記紀自体が朝鮮人編集者が改竄・捏造したインチキ歴史書なんだよ より 2019年10月28日 8:59 AM 天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。 これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブーとして扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。 例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。 古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。 それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。 終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。 宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。 当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。 日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で生み出された概念に過ぎません。 現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。 民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、 同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。 この話はあるメディアに流れました。 こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで 爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。 返信 記紀自体が朝鮮人編集者が改竄・捏造したインチキ歴史書なんだよ より 2019年10月28日 9:00 AM 昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16 あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、 テレビで活躍中だった。 空港まで車で三宅さんを迎えに行った。 高速道路を走りながら車中で、 昭和天皇の話になった。 三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。 あの騎馬民族説の江上さんですね。 そう。 天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、 昭和天皇に質問したそうだ。 陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。 Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか? A:朝鮮半島だと思う。 Q:どうしてそう思われますか? A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。 これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。 と答えられたと。 三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、 もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。 現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。 古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。 と教えてくれた。 返信 記紀自体が朝鮮人編集者が改竄・捏造したインチキ歴史書なんだよ より 2019年10月28日 9:06 AM 記紀神話は朝鮮に伝わっていた古伝承を焼き直してでっち上げたもの 「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授 百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。 百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。 新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。 同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。 伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。 そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。 伽耶の国の建国神話があります。[史料4] 「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。 禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。 「所居北亀旨(クシ)」。 今も首露を祀っている廟があります。 「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。 変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。 「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」 と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1] 「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。 高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」 という言葉があります。 高千穂伝承には[史料2] 「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」 「日向の槵日の高千穂の峰」 「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。 いずれもクシという字があります。 朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。 それだけではなく 「日向の襲の高千穂の添山峰」。 それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。 わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。 朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。 韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。 『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。 高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。 天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。 返信 記紀自体が朝鮮人編集者が改竄・捏造したインチキ歴史書なんだよ より 2019年10月28日 9:22 AM 記紀の系譜は改竄・捏造したインチキ系譜だった 神武天皇から崇神天皇までの天皇は父子相続していた事になっていますが、それは天武天皇以降に古来からの伝統だった兄弟相続を父子相続に変えた事を正当化する為に行った悪質な改竄・捏造です: 7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると, 16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり, 仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。 応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。 しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。 また,記紀にみえる天皇の名称をみると, 7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ, 10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ, 12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ), 15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ, 27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると 7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に, 12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた と推定される。 これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。 10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。 同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。 これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。 返信 記紀自体が朝鮮人編集者が改竄・捏造したインチキ歴史書なんだよ より 2019年10月28日 9:26 AM 記紀の系譜は改竄・捏造したインチキ系譜だった 天皇は兄弟相続するのが古くからの伝統 「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。 闕史八代の天皇2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこに注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。 返信 記紀自体が朝鮮人編集者が改竄・捏造したインチキ歴史書なんだよ より 2019年10月28日 9:32 AM 神武東征は三世紀代の可能性が高い 長浜浩明の神武東征紀元前70年説は間違い 日本書紀によると神武の即位は紀元前 660年であるが、長浜は当時の暦は現在の半年が1年だったとし、再計算した結果 紀元前70年を割り出した。しかし書紀の紀年は ずれのあることがつとに指摘されているうえ、暦の長さが違っていたというのも確たる証拠があるわけではない。この説もにわかには信じがたい。 本書は言及していないが、古代天皇の在位年代に関して評者が注目するのは安本美典説である。 安本は記紀の伝える古代天皇の系譜は正しいと仮定したうえで、在位年代の確かな歴代天皇の在位期間を調べたところ、天皇の在位期間は古代になるほど短くなることがわかった。 その短くなり方は直線的である。その直線の傾きを最小二乗法によって決定する。すると古代天皇の在位期間が一定の確率のもとに推定できる。 この方法によると例えば神功皇后の在位期間が広開土王の在位と重なることがわかり、神功皇后の三韓征伐伝承の史実性を証明できる。 ちなみに神武天皇の即位は三世紀後半になる。 実測値を統計的に処理した安本説は説得力が高い. ___ 「日本書紀の神武紀」を見ると、神武一行は、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。 現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。 でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。 その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。 このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
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