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「定年後」は部長より高卒叩き上げが元気
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170521-00022045-president-bus_all
プレジデント 5/21(日) 11:15配信
60歳からの定年後の自由時間は8万時間あるという。自分の定年後の人生を活かすかどうかは自分次第。まさに「人生は後半戦が勝負」なのである。『定年後』著者が定年後の現実を明らかにする。
■「定年後は再スタート」という意味
今回、中央公論新社から『定年後――50歳からの生き方、終わり方』(中公新書)を刊行した。私自身は2年前に還暦を迎えて、以前から関心のあった「定年後」について徹底して考えてみたいと思った。そのため65歳までの雇用延長を選択せずに、どこの組織にも属さない無所属の日々の中で執筆に取り組んだ。本書を書くに際して、数多くの定年退職者、現役の会社員、地域で活動している皆さんから、ご意見・感想をいただき自らの体験を語っていただいた。また私の会社員当時の先輩、同僚および学生時代の友人にも大いに助けられた。
この中で感じたのは、定年後は再スタートだということだ。在職中に高い役職や多額の収入を得ていたからといって、必ずしも定年後が輝くとは限らない。お金や健康、時間のゆとりだけでは問題は解決せず、社会とのつながりや家族との良好な関係、地域での居場所も大切だからだ。
一方で、個々人は今まで経てきたキャリアや過去の経験を急に転換することはできない。定年後は再スタートになるといっても個人は簡単には変われない。この矛盾が定年後をイキイキ過ごすのを難しくしているとともに、自分を見つめ直すことができるという意味では各人の知恵や工夫の発揮のしどころでもある。そこに妙味を感じる。
定年後は、60歳になっていきなり始まるのではなく、それまでの働き方、生き方が密接に関係している。多くの定年退職者の話を聞いていると、40代後半や50代から定年後はすでに始まっていることが分かる。しかし50歳前後の会社員で定年後を明確に意識している人は極めて少ない。
知人の研修講師が、あるメーカーで当年度に50歳になる社員全員を集めた研修を行った。「60歳の自分」というテーマで5、6人のグループで自由討議を実施したそうだ。そのワークの中で面白い場面があったという。
初めは各グループとも部長や部次長が議論を引っ張っていた。いわゆる社内のエリート層が主導権をもって進めたのである。
しかし具体的な討議を進めていくと、一部のグループでは、高校を卒業して地元の工場で働いている社員たちが積極的に話し始めた。半面、口火を切った部長の声は小さくなり、後半はほとんどしゃべらなくなったそうだ。
■なぜ定年後は役職と相関しないか
地元で働いている社員は、60歳以降の自分の生活を具体的に語ることができたのに対して、本社にいる役職者たちは自らの姿が見えないことに気づいた。そして議論の主導権は転換したというのだ。
この研修の話を聞いた時に、甲子園で活躍したことがある社員のことを思い出した。彼はプロ野球を目指していたがドラフトにかかるほどの力量はなかったので社会人野球で選手を続けた。その後引退して、その会社の社員として働いている。
彼は、「プロ野球に進めるだけの力量がなくてよかった」という。なぜかと聞いてみると、プロに入団すれば18歳や22歳で周囲からちやほやされる。収入も普通の社会人では想像できない金額を手にする。しかしたとえ一軍で活躍できたとしても選手寿命は長くはない。コーチや監督で野球の世界に残れる人はほんの一握り。引退した時に、野球以外のことは何も知らないので第二の人生で苦労する人が多いというのだ。「引退しても会社の仕事に打ち込めるのは本当にありがたい」と語っていた。
ここではメーカーで出世した人と地元の工場で働く人との比較や、プロ野球選手と社会人野球選手との待遇を対比するのが本旨ではない。野球に秀でていて、また社内で高い役職を担って脚光を浴びていたとしても引退や定年後には持ち越せないということだ。会社での役職と定年後は必ずしも相関しない。会社の仕事に比重をかけすぎていると、かえって定年後が厳しくなることも考えられる。
私が「定年後」について関心を持ってから15年になる。実は47歳の時に会社生活に行き詰まって体調を崩して長期に休職した。
その時に、家でどう過ごしてよいのかが分からなかった。外出はできる状態だったのだが、行ける場所は、書店か図書館、あとはスーパー銭湯などの温浴施設くらいだった。テレビの前から離れず、リモコンのチャンネルを変えることが癖になっていた。
その時は、会社を辞めることも頭に浮かびハローワークに行ったこともある。パソコンの求人画面で検索してみると、50歳前後では魅力ある仕事は多くなかった。一定の収入があるのは、歩合制と思われる営業の仕事が中心だった。
そのほかにも喫茶店の開業支援セミナーや不動産投資セミナー、コンビニの店長になるための説明会に何回か参加もした。しかし何ら特技もない自分は、再就職も独立も簡単でないことを思い知らされた。
■休職は「定年後」の予行演習だった
当時は50歳に手が届くころだったので、まだまだ定年後までは考えが及んでいなかった。しかしこのままでは退職後は大変なことになるだろうという予感は十分すぎるくらいあった。
また会社に復帰した後、定年で現役を退いた先輩に話を聞き始めた。数人に会って感じたのは、彼らが思ったよりも元気がなかったことだ。名刺には、○○コンサルタントや自治会の役員などいろいろな役職が書かれていたが、昔のバリバリやっていた姿から見ると背中がやけに淋しい人が多かった。
ある先輩は声をひそめて「楠木君よ、実はこのまま年をとって死んでいくと思うとたまらない気持ちになることがあるんだ」とまで語ってくれた。
これらの体験があって、会社の仕事だけではなく何かをやらなければならないという気持ちが生まれた。そして右往左往、試行錯誤の結果、50歳から著述関係に取り組むことになったのである。今から振り返ると、休職したことは定年後の予行演習だったというのが実感だ。
50代になると、自分はもうロートルだと思い込んでいる会社員は少なくない。しかし次回で詳しく述べるが、60歳からの人生における自由時間は8万時間もある。これは20歳から働いて60歳まで40年間勤めた総労働時間よりも多い。つまり会社員生活で、若い時は上司の指示を忠実にこなし、中高年になって組織の一線で活躍して、役職定年になって落ち着いて仕事をしてきたすべての労働時間よりも多い自由時間が生まれる。定年後の持ち時間は決して少なくないのだ。イキイキと活躍している定年退職者を見ていると、ふんだんに時間が使えることがとても豊かであると感じるのである。
■「終わりよければすべてよし」の理由
そして多くの会社員や定年退職者の話を聞いていて感じるのは、「終わりよければすべてよし」ということだ。先ほど述べたように若い時に華々しく活躍する人も多い。それはそれで素晴らしい。ただ悲しいことに人は若い時の喜びを貯金しておくことはできない。大会社の役員であっても、会社を辞めれば“ただの人”なのである。
一方で、若い時にはそれほど注目されず、中高年になっても不遇な会社生活を送った人でも、定年後が輝けば過去の人生の色彩は一変する。そういう意味では、「人生は後半戦が勝負」なのである。もちろん他人との比較した意味での勝ち負けではなくて、せっかく生まれてきた自らの人生を活かすことができるかどうかの自身に対する勝ち負けである。
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楠木新(くすのき・あらた)
人事・キャリアコンサルタント
1979年 京都大学法学部卒業後、生命保険会社に入社。人事・労務関係を中心に、 経営企画、支社長等を経験。勤務と並行して、「働く意味」をテーマに取材・執筆に取り組む。15年3月定年退職。現在、神戸松蔭女子学院大学人間科学部非常勤講師。著書に 『人事部は見ている。』、『サラリーマンは、二度会社を辞める。』、『経理部は見ている。』 (以上、日経プレミアシリーズ)、『働かないオジサンの給与はなぜ高いのか』(新潮新書)、 『左遷論』(中公新書)など多数。17年4月に『定年後-50歳からの生き方、終わり方』(中公新書)を出版。
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人事コンサルタント 楠木 新
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