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今年1月にMRJの納入延期を発表した宮永俊一・三菱重工業社長 (c)朝日新聞社
三菱 「重工体質」で不祥事、本社主導の改革に現場ついてこず〈週刊朝日〉
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170531-00000027-sasahi-ind
週刊朝日 2017年6月9日号
三菱グループの「御三家」のうち、2社が苦境にあえいでいる。銀行では社長交代でトップ人事のごたごたが露呈。重工は社運をかけた純国産航空機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」で5度の納期延長の失態。さらに造船業でも豪華客船の製造に手間取り、1千億円の受注に対して累計2500億円超の特別損失を計上した。三菱の名門企業が苦難に陥った原因をジャーナリストの井上久男氏が探る。
「三菱は国家なり」。三菱財閥の祖、岩崎弥太郎が政商として国家の発展に深く関わり、寄与したイメージから語られる言葉だ。弥太郎は1884年、官業の長崎造船局を借り受けて造船業を始めた。この祖業でも、重工はMRJと同様な失敗を繰り返してきた。
客船世界最大手の米カーニバル傘下の独企業から豪華客船を2隻受注したが、設計に手間取ったうえ、1番船納入直前の2016年1月に長崎造船所で放火とみられる不審火が3回も発生。納入が予定より1年遅れた。
豪華客船建造では、デザインや内装の材料も欧州風にするなど、高級ホテル建設のようなノウハウが必要になる。受注後、そのノウハウがないと気づき、欧州から職人を連れてきてコストが莫大に膨れ上がった。
さらに深刻な課題も抱える。技術力の低下だ。
長崎造船所に出入りする技術者は話す。「設計力の低下が著しく、設計が製造に出す部品の『据え付け要領書』も作成できない技術者が増えた。現場を知らない人間が上司になり、無駄な設備投資も多い。技能伝承も含めて、人材育成ができていない」
MRJ事業と同様に過去とのしがらみを断ち切るため、宮永俊一社長は台湾新幹線プロジェクトの出身者らを責任者に据えるなど、門外漢を起用する人事をした。
しかし、効果は見えなかった。如実に示すのが、15〜16年にかけてのイージス艦の指名競争入札だ。
現在配備されている6隻のうち5隻が三菱重工製。重工はプライドにかけても落札すると見られたが、いずれも競り負け、業界から驚きの声が上がった。
「造船大手は工場の稼働率維持のため、商船と艦艇をミックスして受注しないとやっていけない。造船業のことがわかっていたら、商船と艦艇は分けないはず。イージス艦入札で2回連続負けたことは、素人が経営判断をやっている象徴」(業界関係者)。防衛ビジネスでの存在感が薄れ、15年度の防衛装備品契約額は50年ぶりに首位の座を川崎重工業に明け渡した。
不祥事も発覚した。「LNG(液化天然ガス)を運ぶ船のエンジンの燃費データをごまかした結果、多額の損害賠償金を取られた」(同造船所関係者)。客船だけでなく、LNG船の問題も業績の足を引っ張った。
「重工体質」という言葉がある。重工から分離独立した三菱自動車は、2度のリコール隠しや昨年の燃費データ不正など不祥事を起こすたびに、重工体質が原因と指摘された。官公需中心の重工は消費者を軽視するという意味で、自動車もそのDNAを引き継いでいると語られてきた。LNG船の不祥事で、重工自らがその体質を露呈する形になった。
三菱自動車は昨年、日産自動車に買収されたが、「重工にもっと余力があれば、反対していた」(自動車OB)。MRJや造船の失敗で資金が奪われるなか、重工は自動車株の売却方針をすでに決めており、反対しなかったという。
自動車の経営は、御三家の重工、商事、銀行が人・モノ・カネの面で支えてきた。なかでも、重工は自ら産み落とした会社ということで、歴代社長が自動車を「溺愛」した。名古屋航空宇宙システム製作所(名航)出身で社長・会長を務めた実力者の西岡喬氏は、重工相談役と自動車会長を一時兼任した。
00年、自動車が独ダイムラーと資本提携した際のことだ。御三家の足並みがそろわず、推進派の槙原稔・三菱商事会長(当時)と、反対派の相川賢太郎・重工相談役(同)がいがみ合い、自動車の河添克彦社長(同)が板挟みになった。昨年、燃費データの不正で引責辞任した相川哲郎・三菱自動車社長(同)は、賢太郎氏の子息。血のつながりも両社の結束を強めていたが、今や時代は変わった。重工の衰退は、御三家の結束力の弱体化につながるかもしれない。
重工は、宮永氏の社長就任前までの20年近く、売上高が2兆〜3兆円台前半で推移した。事業の入れ替えもわずかで、成長が止まったまま。これを変えようとした取り組みの一つが、事業所制解体だった。
同社は相模原、名古屋、神戸、広島、下関、長崎などに散らばった事業所単位で長らく経営されてきた。経理システム、給料の明細表、社内報も事業所ごとに違う。「重工は中小企業の集合体」と揶揄(やゆ)され、本社の役員より事業所長の権限が大きいことさえあった。
この結果、重複する事業もあったが、国内市場が右肩上がりの時代は問題なかった。しかし、国際競争が激化し、資本効率重視の経営などが求められてくる。
そこで、事業所制解体をめざしたのが、宮永氏の2代前の社長、佃和夫氏(現相談役)。製品ごとの事業本部制導入をもくろんだが、実現できなかった。後任の大宮英明氏(現会長)がようやく事業本部制を導入、発展的に解消する形で宮永氏が今のドメイン制度を採り入れた。
12〜15年にはガスタービンやフォークリフトなど中核事業との相乗効果が高い分野で、買収戦略を強化。10社を子会社化し、売上高を約8800億円増やした。中核でない事業は他社への譲渡を加速した。宮永氏の戦略は「売り上げを増やして投資余力をつけ、ガバナンスも変えて、競合の米GEや独シーメンスに追いつく」ことだった。
しかし、本社主導で目まぐるしく進む構造改革に、「地方分権体質」が染みついた現場組織がついていかない。それが迷走の一因のように思えてならない。
かつて宮永氏と同じ苦しみを味わったのが、松下電器産業(現パナソニック)社長の中村邦夫氏(現相談役)。「破壊と創造」を掲げ、創業者・松下幸之助以来の事業部制を解消、03年に子会社も含めて14の事業領域別にくくり直すドメイン制を導入した。
中村改革と宮永改革は、発想と手法が似ている。
当時の松下も重複事業があり、資本効率を追求する経営スタイルから、事業部制を廃止した。パナソニックへの社名変更後も、売上高は7兆円前後が長く続いて成長から取り残された。
中村改革以降、組織いじりとリストラが続く。成長軌道に乗ったとは言えず、中村氏が経営トップから退くと、事業部が復活した。
戦後、トヨタ自動車がクルマで日本経済を牽引した「大衆製品の横綱」ならば、三菱重工は国家や産業向けの大型製品で成長を支えた「重厚長大製品の横綱」。一時は700超もの製品を抱え、「機械のデパート」と呼ばれた。巨大企業は再生するのだろうか。
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