天皇と儒教思想 伝統はいかに創られたのか? (光文社新書) – 2018/5/16 小島毅 (著) https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E5%84%92%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%89%B5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%AF%85/dp/4334043542?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp 出版社からのコメント
◎天皇皇后両陛下の宮中行事、陵墓造営、宮中祭祀、歴代天皇の系譜、一世一元の制…… ◎創られたのは明治、ネタ元は儒教思想 【内容紹介】
八世紀の日本で、律令制定や歴史書編纂が行われたのは、中国を模倣したからだ。 中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。 つまり、「日本」も「天皇」も、儒教を思想資源としていたといってよい。 その後も儒教は、日本の政治文化にいろいろと作用してきた。 八世紀以来、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。 江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。 そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。 本書は、その諸相を取り上げていく。 【本文より】 天皇や皇族の日常生活が、明治維新のあとは洋装にお変わりになり、洋館にお住まいになり、洋食を召し上がるようになったというたぐいのことは目につきやすく、「近代化」を象徴する行為として認識されていよう。
しかし、じつは祭祀・儀礼といった、古くからの伝統に由来しているはずの行為も、その多くがやはり明治維新の前後に新しく始まったものだった。 洋装・洋館・洋食といった西洋化とは異質ながらも、それらもまた明治時代の近代天皇制を支える装置だった。 すなわち、古制という名目によりながら、近代天皇制にあわせて改変されたものだった。 (「はじめに」より) 【著者紹介】 1962年生まれ。東京大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。 東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。 東アジアから見た日本の歴史についての著作も数多くある。 著書に『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』『朱子学と陽明学』(以上、ちくま学芸文庫)、 『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ)、『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上、トランスビュー)、 『「歴史」を動かす 東アジアのなかの日本史』(亜紀書房)、『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)、 『儒教の歴史』(山川出版社)などがあり、 監修したシリーズに『東アジア海域に漕ぎだす(全六巻)』(東京大学出版会)がある。
カスタマーレビュー hira 5つ星のうち3.0 儒教的な「制度」ばかりが取り上げられ、儒教的な「思想」が取り上げられていない 2018年8月6日 本書では、天皇の稲作・皇后の養蚕、天皇陵の認定・整備、宮中祭祀、天皇の系譜の確定、一世一元制(天皇1代で1回の改元)といった、天皇をめぐる諸制度の大半が、明治維新の前後以降に、新たに創られた伝統だと指摘されており、改暦(太陰太陽暦から太陽暦への転換)にも言及しています。
そして、筆者は、「宗教信者が自分の教義を生活信条とするのは個人の自由だが、それを他の人々にも押し付け、自分たちの教義で国家の制度を決めてはならない。最近の議論はこの原則に抵触しかねない傾向を帯びていると、私には感じられる。」といっています(p.21-22)。 つまり、筆者は、天皇をめぐる諸制度が、国家の制度・国民の統制等に踏み込めば、特定の宗教教義だけが優遇されて問題だと力説していますが、ここで取り上げられた諸制度の説明は、いかに儒教由来かの解説に終始しており、いかに国家の制度・国民の統制等に踏み込んだのかが、ほとんどありません。 よって、ここでは、そこまで紹介しておきます。 ・天皇の稲作・皇后の養蚕
稲作は、昭和天皇(124代)から(1927/昭和2年)、養蚕は、明治天皇(122代)の皇后(昭憲/しょうけん)から(1871・明治4年)、取り組まれましたが、これらは、戦後でこそ、マスコミで報道されますが、戦前・戦中の国民が、認知していたのかは疑問で、天皇・皇后個人の信条の範囲といえます。 むしろ、取り上げるべきは、明治初期からの神道非宗教論を根拠とし、神道国教化のため、古代社格制度を復活させた、近代社格制度で、特定の神社は、毎年2月の祈年祭・11月の新嘗祭と例祭に、政府か知事から幣帛(実際は金銭)が奉献されましたが、これは、皇室・朝廷ゆかりの神社等への優遇です。 ・天皇陵の認定・整備
これは、万世一系の天皇を強化するための施策で、皇室の陵墓は、古代前半まで、律令制下で管理されましたが、古代後半から、律令制が形骸化すると、しだいに荒廃し、中世には、完全に仏主神従になり、神式の土葬より仏式の火葬が流行、朝廷の財政も逼迫し、皇室の陵墓も、忘れ去られた存在でした。 それが、近世には、神主仏従へと転換し、尊皇思想を背景に、江戸期から明治期にかけて、皇室の陵墓を特定・整備されるようになりました。 記紀神話では、神武天皇(初代)が、日本の建国者なので、この時期にはじめて、歴代天皇で最重要視されるようになり、宮中祭祀や、国民の祝祭日で、神武天皇への崇敬を誘導するとともに(後述)、神武天皇陵が規定されると、それに隣接して橿原神宮を創建しています(1890・明治23年)。 天皇陵は、いったん認定・整備されれば、後世に疑義が提示され、それが有力であっても、ほとんど指定変更されませんが、それは、儒教道徳での祖先崇拝にあたり、混迷できないからで、史実の不安定よりも、信仰の安定を優先させているのでしょう。 当時の皇室の陵墓の整備は、江戸幕府や明治政府の費用負担で、現在は宮内庁が管理していますが、これは長年、歴代天皇が公認してきた政権が、日本国の為政者と定義され、戦後からは、天皇が特定の個人・団体に依存しないよう、皇室を公私にわたり、国費で庇護しているのです。 ただし、皇室の陵墓は、皇室や宮内庁が祭祀・管理するだけで、国民に拝礼を強要していないので、皇室の信条の範囲と位置づけられます。 ・宮中祭祀
宮中三殿のうち、賢所は、東京遷都で京都から移転し、三種の神器のヤタノカガミを複製した神鏡が安置・祭祀され、皇霊殿と八神殿は、神祇官から神祇省への降格・廃止で、皇居外の神祇官から皇居内へ移転、皇霊殿は、歴代皇室の祖霊が、八神殿(神殿と改称)は、天上・地上の神々が祭祀されました。 したがって、三殿が皇居内に結集し、天皇が祭祀を主宰するようになったのは、明治初期(1872・明治5年)からで、それ以前の、天皇による祖先崇拝は、仏式で法会されていましたが、神仏分離令にともない、春と秋の彼岸の時期に、皇霊祭が執り行われるようになりました(春季皇霊祭・秋季皇霊祭)。 宮中祭祀は、天皇(親祭)か、宮内省の担当者が執り行いますが、明治・大正(123代)の2天皇は、あまり熱心でなく、昭和・平成(125代)の2天皇や大正・昭和天皇の2皇后(貞明/ていめい・香淳/こうじゅん)は、とても熱心だったので、宮中祭祀自体は、天皇・皇后個人の信条の範囲といえます。 天皇主宰の宮中祭祀(大祭)は当初、古代からのが、新嘗祭(11月23日)・神嘗祭(10月17日)の2つで、近代からのが、元始祭(1月3日)・紀元節祭(2月11日)・神武天皇祭(4月3日)・春季(春分の日)・秋季(秋分の日)皇霊祭+神殿祭・先帝祭(孝明・明治・大正天皇)の8つでした。 ですが、大祭すべてを、天皇が執り行っておらず、担当者の代理も多々あるので、ここまでは、天皇個人の信条の範囲ですが、問題は、明治初期(1873・明治6年)から、宮中での大祭日を、国民の祝祭日として、休日に規定したことで、天皇と国民を結び付けています。 祝祭日の制定時には、古来よりの慣習の元日(1月1日)・宮中での新年宴会(1月5日)と、元始祭(宮中三殿での天皇親祭、1月3日)・孝明天皇(121代)祭(死去日、1月30日)・紀元節(神武天皇即位日、2月11日)・神武天皇祭(死去日、4月3日)・神嘗祭(五穀豊穣の感謝祭、9月17日)・天長節(明治天皇誕生日、11月3日)・新嘗祭(収穫祭、11月23日)の9日が休日でした。 制定の5・6年後には、春季皇霊祭(春分の日、1879・明治12年から)・秋季皇霊祭(秋分の日、1878・明治11年から)の2日が、休日に追加され、神嘗祭は、新暦だと、稲穂の生育が不充分な時期なので、旧暦に近い、1ヶ月後(10月17日)に移されています。 明治天皇の死後、天長節は、大正天皇の誕生日(8月31日)に移行しましたが、この時期が盛暑なので、2ヶ月後(10月31日)も祝日としました(天長節祝日)。 戦前・戦中には、前天皇の死去日の先帝祭(孝明天皇祭・1月30日、明治天皇祭・7月30日、大正天皇祭・12月25日)が、休日だったのを、戦後には、昭和天皇の死後、昭和天皇の誕生日(4月29日)を、みどりの日→昭和の日とし、前天皇の誕生日を、休日に制度化しつつあります。 現在でも、国民の祝日・16日のうち、紀元節が建国記念の日、天長節が文化の日、新嘗祭が勤労感謝の日、春季皇霊祭が春分の日、秋季皇霊祭が秋分の日と、昭和の日・天皇誕生日(12月23日)の、皇室ゆかりの日・7日が継承され、天皇と国民の結び付きが潜在化しているとも解釈できますが、近年は、祝日の4日を月曜日に移動させ、3連休にしたので、皇室ゆかりの祝日が顕在化する結果になっています。 そのうえ、明治中期の教育勅語発布の翌年(1891年)から、宮中祭祀の大祭のうち、元始祭・紀元節・神嘗祭・天長節・新嘗祭の5日を、校長・教員と生徒に、小学校で儀式を執り行わせ、学校行事化し、天皇と学校を結び付けており、ここまで注目しないとといけないでしょう。 ・天皇の系譜の確定
これも、万世一系の天皇を強化するための施策ですが、南北朝分裂で、北朝より南朝を、正統とするのが主流となったのは、儒教道徳の優劣ではなく、三種の神器を所持していたからという根拠が、本書で忘れ去られています。 南北朝期に、南朝方の北畠親房(ちかふさ)は、「神皇正統(じんのうしょうとう)記」で、三種の神器の、鏡は正直、玉は慈悲、剣は智恵の象徴とし、これらを所持している南朝の天皇は、有徳者だとしています。 また、江戸初期に、儒学者・林羅山は、三種の神器の、鏡は智、玉は仁、剣は勇と、儒教の3徳目を象徴しているとし、孔子の「論語」には、「智者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず」とあるので、三種の神器を継承した歴代天皇が、有徳者であるとしました。 さらに、徳川光圀ら編纂の「大日本史」は、前述の2人と同様、三種の神器の所持を根拠に、南朝を正統にしたうえ、神功皇后(14代と15代の間)は、天皇から除外、大友皇子は、弘文天皇(39代)として算入し、これら3条件が、明治政府に採用されています(1911・明治44年)。 ちなみに、鎌倉後期の持明院統と大覚寺統の両統迭立や、それが深刻化した南北朝分裂は、皇位継承の正統性が、血筋だけで主張できなかったので、当時頻繁に、儒教道徳が持ち出されたことに、注視すべきです。 天皇の系譜の確定は、皇室の陵墓の認定・整備と同様、それ自体だけだと、皇室の信条の範囲といえますが、戦前・戦中の学校教育で、歴代天皇の名前の暗記・暗誦を必須にしたのは、国民への強制といえます。 ・改暦
太陰太陽暦から太陽暦への転換(1872・明治5年→1873・明治6年)は、本書だと、当時の政府が財政危機で、2か月分(改暦での誤差1ヶ月+閏月1ヶ月)の公務員給与を、節約できるからとしていますが、実際は、先進国からの摂取を、中国から欧米へと転換し、それに都合がよかったからでしょう。 江戸期には、幕府が暦の改定を、朝廷から奪取しており、幕末・維新で、王政復古を標榜しつつも、実際の為政者は、上流武士中心から下級武士中心へと切り替わっただけなので、明治期の改暦にも、あまり抵抗がなく、韓国は1896年、中国は1912年に、太陽暦を導入したので、日本は先進的といえます。 ですが、中国・韓国で、対外的には、新暦(太陽暦)を採用しつつも、対内的には、旧暦(太陰太陽暦)で生活している一方、日本で、旧暦から新暦へと完全に転換したのは、同年に規定した、季節感のある祝祭日が、祈年祭・神嘗祭・新嘗祭の3つだったのが影響しているのではないでしょうか。 祈年祭は、旧暦2月4日から新暦2月17日へ、神嘗祭は、旧暦9月11・17日から新暦9月17日→10月17日へ(前述)、新嘗祭は、明治6年の旧暦11月の2の卯の日が、新暦11月23日なので、その日に移行し、天皇の即位日・誕生日・死去日も、旧暦を新暦に換算しました。 元日(1月1日)・元始祭(1月3日)・新年宴会(1月5日)は、年始の日付に意味があるので、そのままとし、節会(せちえ)・節句も、同様ですが(1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)、これらは、季節感とのズレが顕著です。 ・一世一元制
東アジアでは、皇帝・国王・天皇が1代で、数回改元する場合と、1回のみ改元する場合に、大別できますが、近代日本の一世一元制が、他と全く異なるのは、後世に、天皇の即位から退位・死去までを、一時代と区分することで、この表記は、日本で革命的な出来事があるまで、おそらく存続するでしょう。 たとえば、奈良末期〜平安初期の桓武天皇(50代)は、即位から死去まで、おおむね延暦の元号だけでしたが、文書上で、延暦と表記されるだけでは、それが桓武天皇の時代だったとは、知識がないと直接わかりません。 しかし、明治・大正・昭和・平成・…は、天皇と時代が一対一で対応し、これらは、中国・朝鮮での王朝名や、日本での朝廷(飛鳥・奈良・平安)・幕府(鎌倉・室町・江戸)の場所とは違う時代区分で、「日本書紀」の元号なしの時期での、「神武天皇何年」といった表記と似ています。 8〜9世紀には、日本・中国・渤海で、一世一元制が取り入れられていたようですが、それよりも、近代日本での、天皇と時代の直結のほうが、はるかに異質で、こちらを強調すべきではないでしょうか。 ここまでみると、本書で取り上げられているのは、天皇・皇后個人の信条の範囲がほとんどなので、そこで皇室が、伝統を新規に創出するのも、信教の自由で、天皇をめぐる諸制度が、国家の制度・国民の統制等に影響してはじめて、問題化すべきなのに、筆者は、そこまで踏み込んでいません。 実は、本書で取り上げられている、明治前期までの天皇をめぐる諸制度の大半は、神道国教化のために導入されましたが、国民が信教の自由で抵抗し、天皇への崇敬が、あまり浸透せず、いったん断念されています。 そこから、政府は、方針転換し、明治中期からの軍人勅諭・教育勅語、明治後期からの神社神道(神社非宗教論)・家族国家観等、儒教思想を次々に打ち出すことで、国家神道を構築していきましたが、それらが、本書に皆無なのは、大変残念です。 筆者の専門が、中国思想史なら、中国や朝鮮の儒教が、忠と孝を区別していたのを、近代日本の儒教は、忠孝一致に特化することで、国民の天皇への絶対忠誠を実現させたことに、もっと踏み込むべきだったのではないでしょうか。 神道に、儀式はあるが、教義がないので、近代日本では、教義に儒教を持ち込みましたが、それは、中国を模倣しただけでなく、日本独特な思想も打ち立てており、むしろ、そちらで国民を追い込み、戦禍で多大な犠牲となりました。 さらにいえば、その思想が、儒教・仏教・神道・道教等、どこ由来かを追求するだけでは、無意味で、それよりも、どのように国民を追い込んでいったのかのほうに、意味があるのではないでしょうか。 そもそも、伝統とは、保守しつつ、革新していくものなのですから… https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R35BD6RYXYABGT?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp ▲△▽▼ 2019.05.01 元号は支配層が情報を操作する道具のひとつ
日本の支配層が執着している現在の「元号」は一世一元、つまり天皇と一心同体の関係にある。天災、事変、祥瑞、即位などさまざまな理由で改められていた本来の元号とは異質。薩摩と長州を中心とする「明治王朝」によって作り上げられた新しいものである。 今でも続く明治王朝とは天皇制官僚体制であり、その上にはイギリスやアメリカを支配する巨大金融資本が君臨している。その歴史は本ブログでも繰り返し書いてきた。明治王朝が築かれる過程で自由民権運動が破壊され、琉球併合を手始めに東アジア侵略をはじめている。
その侵略を後押ししていたのがイギリスの支配層。中でも重要や役割を果たしたジャーディン・マセソンは中国(清)への麻薬密輸や武器取引で大儲けした会社だ。麻薬を売りつけるため、イギリスは1840年から42年にかけてアヘン戦争、56年から60年までアロー戦争を引き起こしている。
彼らが扱っていた麻薬、つまりアヘンはインドから持ち込まれていた。そのインドを支配するためにイギリスの東インド会社は傭兵(セポイ)を使っていたが、この傭兵が1857年に武装蜂起、一般のインド人を巻き込んで大反乱になる。
蜂起軍は統制されていなかったことから1859年に鎮圧されるが、その年にジャーディン・マセソンはふたりのエージェントを日本へ送り込んでいる。ひとりは某作家の歴史小説で有名なトーマス・グラバーで、赴任地は長崎。もうひとりはジャーディン・マセソンの創設者一族に属すウィリアム・ケズウィックで、赴任地は横浜。
日本を貿易の対象と見ていただろうが、それだけでなく、傭兵の供給地にしようと目論んでいた可能性が高い。アヘン戦争やアロー戦争でイギリスは中国に勝利したが、それは海戦。内陸部を支配する兵力を持っていなかった。傭兵が必要、ということで日本が目をつけられたのだろう。だからこそ、イギリスは戦費を用立て、技術を提供している。
明治以降は勿論だが、それ以前も日本が世界と無縁だったわけではない。そもそも「鎖国」という表現が正しくない。外国との交流はあったが、徳川体制が管理していただけである。現在も人びとが勝手に外国へ出て行ったり、外国人が勝手に日本へ入ってくれば犯罪だ。
ところが、日本は外国と関係ない閉じた空間だという前提で歴史を考え、歴史も因果の連鎖として捉える人が少なくない。現在の内政を語る場合にも似たことが言える。少なからぬ日本人は空間的な広がりや時間的な流れで現状を見ることができない。
日本人がそうした思考をする一因は元号にあるのではないだろうか。元号は日本独自のもので、外国の出来事との関連を考えるためには不便。歴史も寸断され、大きな流れとして捉えることには不向きだ。しかも出来事を天皇と結びつけて考えることを強いる。元号は支配層が情報操作する道具としても機能している。 https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201905010000/
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