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痛みを伴う「年金抜本改革」を誰が言い出すのか
「年金カット法案」を巡る与野党攻防は茶番劇
磯山友幸の「政策ウラ読み」
2016年12月2日(金)
磯山 友幸
11月25日、民進党などが反対する中、与党は衆院厚生労働委員会で年金制度改革関連法案の採決に踏み切った。その後、29日に衆院本会議で可決され、参議院に送られた。(写真:つのだよしお/アフロ)
「反対しました」という形が欲しい
野党が「年金カット法案」とレッテルを貼る年金制度改革関連法案が11月29日、衆議院本会議で可決され、参議院に送られた。国会会期は12月14日まで延長されており、政府・与党は何とか今の国会で成立させたい意向だ。年金支給額の新たな改定ルールを盛り込んだ今回の法案には、民進党、自由党、社民党、共産党の野党4党が反対。自民党と公明党、日本維新の会などが賛成した。野党は衆議院での法案通過を阻止するために、衆議院厚生労働委員会の丹羽秀樹委員長の解任決議案と、塩崎恭久厚生労働大臣に対する不信任決議案を提出。否決されると、民進党、自由党、社民党は本会議場から退出、法案の議決には加わらなかった。
会期末が迫るとしばしばみられる「茶番劇」である。民進党は、「年金カット法案をいい加減な審議で通すことに断固反対だ」としているが、民進党が求めるように審議時間を増やせば今国会での成立は絶望的になる。また、審議時間を増やしたからといって民進党が賛成に回る可能性はまずない。「年金の減額につながる法案に私たちは反対しました」という形が欲しいのだ。
抜本改革を議論するというのは結局、問題の先送り
民進党はさらに「今の高齢者から将来の世代まで、まともな額の年金をもらえるように抜本改革に今すぐ取り組むべきだ」とも主張している。これは正論だ。年金制度の抜本改革の議論は今すぐにでも着手すべきだが、だからといって、抜本改革の議論を始めて今国会で成立することなどあり得ない。今回の法案を止めて、抜本改革を議論するというのは、結局は問題の先送りになるだけだ。
それは民進党の議員の多くも十分に分かっている。年金の支給額を抑制しなければ、今の制度がもたないことも十二分に理解している。
自民党など与党の主張にもウソ
一方で、自民党など与党の主張にもウソがある。衆議院での討論で、自民党は「法案は、公的年金制度の持続可能性を高め、将来世代の年金水準を確保することによって、将来的にも安心な年金制度を構築するためのものだ」と述べたが、この法案で将来にわたって安心な年金制度になるわけではない。これもマヤカシなのだ。長年政府は、「百年安心プラン」といった言葉を使って、年金制度にマクロ経済スライドという仕組みを導入すれば、制度は持続可能だと言い続けてきた。
2004年の法改正で、毎年年金掛け金を引き上げる一方で、経済情勢で年金支給額を増減できるようにしたのだ。年金給付を減らして将来世代に回すなど制度全体で「完結」するようにはなっているが、あくまで机上の論理。実際には年金制度は維持できたとしても、高齢者がその年金の金額で生活できなくなったり、逆に、若年層が年金掛け金の負担に耐えられなくなる可能性は十分にある。制度を司る厚生労働省は安心かもしれないが、生活者の不安は解消されない。
日本の公的年金制度は「修正賦課方式」
何せ日本は猛烈な少子化である。年金という制度は現役世代が払った原資を、高齢者世代が受け取るという仕組みだ。自分で払ったものを自分で受け取る仕組みを「積立方式」と言うが、日本の実情はすでに積立方式ではなくなっている。今の若手世代が払った保険料を高齢者への給付に充てる「賦課方式」に近い。一部は積み立てられた年金資産を運用に回しているため、「修正賦課方式」などと呼ばれる。
現在65歳以上が人口に占める割合は27%だ。高齢者がどんどん増える中で、支払う年金も増えている。それを制度的に賄うには大きく分けて2つの方法がある。年金支給額を引き下げるか、保険料を引き上げるか、だ。
若い世代の社会保険料と税の負担感は相当なもの
2004年の法改正で、それまでは景気や年金資産の運用状況によって改訂していた保険料率を、毎年0.354%ずつ自動的に引き上げることを決めた。2003年に13.58%(個人と会社で半分ずつ負担)だった保険料率を、14年にわたって引きあげ、2017年9月以降は18.30%で固定するというものだ。毎年一定の保険料収入の増加を可能にしたわけで、この保険料の引き上げは今も続いている。18.30%というのは年金の保険料だけで、これに健康保険料も加わり、さらに所得税もかかる。若い世代の社会保険料と税の負担感は相当なものだ。これ以上、保険料負担を上げるというのは現実的には難しい。
そうなると、高齢者が受け取る年金を減らすしかない。現在、年金支給開始年齢を65歳にまで引き上げる作業が続いている。抜本的な改革はこれを70歳にまで引き上げる方法だが、それでは退職後の無年金時代が生じてしまう。すぐには実行できないのだ。そうなると、今の年金受給者がもらっている年金を減らすほかない。
「物価が上がり、年金額が下がったら生活できない」は正論だが…
今回、民進党が問題視したのは、「物価が上昇した場合でも、現役世代の平均給与が下がった場合には、年金額が下がる」という仕組みだ。物価が上がって年金が下がったら生活できないというわけだ。もちろん正しい主張だ。
東京巣鴨の地蔵通りでお年寄りを相手に「年金減額法案に賛成か反対か」と聞いていたが、当然、「反対」が圧倒的になるに決まっている。だが、年金額を維持しようと思えば、どうなるか。「現役世代の給与が下がっても、高齢者の年金額を維持するために、さらに現役世代に負担を求める」ことになるわけだ。「あなたの子供や孫の負担を増やしても年金を維持してほしいですか」と聞けば、違った反応だったかもしれない。
税金で賄うべきだ、という声もあるだろう。だが、所得税を増やせば、結局は勤労世代の負担を増やす。保険料か税金かの違いだ。消費税ならば高齢者も負担することになるが、2019年までは上がらない。
マクロ経済スライドは、どれだけ「机上の空論」か
経済が上向き、働く世代の給料が増えれば、結果的に社会保険料や税収も増えることになる。だが、それで少子高齢化による負担増を吸収できるわけではない。日本の年金制度はかなりの危機に瀕している。抜本改革は待ったなしなのだ。
抜本改革を主張する民進党はどうやって問題を解決しようと考えているのだろうか。民進党のホームページで、井坂信彦・衆議院議員が解説している。長妻昭氏に次ぐ「新ミスター年金」として民進党が売り出したい若手の有望議員だ。
現在の「年金カット法案」について、「将来世代の受給額が7%増える事実はまったくない。なぜ政府案でそうなっているかというと、政府の試算は2005年からずっと長い間、高齢者の年金を3%カットして巨額の財源をつくり、しかも年4.2%というありえない運用利回りで50年くらい増やして、それが将来世代にばらまかれると7%増えるという計算をしている」と指摘している。いかに政府のマクロ経済スライドが「机上の空論」かを追及しているのだ。
そのうえで、「年金カット法案は不要」だと断定している。「場当たり的に削れるだけ削っておこうという発想で、将来世代が少しの額しかもらえない制度が延命されるだけだ」というのだ。さらに、年金の制度設計で大事なこととして、@老後の暮らしを最低限年金で支える最低生活保障が大原則、A今の制度のように「若い人は払い損」という世代間の不公平があってはいけない──つまり、「最低生活保障と世代間公平の二つを何とか両立できるような制度設計をしなければいけない」としている。
年金の試算を第三者機関で行い、都合のよい解釈をさせない
だが、どうすれば、それが可能になるのか。井坂氏が挙げている1つ目は、年金の試算を中立的な第三者機関で行う、というもの。政治家や役所に都合のよい解釈をさせないということだろう。大賛成だ。さらに同世代間で区切る疑似的な積立方式に近い形も目指すという。世代ごとに景気変動の影響の受け方が違い、世代間の不公平間が高まるかもしれないが、積立方式に近い形ということでこれも良しとしよう。
財源については「高所得者に負担いただくことと、歳入庁の設置やマイナンバーの活用で、きちんと皆さんに保険料を払っていただく」こと。さらに「それだけでは足りないから広く薄い相続税のような形で、亡くなったあとに回収する形も考えなければいけない」としている。
民主党政権時代には相続税の増税が検討されたが、これを「広く薄く」取るというのは言うは易く行うは難い。マイナンバーが導入されたといっても、国民の資産を国が把握しているわけではない。大金持ちの遺産を調べてガバッと課税するならともかく、広く薄く相続税を取る仕組みを構築するのは容易ではない。
結局、ホームページをみても、抜本的な改革提案はなされていない。
悲惨な社会保障の現状を理解してもらうしかない
『シルバー民主主義』(中公新書)の著書もある八代尚宏・昭和女子大学特命教授は、「高齢者に日本の悲惨な社会保障の現状を理解してもらうしかない」と話す。(当コラム 2016年6月17日配信「『40歳定年制』は非常に合理的な意見」ご参照)
そのうえで、2つの方法があるとして以下のように言う。
「ひとつは理詰めで説得すること。政府は年金制度が持続可能だと言っているが、実際にはそれは粉飾で、年金はすでに不良債権ということをきちんと説明する。そのうえで、年金の一部切り下げを受け入れてもらうわけです。
もうひとつは高齢者の『利他主義』に訴えること。あなたのお孫さんを犠牲にしてまで多くの年金を受け取りたいですかと問えば、日本の多くの高齢者はとんでもないと言います。政治家はそうした点をもっときちんと高齢有権者に訴えるべきです」
「痛み」受け入れのお願いを、自民党も野党も口にしない
支給年齢を引き上げるか、大幅に年金支給額をカットするしかない、それを高齢者に理解してもらうべきだ、というのだ。年金制度の抜本的な見直しは、まさしく「痛み」の負担を受け入れてもらうことなのである。それを自民党も野党も真正面から堂々と主張していないところに問題がある。
もともと、年金は「保険」だ。元気に働いて十分な収入を得ている人には全額辞退してもらえばよい。その一方で、働きたくても働けない人や、病気の高齢者には生活に必要な年金は保証する。今の人口構造の中で、全員が満足できる金額を受け取れる年金制度の設計は無理だろう。
このコラムについて
磯山友幸の「政策ウラ読み」
重要な政策を担う政治家や政策人に登場いただき、政策の焦点やポイントに切り込みます。政局にばかり目が行きがちな政治ニュース、日々の動きに振り回されがちな経済ニュースの真ん中で抜け落ちている「政治経済」の本質に迫ります。(隔週掲載)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/238117/120100036/
インチキメディアの時代到来
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
2016年12月2日(金)
小田嶋 隆
医療情報サイト「WELQ」の記事が11月29日以来、非公開になっている。
WELQを運営しているディー・エヌ・エー(本社:東京都渋谷区、代表取締役兼CEO:守安功)の説明によれば、掲載記事の信憑性について医療関係者から疑義が寄せられていることを受けての措置だという(日経電子版のニュースはこちら)。さらに本日(12月1日)、社長名で「9つのキュレーションメディアの非公開化と社長の減俸処分」を発表した(こちら)。
まあ、当然ではある。
というよりも、数日前からの経緯を踏まえて考えるなら、配信停止の判断は遅すぎたと言って良い。
私がこのたびのWELQについてのニュースを知ったのは、例によってツイッターのタイムラインでの騒ぎを通してだったわけなのだが、考えてみればこのこと(私がツイッター経由でこのニュースに触れたこと)自体、WELQが引き起こしている状況と無縁ではないのかもしれない。どういうことなのかというと、世間で起こっている出来事の概要を、主にツイッター上の噂話から知り得ている昨今の私の暮らしぶりの危うさは、WELQに代表されるお手軽なキュレーションメディアをうっかり信じ込んでいる人々のおめでたさと同質だということだ。
私たちは、ネットから流れて来る情報に対してあまりにも無防備だ。
自分で選び取った気になっている情報は、実は「つかまされた」情報だったりするのかもしれない。でなくても、われわれは、つまるところ、誰かに誘導されている可能性が高い。
ということで、今回は、さんざん言われ尽くしていながらほとんどまったく身についていない、わたくしどもの「メディアリテラシー」について考えてみることにしたい。
まず、WELQの記事が炎上したいきさつを振り返っておく。
当初、ツイッターに流れてきたのは、WELQのサイト内で紹介されていた記事への論評と、それに対する反応だった。
現在、当該の記事は非公開の扱いになっている。ちょっと前まではアーカイブサイトで読めたのだがそちらも削除された模様だ。
読んでみると、記事の書き手は、驚くべきことに、肩こりの原因のひとつとして「幽霊」を召喚している。
《ちなみに「肩が重い」と訴える方を霊視すると、幽霊が後ろから覆いかぶさって腕を前に垂らしている、つまり幽霊をおんぶしているように見えるそうですよ。肩の痛みや肩こりなどは、例えば動物霊などがエネルギーを搾取するために憑いた場合など、霊的なトラブルを抱えた方に起こりやすいようです。
また右肩に憑くのは守護霊、という話もよく知られているかと思います。守護霊は人などに憑き、その対象を保護する霊のことで、多くの方の守護霊はご先祖様だと言われています。》
なんと、右肩に憑くのは守護霊なのだそうだ。なるほど。
解説はさらに続く。
《なお守護霊は実は1人ではなく、縁のある複数のご先祖様が憑くそうで、そうすると右肩にたくさんの守護霊が乗っている、ということになるので、肩の痛みやこりを感じるのは無理のないことなのかもしれません。》
で、このお話は
《もちろんこれは科学的に実証された話ではないので、信じるか信じないかは人それぞれです。》
という、なんとも人を食った物言いで一段落するわけなのだが、いったいこれは何を意図した記事なのであろうか。
まあ、意図も何も、あまりにもバカげていて分析を寄せ付けない水準のテキストだという、それだけの話なのかもしれない。
とはいえ、バカな記事だということで一笑に付すわけにもいかない。
なぜなら、この文章は素人のブログに書き散らされた個人の日記でもなければ、趣味の情報交換を目的にやりとりされている好事家の私信でもないからだ。
いまご覧いただいたリンク先の記事は、歴とした「医療情報サイト」に掲載されているテキストで、その「ココロとカラダの教科書」を謳うキュレーションプラットフォームを運営しているのは、プロ野球の球団を所有するなど、確固たる社会的信用を看板に商売をしている東証一部上場企業だ。
ということは、記事には当然文責が生じ、配信元には掲載責任が発生すると考えなければならない。
どこからどう考えても、到底笑って済ませられる話ではない。
まして、相手は医療だ。人の命がかかっている。ただでさえ肉体の不調に苛まれて不安に陥っている読者を相手に「守護霊」だの「ご先祖」だのといったたわけた世迷い言を吹き込まれたのではかなわない。
これでは、霊感商法と少しも違わないことになる。
きっちりと責任を取ってもらわねばならない。
深刻なのは、WELQがそこいらへんによくある泡沫サイトではないことだ。
WELQは、一日に100以上の新記事を更新すると言われるネット界でも指折りの巨大情報サイトだ。
配信元のディー・エヌ・エーがIT世界の大企業であるだけに、SEO対策(検索エンジンの挙動に最適化することで検索にかかりやすいページを制作する技術)にもぬかりはない。それゆえ、影響力はことのほか大きい。
たとえばGoogleの検索窓に「肩こり」や「血糖値」といった医療・健康にかかわるキーワードを入力して検索ボタンを押してみると、検索上位には、必ずWELQのサイトの記事が表示される。
さらに具体的に「膝 骨折」「頭痛 めまい」という感じの複合的なキーワードを入力して、より実践的な検索を試してみると、あらまあびっくり検索上位はWELQに独占されてしまう。
つまり、一般のネットユーザーが、スマホなりPCなりの検索から健康情報なり医療知識なりを入手するべく、通り一遍の手順を経て検索を実行すると、かなり高い確率でWELQの記事に誘導されることになるわけだ。とすると、そのWELQが、何らかの意味で不正確な(商業的な思惑に歪められた、あるいは医学的に間違った、でなければ政治的ないしは社会的に偏向した)情報を提供しているのだとしたら、被害は、目に見えるものから目に見えないものまで、非常に多岐にわたることになるはずなのだ。
現在は、検索候補に表示されたWELQの記事の見出しをクリックすると、
《【お知らせ】WELQの全記事の非公開化について(こちら)》
という、ディー・エヌ・エーの告知ページが表示されてそれっきりだ。
が、つい3日ほど前の11月28日までは、WELQのサイトが文字通りに検索候補を席巻していたわけで、これはやはり、なかなか深刻な事態と考えなければならない。
そもそもの話をすれば、WELQの胡散臭さは「キュレーション」という言葉の胡散臭さからやって来ているものだ。
「キュレーション」の意味は「知恵蔵2015」の解説によれば、
《IT用語としては、インターネット上の情報を収集しまとめること。または収集した情報を分類し、つなぎ合わせて新しい価値を持たせて共有することを言う。キュレーションを行う人はキュレーターと呼ばれる。》
てなことになっている(出典はこちら)。
なるほど。
この記述から考えるに、もしかして「キュレーション・プラットフォーム」を名乗るWELQは、情報を集めて整理しているだけなのだからして、はじめから編集責任は負わないつもりだったのだろうか。
まさか。
だが、その通りなのだ。彼らは、どうやら、責任を取るつもりを持っていなかったのである。
WELQの記事の末尾には
《当社は、この記事の情報及びこの情報を用いて行う利用者の判断について、正確性、完全性、有益性、特定目的への適合性、その他一切について責任を負うものではありません。この記事の情報を用いて行う行動に関する判断・決定は、利用者ご自身の責任において行っていただきますようお願いいたします。》
という文言が付加されている。
さきほど紹介したアーカイブの記事の最後にも、信じがたいことに、この通りの言葉がそのまま書かれていた。
本当に、ここに引用した通りのトンデモな言い草が表記されているのである。
びっくりぽんだ。
何度読み返しても、読んだ回数分だけ、必ずや何度でも驚愕させられるとてつもない但し書きだと思う。
「自己責任」という概念が、ここまであからさまに情報提供側の無責任の弁解に使われた例を、私はほかに知らない。
というよりも、文字を扱う人間としてこれほどまでに恥知らずな文言を掲げていながら、どうやって編集部に人材を集めることができたのか、そこのところが不思議でならない。
いったい、どこの編集者が、こんな呪われた汚れ仕事にかかわりたいと考えるだろうか。
あるいは、そもそもキュレーション・プラットフォームというのは、無批判にかき集めた低コストのテキストを無責任に垂れ流すだけの下水管ライクな仕組みなのだからして、はじめから「編集部」にあたる組織を置いていなかったのかもしれない。それ以前に「編集」という作業そのものを想定していなかった可能性もある。
いずれにせよ、「守護霊」や「幽霊」の話を書いた記者が自ら
《もちろんこれは科学的に実証された話ではないので、信じるか信じないかは人それぞれです。》
と、いけ図々しくもほざいていたのとほとんどまったく同じセリフを、その記事の配信元であるディー・エヌ・エーが、会社の名前を代表して記事の末尾に堂々と書いているわけで、してみると、これははじめから「記事」なんてものではなかったわけだ。
正直なところを申し上げるに、私は、「キュレーション」という言葉の背後に隠れて無責任な商売をしている人々には、ずっと以前から、良い感情を持っていなかった。個人的には、ずっと昔、「愛人バンク」という名前で売春を斡旋していた組織が、世間からの非難に対して
「われわれは、電話番号を仲介しているだけで、売春を斡旋しているわけではない」
という主旨の弁解を並べ立てていたことを思い出さずにおれない。
バイラルメディアも、まとめサイトも、似たようなものだと思っている。
要するに、インターネットを中心とした新参のメディアを舞台に収益事業を展開している人間の中には、記事を扱う人間が当然持っていて然るべき常識を欠いた人々が多数含まれているということだ。
インターネットの登場以来、情報が双方向化して、これまで情報の受け手であった人々が、情報を発信する手段を獲得し、それまでの一方的なメディア状況に変化が生じると、「メディア・リテラシー」という言葉が、しきりに繰り返されるようになった。その意味するところは、
「IT化した世界の住人は、これまでのように、一方的に情報を享受するだけでなく、時には自分の側から情報を発信しつつ、様々なメディアの特徴とその配信内容を批判的に検証しながら、主体的にメディアを選択しなければならない」
といった感じだろうか。まあ、そんなところだろう。
いずれにせよ、「鵜呑み」が、最悪な態度で、メディアに対して批判的な態度を堅持することが、メディア・リテラシーの基本だってな話が、21世紀のメディアや情報に関して説教を垂れる人間の定番だったわけだ。
大筋はその通りなのだろう。
ただ、最近になって、私は、われわれ一般の人間が、既存のマスメディアに対して批判的な目を向けはじめたことが、果たして21世紀のメディア環境を改善せしめているのかについて、確信を持てなくなってきている。
というのも、マスメディア発の「画一的」で「独善的」で「一方的」な情報に疑いの目を持つまでのところは良かったのだとして、その結果、人々が、ミドルメディアだったりマイクロメディアだったりする有象無象の情報源からの情報を重視することになっている現状が、必ずしもマトモな結果をもたらしていない気がするからだ。
もう少し具体的な言い方をすると、マスメディアの情報を鵜呑みにしていた20世紀の日本人の方が、それを疑っている21世紀の日本人より、結果的には賢明だったのではないかと思い始めているということだ。
というのも、マスメディア発の情報を「鵜呑み」にせず、疑い、検証し、さらに様々な個人や小さな組織や有識者や言論人やネット論客から発信される非常に幅広い情報を総合的に評価して、「自分のアタマ」で判断して情報を取り入れている21世紀のわれわれは、結局のところ、「正確な情報」ではなくて、「自分の信じたい情報」だけを集めるサルみたいなヤツになってしまっているからだ。
2008年の2月、私は当時運営していた自分のブログに
《情報の双方向化は、メディアの側にもメディアリテラシーが求められる時代をもたらしたわけで、懐かしくも麗しい、古き良き二十世紀のおとなしくて無力なやられっぱなしの聴衆は、もう帰ってこないのだよ。残念だが。》(こちら)
という言葉を書いた。
この言葉は、どこでどう引用されて拡散されたものなのか、いまでもネット上をさまよっている。で、時々私のツイッターのタイムライン上にも顔を出したりする。
これを引用している人たちは、おそらく、20世紀のマスメディアが持っていた特権が失われつつある現状を歓迎する意味で、私の言葉を広めてくれているのだと思う。
が、私自身は、マスメディアの力が弱まったことはその通りだとして、だからといって、メディアの受け手である一般の人々の情報感度が高まったとは思えなくなっている。
自分のアタマで考え、自分の判断でメディアの善し悪しを判定し、自己の責任において情報の真贋を見極めるためには、その前提として、メディアの受け手である側の人間の側に、相当に高い知性と判断力が備わっていなければ、話が成立しない。
それができない人間は、結局のところ、良い気持ちにさせてくれる記事を信用し、自分にとって居心地の良い結論に飛びつき、感情をゆり動かす文章にひきつけられることになる。
で、その結果が、ページビューを稼ぐことにばかり血道をあげるバイラルメディアの猖獗であり、あることないことを確認もせずに騒ぎ立てるまとめサイトの隆盛であるのだとしたら、マトモなメディアも、どうせその後を追うことになる。
新聞社が運営するサイトでも、見出しの付け方は、5年前に比べてあきらかに扇情的になっている。
紙の見出しとウェブ上の記事の見出しの乖離(←紙の新聞の見出しは「記事の要約」を基本に書かれるが、ウェブの記事の見出しには、同じ記事でも、よりクリックを誘発しやすい扇情的でひっかかりのある言葉が選ばれる)も、ますます広がっている。
肩こりに苦しむ読者が霊能詐欺師の門前に導かれる近未来が、もうすぐやって来ると思っていた私の見込みは、毎度のことではあるが、甘かった。
その近未来は、すでに来ている。
私たちは、自ら選んだ結末として、大雑把でノロマで胡散臭くて出鱈目なマスメディアを葬り、よりきめの細かい悪辣さを備えたインチキメディアに魂を抜かれはじめている。
不快な結末になった。
いやな気持になった人は、生活習慣をあらためると良いでしょう。
私の文章が不快なのは、あなたの心の中に住む悪霊のせいかもしれないので。
何を言っても自分に返ってくるような
悪辣なコラムだ。怨霊退散、怨霊退散!
全国のオダジマファンの皆様、お待たせいたしました。『超・反知性主義入門』以来約1年ぶりに、小田嶋さんの新刊『ザ、コラム』が晶文社より発売になりました。以下、晶文社の担当編集の方からのご説明です。(Y)
安倍政権の暴走ぶりについて大新聞の論壇面で取材を受けたりと、まっとうでリベラルな識者として引っ張り出されることが目立つ近年の小田嶋さんですが、良識派の人々が眉をひそめる不埒で危ないコラムにこそ小田嶋さん本来の持ち味がある、ということは長年のオダジマファンのみなさんならご存知のはず。
そんなヤバいコラムをもっと読みたい!という声にお応えして、小田嶋さんがこの約十年で書かれたコラムの中から「これは!」と思うものを発掘してもらい、1冊にまとめたのが本書です。リミッターをはずした小田嶋さんのダークサイドの魅力がたっぷり詰まったコラムの金字塔。なんの役にも立ちませんが、おもしろいことだけは請け合い。よろしくお願いいたします。(晶文社編集部 A藤)
このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/120100072/?
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