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風刺と冒涜の境界線
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2016.09.04 きっこのブログ
8月24日未明、イタリア中部を襲ったマグニチュード6.2の大地震は、多くの建物が倒壊し、これまでに300人近い犠牲者が報告されているが、フランスの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が、9月3日発売の最新号で、この大地震の負傷者や犠牲者を題材にした作品を掲載し、その内容が物議を醸している。
「イタリア風の地震」というタイトルが付けられたこの作品には、地震で負傷して血まみれになった男性の絵に「トマトソースのペンネ」、顔がやけどで焦げている女性の絵に「ペンネのグラタン」、何層にも重なったガレキの間から何人もの足が出ている絵に「ラザニア」と書かれている。ようするに、地震の負傷者や犠牲者をイタリア風のメニューに喩えたものだ。
イタリアだから「パスタ」だ「グラタン」だ「ラザニア」だという単純な発想ではなく、今回の地震で最も甚大な被害を受けたアマトリーチェという町が、トマトソースのパスタ「アマトリチャーナ」の発祥地だったことにもカケてあるものと思われるけど、この作品を見て、あなたはどう感じただろうか?
あたしは、多くの人たちと同じく、これはアウトだと思った。そして、「シャルリー・エブド」が掲げている「風刺」の精神って何だろう?‥‥と思った。少なくとも、あたしの感覚では、この作品は「風刺」でも何でもなく、「度を越した悪ふざけ」であり、地震の犠牲者や負傷者に対する「冒涜」でしかないと感じた今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?
‥‥そんなワケで、この作品に対して、甚大な被害を受けたアマトリーチェのピロッツィ町長は、「とても不快で困惑する作品だ」と批難し、「この作品がフランス国民の本当の気持ちを表現しているとは考えていない」とフォローしつつも、「風刺や皮肉は結構だが、災害や災害による死者を風刺することは間違っている」と述べた。また、イタリアのアンドレア・オルランド法相は「非常に不快だ」と述べ、ピエトロ・グラッソ上院議長は「風刺や皮肉を表現する自由」を認めた上で「私にはこの風刺画が最低だと言う自由がある」と述べた。ま、当然のコメントだと思う。
今回の「シャルリー・エブド」に掲載されたイタリアの大地震を題材にした作品は、これだけじゃない。ガレキに埋まった瀕死の負傷者が、「お宅を建設したのはシャルリー・エブドではありません。お宅を建設したのはマフィアです!」と叫んでいるものもある。
こちらの作品は、地震発生後に問題になった「耐震強度不足の手抜き建設」を取り上げていると思われるので、多少は「風刺」の意味合いを感じるけど、それでも、あえて日本的な表現で言わせてもらうと、あたしは「不謹慎」だと感じた。
また、今回の「シャルリー・エブド」では、別の揶揄も掲載している。今回の大地震をローンウルフ型のテロに喩えて、「イタリアの地震で300人近くが死亡。地震の揺れが発生する直前に、ローンウルフが『アラー・アクバル(神は偉大なり)』と叫んだかどうかは不明」というものだ。「シャルリー・エブド」は、これまでずっとイスラム教やイスラム過激派などを揶揄する作品を発表し続けて来て、それが2015年1月7日のパリ本社の襲撃事件へとつながったワケだけど、その後も、この姿勢は崩していない。
だけど、イタリアで発生した地震に絡めてまで、イスラム過激派を批判するのはどうだろうか?逆に言えば、この一文は、イスラム過激派を批判するためにイタリアの地震を利用したと受け取られても仕方ないと思う。それに、確かにイスラム過激派の戦闘員は、自爆テロを起こす直前に「アラー・アクバル」と叫ぶけど、大多数の真面目で平和的なイスラム教徒たちも同じ言葉を口にする。
この一文では、ちゃんと「ローンウルフ」と明記しているので、一部の過激派だけを揶揄していることは分かるけど、「アラー・アクバル」という言葉は、イスラム教徒すべてに通じるものなので、こうした使われ方をすると、大多数の真面目で平和的なイスラム教徒たちは、怒りを覚えたり悲しい気持ちになったりすると思う。
‥‥そんなワケで、今年1月、シリアを脱出してヨーロッパを目指した難民船が沈没した際、海岸に打ち上げられた3歳の男の子の水死体の写真が国際的に取り上げられ、難民問題を考える契機にもなったけど、この時も「シャルリー・エブド」は、今回のようなことをやらかしている。それが、次の作品だ。
「水死して海岸に打ち上げられた男の子が、もしも生きていたら、女性に性的嫌がらせをする性犯罪の常習者になっていただろう。それは移民だからだ」という内容だ。これは、この時期にドイツで発生した難民申請者による大規模なレイプ事件を踏まえたものだけど、いくら何でも、これは酷すぎると思う。もちろん、この時も、この作品(もはや「作品」という言葉を使うのもためらわれるけど)は多くの批判を浴びた。
この作品にしても、今回のイタリアの地震を題材にした作品にしても、あたしにはとても「風刺」とは感じられないけど、そこには、日本とフランスとの文化の違いがあるのかもしれない。日本で「風刺」と言うと、基本的には権力者や大企業など、社会的に大きな力を持った対象を批判するもので、社会的弱者や災害の犠牲者などを揶揄することは、まずない。でも、フランスの場合は、少なくとも、この「シャルリー・エブド」に関して言えば、社会的弱者であろうと災害の犠牲者であろうと、何でもお構いなしにネタにしているように見える。
フランスの風刺画の歴史は古く、今から250年ほど前のルイ16世の時代にも、ルイ16世から王位を剥奪しようと目論む革新派の人たちによって、ルイ16世の無能さや、王妃マリー・アントワネットの散財などを面白おかしく揶揄した風刺画がバラ撒かれた。これは、当時、フランス国民の識字率が低かったからだ。文字が読めない人たちでも、絵なら見ただけで意味が分かるので、当時の風刺画家たちは、あることないこと描きまくった。
当時は、テレビもラジオも電話もなかったし、それ以前に電気がなかったから、こうした風刺画でデマが拡散されてしまうと、王家はすぐに否定することができなかった。そして、王家を憎む勢力によって作り上げられたマリー・アントワネットの悪いイメージだけが、ひとり歩きを始めてしまったのだ。こうした歴史を持つフランスの風刺画だから、今でこそ、さすがに故意にデマを流すことはなくなったとしても、その対象を選ばない姿勢や、タブーをタブーとしない姿勢は、今も受け継がれているのだと思う。
‥‥そんなワケで、今回、「シャルリー・エブド」の最新号の問題の作品を見て、あたしが真っ先に思い出したのが、東日本大震災が発生した直後に、当時の都知事だった石原慎太郎が言った言葉だった。石原慎太郎は、東日本大震災の4日後の2011年3月15日の会見で、「日本人のアイデンティティーは我欲だ。この津波をうまく利用して、日本人は我欲を洗い流す必要がある。積年にたまった日本人の心の垢を洗い流す必要がある。(今回の震災は)やっぱり天罰だと思う」と述べたのだ。連日、もの凄い津波の映像と、どんどん増え続けて行く犠牲者の人数を見せられていたあたしにとって、この無神経なトンデモ発言は衝撃だった。そして、今回の「シャルリー・エブド」の問題の作品を見た時に感じた嫌悪感が、石原慎太郎の数々の暴言を耳にした時に感じる嫌悪感と同類であると分かった今日この頃なのだ。
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