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小村寿太郎の対露外交は米国人デニソンが書いたと言う事実ー(天木直人氏)
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26th Sep 2016 市村 悦延 · @hellotomhanks
きょう9月26日の読売新聞「政なび」という政治コラムで、
小池勇喜という記者が、対露外交にかける岸田外相の意気込みについて書いていた。
すなわち、9月2日、安倍首相がウラジオストクでプーチン大統領と首脳会談に臨んだ翌日、
岸田外相は小村寿太郎の墓参りをし、
生家を訪れて「ここで外交官としての資質が磨かれたのか」と感慨にふけったという。
12月のプーチン来日の前に訪露することが決まった岸田外相が、
自分もまた北方領土交渉という歴史的偉業の一役を担うのだ、と決意を新たにした、というわけだ。
小村寿太郎とは日露戦争を終結させるポーツマス講和会議(1905年)に出席し、
賠償金放棄の譲歩をしてまでも講和条約締結を成し遂げた外相だ。
何も知らない世論は反発したが、これ以上ロシアとの戦争を続ければ戦費がかさみ戦争継続は困難であった。
そんな日本の状況を見据えて、講和を優先させた見事な外交だったと評価された外交だ。
その小村寿太郎外相に岸田外相も見習おうというわけだ。
しかし、、果たして岸田外相も、そしてその岸田外相を持ち上げる記事を書いた小池勇喜という記者も、
小村寿太郎の外交は、デニソンというお抱え米国人外交顧問にそのほとんどをゆだねていた事を
知っているだろうか。
実は私も知らなかった。
私がそれを知ったのは、幣原喜重郎の回想録である「外交50年」(中公新書)によってである。
この幣原喜重郎の回顧録の興味深いところは、その公式な回顧録よりも、「余談」の部分にこそある。
その「余談」で幣原は、当時の日本外交がデニソンというお抱え米国人外交顧問に
そのほとんどを委ねていた事を明かしている。
極めつけは次のくだりだ。
すなわち幣原が日露交渉のやり取りの記録を資料として残したいからと求めたところ、
小村寿太郎の功績に傷をつけることになってはいけないと、
デニソンが幣原の目の前でストーブに投げ込んだというくだりだ。
いまも昔も、日本の外交は米国依存から抜け切れない。
幣原喜重郎でさえ、いや、幣原喜重郎だからこそ、というべきかもしれないが、米国が憧憬の対象なのである。
日本の対米従属外交の根はそれほど深いということである。
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