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2016年09月11日
菅義偉(官房長官)が、小渕派―古賀宏池会―無派閥と、風見鶏を繰り返していたのが象徴的だが、名門「宏池会」は、残念ながら、亡くなった加藤紘一氏で、終焉していたと云うことだ。池田勇人も、遠くなりにけりだが、宮澤喜一が、宏池会を破壊した政治家だと、筆者は理解している。有能な官僚が、国家の方向性を、死に物狂いで論じてきた時代の「遺物」だったのかな〜、と云う感想を持つ。 最後尾に引用したWikipediaを読んで判ることだが、既に「宏池会」は胡散霧消の存在だったようで、影形を追いかけるのが、酷く面倒でギブアップしたくらいだ(笑)。
「宏池会」は、池田勇人以来、大平正芳・鈴木善幸・宮沢喜一と4人の総理総裁を輩出している。安全保障では日米関係を重視しながらも、ややハト派的傾向(親中にも注力)が見られる。小泉政権以降、自民党の主流が保守化する中、異彩を放つべきだったが、異彩は谷垣ではなく、「鵺政治家」二階派の二階俊宏と云う守旧派型の政治経験者が、谷垣に代わって、幹事長になっている、現状は、安倍官邸の人事バランスによるものだろうが、現実は「砂上の楼閣」なのだろうが、微妙な力学で、現在の自民党は成り立っていることが良く判る。まあ、以下の情報等々などを読み、皆様も、これからの自民党が、「反中国路線」で最後まで走り切れるのかどうかなど、考えてみるのも面白い。
池田勇人と同じ寺に墓所のある筆者としては、日本の官僚政治の頂点にあった、池田以降、大平正芳までは、見どころもあったようだが、宮澤喜一ですべてをご破算にした感がある。このような政治現象は、結局、霞が関官僚と云う組織が、組織の為に生きる組織となり、日本を牽引していく気力も能力も失ったことを示しているように思われる。しかし、腐っても鯛という譬えは不適当だが、自分らの既得権を守るために、我田引水的な法律作成能力だけには長けており、21世紀にとって不適切な方向性ばかり編み出す。おそらく、日本の政治をデモクラシー的なることの最大の阻害要因が霞が関と指摘しても間違いはない。
≪ 訃報:加藤紘一さん死去77歳…自民元幹事長「加藤の乱」
山形県鶴岡市出身。東大法学部卒業後、外務省に入省した。1972年の衆院選で旧山形2区から自民党公認で初当選。故池田勇人元首相がおこした同党の名門派閥「宏池会」に所属し、早くから「プリンス」として期待された。衆院当選2回で大平内閣の官房副長官を務めた後、防衛庁長官、官房長官、党政調会長、 幹事長を歴任。91年に当時の竹下派支配打破や世代交代を目指し、山崎拓元副総裁、小泉純一郎元首相と「YKK」を結成して注目を浴びた。
98年には宏池会の流れを継いで派閥の会長に就き、「首相の座に一番近い男」と言われた。しかし、2000年に森内閣打倒を目指し、野党提出の内閣不信任決議案への賛成を明言。「加藤の乱」と言われたが、不発に終わり、加藤派は分裂して存在感は落ちた。
02年には自身の事務所代表による脱税事件の責任を取って自民党を離党後、議員辞職。03年の衆院選で再び当選し、自民党に復党した。党内ではハト派に位置し、親中派として日中友好協会会長を務めていた。12年12月の衆院選で落選し、三女の鮎子氏を後継に据えて政界を引退。14年5月には、集団的自衛権の行使容認について、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで批判した。 ≫(毎日新聞)
≪ 加藤紘一さん死去:首相にあと一歩…リベラルの政策通
◇評伝
外務官僚から政界に転じ、大平正芳首相の官房副長官を務めるなど早くから「自民党のプリンス」と言われた。その加藤紘一氏が最も輝いたのは自民党が社民、さきがけと連立を組んだ「自社さ」政権時代だったと思う。
党内のリベラル派に位置する政策的なスタンスで、社さ両党とも話が通じ政調会長、幹事長として政権の中枢にいた。人心をわしづかみにするカリスマ政治家というよりは、平易でキャッチーな言葉を組み立て、議論によって周囲の共感を呼ぼうとするタイプ。政策的な関心の幅も広かったことから、政策新人類と言われた若手政治家の兄貴分的な存在にもなった。
中曽根康弘元首相や梶山静六元官房長官らを旧世代と位置付け、「僕は軍歌は歌わない」などと当時、流行していた小室哲哉の曲を好んでカラオケで披露していた。
橋本龍太郎氏、小渕恵三氏と続く「旧経世会」内閣後は、いよいよ加藤氏の時代とも言われた。しかし、小渕氏からの禅譲を期待する周囲の反対を押し切って同氏との総裁選に挑み、同氏が病に倒れた後は、党内力学から森喜朗氏に首相の座が回った。
自民党の限界説が出る中、2000年秋に「加藤の乱」が起きた。不発に終わった後、加藤氏は支持を明確にしなかった派閥の先輩、宮沢喜一元首相への恨み節を吐露し、足元の派閥をまとめ切れなかった無念さはしばらく消えなかった。
翌年、「YKK」の中では最も首相に遠いと思われた小泉純一郎氏が首相になり、その人気の陰で加藤氏の存在感は薄れていく。06年夏、首相の靖国参拝への批判的言動で、地元の自宅と事務所が放火され全焼する事件もあった。
09年、自民党が下野した時に、加藤氏はその理由を「西側陣営が勝利し、欧米へのキャッチアップも果たした後、党は新たな国家目標を示せなかった」となめらかに分析してみせた。「評論家・加藤だな」と笑っていたが、では「加藤首相」ならば「失われた」という10年、20年にどう対峙(たいじ)したのだろうか。
体調が許せば政界引退後も言論人としていくらでも活躍の場があったはずだ。憲法改正、集団的自衛権、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)、消費税……。安倍晋三首相に対して、もう一度、加藤氏の発言が聞きたかった。【小菅洋人】 ≫(毎日新聞)
≪ 悼む声、政界から相次ぐ
自民党内のリベラル派で中心的な存在だった加藤紘一氏の死去を惜しむ声が10日、政界から相次いで上がった。
山崎拓氏
元自民党副総裁の山崎拓氏は「終生の畏友(いゆう)であった加藤紘一氏の訃報に接し、強烈な衝撃を受けた。比類なき英知の持ち主であり、政界同期の私ども友人に対し、国家と郷土の発展に身命を賭して働けと常に啓蒙(けいもう)啓発され、文字通り日本政界のトップリーダーの一人として活躍してきた。改めて 日本の政界がかけがえのない英知を失ったことを心より惜しむ次第だ」とコメントした。【吉住遊】
古賀誠氏
加藤氏が「宏池会」会長だった時の側近で、「加藤の乱」でたもとを分かった古賀誠・元自民党幹事長は「加藤さんの生きざまを振り返ると、政界とはむごい世界だと、つくづく感じる。加藤総理・総裁を長年夢見ていたのに、『乱』がきっかけで分裂してしまった」と振り返った。2年前、2人でミャンマーを訪ねたのが最後になった。「加藤さんが『インパール作戦の現場へ行きたい』と言ったのがきっかけ。既に体調がすぐれなかったけれど、『絶対に行く』と。道中、いろいろな話をした。本当に残念」と悼んだ。【中澤雄大】
中谷元氏
加藤氏の秘書だった中谷元(げん)前防衛相は「連合などと協議して自社さ政権で連立を成し遂げたが、結論が出なければ朝まで議論することもあった。政治とは丁寧に説得を繰り返してつくり上げるものだと教わった。経世会(旧竹下派)中心の政治を変える原動力になった方だった」としのんだ。【飼手勇介】
園田博之氏
自社さ連立政権時代にさきがけ(当時)の幹事長を務めた自民党の園田博之衆院議員は「自社さ連立政権に加藤さんの貢献は大きかった。大変な政策通で見識も高かった」と語り、「間違いなく日本を代表する政治家。『加藤の乱』がなければなあと思う。とても残念だ」と惜しんだ。【野原大輔】
≫(毎日新聞)
■“宏池会”とは……(Wikipedia抜粋) 注:この項目では、池田派以来の宏池会について説明しています。分裂中の宏池会(加藤派〜谷垣派)あるいは再分裂後の有隣会については「宏池会 (谷垣派)」を、分裂中の宏池会(堀内派〜古賀派)については「宏池会 (古賀派)」をご覧ください。
★宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥(宏池会系)。通称は岸田派。 流れとしては、池田派→前尾派→大平派→鈴木派→宮沢派→加藤派→(※二派閥分裂)→古賀派→岸田派。 ※2000年11月の加藤の乱に伴う派閥分裂中は、 加藤派→小里派→谷垣派 堀内派→丹羽・古賀派→古賀派 の二派閥に分かれていたが2008年5月13日、分裂していた二派閥が統一。
★概要 政策科学的機構としては、宏池政策研究会と定義される。創設者の池田勇人以来、大平正芳・鈴木善幸・宮沢喜一と4人の総理・総裁を輩出、野党時代にも河野洋平、谷垣禎一と2人の総裁を出しており、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきた。元来、池田を取り巻く官僚出身の議員やスタッフを中心に形成されたという沿革もあり、今日に至るまで政策に通じた議員が多く在籍する。しかし政策に明るいが政争に暗いと評され、「公家集団」と揶揄されることもしばしばみられる。 当初から離合集散を繰り返してきた自民党各派閥に比べて、各会長の下一致結束して派閥を継続してきたとされ、自民党草創期の名称を今日まで維持している唯一の派閥でもある。しかし1993年の野党転落を機に派の主導権争いが激化して以降は分派や合流を繰り返している。 政策面では、歴史的に明確な一貫性があるわけではないが、自民党内では中道派に属し、特に安全保障では日米関係を重視しながらも、ややハト派的傾向が見られる。小泉政権以降、自民党の主流が保守化する中、後述の宏池会再結集においては意識的にリベラル派の再結集をアピールした。 「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高崗の榭(うてな)に臥し、以って宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学者安岡正篤が命名したものである。池田勇人の「池」の字、池田の出身地である広島の「ひろ」を「宏」に掛けているともいわれる。 創設以来、赤坂の日本自転車会館(赤坂貿易会館→日本短波放送会館を経て現在のビル名)1号館に事務所が置かれていたが、再開発によりビル取り壊しが決定したため、永田町の全国町村会館に移った[1]。 池田、前尾、宮澤、岸田ら、伝統的に酒豪のそろった派閥として知られ、会合や宴席では部外者が唖然とする光景が繰り広げられている[2]。
■宏池会 (古賀派) 宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥。加藤の乱後に分裂した宏池会のひとつ。本記事では堀内派→旧堀内派→丹羽・古賀派→古賀派の通称で呼ばれた宏池会。
★沿革 堀内派時代 2000年11月、宏池会会長加藤紘一の第2次森内閣不信任決議案同調の動きに反発した宮澤喜一元首相、池田行彦、堀内光雄、丹羽雄哉ら反加藤グループが、2001年1月に堀内派を結成。第2次森改造内閣発足に伴う党役員人事では、野中広務幹事長の後任に国会対策委員長の古賀誠を送り込んだ。 2001年4月、森首相の退陣を受けた2001年自民党総裁選で、堀内派は小泉純一郎候補の対抗馬である橋本龍太郎元首相を支援。優勢が伝えられていた橋本が敗れたため堀内派は反主流派に転落するも、小泉執行部で堀内が党総務会長に就任する。 2003年総裁選では、堀内総務会長を中心とする親小泉派と、古賀元幹事長を中心とする反小泉派に分裂。また、同年11月の衆議院議員総選挙を前に、宮澤元首相が小泉総裁から直々の引退勧告を受け、政界引退となった。 2004年1月、堀内派幹部だった池田行彦が死去。7月にはかつて宏池会会長も務めた鈴木善幸元首相が死去した。9月に行われた党役員人事では堀内光雄が総務会長を解任され、内閣改造でも冷遇されて以降は反小泉色を強める。 2005年7月、堀内光雄が郵政国会で郵政民営化法案採決で反対票を投じるため、派閥会長を辞任。その後は後継会長を立てず、丹羽雄哉・古賀誠の主導で派閥運営が進められた。
★古賀派時代・中宏池会 の実現 2008年に入り谷垣派との合流論(中宏池会構想)が加速。同年1月16日には5月までの再合流を正式決定し、同年5月13日、東京都内のホテルで開かれた政治資金パーティで、正式に合流が実現した。会長には古賀誠、ナンバー2の代表世話人には谷垣禎一が就任。会長代行は太田誠一(旧古賀派)、事務総長には逢沢一郎(旧谷垣派)が就き、両派の均衡が図られた。また、派閥の事務所は旧古賀派の事務所に引き続き置かれることとなった。なお後に旧谷垣派は2012年総裁選への対応を発端として再び離脱している。 ≫(Wikipedia抜粋)
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