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(回答先: 日本人には縄文人の遺伝子は10%しか入っていないです。 投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 01 日 19:40:33)
アイヌ人の起源
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人で、次いで和人/本土日本人であり、本土日本人とアイヌ人の共通性は約30%程である。
他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。
アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。
アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループ D1a2a が 87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。
ハプログループ D1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。
他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられる C2 が2/16=12.5%と報告されている。
アイヌ(アイヌ語ラテン文字表記: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны)は、もともと、北海道のみならず、北は概ね北緯50度線付近より南の樺太、東は千島列島、(また北海道、および)南は本州にまたがる地域に居住していた民族
人類学的には日本列島の縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集の続縄文文化が継続。オホーツク人と緊張状態にあった続縄文人からの要請を受け、王権の介入(阿倍比羅夫の蝦夷征討)が見られた7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られ、これをきっかけに擦文文化が始まる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。
その後、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取してアイヌ文化は生まれたと考えられている。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている。遅くとも平安時代末ころから道南に和人の定着が始まり、蝦夷管領安東氏の存在した13〜14世紀になると、農耕も開始された。
またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。
また、清から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった。
江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした。幕末、箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。
1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下[15][16]、一部がロシア国民とされた。
明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した。戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、イオマンテや入墨、耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される。
同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた。1875年、アイヌは地租改正により和人に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされた上、動物の減少を防ぐために伝統な狩猟、漁撈も制限され、生活も困窮の道をたどる。対策として、政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、無償医療の提供、冬季生活資料の給付、土地の無償下付や農具の給付など、様々な救済措置を実施した[17]。しかし北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったため、アイヌの生活改善は遅れた。
遺伝子調査
近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人で、次いで和人/本土日本人であり、本土日本人とアイヌ人の共通性は約30%程である。
他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。
アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。
アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる。
アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループ D1a2a が 87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。
ハプログループ D1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。
他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられる C2 が2/16=12.5%と報告されている。
HLA IおよびHLA II遺伝子、ならびにHLA-A、-B、および-DRB1遺伝子頻度の遺伝分析では、アイヌをアメリカ大陸の先住民族、特にトリンギット島などの太平洋岸北西部沿岸の人口に関連性が高いとされた。アイヌといくつかのネイティブアメリカングループの主な祖先は、シベリア南部の旧石器時代のグループにさかのぼることができると示唆されている[25]。ゲノムワイドなSNPデータ比較を使用した遺伝学的研究により、アイヌには独特の特徴があり、現代の他の東ユーラシア人とは異なる部分があり、その違いは、ヨーロッパ人において顔面の特徴を決定づける遺伝子だということがわかった。
アイヌは旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。
北海道縄文人集団
母系の系統を表すミトコンドリアDNAの系統解析から、北海道の縄文時代人・続縄文時代人の母系系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団の母系系統の頻度分布と大きく異なることがわかっている。
また、坂上田村麻呂による蝦夷征討以前の東北地方の古墳時代人には、北海道の縄文人・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察されることから、東北地方の縄文人も北海道の縄文人・続縄文人と同じ系統に属する可能性が指摘された。これを受けて東北地方縄文時代人のDNAと北海道縄文時代人のDNAが比較され、北日本縄文人の遺伝子型の中心となっているのはハプログループN9bおよびM7aであることがわかった。
北海道縄文人集団には、N9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている。このうち、N9bの頻度分布は64.8%と非常に高い。N9bはアムール川下流域の先住民に高頻度で保持されている。また、D10はアムール川下流域の先住民ウリチにみられる。G1bは、主に北東アジアにみられるハプログループGのサブグループで、カムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない。
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