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今こそ自由民権運動を 〜自由党の門出にむけて
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2016-10-27 反戦な家づくり
私が「自由党」と聞いてまず思い浮かべるのは、子供の頃の百円札に描かれていたひげの爺さんだ。
爺さんの名は、板垣退助。
暴漢に襲われて「板垣死すとも自由は死さず」と言ったとかいう、あの人物である。
板垣は土佐藩の中の武力倒幕派であり、明治維新の大物の一人として歴史に躍り出した。
そして、戊辰戦争では官軍の参謀として、幕軍最強といわれた会津若松城を陥落させるなど、官軍内でも圧倒的な軍功をあげた。
そんな根っからの軍人である板垣が、なぜ熱烈な民権主義者になったのか。
一説では、旧幕軍の伝習隊の強さに感心したからだという。伝習隊はフランスの軍事顧問に訓練された近代的な軍隊だが、武士ではなく無頼の徒を集めていたという。これからの国を守っていくためには、頭の固い武士だけが戦うのではなく、四民平等で兵士にすべきだというのが、民権に目覚めるきっかけだったというのだ。
これは、今の私たちが想像する民権とは、かなり違う。
しかし、フランス革命の変容体として登場したナポレオンも、まさに国民軍によって一時は欧州を席巻したのであり、歴史的に見れば普通のことなのかもしれない。
ともあれ、1881年に板垣を筆頭に自由党は結成され、憲法制定、民選議会、地租軽減などを課題とした自由民権運動の先頭に立った。明治維新の立役者である板垣が、自由民権運動の先頭に立っていたと言うことは、全国津々浦々で様々な活動をしていた運動家たちにとって、大きな力になったことは想像に難くない。
ただ、自由民権運動が板垣を頂点とするピラミッドであったのかというと、どうやらそうではないらしい。
板垣の立志社などのように旧藩がバックについて士族が中心の団体も多かったが、それ以上に農村の運動が活発だった。
全国に数百から数千の団体が、自発的に結成され、地域の豪農をリーダーとして、勉強会や演説会や署名活動などをやっていた。
なかには、医療などの生活支援までおこなっていたという。
士族の運動、農村の運動、そして都市の知識層を中心にした運動などが、その中でもさらに細分化されて軋みながらすすめられていったのが、明治の自由民権運動だった。
そして、常にすったもんだしながらも、憲法制定、民選議会、地租軽減という主目的についてはブレることなく、薩長が牛耳る独裁的な政府にも憲法制定を認めさせるに至った。
その運動の中では、革命権をも明記した植木枝盛の憲法草案や、今の皇后が言及したことで一躍有名になった五日市憲法などなど枚挙に暇ないほどに、国民的な民権意識が一斉に噴出した。
今で言えば政治資金パーティーのような演説会には、そこそこ高い料金を払っても会場は満員になり、その参加者がまた新たな弁士として羽ばたいていった。
こうした国民運動は、士族の指導だけでなしえたものではなく、農村の運動との、いわば野党共闘があって初めて実現したものである。
しかも、まだ民選議会もなかったので当然だが、議会内的な発想ではなく、草莽をかき分けて同志を募る運動であった。
■
今、日本の歴史上でおそらく5代目となる自由党が再出発した。
小沢代表はじめ、党員サポーター支持者の皆さんは、1998年の自由党を想起していることだろう。
しかし、その100年以上前に熱烈に結成された初代自由党を思い起こしていただきたい。
自由民権運動はなぜ日本中を渦に巻き込むことができたのか。
と同時に、その歴史的な限界は何だったのか。
歴史趣味ではなく、きわめて現代的な問題としてとらえ直し、糧としなければならない。
単なる議員の宿り木としての党ではなく、国民運動のシンボルとしての党として、5代目自由党には勇躍を期待したい。
■■お知らせ■■
ストップ!TPP緊急行動 御堂筋大パレード
10月29日(土)
14:00〜集会 15:15〜パレード出発
靱公園・東園
(地下鉄「本町」28出口徒歩約5分)
http://loco.yahoo.co.jp/place/g-ErLFmcAX2hc/map/
主催:ストップ!TPP緊急行動・関西
連絡:stoptppkansai@gmail.com
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