この種の議論で、われわれが確認し前提とすべきことは、次のことだと思います。 1 >経済のシステムで、資本主義のシステムを認めない限り、国家を導くことはできない。(>>48) 妄言。こんなことは証明・確認もされていないし、証明・確認することもできない。 資本主義を超えた経済システムを考えていくべきだ、資本主義には限界がある、というのがマルクス主義の基本。 (>>54に、「経済的には資本主義、政治的には一党独裁。それがマルクス主義? とんでもないことだね。」とある。) 2 >マルクスは、同時に自分の経済論として資本論を書いていた。あくまでも机上の論理であったが・・(>>56)
「資本論」は、資本主義の分析の書であり、それ以上ではない。資本主義後の、あるいは資本主義を越えた社会についての書ではない。 3 >そういう時代に・・は、個人の活動のある領分をコントロールしなければならなかった。 >それが個人への粛清、弾圧となって現れた。結局はマルクス共産主義は、個人の意思の束縛抜きで展開できなかった。
「個人」の意思・思想や想念は、時代の支配的思想の影響を受けるものであり、それは時代の支配的経済体制=人々が働き生活する仕組み総体から生まれてくるものだ。(こう考えることもマルクス主義の基本発想。) だから、行き詰まっている経済・社会の体制=人々が働き生活する仕組みを打破し変革するために、「個人」(=具体的個々人)への「弾圧」が登場するということにはならないし、必要でもない。 (必要なのは、行き詰まっている時代の支配的思想への批判・その克服であり、そのためにこその経済・社会体制の変革なのだ。) ◇ けっきょく、マルクス主義では、経済や歴史学、唯物論哲学では大きな科学的達成があったが、政治手法・運動論・組織論はまだ未発達・展開途上・試行錯誤なのだ。(マルクス自身も、前者についての著作は多いが、後者についてはパンフレット・手紙の類しかない。)
だから目指すべきは、「経済的には資本主義の克服。だが政治的には未ださまざまな可能性が開かれている」、のだ。 ↓ >プロレタリア独裁という過渡期・・プロレタリア(多数者)によるブルジョア(少数者)に対する独裁 >レーニン独自の組織論・運動論・・前衛党論・・ >マルクスの時代には・・選挙を通じて政権を握ることは考えられなかった >だが・・エンゲルスは、晩年になって選挙を通じた革命(を)示唆している。(以上 >>19) >ロシアにしても、そのあとの中国にしても、資本主義国としては遅れた国・・そういうところで起こった(>> 54) >戦時共産制と呼ばれた・・過酷な政策、・・・ネップへと方針転換、・・・農業集団化(>> 66) ◇ つまり、いずれも試行錯誤の途上なのだ。われわれは基本を、根底をしっかりと把握していればよい。 ↓
>真に国民の支持を得るためには、より思想やシステムに普遍性を求めるべき、思想の根拠に「科学」を求めるべきだ(>>57) >「科学的社会主義」の「科学」が似非科学でなくなり、もし将来その普遍性が周知される状況が実現したならば、共産党一党独裁制の政治的安定がもたらされ、言論抑圧や粛清の必要性、動機そのものが失われるのではないか・・ >(言論抑圧などの問題性の生まれてくる構造を)検証し解決を目指す「心の科学的解明」。これこそが・・将来の、マルクスを継承した「進化したマルクス主義」(>>57) >資本主義社会の中に矛盾があり、その矛盾を解決する手段も資本主義社会の中から生じる。・・またこの変革のために武器をとる人たち、すなわちプロレタリアートも資本主義社会の中から生まれる。(>>65)
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