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河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
豊洲問題の真相究明妨げる暴力的「犯人探し」
隠蔽や責任回避を誘発させる、正義の名の下の暴力的「犯人探し」
2016年9月20日(火)
河合 薫
盛り土問題で揺れる豊洲新市場(写真:ロイター/アフロ)
「豊洲新市場の盛り土問題」について次々と事実が明るみになり、“関係者”とされる方たちのコメントが、続々と報じられている(以下は9月16日時点で報じられている情報です)。
□「僕はだまされたんですね。結局、してない仕事をしたことにして予算を出したわけですから。その金、どこ行ったんですかね?
どうしてやってないことをやったとするのか。現場の人間しか分からないのに。手を抜いたわけでしょ」
(元東京都知事で作家の石原慎太郎氏、BSのテレビ番組にて)
□今日のTBS「ひるおび!」のバックに映っている年表(写真)を見ればわかりますが、僕が都知事就任直後に安全確認のため、土壌汚染対策工事の工期及び市場施設の竣工時期の1年間延期を指示しています。再開は辞任後です。
(石原都政を引き受けた猪瀬直樹氏。Twitterにて。証拠写真と共に。)
□「技術会議はあくまでもどうやったら工事ができるかを考えるところであり、安全性の評価は専門家会議の役割」
(都庁の幹部)
□「9月に入って外部から指摘があって問題を認識し、対応を検討していた」
(議会やホームページなどで、実態と異なる説明をしてきた担当者)
なるほど。みなさん、自分の責任ではないと。み〜んなみ〜んな、責任回避のオンパレードだ。
まぁ、これだけ連日連夜、「なぜ、こんなことが起こった? いったい誰の責任なんだ?」と騒がれれば、
「お、オレじゃないよ〜〜! だって、◎×▲※▽だし〜」
と、言いたくなる。“真犯人”に断定されたら、それこそ一巻の終わりだ。
問題が問題だし、都の説明を信じていた築地の方たちの心情を考えれば、責任追及は当然のこと。
だが、ここ最近の世間の、集団リンチをも連想させる“犯人探し”といったら、グロテスクなまでに攻撃的。「責任を追及すること」が何よりも大切で、ものごとを解決するには、“悪者”探しが極めて重要と考える風潮に、私は少々辟易している。
「犯人探し」に熱中しても、問題の解決には近づかない
そもそも大きな問題のほとんどは、いくつかの要因の積み重ねで起こるものだ。誰かが意図的に操作したわけでも、誰かが手を抜いたわけでもないのに、ちょっとした“歪み”が積もり積もって、想像もしなかったような大問題になることもある。
しかも、その歪みには、関係者たちの心の在り様も含まれる。
例えば、リーダーの発言を聞いたフォロワーが、発言をおもねって“忖度”し、妙な方向に進んでしまうことは多い。「え?なんで? なんでそういう風になってしまったんだ?」といった事態に遭遇した経験は、だれにでもあるんじゃないだろうか?
今回の築地問題でいえば、石原発言だ。
先の「だまされた」発言の翌日、東京新聞の一面に「豊洲市場 石原氏、08年に地下コンクリ箱案に言及『ずっと安く早い』 」という文字が大きく踊り、それを発端に石原氏に注目が集まった(第一報をご存知ない方の為に、以下抜粋)。
石原氏は2008年5月31日の定例会見で、海洋工学の専門家が「もっと違う発想でものを考えたらどうだ」と述べているとし、土を全部さらった後、地下にコンクリートの箱を埋め込み「その上に市場としてのインフラを支える」との工法があると「担当の局長に言った」と説明していた。
当時は、670億円と見込まれた汚染対策費が1000億円を超えるとの見方もあり、石原氏は「もっと費用のかからない、しかし効果の高い技術を模索したい」と説明し、専門家会議の座長が「新しい方法論を試すにはリスクが高い」と述べたことについて、「その人の専門性というのはどんなものか分からない。いたずらに金かけることで済むものじゃない」と反論した。
2カ月後の7月、専門家会議は敷地全体を盛り土にするよう都に提言。ところが、その翌月、都は工法を検討する別の有識者の「技術会議」を設置し、その会議で、地下空間を設けて駐車場などに有効利用する公募案を候補の一つに選んだ。この公募案は委員の反対で不採用になったが、「浄化作業のため」とする都の別の提案で地下空間案が設計に反映され、土壌対策費は最終的に858億円となった。
この報道を受けてメディアはこぞって、“石原問題”を取り上げているけれど、ことの真相はいまのところ明らかではない。石原氏は、「指示はしていない」とインタビューに答え、「都は伏魔殿だね」と言い残した。
石原氏の発言が一連の騒動のなんらかのきっかけになった可能性は否定できない。ただ、東京新聞の第一報後の“関係者”たちの発言を聞けばわかるとおり、特定の個人を想定した“犯人探し”に熱中していると、問題の解決に近づかないどころか、遠のいていく。
つまり、最も大切なのは犯人探しではなく、問題が起きたプロセスを明らかにして、いつどこでどんなことが起き、そのときそこにいた人たちは、「どう考え」「どういう行動」をとったのかをつまびらかに検証すること。
問題に関わった人自身が、「ひょっとしたら自分に責任があるかも」という文脈で考え、渦中にいた人にしかわからない機微に触れた出来事を明らかにしていくことで、真相に迫ることができ、それは、失敗から学ぶことにつながっていく。
逆の言い方をすれば、最近のグロテスクなまでの“悪者”探しが、結果的に「失敗から学ぶ」機会を奪っているのだ。にわかには信じ難い問題が多発しているのも、「責任を追及すること」が何よりも大切という潮流が災いしているのではあるまいか。
というわけで、前置きが長くなってしまったが、今回は「失敗と責任」についてアレコレ考えてみようと思う。
自分の「責任」を認めた時、人は成長する
では、さっそくハーバードビジネススクールのC.G.マイヤー博士らが行った、興味深い実験から紹介しよう。
この実験では、被験者に、画像識別ツールを用いて、「赤血球の異常を識別する」という作業をさせた。
一定の時間が経過したところで、被験者に「識別は失敗した」と試験官が通知。その際、被験者の半数には、
「作業に十分集中していませんでしたね」
と伝え、残り半分の被験者には、
「機器のブラウザに問題があった可能性がある」
と伝えた。
その後、「失敗した原因はなんだと思いますか?」と質問したところ、
・前者の被験者の多くは、「自分にあったかもしれない」と答え、
・後者の被験者の多くは、「ブラウザに不具合があった」とし、「そのせいで私の作業全体の精度が損なわれた」
と答えた。
で、少し時間を置いた後、被験者に作業を再開してもらった。すると、二つのフループで成績に差が出たのである。
「自分に責任があったかもしれない」と答えた被験者は、「ブラウザに不具合がある」とした被験者より高い精度で赤血球の異常を識別した。彼らは最初の作業のときより、時間をかけ丁寧に取り組み、高い成績をあげることに成功したのだ。
さて、これらの結果の意味するところは何か?
はい、そのとおりです。
「人は『自分の責任かもしれない』と認識できたとき、成長する」という、ちょっとばかり耳の痛いことがわかったのである。
よく成功者、カリスマと呼ばれる人たちが、「いやぁ〜、失敗だらけでしたよ。失敗、失敗、失敗の連続で。上手くいったのなんて、10回のうち1回くらいしかないよ(笑)」などと朗らかに語ることがあるが、彼らは失敗したから成功を掴んだわけじゃない。
人間がもっとも不得意とする「自分の責任」を認めることで成長し、問題を起こすリスクも低下した結果、「成功」したのだ。
暴力的な犯人探しが「隠蔽」を生む
とはいえ、自分の責任を認めるのは容易ではない。実験でも示されたように、人間は都合良く責任転嫁し、他のせいにできない状況になって、はじめて「自責」的になれる。失敗ほど絶好の成長の機会はないのに、皮肉なことにそのチャンスを手にするのは、案外難しいのである。
もちろんこれは単なる実験でしかない。
だが、大きな問題のほとんどは、いくつかの要因が絡み合って起こるため、リアル世界ではこの実験以上に、容易に “犯人”を仕立てあげることができる。
そもそも「責任の所在を明らかにする」という考え方自体が「他責的」。「ひょっとしたら自分にも責任があるかも」と自分にベクトルを向ける機会を奪い、「ミスをしないこと」が成功への近道で、仕事をする上で最もプライオリティの高い能力であるという共通認識を醸成する。
うっかりミス、能力不足によるミス、緊張によるミス、ルールを守らなかったことで引き起こされるミス、作業自体の難しさによるミス、予測を誤ったことから生じるミスなど、ミスの種類は多種多様。ミスをしない完全無欠の人などいないのに、執拗な犯人探しの結果、ミスを許さない恐怖社会ができあがるのだ。
仕事の高度化、対人処理の難しさ、成果主義によるプレッシャーというミスを誘発する危険因子が散在する今の職場で、「ミスのない」ことへの要求が過度に高まっていくのである。
で、何が起こるか?
隠蔽、である。「ダメやヤツと思われたくない」気持ちが隠蔽を生み、“運良く”隠したミスがばれずに済むと、ミスに対するモラルが下がる。
スピード違反をしても警察につかまらなければ、違反を犯すことが平気になるのと同じように、次第にありえない大問題につながっていくのである。
こうやって考えていくと、犯人探しをし、「責任を追及すること」が何よりも大切という文脈で行動する社会が、いかに無意味かがわかる。
「相変わらず、頭の中がお花畑だな。そんなの“自分だけの責任じゃないよ〜”って無責任な輩を増殖させるだけじゃないか!」
そうやって口を尖らせている人たちもいるに違いない。でもね、そういうアナタもミスをすること、あると思いますよ。繰り返すがミスをしない人はいないし、たくさんの人が加わる質の高い仕事になればなるほど、ミスがおこるリスクは高まっていく。
だからこそ、責任を追及する他責的な社会より、「ひょっとしたら自分にも責任があるかも」と一瞬でもうしろめたい気持ちになった人たちが、それを口にすることができるようにすることが、再発を防ぐうえでも最善の策になる。
「ああ、またか」と、同様の問題で被害を受ける人たちを減らすことにつながるし、今の日本社会に蔓延するギスギスした空気も、少しだけまろやかになるのではないだろうか。
自分から先に謝ってみると…
ちょっとばかり次元の違う話かもしれないのだが、個人的な話をする。
私は気象予報士の第一回の試験で合格し、その晩に「ニュース・ステーション(テレビ朝日)」に出演したことがきっかけで、番組のレギュラーとなった。ずぶの素人が、突然、子供の頃にテレビで見ていた「ザ・ベストテン」の司会者だった“テレビの中”の久米宏さんと仕事をさせていただくことになったのである。
そんな私が、いちばん驚いたのは、毎晩、19時から行われる打ち合わせでの久米さんの“態度”だった。会議に参加する20名以上メンバーの中で、誰よりも気を使っていたのが、久米さんだったのである。
当時、マスコミでは頻繁に、“久米天皇”といった言葉が使われていた。が、実際の久米さんは、「なんでそんなこと書かれてしまうのか?」とクビをかしげたくなるほど、メンバーに気を使い、メンバーたちの本番前の緊張をほぐす役割を演じていたのである。
その理由がわかったのは、数年経ってのこと。私がテレビの世界で経験を積んでからだった。
出演者は、どんなに控えめ人でも、自分の主張を押し通すことなど一切なくとも、「わがまま」と批判されることが多い。おまけに何らかの問題が起こったり、視聴率が下がると、出演者の責任にされることが多分にある。
確かに出演者は、視聴者に“ボール”を投げるという最終的な役割を担うが、ボールの球種や投球数などを決めるまでにはいろいろな人が、さまざまなカタチで関わっている。つまり、組織として動いているわけだ。ところが、何か問題が起こると、「やっぱり○○がイマイチなんだよな」と、責任の矛先が出演者に向けられる。
なので、私は何らかのトラブルが起き、番組終了後の反省会で犯人探しが始まると、
「あ〜。私が悪かったのかもしれません…。すみません」
と、先に謝るようにした。
実際、オンエア中に発生するトラブルも、単一の要因で生じることはほとんどなく、自分もその要因の一つだ。だから、自分から先に謝るようにしたのである。
すると不思議なもんで、
「自分も○○だったので……」
「いや、自分がもう少し××すれば……」
「あの時私が△△すればよかったんだ。すまんね」
と、“自分にも責任があるかも”という人たちが名乗り出る。
それにより「失敗の責任」という重い沈黙が、「次はこうしよう!」という明るいアクションに変わり、チームワークも良くなっていったように思う。
テレビでは、今日も「犯人探し」が続いている。「自分も同じ立場だったら同様のミスを犯すかもしれない」「責任の一端は自分にもあったかもしれない」と自問する人はほとんどいない。「自分にはいっさい関係ない」と思っている“人”も、ひょっとすると「問題発生」の一要因になっているかもしれないのに……。
このコラムについて
河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学
上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/091600069
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