>戦後民主主義とか、人民民主主義のなかでの天皇制って、矛盾してないか? 天皇は憲法を順守し象徴であるべき姿、継続性、そして、天皇家の殯を始めとする 儀式儀礼の簡素化を「国民の理解を得られることを、切に願っています」と結んでいる。 民主主義は、隷従(奴隷)から解放された主権者国民の政治体制。 基本人権は すべての国民が有するのが民主主義。 しかし、天皇は病気高齢となっても法律上、 譲位条文が無いから退位ができない。 主権者国民が人権を縛っているといえる。 であるから、天皇は象徴とは、の考えを述べ、主権者に譲位(退位)の理解を求めた。 大御心や国体は、個々人の心情信条でどうにでもとれる。 13さんの逆徒を辞書で みると「主君に背いて謀反を起こした者たち」となっている。 不逞はその形容詞と なるのか、こういう言葉はテレビ時代劇の影響かな? そもそも論で尊王の歴史を
ひくと、「水戸黄門」や「忠臣蔵」の時代に、尊王(皇)思想が始まったといえる。 尊王や幕府官学の儒教、朱子学の大義名分論を基に、多くの思想家が出る。 尊王や国学もその思想家かからでる。 忠孝を名分にして時代劇を検証してみると。 まずは忠臣蔵、仇討ちと思い込まされる。 忠臣蔵を犯罪事件だとみると忠孝の 影響から抜け出せる。 300年近く演じられ民族思考に近いから異端視されるかも。 水戸黄門は、逆徒(賊)の徳川一門。 なぜ、演じられるかは助さん格さんの忠臣や 光圀を非難すると尊王攘夷を否定することとなる。 光圀は、天皇紀を編纂し、南朝 正統である。 湊川神社(楠木正成)に「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻んだ。 水戸学を 始めたといえる藩主で、幕末の尊王攘夷は、《後期》水戸学が先導して、長州や 薩摩の尊皇の志士(明治政府の要人)となった。 (水戸藩士が主導の事件。 桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門の変。 天狗党の乱で壊滅する) 国学は、平田篤胤の門下により神道国教化を進めた。 平田篤胤(平田神学)は、 大国主の幽冥界(死後の世界)と天照大神の顕明界(現世)に分け、霊魂の存在を あらわした。 復古神道とする記紀の神の道から、神学と呼ぶように宗教?となる。 仏教と儒教を排して、記紀やキリスト教(当時は禁教)などを引用し、知識層から 庶民にも支持された。 日本礼賛として、日本は小さな国であるが元の国であり、 諸外国は分かれて言葉が違っていったとか、元の国であるから外国人が日本にやって くる、記紀のイザナギ・イザナミが西洋に伝わりアダムとイブとなったとかである。 (本居宣長はアマテラス、平田篤胤はオオクニヌシ。 記紀が基であるが、解釈が違い 明治政府は、アマテラスとするから、平田神学の系統は排除された。 代表の一つ、 大本教は、日本書紀の国之常立神を始神として、皇国史観に反するとして宗教弾圧を 受けた。 谷口雅春は、大本教に入信して予言の外れや弾圧を機に離れ、病気治癒 体験や人生問題の解決法の個人雑誌「生長の家」を出版、信者を増やしていった。 国学四大人のひとり、荷田春満は、吉良の在宅を浪士に教えて討入になったという) 幕末の時代劇で描かれないか? 吉田松陰は、山鹿素行の思想影響を受けている。 吉田松陰は幼少に、山鹿流兵学を御前講義、12月14日の脱藩。 15日は高杉晋作の 功山寺挙兵。 宣伝冊子の長防臣民合議書。 (忠臣蔵の山鹿流陣太鼓は、山鹿素行) 山鹿素行は赤穂藩に配流(朱子学批判 山崎闇斎)となり、大石内蔵助は素行に学ぶ。 また、浪士の一部は、長州支藩にお預けの歴史もある。 山鹿素行の「中朝事実」は、 『忠君の義が守られ、神武天皇から皇統が続く(万世一系)、臣が君を討つ中国のような 王朝の交代(湯武放伐・易姓革命)が無い日本こそが、中国〈なかつくに〉』の尊王思想。 (今なら、天皇に姓が無いから易姓革命は起きないとなり、維新《これあらたなり》も尊王 ゆえの革命否定。 皇統の始祖神武天皇は、ワニのお母さんから生れた天皇なんだと 子供に話して信じるんだろうか? 〈古事記は、母の姉《祖母》が八尋鰐 日本書紀は龍〉) ほかにも、大石内蔵助と泉涌寺、泉涌寺は、天皇家の香華院(菩提寺)で、神仏分離で、 泉涌寺と般舟院を切り離した。 朱子学や神仏分離の歴史は、↓ 宋学/朱子学 http://www.y-history.net/appendix/wh0303-073.html 大義名分論 http://www.y-history.net/appendix/wh0303-073_4.html 神仏分離・廃仏毀釈の思想背景 http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken43_1.htm で、「忠孝」を知らないと時代劇の刷り込みとなってしまう。 「親を三度諫めても聞き 入れない場合は泣いて従う。 主君を三度諫めても聞き入れない場合は身を退く (立ち去る)」が、儒教(礼記)の解釈で孝忠の順、「推して是を広むれば父のみに 非ず、君も、亦(また)然り」と吉田松陰の忠孝。 その後は、臣民や赤子となる。 吉田松陰が没して5年、朝敵となり塾生は、勅命に従わず幕府軍と戦争を始める。 薩摩の大久保利通は、「非義の勅命は勅命に非ず」と書く。 (尊皇もいろいろ) 外国人嫌いといわれる孝明天皇は攘夷、攘夷で幕府に開国(開港・開市)の非難をし 過激行動をとった尊皇の志士。 しかし、薩長は列強の報復攻撃で開国へ舵を切る。 王政復古(明治元年、天皇即位前)の後、神戸事件や堺事件は、薩長を信じていた ような尊攘の集団が起こした。 幕末の四大人斬りの一人、河上彦斎は長州や公家と 行動し、尊攘思想を持ち続けて、開国の変節をなじった。 原理主義を貫いた、故に、 旧同士によって、斬首にされたようなな人物である。 (思想は討幕の手段であった?) (明治の歴史は、要人となる志士の大義名分(尊王攘夷)に矛盾がでて都合が悪い。 大英帝国外交官アーネスト・サトウは、薩摩の五代友厚と寺島宗則、長州の井上馨と 伊藤博文から情報入手。 伊藤と井上は、〈英国公使館焼打ちの犯人と、サトウは 明治始めに知った〉友人・協力者とするが、弱みを持つ友人の意味は推して知るべし) 尊王思想の天皇(天子やみかど〈帝や御門〉等の呼称)は、想像や架空の人物に近い、 謁見できても簾の奥の江戸時代。 忖度した尊皇思想で致し方ないところもある。 今は、「憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません」と天皇の自らの映像。
親子兄弟、摂政や摂関でも権力闘争の乱や変の歴史を踏まえ、権力が無いと話 しても、皇統や万世一系、国体とか。 国体とは、神の国ということになるのかな? 記紀崇拝は自由、思想信条も自由。 しかし、民主主義体制は嫌いなようである。 で、民主主義と天皇が矛盾? 英国はマグナ・カルタで王権の制限。 王が現存し 民主主義の先駆けと自負している。 憲法と天皇? 明治憲法は元首と位置づけた。 三種の神器所有を天皇とすることができないからで、部族長や豪族の王、公家の狭い 社会である記紀の時代なら認め合えば成立できたであろう。 神器も草薙の剣は、 盗まれたり、海に沈んでもいる。 神器無しで即位した天皇もおり、これらの天皇は 明治政府が決めた。 (憲法が三種の神器と同じといえる) 天皇になる儀式に皇孫 (ニニギ)が天降る際の夜着の由来から、真床追衾(まとこおうふすま)の儀式がある。 天智天皇から即位に一回となったとされる。 天皇は即位と続く儀礼よりも、殯(葬儀) と後の儀礼の簡素化を話している。 昭和天皇崩御の前数ケ月はいろいろな行事が 自粛、崩御の日は歌舞音曲の自粛と国民に与える影響があった。 そして、家族 (子や孫)が民間人となり儀礼で頻繁に参内する負担が生じる。 公なのか私なのか、 宮内庁が行事を公表して、線引きの整理を行うことが求められる。 まあ、戦後とか人民とかの枕詞で、民主主義を考えてもね? 選挙も多数決もある中国 北朝鮮は、民主主義体制と認知されないのは、国民が主権者でないからなんだわな。
[32初期非表示理由]:担当:関連が薄い長文
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