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日本陸軍の榴弾砲(撮影/写真部・馬場岳人)
フィリピン戦は“絶望が支配” 日本兵が彷徨った地獄谷〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160208-00000000-sasahi-soci
週刊朝日 2016年2月12日号より抜粋
70年前、日米両軍が激突したフィリピンでは、52万人の日本人、1万6千人の米軍人、111万人のフィリピン人が命を落とした。地獄の戦場から生還した兵士たちは90歳を超え、自らの死を見据える。
1945(昭和20)年1月、南方第12陸軍病院所属の田中秀啓さん=岐阜県在住、93歳=はマニラを脱出し、北部の山岳地帯に入った。
制空権を持つ米軍は、連日のように偵察機を飛ばし、日本軍の動向を探った。将兵や民間人は日中に出歩くと、機銃掃射の標的にされた。密林に逃げ込んでも、ガソリン入りのドラム缶を投下、炎上させられた。昼は物陰に身を隠し、日が暮れてから移動した。
飢えや病気で部隊から脱落した将兵の多くは、置き去りにされた。手元に食料も薬品もない。部隊からの脱落は、死を意味した。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が徹底され、捕虜になることも許されない。
田中さんは、200メートル歩くごとに日本兵の遺体に遭遇した。
絶望が支配していた。
三八式歩兵銃をのどまでくわえ、足の指で引き金を引いて自決した兵士がいた。谷間にバーンと響く爆音は、手榴弾(しゅりゅうだん)による自殺だ。5、6人が折り重なって死んでいる例もあった。
山中を逃げるうち、アシン谷にたどり着いた。多くの死者が出て、のちに「地獄谷」と呼ばれた場所だ。
田中さんは、岐阜・郡上八幡にある寺の僧侶だった。戦場でも咒字(じゅじ)袈裟と数珠を持ち歩いていた。
マニラにいたときには、末期の兵士をみとる軍医に「人間とはどういうものか」と問われたことがあった。
「死生一如(しじょういちにょ)。死と生はつながったものです」と、そのときは僧侶らしい言葉を口にした。
「しかし、絶望が支配するような状況では、宗教家として平生考えていたことなど、すべて吹き飛んだ。地獄のような光景を見ても、感覚が麻痺したように、何も感じなかった」と、振り返る。
ルソン戦で最も激しい攻防が展開されたのは、バレテ峠だった。峠の北に広がるカガヤン谷に軍需物資や食料を集めた日本軍は、南から攻めてくる米軍を食い止めようと死力を尽くした。
陸軍野砲兵第10連隊の砲手だった花岡四郎さん=奈良県広陵町在住、93歳=は、ここで2度負傷した。
「我々が持っている砲は、明治38年製の型に改良を加えた旧式の改造三八式野砲でした。米軍との差は歴然としていました」
日差しが届かず、真っ暗だった山岳の密林は、米軍の連日の爆撃で焼き尽くされ、岩と土だけになった。
日本軍の砲は多くは破壊され、下痢と高熱で死にかけた野砲兵らが数丁の小銃と手榴弾で陣地を死守する有り様だった。
5月上旬。ピカッと輝く閃光(せんこう)に続き、爆発音が響いた。砲弾の破片が顔面を直撃し、歯が折れて左唇が切れた。数日後、顔面にわいたウジが動き回り、チクチクと痛んだ。放っておけば、傷口から腐ってしまう。ナイフでウジごと顔の肉を削ぎ落とした。
忘れられない光景がある。
6月だった。花岡さんの部隊は、峠の北方、キアンガン方面へ転進していた。日本軍の拠点だったカガヤン川支流のラムット川の鉄橋に着いたところ、橋は米軍に爆破されていた。豪雨のため、周囲は水没し、堤防には逃げ遅れた日本の民間人家族や将兵たちが集まっていた。
花岡さんたちは空襲を警戒し、民家から離れた木の上に身を潜めた。
夜が明けると、追撃してきた米軍の装甲車両が砲撃を始めた。空からは爆撃と機銃掃射が人々を襲った。女性や子どもも含む多数の犠牲者が出た。
「この地で虐殺された兵士や民間人は1千人とも3千人とも言われますが、防衛庁の史料でも<移動中の邦人もとまどうに至った>と記すのみで詳細は不明のままです。戦闘とは異なる殺戮(さつりく)でした。私たちは、眠れぬ一夜を過ごしました」
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