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http://mewrun7.exblog.jp/24652313/
2016-09-12 03:59
8月末に永六輔さん、9月5日に大橋巨泉さんのお別れ会が相次いで行なわれた。(-_-)
この2人は、日本のテレビ界をまさに創って来た人たちで。その面で彼らから、大きな影響を受けた人たちもかなり多いのではないかと察するが。
2人とも、戦争を体験した世代として、日本が2度と戦争の道を進まないように、様々なメディアを通じて、アピールし続けて来たことでも知られている。(・・)
mewはたまたま、今年2月にこの2人がそろって徹子の部屋に出演したのを見ていて。日本がどんどんアブナい道を進もうとしている中、何とか2人に少しでも長生きしてもらって、平和の大切さを発信して欲しいと願っていたのだけど・・・。
2人とも、改憲勢力が2/3の議席をとったとされる参院選が行なわれた7月に亡くなったのは、本当に残念なことだ。_(。。)_
大橋巨泉さんについては、『巨泉が「安倍の野望は恐ろしい」「野党に投票を」と遺言。反権力の重要性も説くhttp://mewrun7.exblog.jp/24491818/』『巨泉、野党への投票を呼びかけ、以前から+安倍のごまかし、すり替えを大批判http://mewrun7.exblog.jp/24517121/』の記事をアップしたのだが。
今回は、永さんに関する記事、そして田原総一朗氏の「永六輔さん、大橋巨泉さん逝去で僕が考えたこと」をアップしたい。
* * * * *
『反戦、反骨、ラジオ愛し 永六輔さん死去 83歳
2016年7月12日 朝刊 東京
大ヒット曲「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」の作詞、ベストセラー「大往生」の執筆など多彩な活躍で知られる放送タレントの永六輔(えいろくすけ)(本名永孝雄(えいたかお))さんが七日、肺炎のため東京都渋谷区の自宅で死去した。八十三歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長女千絵(ちえ)さん。お別れの会を開く予定。
東京・浅草生まれ。早大中退。NHKのラジオ番組「日曜娯楽版」への投稿をきっかけに三木鶏郎さんが率いた制作者集団「冗談工房」に参加、コント作家を経て放送作家の道に進んだ。
渥美清さんや黒柳徹子さんが活躍したNHKの人気番組「夢であいましょう」で台本を担当。その後も「遠くへ行きたい」「テレビファソラシド」など、多くのテレビ、ラジオ番組を手掛けた。
作詞では、作曲家中村八大さんとのコンビで「こんにちは赤ちゃん」などのヒット曲を連発。坂本九さんが歌った「上を向いて歩こう」は「スキヤキ」の英語タイトルで全米ヒットチャート一位を獲得した。ほかに「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」など。
尺貫法の復活を呼び掛けるなど、日本の伝統文化の復権にも取り組んだ。一九八三年の参院選に出馬、落選した。
社会風刺の効いたエッセーなど著述業で業績を残し、九四年に出版した「大往生」は二百万部のベストセラーに。他の著作に「職人」「芸人」など。二〇〇〇年に菊池寛賞を受賞した。
近年は主にラジオで活躍。一九六七年から二〇一三年まで続いたTBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」は一万二千回を超す長寿番組だった。パーキンソン病などで闘病生活を送りながら活動していた。
◇
永さんは一九九七年四月〜九九年三月、本紙にコラム「言いたい放談」を担当、二〇〇五年一月にはリレーエッセー「わが街わが友」を執筆した。
◆「戦争語れる最後の世代」
永六輔さんは反戦・反骨を貫いた人でもあった。昨年一月に東京都内で開かれたイベントでは車いすでステージに上がり、戦争の悲惨さを涙ながらに訴えた。
東京の下町で生まれた永さんは戦時中、宮城に集団疎開した国民学校の仲間たちとは別に、長野の知り合いの家に疎開していた。一九四五年三月、卒業式を母校で行うために宮城から東京に戻った六年生は、東京大空襲に遭ったという。
「東京に向かって子どもをいっぱい乗せた列車がどんどん走った。そして東京で死んだ子どもがいっぱいいた」。そう語り、おえつを漏らした。
戦後、「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など庶民の目線に立った作品を作り続けた永さん。六〇年安保を巡っては当時の若手文化人と共に安保反対を表明。自身のラジオ番組や講演、著書では平和や日本国憲法の大切さを繰り返し説いてきた。
二〇一四年に刊行したエッセー集「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」ではこう決意を述べている。「戦争を語ることができる最後の世代としてもラジオのスタジオに通い、憲法改正をはじめ、なんだかきなくさい最近の風潮に立ち向かおうと思う」
だが、改憲勢力が三分の二を超えた参院選の選挙結果を見る前に「遠くへ」旅立った。』
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『永六輔さん、大橋巨泉さん逝去で僕が考えたこと 田原総一朗
BLOGOS 2016年08月01日
永六輔さん、そして大橋巨泉さんが亡くなった。昭和のラジオ、テレビ界で活躍されたおふたりが、相次いで世を去った。同年代の僕としては、たいへん感慨深い。彼らと僕には、考え方において細かい違いはあった。だが、共通点もあった。それは、「戦争を知る世代」として、平和は必ず守らねばならないという思いを貫いてきたことだ。
永さんは、憲法9条を守るべき、という信念を最後まで強くお持ちだった。一方、大橋さんは当時、民主党幹事長だった菅直人さんに依頼され、参議院選挙に出馬。「小泉フィーバー」で自民党が圧勝するなか、見事に当選した。しかし、大橋さんは、アメリカ同時多発テロの際の国会決議で、「アメリカを支持する」という一文を理由に、党で唯一反対に回った。自衛隊のインド洋派遣についても、事後承認に異議を唱え、結果的に議員を辞任することになる。おふたりとも、「絶対に戦争はダメだ」、その思いを貫いた信念の人だった。
先日、僕は黒柳徹子さんと、『トットちゃんとソウくんの戦争』という本を出した。終戦のとき、黒柳さんは12歳、僕は11歳だった。黒柳さんは父上が出征していた。そして終戦後、シベリアに抑留された。父上が帰国されたのは1949年のことだ。
帰国後の黒柳さんの父上は、以前と変わらずやさしかった。が、シベリアについては口をつぐんでいたという。シベリアでのつらい体験を、子どもたちには聞かせたくなかったのだろう。「もし父がシベリアの地で死んでしまったら、(中略)私は父を死に追いやった誰かを憎みながら、その後の人生を生きることになっただろう」と、黒柳さんは書かれている。
僕の従兄弟は、海軍兵学校に通っていた。彼の立ち居振る舞いと白い制服に、僕は憧れた。当時、少年だった僕の夢は、海軍兵学校に入り、「名誉の戦死」を遂げることだった。見事な軍国少年だったのだ。
そして、11歳で終戦を迎えた。玉音放送があった日のことを、よく憶えている。自分の夢が破れたことが悔しく、泣いて泣いて泣き疲れて眠ってしまった。しかし、夜になって目を覚ますと、街が明るい。前夜まで、空襲に備えて灯火管制が敷かれていた。それももう必要なくなったのだ。複雑な思いを残しながらも、不思議な解放感が僕の心を照らしたのだ。
黒柳さんも僕も、あの戦争を肌身をもって体験している。ともにテレビという世界で生きていながら、立ち位置はだいぶ違うけれど、「平和を守る信念」と「テレビのもつ力」を信じているという点では、共通していると思う。
黒柳さんは、子どもの頃、スルメの足をもらえるというので、出征する兵士を旗を振って見送ったそうだ。そのことに、今でも罪悪感を持っているという。
また、俳優の芦田伸介さんがおっしゃった、「無力の罪」という言葉を、黒柳さんは深く記憶しているともいう。「戦争に向かう巨大な力の前では、私たちは無力だったかもしれないが、だからどうすることもできなかったではすまされない」と。
黒柳さんはその信念のもと、ユニセフ親善大使として、世界各国を、紛争地域もものともせず飛び回っている。大変なバイタリティだ。
僕も安穏としてはいられない。これからも生涯一ジャーナリストとして、日本が戦争ができる国にならないよう、しっかりと発言していくつもりだ。戦争を知っている世代が、どんどん少なくなっている。残された僕らにできることを、やり続けたい。』
* * * * *
また、東京新聞には、こんな記事も出ていた。米ジャーナリストらが、永さんの遺志をつぐために、憲法バッジを作成したという。(・・)
『白一色のピンバッジ。八十三歳で七月に死去した作詞家でタレントの永六輔さんと、長年交流してきた米国人ジャーナリストのケン・ジョセフさんらが「憲法を守るために何ができるか」と話し合う中で生まれた。「平和と自由は弱く、一晩で消えてしまう」と危機感を抱くジョセフさんは、人々が身に着けることで静かな意思表示を広げていきたいと考えている。 (飯田孝幸)
「『何それ?』って聞かれたときに、『憲法を守るバッジだよ』と言えればいいよね」。ジョセフさんはシンプルなデザインの意図を語る。バッジは三センチ×一・三センチの大きさで、メッセージは書かれておらず、リボンのような形にも意味はないという。
ジョセフさんは日本で生まれ育った。大学卒業後の一九八七年、ボランティア組織「アガペハウス」を設立。八九年のサンフランシスコ大地震や阪神大震災など国内外の災害時に、日本の若者たちと救援活動をした。イラク戦争後には現地で復興活動に携わった。
二十五年ほど前に演劇を見に行った際に、偶然同席した永さんから声を掛けられ、その後、永さんのラジオ番組に出演したり、一緒に本を書いたりして交流を深めた。
戦時中の疎開体験や平和への思いを繰り返し聞いていたが、特に共感したのは平和憲法に対する思いだった。
「数年前から改憲の危機が高まり、なんとかしなきゃ、とバッジをつくることを決め、永さんも賛同してくれていた」。二百個作ったバッジは、永さんが亡くなった七月七日に納品された。その一つを、永さんの自宅を訪れ、遺影にささげたという。(東京新聞16年8月30日)』
そして、政治系ブログの片隅で、微々たる力しかないけれど。でも、平和を願うひとりの国民として、自分たちにできることをやって行きたいと思っているmewなのだった。(@@)
THANKS
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