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ルソンに立つ神風特攻隊の像(撮影/写真部・馬場岳人)
凄惨な比島決戦 生還兵が見た「太ももの肉が削がれた日本兵の死体」〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160208-00000005-sasahi-soci
週刊朝日 2016年2月12日号より抜粋
フィリピンには7千もの島があり、日米両軍の戦闘はルソン島以外でも展開された。レイテ島はもちろん、大岡昇平の作品で知られるミンドロ島でも、観光地として有名なセブ島でも……。
バナナの生産地として知られるミンダナオ島で凄惨(せいさん)な体験をしたのは、谷口末廣さん=東京都武蔵野市在住、95歳=だ。
1944(昭和19)年9月。第133飛行場大隊に所属する谷口さんは、同島のバレンシア飛行場にいた。
友軍機を待っていたところ、まるでカラスの群れのように40〜50機が頭上の空を覆った。
「おーい。友軍機がやってきたぞ」
大声で叫ぶと、仲間たちが兵舎から飛び出してきて、飛行機に手を振った。
ところが、その機体が急降下したかと思うと、バラバラッと爆弾や焼夷弾(しょういだん)を投下してきた。
谷口さんは、身一つを守る穴(タコつぼ)に飛び込んだ。直後に爆弾が炸裂(さくれつ)し、降ってきた土に首まで埋まった。隣に首のない戦友がいた。
米軍機による飛行場への爆撃は4、5日おきに続いた。滑走路は弾痕ででこぼこにされ、そのたびに穴埋め作業に追われた。
年が明けると、米軍が島の南北から上陸し、本格的な攻撃が始まった。航空司令部は「飛行場を死守せよ」と言うばかり。4月下旬には、「山岳地に撤退して陣地を構築し、玉砕覚悟で徹底抗戦せよ」との命令が下った。
岩石を積んだだけの粗末な陣地に身を潜めた。マラリアで伏せっていた部下の上等兵が谷口さんの手を握り、「班長殿、家内が迎えに来ましたので、お先に帰ります」とつぶやいて息をひきとった。煙が立つから荼毘にはふせない。せめて家族に遺骨を届けようと、手首を切り取って持ち歩いた。
空爆は激しさを増し、航空司令部との連絡も途絶えた。6月下旬、大隊は解散した。間もなく、食料の監視役を銃剣で刺し、乾パンを奪う悲劇が起こった。
それぞれ5、6人程度の人数で潜伏した。谷口さんらも、飛んでくる虫、自分の足に張り付いて血を吸うヒルをはがして煮て食べた。
飢えと病気で兵隊がバタバタと死んだ。潜伏中、出会う遺体は、「命綱」だ。ポケットをあさり、ドロドロになった乾パンがあれば幸運。死人の周りをチョロチョロうごめく、爬虫(はちゅう)類を捕まえては食べた。
生きた日本兵にも会った。6人ほどの兵隊が輪になって、虫の息の兵隊を囲み、爪をはがしている。谷口さんが「まだ生きているではないか」と声をかけると、一人が答える。
「ここまで連れてきたが、限界です。せめて遺骨代わりに……」
倒れた兵隊は、痛みを感じているのかいないのか、目頭に小さな涙の玉が光っていた。これも極限状態における戦友愛なのか。
8月に入ったころ、小高くなった尾根で3人の兵隊が飯盒(はんごう)を抱えて、うまそうに何かを食べていた。
谷口さんら6人が、力を振り絞り、はうように近づくと、焼けた肉の匂いに喉が鳴った。
一切れを分けてもらい、のみ込むように口に入れた。
「何の肉だ。大トカゲ、サル、鼠か」
そう聞いても、彼らは「何でもいいじゃないか」と言うばかり。礼を伝えて歩きだすと、背中越しに笑い声が響いた。
水を飲もうと谷に下りると、兵隊3人が顔を川に突っ込んだまま死んでいた。ふと河川敷を見て仰天した。まだ時間の経っていない飯盒炊爨(すいさん)の跡。そして傍らには、太ももの肉が削がれた日本兵の死体が横たわっていた。部下の一人が声を震わせた。
「こん畜生、よくもだましたな──」
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