:Kaku Kurita/AFLO
実際、土地や株の暴騰や、カネ余りなどを抑える、いわゆるバブル退治のための「バズーカ砲」がこの月に続けて放たれている。
通常なら国民的な反対が起きそうな、「痛み」を伴う政策なのだが、このときの世間は、暗黙の了解の意思表示なのか、あるいは政策への期待の薄さからなのか、静かだった。結果として、この月に株価も土地もピークとなったのであるが、何のことはない、政府が寄ってたかって引きずり下ろしたのである。
まずは、地価対策。12月22日に土地基本法が公布・施行された。この法律は、それまで曖昧であった国の土地政策の理念が書かれており(だから基本法と名付けられている)、この法律を基に、さまざまなバブルつぶしが行われることになった。
その理念の中身を見てみよう。同法第1条で「適正な土地利用の確保を図りつつ正常な需給関係と適正な地価の形成を図るための土地対策を総合的に推進し」と、地価対策であることを宣言し、「土地については、公共の福祉を優先させるものとする」と、優先順位を付けた。そして4条でトドメを刺すように「土地は、投機的取引の対象とされてはならない 」と謳っている。
この理念を通じて出てきたのが、固定資産税とは別に、土地所有に税金をかける国税である地価税創設、金融機関へ不動産融資の総量を増やさないよう求める大蔵省(当時)銀行局長通達(いわゆる総量規制、90年3月)、課税強化を目的とした各種地価評価額の引き上げなどである。
これらの対策によって、土地保有にかかるコストが一気に上昇。土地の資産としての魅力が大きく削がれることになった。薬が効きすぎて、土地投機に突っ込みすぎた不動産関連企業ばかりでなく、不良債権を抱えた金融機関や一般事業会社の大型倒産が相次ぎ、日本全体が歴史的な不況に見舞われたことはご承知の通りである。
証券会社が震え上がった
大蔵省局長名の1枚の通達
株価はどうか。当時、証券会社が顧客である企業や金融機関から資金の運用を一任された取引(営業特金と呼ばれた)で、利益を約束した(というか、損失が出た場合は証券会社が補填する約束)が横行していた。これが異常な出来高を生み、市場が過熱する原因になっていた。この営業特金が株価対策の標的にされた。
官庁が御用納めとなる12月26日に、事後的な損失の補填を禁ずる内容の大蔵省証券局長通達(局長名から角谷通達と呼ばれる)が出された。通達は法律ではないが、規制下にある金融業界にあっては、絶対的な命令に等しい。国会を通す必要がないので、機動的に行政指導ができるメリットもある。
とくに大手4社(野村、山一、日興、大和)は、売買手数料ほしさに(なにしろ証券会社が自ら売買の指示ができ、その手数料が収入源となるのが営業特金。たとえは悪いが、泥棒にカギを渡したようなものだ)巨額の営業特金(と損失補填の約束)を抱えていたから、影響は甚大だった。ちなみに損失補填の禁止は92年には法制化され刑事罰も規定された。
大手、準大手はこぞってこの損失補填に手を染めており、国会で各社の社長が追及を受けた。特に準大手は経営危機から廃業や救済合併が相次ぐなど、証券スキャンダルはバブル崩壊を象徴する言葉となった。
後に業界団体がまとめた損失補填の件数は787件で総額は2164億円。そのうち4大証券が8割を占め、もっとも多かったのは、97年、簿外損失処理問題で自主廃業した山一證券である。名門・山一證券は、通達という紙一枚で吹っ飛んだのだ。
日本銀行は金融の引き締めに動いた。12月17日、第26代日本銀行総裁に就任した三重野康は、自民党の強硬な反対にもめげることなく、25日に公定歩合を3.75%から4.25%に引き上げた。
公定歩合とは、中央銀行が市中銀行に融資する際の金利。89年当時は銀行の金利は公定歩合と連動するよう規制されていたので、公定歩合の変更は実質的に市中金利の変更を意味した。しかし、規制緩和によって公定歩合では市中金利のコントロールができなくなり、金融調節の意味を失った。
いまとなっては公定歩合という言葉を聞くこともないのは、2006年から「基準割引率および基準貸付利率」と呼称が変わっているからであり、日銀の金融調節が短期市場にその場を移したからだ。
公定歩合6.0%!
日銀の大きな政策ミス
話がそれた。三重野康が圧力にもめげず、土地に象徴される物価の高騰に立ち向かう姿を「平成の鬼平」と評して持ち上げる向きもあった。
しかし、この12月を含め、翌90年8月まで計3回、6.0%にまで金利を引き上げたことは、当初想定以上に経済を萎縮させ、「失われた10年(20年という表現もある)」の原因を作ったとの評価が一般的である。
それがなにより証拠には、1982年以降消費者物価指数の伸び率は3%前後と落ち着いており、インフレの兆候はなかった。つまり、高騰していたのは土地や投資対象となった資産だけであり、それに対抗するために、経済活動全体に影響をおよぼす公定歩合を引き上げる必要はなかったのである。
ちなみに経済の急減速をみた日銀はその後、矢継ぎ早に公定歩合を引き下げ、95年9月には0.5%になっている。こんなところからも、当時の景気の悪化がいかに深刻だったか、そして、公定歩合の引き上げが大きな政策ミスであったかをうかがい知ることができる。
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