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天皇陛下は現人神
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/376.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 05 日 09:53:46: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: メモ帳 _ 天皇一族は朝鮮人だった 投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 04 日 09:11:13)

天皇陛下は現人神


1: 777 :2009/07/19(日) 09:51:32

昭和天皇の原爆しょうがない発言


「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」


と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。これは動画で観られるとおりである。この動画を観て、「なんだ、昭和天皇はこの程度だったのか」とガッカリした覚えがある。いわゆる「現代史家」が神格化している昭和天皇は偶像であると私自身が気が付いてしまったのだ。

鬼塚氏は、昭和天皇と同じカテゴリに、いわゆる「吉田反戦グループ」(ヨハンセン・グループ)や海軍大臣の米内光政を入れて、宮中グループとヨハンセン・グループとして理解する。

米内は、原爆投下を「天佑」だとはっきり述べている。「しょうがない」という思いは、昭和天皇が1975年に発する前に、そして、思想的に複雑骨折を経ている戦後の久間大臣が誤解される形で、宮中グループとは別の意味で「しょうがない」と発言したよりも遙か前、戦争終結直前に米内によって表明されていた。

米内と昭和天皇は、保守派の文春文化人にとってヒーローである。陸軍はたたくが、海軍は批判しないというプレスコードが未だに残っている。


このグループが、皇室の財産保全のために、日本赤十字や、スイス銀行を使った資金の移し替えを行っている傍ら、終戦工作に乗り出していた、と鬼塚氏は指摘する。
これを裏付ける、ポール・マニングという作家の記述や、共同通信が二〇〇一年と二〇〇二年八月一三日が載せた記事もある。だからあながち否定できない。

さらに、このヨハンセンはグルーやスティムソン陸軍長官から、何らかの形で広島に原爆を投下するという情報を察知していたとするのだ。この根拠として、広島には陸軍の元帥・畑俊六がおり、畑元帥は原爆投下時に「松本俊一(外務次官)父君の別荘」にいて、司令部には出勤していなかったために、難を逃れた不自然さを挙げている。

鬼塚氏の主張を私なりに咀嚼すると、広島に原爆を落としたのは、抗戦派の陸軍の第二総軍を壊滅状態に置くという狙いがあったという。また、同じく第一総軍は、本部を東京に持ち、この指揮官の中に第一二方面軍の田中静壱大将がいる。鬼塚氏は、田中大将の45年8月24日の「自決」の時刻が、「森大尉が斬られた同じ時刻」である「午後11時すぎ」という、蓮沼侍従武官長の死の直前の回想記を根拠に、半藤本が書く「森大尉殺害」の時刻は実際よりも2時間も遅れていた、つまり半藤は嘘をついていると書いたのである。

共同通信の報じた、皇室の隠し財産の記事、これは重要であるから、「佐賀新聞」のデータベースを使って調べて保存しておかなくては為らない。

結局、鬼塚氏もまた、中央銀行ネットワークであるBIS(国際決済銀行)に行き着いた。このBISは、戦時中も敵味方となく資金決済をしていた。だからこそ、アメリカのロックフェラー・スタンダードやロスチャイルドのシェルが、パナマ船籍という抜け道を使って、日本やナチスドイツに石油を輸出し続けた、という話になる。あるいは、赤十字の船という抜け道をつかったらしい。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html



24: NONAME :2009/07/24(金) 00:21:49
>15. 731より。

待て。なんか >777のニセ者がいるようだ。みんな、注意しよう・・・。
  ( 本当の777さんの意見を聞こう )

25: NONAME :2009/07/25(土) 12:59:25
初歩的な質問で悪いが、数字777に何か特別な意味もたせてんの?
数字666に、獣の数字に対抗するとかなんとか、

26: 777 :2009/07/25(土) 15:29:38

777 は神を表す刻印ですから:


幸福の科学大川隆法 経歴詐称・学歴詐称

220 名前:ファルコン ◆7XmPtxANMU [antikkfalcon@gmail.com] 投稿日:2008/09/20(土) 17:27:01 ID:zCMiZyC3

そうすると、1990年の講演会「勝利の宣言」で
「自分の生まれは7月7日朝7時。777。」とか語っていたのは嘘だったんだよ。
はっきり認めた。

この自分の生まれの数値を特別視して自分には使命があるように
語っていたわけで、そしてそれが伝道にも使われていた。

初期の信者経験者なら知っている人も多かろう。

簡単に言おうか。嘘だったんだよ。
大川は7月6日生まれなのであって7月7日7時の生まれというのはウソだったのさ。
そしてその嘘で講演をし、嘘で人と金を集めた。そういうことさ。

そりゃ、生き残りの信者は怒るだろう。きょう子ちゃんも含めて。
大川は初期の頃から「自分は7月7日の生まれ」と語り、講演会でも
「777(なな なな なな)」とはっきり話していた。

そういったことに反応する人々が引き寄せられたわけだし、
伝道でも使われたし、それで信じた人もいたのに。
http://lexposition.blogs-de-voyage.fr/archive/2008/10/01/sashou.html

27: NONAME :2009/07/25(土) 18:39:36
大川の場合 宇宙ファンタジー サーガーってなもんで楽しめばいいじゃねえの。
百億の昼と千億の夜って漫画が昔あって読んでたことあったが、俺的には大川
面白いわ これで終わるんだけどね。信者からすればそうじゃねえんだろうな。
あんまり昔なんで漫画の名前まであやふやだったけど面白かったぜ。

28: NONAME :2009/07/28(火) 02:36:02
777は「ラッキーセブン」で、ファルコンは「ブラッディ・サンディ」に
登場した名前だと思うが・・・( なんだ、ネットゲームのお話か?)

29: 知人へのメール :2009/08/01(土) 03:50:14
さて先日予告していた月刊PLAYBOY誌での堀田、司馬の対談についてですが、この対談の行われる少し前に、昭和天皇の発言を、側近が記録していた物を集めた本が出版されていました。
 その本について堀田は「あんなモノは読まない。言い訳は聞きたくない。」とぶっきらぼうに答えたのに対して司馬は既にその本を読んでいたらしく、昭和天皇の「東條はいい奴だ」という発言について、「いい奴という発言には、いかにも為政者としての資質に欠けるものを感じる。そりゃ東條はいい奴でしょう。賄賂を受け取るような事はしない。しかし、一国の為政者が、そんなレベルで人を判断していた事に暗寒とした思いがする。」というような事をのべています。
私に言わせれば、植物学者を目指した人間を、たまたま皇室の長男に生まれたというだけで一国の統率者に据える天皇制自体が第二次大戦の破局を招いたのだと思えます。
 司馬遼太郎は、晩年のインタビューで、その破局へと突き進んだ原因として、天皇の統帥権の肥大化が原因だったと語っています。立憲君主制をとった明治憲法の不備により天皇の統帥権を軍部が無限に拡大する事が出来た。「大元帥閣下のご命令により」と言えば何をしても許されるようにしてしまった。それが原因だったと。
昭和天皇は、そういった明治憲法の解釈の限界を超えて自分の意志(開戦に否定的)を実現するだけの人間的な器を持っていなかったんだろうなぁ、と思います。ただその割に、ポツダム宣言受諾についての近衛上奏を直ぐに受け入れず、原爆や更なる大空襲の被害に国民をさらすのですが…。
 軍部はそんなおっとり刀の昭和天皇に業を煮やし、暗殺してでも開戦派の高松宮を天皇に据えようと画策した、とも言われています。

30: 777 :2009/08/01(土) 11:08:37
事実誤認していますね.
真相は昭和天皇はアメリカと密約を結んでアメリカの原爆実験に協力したんです:


第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/

昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。

この会見の場で、

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。これは動画で観られるとおりである。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html

31: NONAME :2009/08/02(日) 03:30:45
実際には
「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」
の後に、記者からの「テレビ番組はどのような物をご覧になっていますか?」という質問があり
「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」云々という下りになる

32: 777 :2009/08/02(日) 03:47:38
<「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」
の後に、記者からの「テレビ番組はどのような物をご覧になっていますか?」という質問があり
>

http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html

のビデオでは記者は何も質問していませんが?

33: NONAME :2009/08/02(日) 06:16:28
そのビデオは恣意的に編集されたものだ。
ビデオ録画を不自然さを感じさせず編集する事は、いくらでも出来る。
当日の生中継を見た者として事実を述べた迄だ。
思想的意図は無い、誤解無きように。

34: NONAME :2009/08/02(日) 17:45:06
天皇と「国家神道」の形成過程を知る上での重要資料として 昭和20年10月25日付

「 神道は日本の国教か 」っていうのがGHQの命をうけて
上智大学 の神父によって作成されたもんが有るみたいだぞ。
これがその後の天皇制のあり方決めたか。

35: 777 :2009/08/02(日) 18:53:20

<「 神道は日本の国教か 」っていうのがGHQの命をうけて
上智大学 の神父によって作成されたもんが有るみたいだぞ。
これがその後の天皇制のあり方決めたか。>

神道自体が明治時代に代わってしまったので,GHQの影響はあまり無いと思いますが:

国家神道は日本古来からの神道から大きく逸脱している。

 古神道は万物の中に神を見る。だが、国家神道は天皇と国家が神の全てだ。
 古神道では仏教との結びつきをみた。だが、国家神道は廃仏毀釈を行った。
 
古神道は敵をこそ手厚く祀る。それは無念の気持ちを持って死んでいった者達の祟りを畏れてのこと。
 だが、国家神道においては味方を手厚く祀り、敵の祀り方は非常に等閑なものだ。
 靖国には味方の戦没者しか祀られておらず、敵の戦死者は現地で細々と祀られればマシという程度。
 
梅原猛氏が主張するように靖国は古来よりの神道の伝統に反する。
 国家神道は明治の元勲が作り出した新興宗教であり、天皇を現人神かつ絶対神とし、天皇への盲従を強いるカルトといえる。
 ある意味、明治の元勲は日本を短期間で国民国家に作り変えるために「カルト洗脳」を用いたといえよう。
 カルト洗脳は悪だが、短期間の内に人を作り変えるには有効な手段だ。
 国家神道は日本を欧米列強に対抗できる国民国家とするための必要悪だったといえる。
http://www.abysshr.com/san/san_co06.html

諏訪大社や三輪神社が本物の神道ですね.

36: NONAME :2009/08/02(日) 20:19:17
まあ、そのとおりな、白人植民地主義者 こいつらの東南アジアにおける
植民地政策の過酷さ。そんな奴らと一戦交えようとした時、より国家神道は
過激になったんだ。 まあそれでも、あいつら白人が自身を半神と思い上がって
たそんな奴らを一旦は、ブチノメシしたんだからよ。いいんよ、あれで。
オランダ人なんか植民地失って、日本人のせいだ、なんてホザキやがってよ。
お前らどんだけインドネシア人虐待してたんだって。
ヨーロッパ人の鼻へし折ってやっただけで俺的には十分だ。
ヨーロッパのアブレ者のくせに、植民地でえばっていやがった野郎の顔面に
ワン・パンチ食らわせることできたなんざ、痛快じゃねえか。

37: NONAME :2009/08/02(日) 21:08:48
古神道=多神教
国家神道=一神教
の違いだ。
>明治の元勲は日本を短期間で国民国家に作り変えるために「カルト洗脳」を用いたといえよう。
これは山縣有朋の存在が大きいな。

38: NONAME :2009/10/24(土) 21:27:57


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      ここ;;∬:∬|ここ)''         \ヽ|'^Y^)
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39: NONAME :2009/10/24(土) 21:32:00

大正天皇は、

「勅語を読もうとすると、口をつぐんでしまって何もいえなくなる」

「勅語を読もうとすると、体が大きく傾いてしまう」

などの症状があったことから、脳血流の不足(おそらく何らかの理由による
能動脈硬化のため)があったことがわかる。

脳血管の病気であって、いわゆる「知的障害」ではない。

皇太子時代の大正天皇は知的好奇心も旺盛で、漢詩をよく作った。(天皇
になってからも、脳の調子が良いときには漢詩を作った。)
また、明治時代に日本が韓国を併合してからは、「自分は大和民族の統
治者となるだけでなく、朝鮮民族の統治者としても君臨せねばならぬ」と自
覚し、皇太子時代に朝鮮語を学び、日本史上唯一の朝鮮語を話せる天皇
だった。

しかし晩年になると、症状は進行し、これらの能力も失ってゆき、周囲との
意思疎通も困難になっていった。

40: NONAME :2009/10/24(土) 21:33:27

3 :名無し象は鼻がウナギだ!:2007/01/18(木) 15:06:14
そんなことないべ。
あの方の和歌や漢詩や書は、専門家のあいだでは、お世辞ぬきで評価されてるぜ。
・・・・ただ、あの方は、奇行が多かったようだけど・・・・。


4 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 17:35:17
よくいる芸術家肌のタイプだったんだと思う


5 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:17:46
書は確かにうまいよね。


6 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 00:50:36
奇行が多ければ知的障害者だっていうなら、芸術家なんか知的障害者ばっかりだ。
対象が天皇だから、天皇制に否定的な立場の人間が面白がって決め付けてるだけだろ。


7 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 17:42:16
詔勅の紙を丸めて覗いてたって言うけど、それで知的障害ですか?
そういうことってオレもよくやるんだよね
辞令の紙を丸めて覗いたことあるし

41: NONAME :2009/10/24(土) 21:36:54
8 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:16:16
>>7
ちゃんと巻けてるかどうかを確かめたのをそう勘違いされたと聞いたことある。


12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18
中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


53 :日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:44:44
厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み
原稿を手にする一人の紳士。その面前には百人超の議員達、実に恭しく
敬礼している。
が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。というのも壇上の紳士が
にわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、
辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の
業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞
がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家
の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか
通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃
雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口
中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。


54 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 15:43:29
ヒロヒトも他人の話に「あっそう」しか返せない知障だったろ


55 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 18:18:10
【18:976】海賊の孫大室寅之祐が明治天皇になったと言える14


56 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 18:39:59
昭和天皇もかなりの池沼だったと思うが

57 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:02:23
>>53
>現天皇のいとこ

誰だよ?


58 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:12:31
>>53
「見える 見える よく見える」

世紀の名言だなw

42: NONAME :2009/10/24(土) 21:41:29

73 :日本@名無史さん:2007/03/09(金) 23:52:33
>>8
巻けてるかどうかというより、国会の開会の際に巻いてある
詔勅の紙をパッと広げて読もうとしたら、上下逆だったため
持ちかえて読んだことがあった(ハズカシ)
そのため、それ以降は広げる前に丸めた状態で中をのぞいて
事前にちゃんと確認するようにした
その様を見た当時のある国会議員が「あの馬鹿帝、のぞいて
遊んでやがる(プギャー」と言いふらした。

近年それを裏付ける当時の女官の日記が発見されたらしい


79 :日本@名無史さん:2007/03/10(土) 02:36:45
>>53
これ名誉毀損だろw特に後半の存命の人物に触れてるとことか
ていうか近親相姦云々いうが、嘉仁は妾腹だったんだが、、、


111 :日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:54:18
父親から聞いた話(正しくは曽祖父→祖父→父)だが、
学習院初等科の卒業式の際、大正天皇(当時は皇太子)は卒業証書で折り紙を折れと御付の方に言い、
作ってもらった何か(飛行機や兜の類だったと思う)でケラケラ笑いながら遊んでいたという。
当然級友は見て見ぬ振りをさせられ(下手したら退学)、先生は叱るに叱れず(下手したら死刑)、学友の父兄は失笑すら禁止(左に同じ)。
公には写真すら出してはいけなかった。やんごとなき御家の黒歴史。


123 :日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:10:26
漏れの曽祖父、徴兵されて入営した後、近衛兵に抜擢されて明治帝に仕えていたそうなんだ。
曽祖父は漏れが生まれる前に他界していて、直接話を聞いたことがあるわけではないんだけど、
曽祖父が、当時、皇太子殿下の身辺警護の任に就いていたときのエピソードを、母より伝え聞いたことがある。

皇太子殿下から、「おまえ、馬になれ!」と命令されて、
四つん這いになって背中に皇太子殿下を乗せて、ハイドウドウとやらされたことがあったそうな。
また、皇太子殿下は紙をくるくると丸めて、望遠鏡のように周囲を眺める癖があったそうな。
別に漏れは、大正帝の知的能力がどうこうと言及するつもりはない。
だが、彼と同時代に生きた人間の証言を、ここに、参考材料として提供しておく。

43: NONAME :2009/10/24(土) 21:44:57

193 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 21:25:27
明治帝の息子で皇太子の身分になる男にあてがわれた妻は
華族の父親が女中に手をつけて生ませた娘。
母親の出自があまりに低いので、赤ちゃんの頃から豪農に預けられて育った
いわば「野育ち」の娘。
大正天皇が健康で知的で美貌だったら、わざわざ女中を実母に持つ娘を正妻にしなくても
いくらでも美貌の華族令嬢や宮家の姫がお相手になったはず。


194 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 22:46:29
てか、五摂家で年齢がつりあうのが貞明皇后とその姉しかいなかったんじゃない・・・?
宮家に範囲を広げても全員側室腹。
美貌でしかるべき身分の母を持つ鷹司家の姫君(貞明皇后の従妹)などはは年下過ぎる。
年齢が釣り合い美貌でしかるべき身分の母を持つ伊都子妃は大名家の時点で×
おそらく美貌でしかるべき身分の母を持つ岩倉具視の孫も候補にいたが時代が時代なら側室身分なので×


195 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:45:42
貞明皇后は、妾にもなれなかった、お手つきの女中の子ですが?


196 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:24:15
大正天皇の妃には最初、伏見宮貞愛親王の娘・禎子女王が内定していた。
しかし、健康上の理由から破談となり、健康的な九條節子(貞明皇后)が選ばれ、妃となった。


200 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 16:13:44
明治天皇の皇后一条美子も側室腹。
そもそも、大正天皇自身が側室腹なのに、
貞明皇后が側室腹で悪いことは何もない。
大正天皇の生母柳原愛子も、生母の名は公されず、
父光愛の正室ではない。愛妾腹であったことは確実。


201 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:28:38
>>199
>邸内ではそんなに引け目を感じることはなかったのでは?

その頃の日本は、妾を持つことは合法だったから
公爵の娘を産んだのだから、別邸を構えて堂々と妾生活も送れたはず。
ところが、貞明さんの実母の女中は、出産早々に子供と引き離され
九条家の屋敷から出され、実の娘の貞明皇后とは生涯会わなかったから
女中と言う身分は当時の感覚では相当な引け目だったんだろう。


202 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:36:45
昭和天皇は、母の出自を恥じていらしたそうですね。
特に英国留学から帰国して以降は。


203 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:32:40
>>201 貞明皇后と生母は皇后の誕生日とかにあってるよ ただ皇居は正門から入ることを許さず皇太后になってから大宮御所に住まうようになってから正門から通した
大正天皇とも道実夫妻とともに京都御所で拝謁してる この時浄操院(野間幾子)が道実夫妻より先に馬車に乗ろうとして道実に降ろされた事件?がありそれをみていた侍従かなんかが複雑な気持ちになったらしい

>>202 初耳だ KWSK


204 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:28:34
>>199
>>201
野間幾子は貞明皇后を産んだとき結構な年齢だったからお褥下がりになったのでは?(貞明皇后以前に道実、範子、籌子を産んでいる)
あと建前上は父の正室が母となるから生母が側室だと生母を母上とは呼べなかったらしい(有名どころでは徳川慶喜側室新村信・中根幸、松平慶永側室糟屋婦志、松平容保側室田代佐久・川村名賀他)
それと道孝の正室宗和子は大正初期まで生きていたはず


205 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:49:10
>>203
昭和帝は遊学先の英国で妾腹の子=庶子とは
どういうものか、知ったんだよ。


206 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 03:35:48
天皇は近親相姦に起因する劣等遺伝子を盛った奇形野郎だ

44: 秘密 :2009/11/15(日) 12:16:28

255 :日本@名無史さん:2007/05/25(金) 00:30:32

マサコは天皇の子(皇太子の子ではない)を産んだ。
秋篠はミチコの子ではない。悠は人工授精の子。

45: NONAME :2009/12/05(土) 10:39:15
日本の天皇家は古代からただひとつの家系がつながってきた。これは世界に類を見ない。また昭和天皇は敗戦の時にマッカーサーに対して、「全ての私財と自分の命をも放棄する。国民を救って欲しい。」と言い、マッカーサーはこれに感動したと学校では習ってきた。

 ところがこれらは全くの創作のおとぎ話であった。私達は米軍の策略にまんまと騙されてきたのだ。

昭和天皇が終戦時に国民を配慮した気配は全くない。ひたすら私財の保全にだけ心血を注いだ。それを米軍は日本支配の道具として位置づけることで国民の洗脳に成功した。
結局、学校教育は米軍の指図による創作だ。さらに右翼などは天皇システムを保護する事で米軍の日本支配に貢献してきたのだ。見事な策略と言うほかは無い。

立ち直る見込みのない、無能そして国賊的日本政府のていたらくは、殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである。

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社
日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、
欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、
欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを
公然許可すべき」という指示を天皇に与える。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に
「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、
天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。
(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い
仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で
大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は
天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」
日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は
「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の
売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族の
サギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。

その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性を
だまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の
売春業者であった。

46: NONAME :2009/12/05(土) 10:39:53

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」
された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に
売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。

数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、
三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、
全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の
新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を
「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する
「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と
協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が
蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた
米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で
1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、
女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、
ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で
「無給」で重労働を行っていた。

そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって
戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく
自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し
略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に
運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」
という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争
は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、
「天皇一族は金銭ギャングである」
と吐き棄てるように語っている。
(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

47: NONAME :2009/12/05(土) 10:40:24

1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は
この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、
海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、
スイスに850万ポンド、
ラテンアメリカに1004万ポンド等、
広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、
天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した
蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。
(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本を
どのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、
天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金
を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が
日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そして
スイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた
日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されて
いる最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など
何も考えていない事は明白である。
(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」
マルジュ社)。

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた
商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の
対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは
何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が
「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員
であったのか?

48: NONAME :2009/12/05(土) 10:41:02

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を
借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、
港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、
莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の
金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は
「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を
「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが
虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのも
スイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に
「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族
の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪
ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 
ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。

日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い
女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が
社会問題化し、それを禁止した法律であった。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」
(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の
「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、
1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、
日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇
の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し
米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、
人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語る
のがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の
無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607

49: 777 :2010/01/17(日) 13:19:06

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
 以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。

 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
 
 鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
 鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。

50: 777 :2010/01/17(日) 13:19:37

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。

 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
 鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。

51: 777 :2010/01/17(日) 13:20:09

 Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。
 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。

 鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。
 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。
 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。
 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html  

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コメント
1. 中川隆[-14884] koaQ7Jey 2020年1月05日 09:58:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1881] 報告


2: 777 :2009/07/19(日) 09:59:23

昭和天皇は東京大空襲成功の影の功労者


東京大空襲 昭和20年3月10日 史上最大の虐殺

米軍は次のような計画をたて無差別虐殺を実行したのです。

@ ドイツの空爆で実績を上げたカーチス・ルメイ少将を東京空襲の責任者に任命。 

A 日本の家屋が木と紙でできていることに注目して、日本本土空襲専用の焼夷弾を開発。 

B テキサスの砂漠に日本の家屋を建ててその焼夷弾の効果を 確認。 

C 江戸時代の大火が春先の強風が吹く時期に集中しているというデータに基づき大空襲決行日を陸軍記念日の3月10日にした。 

D 最初に空爆目標地の外周隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁を作り人々の退路を絶つ

E そして300機以上のB29で地上を嘗め尽くすように焼夷弾を落とす。(1平方メートルあたり3発、総重量2000トン)
 
F 焼夷弾の命中精度を上げるため低空飛行を行う(暗闇の攻撃だったため、まさかB29が低空飛行で来るとは気付かず日  本軍の高射砲はB29のはるか上で炸裂したのでした)

犠牲者

縁者が引き取った遺体  約20,000人
無縁仏・行方不明者    約88,000人 
http://www.ne.jp/asahi/k/m/kusyu/kuusyu.html


昭和天皇も東京大空襲成功を祈願して可能な限り尽力した:

1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……

10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。

天皇が休まれておられるのを起こすのはできなかった……。そして、臣民に「空襲警報」は発令されず、被害は甚大となった。
http://anarchist.seesaa.net/article/35751184.html

3: 777 :2009/07/19(日) 10:04:59

10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。参謀としては、状況がはっきりしないうちに、しかも深夜に空襲警報を発令すれば、天皇陛下は地下の防空壕に非難しなければならなくなるし、社会の機能はその間に麻痺することになるだろうとの、配慮があったのだと思う。

そのうち敵機が下町に焼夷弾を投下したとの情報が入ってきた。この時、始めて空襲警報が発令された。3月10日の空襲警報が、空襲が始まってから発令されたのはこのような経緯があったからである。


当時、東部軍司令部所属、陸軍中尉藤井恒男さんの証言だ。(78年3月9日放送「NHK特集 東京大空襲」より)

「屋上から肉眼監視が刻々と状況を伝えてきますけど、とにかく、火の海であると。それで、僕は上へ上がってみました。そしたら、それはとてつもない火でしたね。すぐ下へ降りてきて、一戸という参謀に参謀、屋上からいちどご覧になってください≠サうしたら参謀もそうか、藤井、そんなに酷いか≠ニ、それで屋上に上がって、燃え盛る火の海を見て戻ってくると、一戸参謀は、机の上に両手で頭を抱えてうつ伏して涙を流しておられましたね。そりゃ想像はつきます、現場に行かなくても。どういう惨状があそこで起きているかということを」

カーチス・ルメイ将軍が、戦略爆撃という軍事思想を作った人物で、自ら、対ドイツ爆撃(ドレスデン爆撃その他)や、日本各都市の大空襲の戦略を組んで、実行した人だ。敵国を、民間人(非戦闘員)もろもとも焼き殺して火の海にして、焼け野が原にした。

このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。日本側は都市の軍需工場、民間住宅問わず、全てまとめて徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受ける。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」と渾名された。

カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。 広島、長崎の原爆投下もルメイ戦略である.

それに対して天皇は、「勲一等旭日章受勲」で報いた.

参議院議員で元航空幕僚長の源田実(ミッドウェイでアメリカを勝たせる為の戦略を立て,日本海軍を崩壊させるのに大きな貢献をしたそうだ)もルメイの東京大空襲の成功を高く評価し,勲章授与に尽力した.

4: 777 :2009/07/19(日) 10:08:36

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。

今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。

ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。

日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。

ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html

5: 777 :2009/07/19(日) 10:11:14

カーママン社は、カーママンと昭和天皇ヒロヒトが共同で設立した兵器商社である。

天皇はこの商社を通じ、日本軍の使用する兵器を敵国・米国から密輸し、その販売利益を「天皇個人の財産」として、スイス銀行の口座に密かに蓄財し続けていた。

 天皇はディロン社の日本代理人であり、第二次世界大戦の武器密売で利益を蓄積した武器密売人であった。

 天皇と同じ会社ディロンで「働く」カーママン。商社カーママン社を天皇と共同経営する「天皇の同僚」カーママンが、広島、長崎へ投下された原爆の製造担当者であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/59498275.html


米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸し付けていた。

日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。

ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html

6: 777 :2009/07/19(日) 10:13:24

あなたは昭和天皇とマッカーサーが、二人だけで11回も会見した歴史的事実を知っていたか。

  しかも、1947年に新憲法が施行され、天皇が象徴天皇となり、一切の政治に関与しないとされた後も、何度もマッカーサーと会って日本の戦後を規定する安保体制をマッカーサーに頼み込んでいた事を。

  私は知らなかった。

  少なくとも豊下楢彦氏の「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交ー」(岩波新書、1996年12月発刊)を読むまでは。

  その著書は、部分的にしか公表されていない昭和天皇とマッカーサーの会見記録を丹念に読み解いて、一つの仮説を立てている。

  すなわち、当時の吉田首相と外務官僚たちが必死になって安保条約を「五分五分の論理」で対等のものにしようと粘り強く交渉していた時に、その一方で昭和天皇がマッカーサーと二人だけで会談し、日本をソ連共産主義の脅威から守って欲しいと直訴する二重外交が行なわれていたのではないか、という推論を、当時京都大学の助教授であった国際政治学者の豊下楢彦はその著書で展開したのだ。

  昭和天皇の戦争責任を語る時、我々はマッカーサー回顧録で明かされている昭和天皇のお言葉を通説として信じてきた。

 「すべての責任は私にある、私の一身はどうなってもいい・・・」と言う例のお言葉である。

 そしてそれに感動したマッカーサーが、天皇の免責を信じたと言う事になっている。

 しかし、豊下の仮説は、それを根本的に覆すものである。

 だからこそ世の中に受け入れられる事はない。

 それどころか、作為的に目立たないものにされてきた。

 その豊下が、この7月に岩波現代文庫から「昭和天皇・マッカーサー会見」と題する著書を出した。

 私はそれを早速読了した。

 そして唸ってしまった。豊下の推論がさらに精緻に組み立てられていたのだ。

  豊下が前掲の「安保条約の成立」を世に発表した96年から12年の年月が経った。

  その間に、彼の研究は更に深められた。

  しかもその間に富田宮内庁長官の日記の公表などという新たな資料も出てきた。

  そして何よりも安保体制そのものが、いまや日本をソ連共産主義から守る事から離れ、米国の戦争に追従する足かせのごとくなりつつある時代の変遷がある。

  米軍駐留に基づいた安保体制の構築は、なによりもまず天皇制の防衛のためであった、その意味で安保体制こそ戦後日本のあたらな「国体」であった、と、豊下はその「はしがき」で言う。

http://www.asyura2.com/08/senkyo52/msg/257.html

7: 777 :2009/07/19(日) 10:14:41

マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。


天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには
長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。
ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
イギリス人スターリング・シーグレツプは『The Yamato Dynasty』の「第十章、汚れた手」の中で、
「敗戦直前、昭和天皇の側近たちがひそかにスイス銀行に財産を隠匿した」と述べている。じじつ、
横浜正金銀行の株式の二二%はヒロヒトの名義であった。

かれはいう。

「膨大な戦利品の一部は潜水艦によって南米に運ばれ、スイス銀行ブエノスアイレス支店から入金された……
マッカーサーはこのことを知っていたが敢えて知らないふりをした。計算するとその財産は四千億ドルであった」と。

マッカーサーが承知して知らないふりをしたというのは汚職である。
ヒロヒトがマッカーサーを買収したという噂の真偽は、今となっては調べようがないが、火の無いところに煙は立たないという。

8: 777 :2009/07/19(日) 10:18:06

大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった


まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。

丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
 http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

9: 777 :2009/07/19(日) 10:19:01

アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

10: 777 :2009/07/19(日) 10:20:33

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

11: 777 :2009/07/19(日) 10:25:55

真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。
 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm

12: 777 :2009/07/19(日) 10:29:59

天皇の戦争責任
マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて戦争が行われているのでは無い事、東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、自分だけ生き延びたのである。天皇は極めて悪質な卑怯者である。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。

1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042

13: 777 :2009/07/19(日) 10:32:32

 「第2次世界大戦に日本が参戦する事に、昭和天皇は反対であったが、軍部と東条英樹首相の暴走と、強硬さに押し切られ、嫌々ながら天皇は戦争に関与した」という、デマ宣伝がマスコミによって流されている。「天皇を、何とかして、戦争責任から逃がそう」という宣伝である。

 1995年3月19日付、毎日新聞は、1944年7月20日付の天皇から、東条英樹宛ての勅語を掲載している。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下、十分に職務を果たした。」

 天皇は.この公式の勅語で、第2次世界大戦への日本の参加は、「天皇が」決断し行った=朕の戦争である、と断言している。そして東条英樹以下、軍部は「天皇の指導に従っていた」と明言している。

 天皇が戦争に反対の「平和主義者」などと言うのは、全くのデマ宣伝である事を、天皇自身が、ここで明言している。

 山田朗は著書「昭和天皇の軍事思想と戦略」(校倉書房刊)で、膨大な資料と証言を積み重ねながら、政治と軍事の最高指導者として、また、最も正確な情報を収集し得る立場に居た者として、天皇に戦争を起こした責任がある、と結論付けている。


この膨大な資料と証言に反論し得る研究は、未だ出ていない。

 戦争中、侍従次長として天皇の「側近中の側近」であった木戸幸一は、著書「側近日記」(東京大学出版会刊)において、真珠湾攻撃の成功直後、戦争の開始を、「天皇が喜び、飛び上がって、小踊りする」様子を描いている。

 戦争の開始を、「喜び、飛び上がって、小踊りする」天皇が、どうして「戦争に反対する平和主義者で、軍部と東条英樹の強硬姿勢に引きづられた」事になるのか?

こうしたデマ宣伝の背後には、再び「天皇を中心に日本を、力づくで統一」しようと言う、日本政府の意図が透けて見えている。

ロスチャイルドと結び付き、日本軍部に兵器を販売し、兵器の消費拡大=販売促進の目的で戦争を起こし、「金儲けに奔走して来た」、兵器販売業者=死の商人「天皇一族」の、「戦争ビジネス」の、21世紀における復活である。

天皇支持者は全員、この戦争画策人=人間のクズ=天皇の走狗である。

昭和天皇こそ、戦争を起こした責任者、戦争犯罪人として死刑に処されるべき犯罪者であった。
http://alternativereport1.seesaa.net/

14: 777 :2009/07/19(日) 10:36:10

日本帝国海軍に中枢は欧米派で色どられ、あらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは、敵に手ごころを加え、まるで、負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。また、日本陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。


国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。欧州では昭和14年第二次世界大戦が勃発していたが、欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはフランクリン・D・ルーズベルトの基本戦略であった。ルーズベルトはチャーチルと共謀し、日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激高させ、対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ真珠湾攻撃の構想をねった。真珠湾に集結していた戦艦はいずれも1910年〜1920年代に就役した旧式艦で攻撃しやすいように並べて停泊してあった。また真珠湾は海底が浅く、海底に沈座しても引き上げが容易で短期間で修理可能であった。真珠湾攻撃は一種の茶番劇であった。

宣戦布告の通知の遅れたのも仕組まれたものであった。大使館員全員無神経怠慢な動きをとっていることは、無能な集団でない限り確信犯である。戦後、その責任についてはこれもフリーメーソンの吉田茂にうやむやにされてしまったが、当時の大使館員達は「功労者」としてその後栄進している。

また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で戦死の狂言を実行する。

http://members.at.infoseek.co.jp/ishiimac/yamamoto.html

15: 731 :2009/07/21(火) 03:47:04
だいたい、なんでヒロヒト=昭和天皇に「説明責任」が無いのだ?

( じゃあ、誰に説明責任があるワケ?・・・誰もいない、あーそう。アホ
 か。小学生でもバカにするぞ )

マッカーサー司令官がこの国に「天皇」を残したのは。ただ "莫大な兵力を
使って武力で支配するよりも。この黄色い幼稚な土人たちの神=TENNО
Uエンペラーを支配してアメリカ合衆国の言うことを聞かせたほうが、はる
かに簡単で安上がりで効率的で現実的だったから" だよ。当時、アメリカは
すでに次の強大な敵=ソビエト連邦との戦いを始めていたし、よけいな手間
や時間や軍事費を "もう終わったこと" にできるだけ使いたくはなかったか
らだ。
( 言っとくが、当時の日本でもすでに "サイクロトロン技術=原子爆弾製造
 の技術" はすでに持っていたし「どこの国が最初にそれを実用化するか?
 」というスピード競争だった。決定的な要因は「ただの、物資不足」さ。
 ナチドイツもそうだったけど "腹が減っては、戦はできない" のでした )

あー、ところで日本の「天皇」は800年以上前の鎌倉時代から "何の実際
的な権力も持ってはいない、カリスマ的なおかざりとしてしか存在していな
い"・・・・徳川幕府も明治政府も戦後のアメリカ合衆国も、みんな彼らを
『利用』して来た。マリオネット人形のように。

少なくとも、現在の日本の憲法下で( 実際的に?)「職業選択の自由」が無い
のは "天皇や皇太子" だけだ。( ←これを「奴隷」と呼ばずに、何と呼ぶ?)

                                ↑怒。

16: NONAME :2009/07/22(水) 18:55:28
現在のアメリカ政府はトップに黒人であるオバマ大統領、副大統領にはユダヤ人
が、表向きにはこの2人によって運営されていることになっている。(裏事情は違うが)
ケネディーでさえ白い二グロとヨーロッパでポーランド人と並び馬鹿にされる
セルツ人、ケルトの末裔であるアイリッシュ系であったこと、このアイリッシュの
民族としての優劣評価は、酒飲みで女好きで喧嘩早いとの認識が一般的で優秀であると評価され
たことの無い民族である。が、落ちこぼれであるアイルランド系大統領が今までで3人も
輩出してきたことを考えると、アイルランド人の血を受け継ぐ者たちでさえ
アメリカ大統領に成れる国は、やはり公平で自由な国と呼べるのではないか。
オバマは奴隷の子孫ではないが黒人であり、ファーストレデイである夫人は黒人奴隷で
あることをみると、開かれた国アメリカの印象は強く他国には感じられたはずだ。
これらのアメリカに対してのなんだかんだいっても、いい国だという認識を
世界中に与えるために、数限りない傲慢で横暴な暴力行為をも忘れさせるのだろう。
アメリカは良い印象、好印象を洗脳に近い域にまで世界へ流布できる唯一の国家である。
その洗脳テクニック恐るべきといわねばならない。
それに比較すると縄文から連綿と続く文化の重厚なる歴史をもち、神話から繋がる天皇を抱き
経済が悪いとはいえ、物作りによる正当な手段で貿易黒字をだしえる巧みの国がなぜ、アメリカ
の風下に立たされなければならないのか、はっきり洗脳テクニックが上手いだけのアメリカに意見
を言うべき時が来ているように思う。金融詐欺で成り立っているアメリカに
本来ならもっと強い態度で望めるはずなのだ。双子の赤字国家アメリカを支えているのは日本である。

17: NONAME :2009/07/22(水) 19:06:37
天皇を操り人形とするなら、アメリカ大統領はロスチャイルドの部下である
ロックフェラーの忠実なる下僕と言い切れる。

18: 777 :2009/07/22(水) 19:47:07

まあ,今の天皇家は偽物ですから:

孝明天皇の子どもである明治天皇は皇位継承の際、すり替えられた。(詳しくは中丸薫さんの本を買って見ていただきたい)
天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れをくんでいた。そして、南朝は99代の後亀山天皇で絶えたとされており歴史上では滅亡したことになっている。
しかし実は、南朝である後醍醐天皇の玄孫の更に孫くらいに当たる人物に大室寅之祐という人物がおり、それを長州藩が育てており、伊藤博文、桂小五郎などが担ぎ上げて天皇のすり替えを行ったというのである。
孝明天皇は中山慶子の間に睦仁親王をもうけたが、睦仁親王は女官たちに囲まれて育ち神経がこまやかで気が弱かったとされている。
そして孝明天皇が崩御されると、睦仁親王は16歳で即位した。

しかし即位した人物は、身長180センチ体重、90キロの巨漢で、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしていたと言われており、女官と遊んでいた人物とはかなり違っていたといわれている。
また、田中光顕伯爵は「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言している。
また、「中山忠能日記」によれば、1867年7月8日「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」とある。16歳にもなって女官達と遊ぶとは、あまりにも子ども過ぎて知能も遅れていたのではないか。日記には、このあと宮中に侍医が呼ばれたこと、慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせたことなどの不審な記述が載っている。
この仏像はたぶんに睦仁の亡骸ではないかと想像できる。

睦仁は岩倉具視らによって買収された侍医の手で暗殺されたと中丸薫さんは推測されている。
http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html

19: 777 :2009/07/22(水) 19:52:44

橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)の秘密についてお話します。(こっそり)


◆山口県田布施町の大室さん

そもそも、田布施町のタブー(この事)については、(大室寅之祐について)田布施の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤、岸すら知っていたが、「うち」の爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分からなかったが本質は 1.寅之祐が本当に南朝光良親王から23代も続いているのか? 2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。その後、大室家(後大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。

文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家5代目に当たる。

さて、大室寅之祐が作蔵の息子で行方知らずになる1866年8月頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年12月、田布施に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。

(そう書かれた木簡が出てきた。)(「K」先生の本より)

大室近祐がワカルといってもせいぜい1866〜1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400〜)から23代500年も継続してる。とは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)

これを踏まえて本当の所は、苗字も無い作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。だから1845年頃迄には興正寺昭�瘢(照景?)とスヘが田布施麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(スヘは興正派門徒の娘)作蔵(1824年?〜1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「G」に家を建てる。だから「G」の地名を苗字にした。(「G」とはそもそも村の中心地と言う意味)

http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.55.47.426&el=132.3.10.064&sc=4&la=0&CE.x=128&CE.y=304

1852年12月(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に三男X平出産。(俺の高祖父)

>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭�瘢(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)

1854年下旬(10月?)独身の大室弥兵衛30とスヘ結婚。大室寅吉、大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃〜1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か? 大室近祐説?)その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから5代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。

そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の真実』に書いてある通りなので省略。1866年6月〜8月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知らずとなったのであろう。(麻郷村の人間が手分けして探した)

大室寅之祐の子が昭和天皇であっても大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。(大室近祐による。高松宮発言:昭和58年)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku4-1.html

20: NONAME :2009/07/22(水) 20:11:18
個人のブログに面白いものがあった、祖父のことを書いていた30代男性のものあいようで
その内容とは、一種の祖父自慢といえるが以下のようなものである。
祖父は陸軍大学卒で戦前の軍人であったそうだ、その祖父は戦後、京都大学の方から編入で
入学しないかと誘いをうけたそうだ。が、彼は頑固にもその申し出を蹴ったそうで、理由は
自分の経歴に傷がつくからというものであった。戦前の陸軍大学は陸軍仕官学校から頭脳、体力
が優れた者が選抜され入学を許可された。陸軍仕官学校生の学力はほぼ東京帝國大学生、京都帝國大学生と
同等との評価を受けていた、ということは、戦前の日本では陸軍大学がそれら2校の旧帝大より上位にあった
ことになる、今では想像もつかないが、その当時の陸大生の頭の切れは帝大生を凌いでいたのは確かのようだ。
では、体力面ではどうか、これは当時あった武専に匹敵したという。武術専門学校生は全国から選りすぐりの猛者
の集団であった。この武専に引けを取らない体力であったそうである。
現代でいうなら頭脳で東大生を凌ぎ、体力で日体大生並みの運動力をもつ学生集団がいることになる。
その集団の自負・自身推して知るべしであろう。
だからこそ前段のおいての誰かはしらぬが、その祖父が京都大学なんぞ真っ平ごめんだという拒絶も理解できよう。
旧日本軍は海軍大学校とこの陸軍大学校の卒業生がトップに君臨する集団であった。
戦前の歴史を、特に戦史を読み解こうとするなら、彼らの類まれな優秀さを忘れてはならないように思う。
戦前の政治家がなぜ軍人の暴走を止めれなかったかという議論になるが、その原因の一つは彼らが政治家、たとえ
東京帝大出の政治家であろうとも馬鹿にし切っていたという事実、マスコミは
あまり取り上げないが、そういう真実があったことは肝にめいじておかねばならないように思うのだが、如何であろうか。

なお、武専に匹敵する体力があったとして、ここで採り上げた日体大と武専は
まったくの別組織、法人であって両校には関連性は無い。わかり易い様に現代にある大学で例として挙げたものである。

21: 777 :2009/07/22(水) 20:27:31
18と19は嘘みたいですね. 悪しからず.

ド素人の考え方ですね. ここで言う頭脳というのは丸暗記する能力の事で思考力と反比例しています.
原始人の方が東大生より暗記力は遥かに上ですからね.

22: NONAME :2009/07/22(水) 20:43:44
そのとおり、そのとおりなのである。
そのとおりであるが、評論家 小室直樹氏などは、その点をよく述べておられた。
精密時計のような頭のよさ、これは一方において応用の利かない 突発的な非常時に有効な案を思いつけぬ頭脳でもあると。
また、自身の間違いをけっして認めぬ集団であったと。
しかし、その集団が当時の政治家たちを頭から馬鹿にしていたのは紛れも無い事実なのだ。

23: 777 :2009/07/23(木) 12:09:41

原爆投下の当日に
わざわざ、学童が爆心地に周辺地区から動員されていた。
また、本土決戦派の陸軍軍人も爆心地に急遽動員されていた。

なぜかといえば、畑俊六 も天皇もヨハンセン・グループも
廣島原爆の日時、時刻まで正確に知っていて、
女子どもと、最期まで徹底抗戦を願っていた愛国者を同時に葬り、
人体実験を計画していたからである。

http://satehate.exblog.jp/9381417/

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