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株式市場に氾濫する、いかがわしい「物語」 その中毒性の餌食にならないために…
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51371
2017.04.08 寺田 悠馬 株式会社CTB代表取締役 現代ビジネス
物語の中毒性
今月は、株の投資に失敗した話をしたい。
ある企業の株価が、これから大幅に上がるかもしれない――。筆者がそう思い始めたのは、同社の主要製造拠点の一つ、東南アジアの工場を訪問していた時だ。
当時株式投資の仕事に従事していた筆者は、同工場を定期的に訪れては、工場長に話を聞いていた。入り口で支給される安全ヘルメットをスーツ姿のまま頭にかぶり、革靴の上から除菌用の紙スリッパを履いた滑稽な出で立ちで、生産ラインが並ぶフロアに踏み入れるたびに、居心地の悪さに襲われる。
辺りを見渡せば、安全ヘルメットとごく自然に調和する、作業服と白いスニーカーに身を包んだ人ばかりである。彼らの仕事を、あくまで安全な距離から傍観し、恣意的な投資判断を一方的に下すという、いささか暴力的な筆者の訪問目的を、服装の違いは厚かましくも露呈させていた。
製造業と、それに資本を供給する金融産業の自然な接点とはいえ、他者の聖域に文字通り土足で上がる筆者の醜態を、工場長はしかし、いつも寛大に許容してくれた。だがその日に限って、工場長は、安全ヘルメットの下から苛立ちの表情を隠せずにいる。
話を聞くうちに判明したのは、場違いな服装の訪問者に構っている暇など少しもないほど、工場の稼働率が急上昇していたことだ。
何らかの理由で、同社の製品に対する需要が高まっている――。
帰国後、筆者は同製品を扱う小売りや競合他社の状況も調べてみた。そして、今後同製品の出荷台数が増加すること、株式市場はその増加を未だ予想していないこと、出荷台数が増加すれば同社の株価が上昇することを、それぞれ予測した。
筆者はつまり、そこで一編の「物語」を捏造したと言える。「市場の予想に反して、当該企業の主力製品の出荷台数は、飛躍的に増加する」。そんな他愛もないあらすじの、一編の「物語」だ。
資本市場には、つねに数多の「物語」が氾濫している。
「米国の住宅価格は緩やかな上昇を続ける」
「中国産の鉄鋼製品の品質が上がり、日本の製鉄所は価格競争に破れる」
「煙草の小売価格が上昇しても、先進国の喫煙率は下がらない」
登場人物や場面の数が異なる様々な「物語」が、国境や産業セクターを超越して、また多くの場合互いに矛盾を孕みながら、何層にも厚塗りされた場所が資本市場だと言える。
筆者は調査と分析を重ねて、そんな「物語」の一つを構築し、そのあらすじに沿って投資して、そして失敗したのだ。
かかる失敗の原因を、筆者は差し当たり「物語の中毒性」と呼びたい。
不健全な執着が失敗を生む
東南アジアの工場で捏造した一編の「物語」に、いつの間に中毒になっていたのか、今となってはわからない。だがこの銘柄の株価が、少なくとも当初、大幅な上昇を遂げたことは決して無縁ではないだろう。
自らが保有する株が上昇する時の興奮を、投資経験をもつ人なら、誰しも一度は味わったことがあるはずだ。その瞬間には、金銭的な利益だけでなく、自分の判断が正しかったという確信に対する、代え難い快感が伴う。構築した「物語」の正当性が圧倒的な自己肯定をもたらし、エンドルフィン(脳内麻薬)が分泌するのだ。
だが右肩上がりのグラフの美しさに執着した筆者は、大切なことを見落としていた。確かに「物語」のあらすじ通り、製品の出荷台数は増加したが、その増加率は限定的であり、目下の株価上昇率を正当化するには不十分だった。つまり、出荷台数の増加以外に、何か別の要因が株価の動向に作用している。この可能性を、筆者は見落としていた。
いや正確には、その可能性について、見て見ぬ振りをしていたと言わざるを得ない。決められたあらすじを忠実になぞるかのような身振りを見せる「物語」を否定して、禁欲的な態度で事実検証に徹する規律を、筆者はその時欠いていたのだ。
だが「物語」への不健全な執着が、投資を失敗へと導く。
株価の上昇がひと段落した後も、なお「物語」の盤石性を過信した筆者は、株を売る決断を先送りにし続けた。実際、製品の出荷台数は増え続けさえした。だが同時に、企業にとって不利益な法改正の可能性が、当時報道され始めたのも事実である。
そして決算発表の日、筆者はついに失敗を認めざるを得なくなる。俄かに報道されていた法改正が間接的に作用し、利益は伸び悩み、株価は急降下した。結果、筆者は当初の上昇時に得た利益以上の損失を被った。皮肉なことに、東南アジアの工場で生産される主力製品だけは、なおも出荷台数を伸ばしたことが決算書から読み取れたのだ。
この投資は、計上した損失金額の大小以前に、筆者が捏造した「物語」のあらすじが、一貫して株価の動向と無縁であった事実において、圧倒的な失敗と言える。当初の株価上昇も、またその後の下落も、筆者の「物語」とは無縁の場所で演じ続けられた。
一方で、「物語」の直線的な軌道から乖離した場所で、より重要な情報が浮上していたわけだが、「物語」に固執する筆者は、それらを例外的なエラーとして視界から排除していた。
投資のために構築した「物語」にもかかわらず、その完全性を維持すること自体がいつしか目的と化し、筆者はすっかり中毒者の身振りで、「物語」を手放すことを拒んでいたのだ。
自尊心と「物語」の狭間で
出荷台数の増加を予測する他愛もない「物語」は、なぜ中毒性を孕んだのか?
そもそも煩雑な情報が大量に流通し、恒常的な目眩を誘発する資本市場において、一本の筋が通った「物語」の発見は事件に相当する。それは高揚感を伴い、また荒波の渦中に流木を見つけたような安心感をも与えてくれる。「物語」は希少であり、それだけに、一度見つけてしまうと手放すには勇気がいる。
だがそれ以上に、「物語」は、これを捏造する作者の自尊心ともつれ合うことで、中毒性を孕んでいく。つまり、東南アジアの工場で構築した「物語」が、「企業の製品出荷台数が増加する」という他人事だけであれば、筆者はそれほど固執せずに済んだはずだ。新しい情報が浮上した時点で、「法改定によって企業の収益が悪化する」という別の「物語」に、涼しい顔で乗り換えることができただろう。
こうした身振りに転じられなかったのは、問題の「物語」に、もう一つ別の、筆者自身にまつわるあらすじが含まれていたからだ。つまり、「出荷台数の飛躍的な増加は、ほかのすべての市場参加者を差し置いて、自分こそが、独自の調査と分析に基づいて解明できた」という傲慢な伏線がそこに隠蔽されていた。
「市場の予想に反して・・・」という序文に始まる「物語」は、かくして筆者の自尊心と結合し、そこに癒着関係が発生したために、筆者はこれを容易に手放せない中毒者と化したのだ。
こうした自意識は、しかし「物語」の捏造に欠かせないエネルギーでもある。
言うまでもなく、株式投資の利益とは、現在の株価と将来の株価の差額でしかない。そして現在の株価は、数多の聡明な市場参加者の総意として形成されたものなのだから、投資という行為は、生来的に、この総意に抗って異議を申し立てる「物語」の構築に他ならない。
すでに何層にも「物語」が厚塗りされた資本市場において、なおも「市場の予想に反して・・・」と厚顔無恥な序文を大胆に打ち上げ、独自の「物語」を構築する欲望に従って、投資は行われる。この欲望は傲慢なものに違いないが、少し見方を変えれば、呆れるほど楽天的で、遊び心と若さにさえ満ちていると言える。そしてこの欲望が、資本市場の動力であることは間違いないのだ。
だから株式投資家は、「物語」を捏造する傲慢な欲望をあくまで肯定しつつ、同時に、「物語」は所詮虚構であるという禁欲的な態度を維持して、自尊心と「物語」の癒着に抗い続けなければならない。投資という行為のこうした不可能性を百も承知の上で、なおも確信犯的に、「物語」の構築と破壊の反復を演じ続けなければならない。これを怠って運動が硬直すると、「物語の中毒性」の餌食となってしまうからだ。
不健全な共犯関係の末に
現在は株式市場を離れ、別の仕事に就く筆者に、現役の投資家として活躍する諸先輩を差し置いて、金融の「専門家」を装う意図などいささかもない。それでも今月、株の投資に失敗した話をする欲求に身を委ねるのは、かかる失敗の原因となった「物語の中毒性」が、今なお不安の種として、筆者にしつこく纏わり付いているからだ。
この連載では、現代美術、プロスポーツ、留学支援教育など異なる分野の事象を例に、社会に流通する様々な「物語」と、その暴力性について検証してきた。
「第二次世界大戦と冷戦の勝者たるアメリカは、資本主義と民主主義という秩序を世界にもたらし、その中心として君臨する」
「これからの時代、海外の大学に学部留学しなければ成功できない」
こうしたいかがわしい「物語」の数々が、その作者、観客、あるいはその両方の欲望を満たす形で、社会に厚塗りされている。
これら「物語」の氾濫は、資本市場におけるそれと同様に、ひとまずは肯定されなければならないだろう。我々は、大量に流通する煩雑な情報と貪欲に戯れて、理解できないものを理解し、無秩序を少しでも秩序に変換しようとして、「物語」を捏造していく。こうした身振りは、社会の動力となるものに間違いない。
だが捏造された「物語」が、その作者の自尊心と結合すると、そこにはたちまち不健全な共犯関係が生まれる。奔放な好奇心に任せて、新しい情報と無邪気に戯れていたはずの作者は、いつしか既存の「物語」の維持だけに固執し、やがて「物語」のあらすじから乖離する情報を、エラーとして視界から排除するようになる。
「物語」はかくして、安全・安心でありながら、貧しい要塞と化して、作者をその獄中に閉じ込めてしまうのだ。
そんな「物語の中毒性」に抗わねばと焦燥するたびに、今でも東南アジアの工場を思い出す。「物語」を必死に構築しては、すぐさま破壊する反復運動を、涼しい顔で繰り返す術を筆者は未だ知らない。
寺田悠馬 (てらだ・ゆうま)
1982年東京生まれ。株式会社CTB代表取締役。ゴールドマン・サックス証券株式会社、国外ヘッジファンド、株式会社コルク取締役副社長を経て現職。コロンビア大学卒。著書に『東京ユートピア 日本人の孤独な楽園』(2012年)がある。Twitter: @yumaterada
「金融業界の門をくぐって以来、日本と海外を往来するなかで再発見した日本社会は、7年前にニューヨークで想像した以上に素晴らしい高品質な場所であった」---世界を駆ける若き日本人から眠れる母国に贈るメッセージ。
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