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「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩 ある、元特攻兵の証言
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49998
2016.10.29 栗原 俊雄 現代ビジネス
特攻。「十死に零生」のこの作戦を命じられたのは、当時のトップエリートを含
む若者たちだった。なぜ彼らは特攻隊員として選ばれたのか。歴史の「闇」を、
『特攻』の著者で、毎日新聞・栗原俊雄記者があぶり出す。
■「統率の外道」と呼ばれた作戦
戦史には詳しくなくとも、「神風特別攻撃隊」(特攻隊)とご存じの読者は多いだろう。近年でいえば特攻を題材にした小説『永遠のゼロ』が大ベストセラーになったことが記憶に新しい。
その特攻は、今から72年前の10月に始まった。第二次世界大戦末期、アメリカやイギリスなどの連合軍に追い詰められた大日本帝国陸海軍の航空機が、搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む攻撃隊である。成功すれば、搭乗員は必ず死ぬ。
「戦争してるんだから、死ぬのは当たり前じゃないか」。そう思う読者もいるだろうか。しかし、敵艦に爆弾もろとも突っ込むのではなく、爆弾を敵艦に当てて帰ってこい、というのが通常の作戦だ。
いかに戦時中といえども「死んでこい」という命令はめったにでない。兵士の士気が下がるのは当然であり、戦力が低下するのは必然である。任務の成功=死という「作戦」を組織的に行ったのは、少なくとも第二次世界大戦時点では大日本帝国だけである。
筆者は、この「統率の外道」(特攻創設者と言われてきた大西瀧治郎・海軍中将の特攻評)の実情を知るべく、関係者の取材を続けている。
特攻から帰還した江名武彦さんは、その1人だ。1923年生まれ。戦況が悪化していた1943年12月、早稲田大学在学中に学徒出陣した。海軍に入り呉の大竹海兵団など経て、百里原航空隊(茨城県)に転属した。そして、自らの意思を聞かれることなく、特攻隊員となった。
「学生生活を送っていましたから、人生への愛着や未練がありました。若くして命を絶つ悔しさと、親への申し訳ない気持ち」があった。一方で「国が危急存亡のときに、青年としての宿命だと考えました。同年代の若者は実際に戦場に行っていたのですから」。
「『ノーブレス・オブリージュ』(フランス語=noblesse oblige。高貴な者の義務≠フ意味)、学徒兵としての道義的な義務を感じていました」という。
22歳の少尉。江名さんは3人乗りの97式艦上攻撃機に乗って45年4月29日、鹿児島県の鹿屋基地から特攻に向かった。同乗するのは、いずれも海軍飛行予科練習生(予科練)出身の20歳と、16歳。出撃のとき、江名さんが機長。顔がこわばっていたのか、16歳の「戦友」に「笑って死にましょう」と話しかけられた。
江名機は、薩南半島南端の開聞岳付近でエンジントラブルに見舞われ、近くにある陸軍の知覧基地に不時着した。その後もう一度飛び立ったが、やはり機体不良で鹿児島湾沖の黒島に不時着、生還した。
一口に「特攻隊員」と言っても、多様だ。たとえば、
@実際に特攻隊として出撃した
A特攻隊員として、南九州などの出撃基地に配属された。出撃はしなかった
B所属の基地で特攻隊員候補となった。出撃基地には移動しなかった
などである。
「元特攻隊員」は、マスコミにしばしば登場する。しかし戦後70年以上が過ぎ、@の「特攻隊員」の話を聞くのは、容易ではない。江名さんの証言は、極めて貴重だ。
■なぜエリートたちが送り出されたのか
ところで当時の大学進学率は、10パーセントに遠く及ばない。また予科練は、海軍が航空機搭乗員のエキスパートを短期間で育成するために設立した機関だ。予科練出身者は「飛行機乗り」の専門家であり、大学生とは別の意味のエリート候補であった。なぜ、こうしたエリートたちを「九死に一生」でさえない「十死零生」の特攻に行かせなければならなかったのか。
その答えをみるまえに、特攻の歴史を振り返ろう。
1941年12月8日の開戦後、帝国海軍の機動部隊(航空母艦を基幹とした艦隊)はハワイで米太平洋艦隊の主力を壊滅させた。二日後には、海軍の基地航空部隊がマレー沖で、英国が誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」以下戦艦2隻を撃沈。雷撃機(魚雷を積んだ航空機)と爆撃機(爆弾を搭載した航空機)と、それらを護衛する戦闘機からなる日本の航空部隊は当時、世界最強であった。翌年6月のミッドウェー沖海戦で主力空母4隻を失ったが、それでもしばらくは米機動部隊と互角に渡り合った。
しかし戦争が長期化するにつれ、日本の航空隊は、戦力を低下させていった。日中戦争以来の歴戦の勇士が少なくなり、搭乗員の技量が低下した。飛行機の性能そのものも、米軍ほど頻繁なモデルチェンジができず、差がついていった。そもそも国力が大きく劣るため、生産機数で太刀打ちできなかった。
さらに、その米軍がレーダーを活用し、防空体制を強化した結果、日本軍の航空隊が敵艦隊に近づくこと自体が難しくなっていた。
特攻は、こうした背景から始まった。
■「死ぬこと」それ時代が目的に
1944年10月25日、午前7時。大日本帝国がアメリカやイギリスなどの連合軍と戦争を始めてから3年目。フィリピン・ルソン島マバラカットの飛行場に、5人のパイロットが立っていた。傍らにはゼロ戦。戦闘機だが、この日は爆撃機のように250キロ爆弾を抱いていた。
のち、最初の特攻隊として広く知られることになる敷島隊だ。
関行男大尉、中野磐雄、谷暢夫・一等飛行兵曹、永峰肇・飛行兵長、大黒繁男・上等飛行兵曹)が飛び立っていった。関を除く4人が、やはり予科練出身であった。
敷島隊の5機は、米空母群を発見し午前10時45分、襲いかかった。空母「セント・ロー」に1機が体当たりし炎上させた。魚雷と爆弾に引火し、30分足らずで沈没した。
別の一機は旗艦空母「キトクン・ベイ」に体当たりを試み、果たせなかったものの爆弾が炸裂し、被害を与えた。さらに空母「ホワイト・プレーンズ」に向かった一機も、体当たりは失敗したが「至近弾」となり、機体の破片などで乗組員11人が負傷した。
ちなみに、このときの特攻作戦と呼応していた連合艦隊の主力による「レイテ沖海戦」では、戦艦「大和」以下の大艦隊が執ように追撃し、ようやく沈めた米空母は1隻だけだった。それに匹敵する戦果を、たった5機が挙げたのだ。またこれに先立つマリアナ沖海戦では、帝国海軍機動部隊は500機近くで正攻法の攻撃をしかけながら、一隻すら沈めることができなかった。つまり特攻隊の威力は、驚異的であった。
これ以降、海軍は特攻を大規模に展開し、陸軍も続いた。
当初はもともとあった航空機を転用した特攻だが、その後、特攻専用機が「開発」された。「人間爆弾」と言われる「桜花」である。1・2トンの爆弾にエンジンが着いた構造で、車輪は着いていない。ゼロ戦などならば、故障があれば出撃後帰還することができた。しかし「桜花」が一度出撃したら、生きて帰る可能性はほぼゼロであった。
自殺とも言うべき特攻は、米軍とって信じがたい「作戦」である。予想していなかったため、当初は大きな戦果を挙げた。しかし米軍が迎撃態勢を整備した結果、特攻機は前述の通常作戦同様、目的とする敵艦船に近づくことさえ難しくなった。しかし末期の帝国陸海軍にとって、主要な「作戦」であった。
特攻に征けば必ず死ぬ。であるならば、通常の作戦で戦果を挙げる可能性がある歴戦のパイロットではなく、初心者を充てよう。また先々に軍の幹部となる者よりは、そうでない者を選ぼう。
特攻を推進した陸海軍首脳がそうした「合理性」を重んじた結果、陸軍士官学校や海軍兵学校出身のようにもともと「プロの戦士」ではない学徒出身者や、飛行機乗りとしてはプロだが、厳格な階級ヒエラルキーの中にあっては幹部になりにくい予科練出身者、ことに若者たちが特攻に動員された――筆者はそうみる。
航空機だけでなく水上、水中でも特攻が始まった。たとえば改造した魚雷に人間が乗り、母艦である潜水艦から出撃する人間魚雷「回天」であり、ベニア製のモーターボートに魚雷を積んで突っ込む「震洋」だ。
敗戦までの一年足らず、航空機による特攻だけでおよそ4000人の若者が死んだ。終盤は死ぬこと(死なせること)自体が目的のような「作戦」になってしまった。
全体の戦果はどうだったのか。どんな若者が散っていたのか。そもそも誰がこんな「作戦」を始めたのか。次回みてきたい。
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