最近、反安倍に変節したチャンネル桜の出演者を見てると、必ずこの話を思い出すんだ: 三島由紀夫の友人の素人作曲家が、戦時中「大東亜行進曲」という曲をつくり、北支、中支総司令官に贈り感謝状をもらった。そして戦後は、題名だけを「民主主義行進曲」に変え、GHQへ贈り感謝状をもらったという。 三島は言う。 〈私はどうも戦後の文化の状況を考えてみて日本人が一方に偏してしまい文化の中心のバランスを崩してしまったように思う。はやい話が戦争中、軍部に協力し鼓吹した人間が戦後たちまちオピニオンリーダーになって、こんどは平和主義、反戦主義、あるいは革命を唱え、あるいは日本の国家観念の破壊をくわだててきたという道すじをみると、私は筆をとる人間として恥ずかしくてしかたがない〉(「私の自主防衛論」) 習近平来日と新型コロナ騒動を口実に泥船から逃げ出す安倍ヨイショ連中 「だからあれほど言ったのに」という感想しか出てこない。 私は昔から安倍とその周辺は反日売国カルトだから、放置しておくと国が壊れると指摘してきたが、実際そうなってから、騒ぎ出す連中が増えてきた。 特に新型コロナウイルスを巡る政府のデタラメな対応は、そのツケを払うときが巡ってきたことを示している。残念ながら自業自得と言うしかない。安倍政権の7年間は、国と社会に対するテロだった。 安倍に騙されて安倍礼賛を続けてきたチャンネル桜は万死に値する。 「何を今更」である。その「無能」に媚びへつらい、礼賛してきたのはどこのどいつなのか? 手のひらを返したチャンネル桜関係者は安倍の壊国に加担した罪を悔いているわけではない。単に算盤をはじいて、習近平来日とコロナウイルス騒動を口実に泥舟から逃げ出そうとしているだけだ。仮にこの先、安倍が逮捕されるようなことがあっても、連中は知らぬ顔を決め込むのだろう。 “サル化”しているチャンネル桜の出演者
“サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです。
歴史学的なアプローチも探偵の推理術も同じです。目の前に断片的な情報が散乱している。そこから「何が起きたのか」をいくつかのパターンで考え出し、すべての断片をつなぐことのできるストーリーを選ぶというのが探偵の推理術です。それが論理的思考ということです。 でも、チャンネル桜関係者は論理的にものを考える力そのものが全く無い。 広々とした歴史的スパンの中で「今」を見るという習慣が無い。 時間意識が縮減したのです。それが「サル化した人間」です。 「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から採りました。サルたちにこれまで給餌していた8つの栃の実を7つに減らすことになったとき、「朝3、夕方4ではどうか」と言ったらサルは怒り出し、「じゃあ、朝4、夕方3は?」と言ったら狂喜した。朝の自分と夕方の自分が同一であるということが仮想できなかったのです。ある程度長い時間を通じて自己同一性を保持できない人を笑ったのです。 中学の漢文の授業で習ったときは「変な笑い話だ」と思っていたんです。どうして「こんな話」が何千年も語り伝えられるのか、意味がわからなかった。でも、よく考えたら、漢文で習う「守株待兎」も「矛盾」も「鼓腹撃壌」も、全部春秋戦国時代のものですが、本質的に「同じ話」なのです。どれも時間意識が未成熟な人間を笑っている。 適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという “脅し” 「矛盾」の武器商人は、「矛を売っているときの自分」と「盾を売っているときの自分」が同一であるということをうまく想像できない。切り株に偶然ウサギがぶつかったら、次の日から野良仕事を止めてしまった「守株待兎」の農夫には「確率」とか「蓋然性」という概念がなかった。「鼓腹撃壌」では「皇帝の善政のおかげでみんな幸福に暮らしている」と歌う子どもたちと「オレの日常に皇帝は何の関係もない」とうそぶく老人が対比的に扱われていますが、この老人には「因果」という概念がない。「矛盾」も「蓋然性」も「因果」もすべてある程度長い時間を俯瞰する視座に立たないと発生しない概念です。 これらの逸話が春秋戦国時代に集中しているということは、おそらくその時期に「時間意識が成熟した人間」と「時間意識が未成熟な人間」が混在していたということだと思います。だから、「時間意識が未成熟な人間」を文明化することが社会的急務だった。こういう逸話が集中的に語られたのは、適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという「脅し」によって、人々を教化しようとしたからだと思います。 時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることです。過去の自分のふるまいの結果として今の自分がある。未来の自分は今の自分の行動の結果を引き受けなければいけない。そういう骨格のはっきりした、ある程度の時間を持ちこたえられるような自己同一性がその時代から要求されるようになった。 エマニュエル・レヴィナスが「時間とは主体と他者の関係である」という非常にわかりにくい命題を語っていますが、僕たちがそれが「わかりにくい」と思うのは、「時間意識」というものが伸縮するということを忘れているからです。ごく限定的な時間意識しか持たない人間と、広々とした時間意識を持つ人間がいる。 一神教信仰は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。 現代人が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないか だから「今だけ、自分だけよければ」という現代人に特徴的な時間意識の縮減は、それから2000年、3000年経って人類が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないかと思ったのです。
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